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シナリオの内,前段部分を公開します.
と言ってもまだ前段部分すら完成していない状態なので,更新されたりマイナーな変更が加わることはあると思います.
感想・要望等お聞かせくださると幸いです.
なお,誤字等については変更点を明記した上で修正してください.
シナリオ
今日の面接も、多分ダメだった。
部屋に入り、椅子に座り、志望動機を言うまではよかった。
けれどもそこから先が続かなかった。
「実務経験はありますか?」面接官のにやけ面がまぶたの裏に浮かぶ。
「レジ打ちと、接客と……」俺はこれまでやってきたことを、指折り数えていく。
それに従って、徐々に大きくなる苦笑。
「だいたい、どうして営業職に実務経験が必要なんだ?」手近にあった三角コーンを、蹴飛ばすともなく蹴る。
地面と擦れて思いのほか大きな音がする。肩がびくつくのを感じた。辺りを見渡し、誰もいないことを確認する。
そして、自己嫌悪に落ちる。
「高卒は死ねって言うのかよ……」誰に言うともなく呟いて、誰にも聞こえないように、舌打ちをした。
電車で1時間もかからずに、郊外のベッドタウンにある愛しのボロアパートに帰り着く。
高層のマンションや装飾の凝った豪邸の中にあり、悪目立ちさえする二階建てのアパート。メゾン・ヴェール。築34年。
2階の角部屋に住んでいるのは、せめてものプライドであった。
「ただいま」と声に出しても、誰からも返事はない。部屋は暗く、取り払われたカーテンの先、
対岸のマンションから漏れる黄色い明かりが、散らかった部屋をぼんやりと浮かび上がらせている。
新調したシングル・ハンガーにスーツの上着を引っ掛けて、冷蔵庫を開き、昨晩のカレーが入った鍋を取り出す。
コンロの火にかけて数分、煮え立つカレーを、暗闇の中でぼうっと見つめる。
俺もこの泡の1つになって、消えられればいいのに……いや、カレーの泡となるのにも、面接があるのかもしれない。
「どうせ俺は、泡になったこともない高卒フリーターですよ、っと」
カレー皿にカレーだけをよそい、散らかったこたつ机の上に置く。
使いまわしのプラスチックのスプーンを指して、ようやく、明かりを点けていなかったことに気づく。そのとき……
……チャイムの音。こんな夜に、こんな寂れたアパートに、こんなタイミングで。
覗き穴から見る、外の世界。灰色の、コンクリートの向かい壁。いつの間にか、雨が降っていたらしい。
その一端が薄く黒ずんでいた。けれども……
「誰もいない……?」
ドアの前を離れようとしたとき、再びのチャイム。今度は小さく、笑い声。
その声がとても聞き覚えのあるものだったので、俺はもう一度、覗き穴を覗いた。
やはり誰もいない……が、覗き穴のすぐ下側、ドアに垂直なその部分に奇妙な暗がりがあるのに気づいた。
期待は確信に変わった。顔の筋肉が、ふっと緩むのを感じる。
再三のチャイム。それに合わせるように、俺は勢いよくドアを開いた。
「痛ったーい」
金属板の鈍い音と、聞きなれた声。大きくなる雨のノイズ。
「あっ、ゆーくん」
……俺を睨みつける、ご無沙汰な人。
「開けちゃダメじゃない。あやしい人だよ?」
「ボロアパートのドアにはりつくような不審者は、姉ちゃんしかいないよ」俺はわざとらしくため息を交えて言った。
……姉は、泣き腫らしたような赤い目をしていた。そして、実際に涙目だった。
正面に向き直り、無理に笑顔を作ろうとする。細めた目の端から、溜まっていた涙が一筋零れ落ちる。
何か言いたげだった。けれども、唇が震えていた。声を出せば、すぐに嗚咽に変わってしまうのだろう。
その感覚は、俺にも覚えがあった。
「カレー温めてたんだけど、食べる?」と俺は聞いた。
「……食べる」少し間をおいて、姉が答えた。そして、笑いながら泣いた。
「うわ暗っ! 電気点けよう?」
姉に促されて明かりを点けると、こたつ机の上でカレーが湯気をあげていた。
一応、物はテーブルの上にまとめてある。そう汚い部屋ではない……つもりだ。
「んー、まあまあ。男の子の部屋って感じだね。50てん」
「採点ご苦労様。文句があるなら帰れ」
「……もっと喜びなさいよ。女の子が部屋に来ることなんていままであった?」
そういうと姉はずけずけと部屋に上がって行き、こたつ机の前に座ると、カレーを食べ始めた。
「これは……まあまあ美味しいね。コクが出てる」
「絶対コクとか分かってないだろ」俺はわざとらしいため息をつき、紙皿にカレーをよそって姉の向かいに座った。
「お米はないの?」と姉。
「ないね」と俺。「フリーターの給料じゃ、部屋を借りるのが精一杯だよ」
「2階の角部屋だからじゃない?」と姉は言った。「すぐ下の部屋、誰も住んでないじゃん。そこに移らせてもらったら?」
「それはダメだ」と俺は言った。「1人でも生きていけるって言ったんだ。2階の角部屋は譲れない」
「いじっぱり」
姉は立ち上がり、台所の戸棚を漁り始めた。ほどなくして見つけた紙コップ2つに水を汲む。
「はい。ゆーくん」左手のコップを俺の前に置き、右手の水を飲んだ。「この辺りは水道水が飲めていいよね」
「別に。飲めるのが普通だよ」
「ないない。東京の水はひどいよ。プールの匂いがするの」
「ちゃんと殺菌されてるってことだろ。それに、そういうのって煮沸すればなくなるんじゃないの?」
「ないね。めんどくさい」話しているうちに、姉はカレー1皿を平らげてしまった。
「おかわり、勝手によそって食べていい?」姉はすでに立膝をしていた
「残りは明日の分だったんだけどな……」言い終わるより前に、姉は二杯目のカレーをよそいきっていた。
「ゆーくんも、二杯目いる? お姉ちゃんがよそってきてあげる」
俺はわざとらしくため息をつき、言った。「おかわり」
「よしきた。お姉ちゃんに任せなさい」
すぐに運ばれてくる二杯目のカレー。最終日の楽しみにとっておいたジャガイモや豚肉が、容赦なく盛り付けられていた。
「ゆーくんって、時々みみっちいことするよね」姉が笑ながら言った。「美味しい?」
「そりゃうまいよ」と俺は答えた。「俺が作ったんだから。俺好みの味だ」
「ふーん?」姉は見かけだけ真剣な顔つきになり、カレーを1口。「中辛?」
「辛口。姉ちゃんは味覚がおかしい」
「あははっ」と姉が笑った。……その後で、目の端の方を人差し指で擦ったのを、俺は見逃さなかった。
「……何があったの」と俺は聞いた。
「何がって、何が?」ほんの少しの緊張。しかし、顔には笑みを浮かべたまま姉は言った。
「今日、どうしてここにきたんだ?」俺は少し具体的に尋ねた。
「ああ」と姉は言った。「つまんない話だよ」
「聞くよ」と俺は言った。
「……ありがとう」しばらくの間をおいて、姉は言った。「長くなるよ?」
俺は黙って頷いた。
姉は空になった皿を横へ片づけ、こたつ机に寄りかかるようになった。小刻みに動く指先。俺ではない、どこか一点を見つめる視線。
ついたり離れたりを繰り返す唇の先。頬を膨らませる。表情が強張る。かと思えば、ふっと優しくなる。
そんな姉を、俺は真正面から見ていた。
……じっと、ただ、見つめていた。
「さっきね」と姉は切り出した。
ごくり、と俺は唾を飲んだ。
「私……別れたの」こぼすように、姉は言った。
「……は?」と俺は言った。「それだけ?」
「それだけって何よ!」姉は両手をこたつ机の上に叩きつけ、食いつかんばかりになって、俺の顔を覗き込んだ。「お姉ちゃん真剣なんだよ?」
「顔、近いって」ふと、姉の髪から飛び散る雨の滴に気づいた。「とりあえず、風呂、入る?」
「ゆーくんが謝るまで入らないっ」
「いやでも風邪ひく……」
「入らないっ」有無を言わさぬ勢いで、姉は繰り返した。昔からそうだ。俺は姉に口喧嘩で勝ったことがない。
「分かった、分かったよ。悪かった」
「『ごめんなさい』」
「は?」
「『ごめんなさい』、でしょ?」
「……ごめんなさい」俺は仕方なく、謝ることにした。
「よしっ、ちゃんと謝れたね。偉いね、ゆーくん」
姉はそう言って、犬でもしつけるようにして、俺の髪を乱暴に撫でた。
……昔からそうだ。俺は姉にこうされるのが好きだった。
姉は絶対に覗かないようにと口添えして、バスタオルと俺のワイシャツと下着を持ち、浴室へと向かった。
「脱いだ服は洗濯機の中に入れてくれ」と俺は言った。
「分かったよー」と姉は平板に返事をし、浴室の戸を閉めた。
「そういうの、まったく気にしないのかよ……」
姉の姿が見えなくなった後、聞こえないような小さな声で、俺は不満を言った。
シャワーの音が聞こえる。
「冷たっ」と姉の声。
「しばらく出しておかないと、お湯にならないよ」と俺は浴室の戸の前で言った。
「先に言ってよ」と姉。
「『ごめんなさい』」と俺は返事をして、こたつ机の前に座り直した。首を奥に傾けると、浴室の戸が見えた。
他にやることもなかったので、俺はなんとなく、それを眺めていることにした。
浴室の戸のアクリルが湯気に白んでくると、姉の鼻歌が聞こえた。
俺の知らない歌だった。キャッチーなメロディに乗せて、姉の穏やかで優しい、懐かしい声。
少し複雑な気分だった。落ち着くようでいて、胸騒ぎがした。
もっと聞かせてほしいと思ったが、もう聞きたくないとも思った。
「I'll be back……」
……今やたら渋い裏声が聞こえた気がしたが、たぶん気のせいだろう。
シャワーの音が止む。衣擦れのような音がする。
「ねえ、ブラとかってある?」と姉の声。
「あるわけねえだろ」
「あははっ、そうだよねぇ」姉は無邪気に笑い、あっ、でも、と付け加えた。「これ、下着着けないと透けて……」
「ああ、悪い」と俺は言った。「こっちにトレーナーあるから、それを……」
「あっ、待って!」と姉は言った。「今開けたら……」
……手遅れだった。湯気の中、一瞬だけ姉の輪郭が見えた。
浴槽とトイレを仕切るパーティションの向こう側から顔だけを出して、そこに置いといて、と言った。
俺は姉の顔をじっと見つめながら、トレーナーをそっと床に置き、浴室を後にした。
姉は何でもないような顔をしながら、その実、余裕がなさそうに見えた。
「俺なんて、ただの弟としか見ていないクセに」俺は誰に言うともなく、文句を言った。
「ふー、さっぱり」
少し経って、姉が浴室から出てきた。男物の装飾のないトレーナーの上下に、首からバスタオルを掛けている。
癖のある短い髪も、今だけはすっとまとまって、きれいに伸びていた。
……歩くたびに、シャンプーのいい香りがした。男の一人暮らしの部屋には異質な、女の子の淡い香り。
意識すれば、たちまち顔が熱くなった。
「ん? どうしたの、ゆーくん」姉はやはり何でもなさそうな顔で言った。
「……なんでもないよ」俺はそう言って、姉の横を通り過ぎ、浴室へ入った。
浴室を出るとこたつ机の上がきれいに片付いていて、台所にたまった洗い物が行儀よく棚の前に並べられていた。
奥の部屋で、姉が布団の皺を伸ばしていた。俺が浴室を出たことに気づき、立ち上がる。
「布団、一枚しかないよ」と姉は言った。
「そりゃあ一人暮らしだし」
「じゃんけんしよっか」
「嫌だ」と俺は言った。「どうせ難癖着けて、俺を床で寝かす気だろう」
「じゃあ、一緒に寝る?」
「姉ちゃんが床で寝ればいいだろ」
「嫌よ。床、硬いし」
話していても埒があかなかった。俺はため息をつく。
「……じゃあいいよ。姉ちゃんが布団使っても」
「ありがと、ゆーくん」姉は全部見透かしていたというように、いたずらっぽく笑った。「ね、ゆーくん」
「まだなにかあるのか?」と俺は言った。
「……優しいね、ゆーくんは」と姉は言った。「昔のまま。変わらないね」
「どうせまだまだガキだよ」と俺は皮肉っぽく答えた。
「そんなこと言ってないじゃん、もう」
姉が布団に潜り込む。俺もその隣に腰を下ろして……
「あ、ゆーくん」姉が気付いたように言う。
「今度はなんだ?」
「電気、消してきて」
「……分かったよ」
軽い音を立てて、容易く部屋は真っ暗になる。
帰ってきたときには点いていた向かいのマンションの窓明かりが、今は消えている。いつの間にか、相当な時間が経っていたらしい。
「ねえ、ゆーくん」姉が言った。
「これで最後にしろよ……どうした?」
「明日は、ブラ、買いに行かないとね」
「そうだな」
「あとカーテンもね」
「……そうだな」
フリーターの利点は、その名の通りフリーなことだ。誰かが上手いことを言った。
けれども俺は、このとてつもない自由に漠然とした不安を感じていた。
……もしかしたら、このとき姉は全く同じ不安を覚えていたのかもしれない。
彼氏と別れ、自分を規定するものの1つが失われた。その穴埋めに、俺の部屋を訪れた。
カーテンのない窓の向こう、星明りのない夜の空。
ぼんやり立ち並ぶ街灯の白に、時々乾いた駆動音とともに車たちが過ぎる。
それでもなお月は、月だけはあの人変わらぬ輝きのまま、夜空の奥底で光を称えていた。
……。
…………。
………………その晩、夢を見た。
「なんで行っちゃうの?」と声がする。幼い声、か細い声。
……それが自分の声だということに気づくまで、しばらくかかった。
「ごめんね」と言う。背の高い、女性の声。「ほんとうは、ゆーくんも連れて行きたいんだけど」
「待ってよ」と俺は言う。「あと1年したら、俺も……」
「4年、でしょ」と女性。「大丈夫。苦しくても、辛くても、いつか報われる日がくるから」
「嘘ばっかりだ」と幼くない俺の声。「分かった」と幼い俺の声。
「俺、頑張るよ。ちゃんと高校も行く。1人で生きていけるようになる。だから……」
泣きそうな「俺」の頭を、女性の手がくしゃくしゃに撫でた。
俺は、こうされるのが好きだった。
……。
…………。
………………。
この部屋に目覚まし時計はない。朝になれば、カーテンのない窓の向こうから差し込む朝日で、嫌でも目が覚めるからだ。
頭に、手が載せられていた。暖かい手、優しい手、姉の手のひら。
「結局こうなるなら、布団なんかいらないだろうよ」
布団から転げ出た姉の身体を揺さぶって、朝を告げる。
「……ゼノギアス」 ; 過去の夢を見ている。何かしらの伏線。あとで修正
これは当分起きそうにない。
俺は昨日まわさなかった洗濯機をまわし、顔を洗い、歯を磨いた。
作り置きのカレーが冷蔵庫の中に少しばかり残っていたので、それを火にかけ、温めなおして食べた。
カレーの匂いにつられてか、奥の部屋から姉がやってきた。
「おはよう」と俺は挨拶した。
「ゆーくん……? おはようー」寝ぼけた様子であくびをし、辺りをきょろきょろと見渡してから、カレー、私の分もある? と聞いた。
「台所にあるから、よそってきて」と俺は言った。
姉は寝ぼけた様子で台所に行き、そして……
「あれ……うそっ?」ドタドタと戻ってきた。「ゆーくん、洗濯機って……」
「ああ、まわしたぞ」と俺は答えた。「いや、失敗したよ。昨日の夜の内にまわしておくんだったな」
「そうじゃなくて、私の下着っ」
「あ……」すっかり忘れていた。
洗濯機は轟々と音を立てながらすでにまわり始めている。手遅れだった。
「どうしよう……これじゃ外歩けないし」と姉は言った。「ゆーくんに買ってきてもらうわけにも……」
「無理だな」と俺は答えた。「姉ちゃんと一緒ならともかく、俺1人じゃただの変態だ」
「んー、どうすれば……」姉はおろおろしながら唇に手を当て、身体を小刻みに揺すっている。それは、姉の昔からの癖だった。
そして両手のひらを合わせ、拍子木のような音を出した。これは姉の、閃きのサインだった。
「ゆーくんっ、イイコトを思いついたよ」そういって姉は携帯電話を操作し、誰かに電話を掛けた。
姉の言う「イイコト」が、いいことだった試しはない。
姉に言われるがまま、俺は服を着替えて隣県の駅に出た。
姉が言うには、この辺りにベレー帽の女の子がいるので、その子と合流して下着を買いに行けとのことだ。
確かにこれなら、周りの奴から変態扱いされることない。少なくとも、通報はされないだろう。
しかし、その女の子にとって俺は「姉の下着をいっしょうけんめい選ぶ変態」になってしまうのではないだろうか?
……そもそも頼める奴がいるなら、そいつに買ってこさせればいいんだ。俺が行く必要がどこにある?
「あの」と、俺のすぐ後ろからこれまた聞き馴染みのある声がした。
振り返ると、そこには少女の姿。睨みつけるように、俺を見ていた。頭には紅色のベレー帽を被っている。
「あの、褐色のダサいコート着た幸薄そうなオッサンって、あなたですよね?」少女は吐き捨てるような口調で言った。
「女物の下着に興味があるって、正気っすか?」
「お前は姉さんから何を聞いたんだ?」と俺は言った。「久しぶりだな、みーちゃん」
「呼ばないでください。名前が穢れます」と少女は言った。「別に何も聞いてないですよ。ただ、断片的な情報から、真実を再構成しただけです」
「お前にはジャーナリズムってものがないのか」
「ないですね。あるのは愛嬌だけです」
少女の名前は白川 未沙。愛称はみーちゃん。俺の実妹だ。
「ここでこうしてても仕方ないし、さっさと用事すますか」と俺は言った。
「やることやってオサラバですか? さすが、兄さんはケダモノですね」
「人聞きの悪いことを言うなって」と俺は言った。「ただ服屋に行くだけだよ」
「ときに兄さん、最近は試着室で破廉恥な行いをするシチュエーションが流行っているのだとか……」
「知らないから。はやく行くぞ」未沙の背中を両手で掴み、服屋の方へ押す。
「ちょっと、兄さんっ。これっ、はずかし……っ」
「お前がさっさと歩かないからだろ」俺は未沙の肩を押しながら言った。
「分かりました分かりましたからっ! 降参ですっ、私の負けですっ」
「なんだ、もう降参か? 根性ないな」
「根性とかそういう問題じゃ……」未沙はずれたベレー帽を被り直して言った。「兄さんのせいで背中の処女が失われました。責任とってください」
「どうやらまだ懲りてないようだな」と俺は言った。「こりゃあ次はお姫様だっこの刑だな」
「おひめ……っ!? いやっ、そのっ、それは……」
「なんだ、嫌か?」
「嫌っ……というわけではなくむしろちょっと嬉し……じゃなくてっ! そんなことされたら私はもう外を歩けません! 一生ニートですっ」
「そりゃあ困るな。仕方ない、刑は免除してやろう」
「えっ……あ、でも、帰り道にちょこっとだけくらいなら……いやいや、そうじゃなくて」
「おい、早く行くぞ、みーちゃん」
「えっ、あっ、ちょっと待ってくださいよ、兄さんっ」
服屋は駅のすぐ近くにあって、姉に送ってもらった地図のお陰もあってすぐに見つかった。
「本当、スマホって便利だよな。これさえあればどこにでも行ける気がする」と俺は言った。
「へぇ」と未沙が言った。俺は、その表情が引きつっていることに気づいた。
「この建物の中にもですか?」そう言いながら、未沙は目の前にある煌びやかな装飾のなされた建物を指さす。
真っ白な壁、桃色の看板、ショーウィンドウにはフリフリのついたドレス。
「兄さん、ここは私たちの入っていい世界では……」と未沙が言った。
俺はスマホを取り出して、姉に「この店に入れと言うのか」とLINEを送った。
ほどなくしてスタンプが返ってくる。可愛らしい熊の画像に、「YES」の文字。
「行くぞ」俺は未沙の手を掴んだ。
「本当ですか?」と未沙が言った。「兄さん、騙されてないですか?」
「あの姉ちゃんが冗談なんて言うわけないだろ」と俺は言った。「俺はこの店に入る。そして、女性ものの下着を買う!」
「そんな恥ずかしい宣言、堂々としないでくださいっ」精一杯の抵抗をする未沙を引きづるようにして、俺は一歩踏み出した。
自動ドアが開き、小気味のいい鈴の音がなる……。
店に入った瞬間、店中の視線を一心に集めたような気がして全身に冷や汗をかいた。
未沙は俺の手を強く握り、無言で俺の後ろに隠れようとしている。
「お前が隠れたらどうしようもないだろ」と俺は言った。
「前に出て、俺をリードしろ。自分の趣味に実の兄を付き合わせている、痛い妹を演じるんだ」
「嫌ですよっ」と未沙。「そもそもこういうフリフリのついたのは私には似合わないですしっ」
「フリフリのついた服じゃない。お前が見るのはDカップの下着だ」
「余計嫌ですよっ」未沙は俺を睨みつける。「だって私、び、Bカップしかないですし……」
「嘘をつけ、お前はAカップだろ」
「見栄くらい張らせてくださいようっ」
嫌がる未沙を引きずって、女性ものの下着のコーナーに向かう。
「うう……なんで私がこんな目に」
「みーちゃんは、どういうのがいいんだ?」と俺はぼやく未沙に尋ねた。
「もっと大きいのがいいんじゃないですかぁー? こっちのFカップとかー
……うひゃー、Gカップ? 肉ぶら下げて結構なことですねー」
未沙はもうダメだった。
仕方ない、もう適当にこれとこれとこれで……。
「みーちゃん、ちょっとこれレジまで持ってって」
「分かりました。では私の胸を恥ずかしくない程度に大きくしてください」
「何無茶言ってんだ。ほら行くぞ」
「もうやだ……」未沙はそれだけ呟くと、機械のように会計を済ませ、まっすぐに店を後にした。
小気味のいい鈴の音。俺もそれに続いて、足早に外へ出る。
外へ出た瞬間、視界が一気に広がり鼻の奥を空気が抜ける気がした。思わず伸びをしたくなる解放感。
「……死にたいです」
未沙はもういろいろとダメだった。外に出たくらいじゃ何も変わらないほど、店内の独特な雰囲気に侵されているらしかった。
「なあ、未沙」と俺はわざとらしく笑顔を作って言った。
「なんですかぁー? 私、人に迷惑をかけない遺体の発見されない死に方について考えてるんですけどー」
「それはFBIの妻でないと無理だ」俺は言った。「それより、ケーキでも食べに行かないか」
「……ケーキ? 今、ケーキって言いました?」死人同然だった未沙の目に光が戻る。「それは、兄さんの奢り……ですよね?」
「いろいろあったしな」と俺は言った。「もちろん奢りだ。好きなものを頼んでいいんだぞ」
「やったあー!」未沙が飛び跳ねて喜ぶ。年甲斐もなく……と言ったら怒られるかもしれない。 ; CEROとかに
「それじゃあ私、6号のホールケーキを食べます!」
「6号!? そりゃあちょっと食べすぎじゃ……」
「私、ホールケーキをお腹いっぱいで残すのが夢だったんですっ」
「嫌な夢だな!」俺は財布を覗き、札の枚数を数えた。帰りの電車賃ギリギリだが、まあ何とかなるだろう。
「しょうがない……4号ならいいぞ」
「えへへっ、そうと決まればさっそく行きましょうっ」ついさっきまで目が死んでいたとは思えないほどの笑顔で、未沙は無邪気に駆けていく。
「ほら、兄さんっ! はやくしてくださいっ」
「分かったから、走ると危ないぞ」俺は未沙の後を早足で歩くきながら言った。「というか、ケーキ屋の場所知ってるのか?」
「兄さん、スマホって、便利なんですよっ」未沙は迷いなく角を曲がりながら、そう答えた。
……未沙の無邪気な笑顔。
……左手に握られたスマートフォン。
……言いようのない違和感。脳裏に、ずしりとくる感覚。
……その正体に、俺は気づいていた。
……それでも俺は、未沙のいい兄を演じなければならなかった。
……未沙に、罪はないのだから。
「兄さん?」テーブルの向かいに座った未沙が、心持ち心配そうに俺の顔を覗き込む。
「どうしましたか? これからケーキが来るというのに、元気がないなんて」
「そりゃあお前はタダだからな」と俺は言った。「フリーターにはつらいよ。この出費は」
「へー」未沙は平調子に言った。そしてそれ以上、この話題には触れなかった。
未沙は、とても察しのいい妹だった。普段こそ減らず口を叩き、人を茶化して楽しんでいる風であるが、
本当に踏み込んで欲しくないところには踏み込まないでいてくれた。
あるいは、それは彼女に本能的に身についた自衛機能だったのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、ケーキが運ばれてきた。
直径12センチのホールケーキは、本格的な大きさのものと比べれば、少しばかり小さく見えた。
未沙は全身で喜びを表現するように、満面の笑みを作り、口いっぱいにケーキのかけらを放り込んだ。
「おいしいですよ」と未沙は言った。「とってもおいしいです。兄さんも、どうぞ」
取り分けられていないケーキをフォークでつついて食べる様は、もしかしたら異様だったかもしれない。
けれども、それはどこか可笑しくて、楽しくて、幸せな時間だったように思う。
……。
…………。
………………。
未沙に帰りの電車賃を渡し、別れの挨拶を交わす。
別方向の電車に乗っていつものアパートに着いたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。
「ただいま」
いつもの部屋。けれども、今日は明かりが点いている。
「おかえりなさい、ゆーくん」と姉が言う。「今日は楽しかった?」
「楽しかったって……」と俺は答えた。「未沙を呼んだなら教えてくれよ」
「あははっ、ごめんね」姉は心底楽しそうに笑い、両手を前に突き出した。
その手に下着の入った袋を提げてやり、俺は部屋に上がる。その後を姉が続く。
「ご飯出来てるよ」と姉。「冷蔵庫の余りだから、大したもの作れなかったけど」
「ありがとう」と俺。こたつ机の上には、どんぶりに入った味噌汁が湯気を立てていた。
「明日はお米、買ってこなきゃね」はにかんだ笑顔を見せて姉が言った。「ゆーくんが買ってきてくれた下着、着るからね」
姉が「下着」と言ったのを聞いて、昨夜の出来事を思い出す。姉は着替えとして、俺の下着とワイシャツをもっていった。
つまり姉は……今、俺の下着を履いている。俺は無意識に、極めて無意識に、厚手のトレーナーに隠された姉の秘部を注視していた。
「……? どうしたの、ゆーくん」その顔を姉が覗き込む。
「あ、いやっ、なんでもないんだ」俺は慌てて取り繕う。
「ふうん?」と姉が言う。「ま、いいけどね。ゆーくんがどんなこと考えてても」
「誤解しないでくれよ」と俺は言った。「別に、俺は姉ちゃんを見てたわけじゃない」
「じゃあ、何を見てたの?」と姉は尋ねた。
「……姉ちゃんを見てました」俺は言い訳を諦めて、そう言った。両手を上げて降参のポーズをとる。
「よろしいっ」姉はそう言って俺の頭を乱暴に撫でる。「ほら、早く食べよう。お味噌汁、冷めちゃうよ」
「ああ」俺はこたつ机の一面に着き、手を合わせた。「いただきます」
「めしあがれ」向かい側の姉が柔く微笑み、それを見つめている。
「ごちそうさまでした」やがて食べ終わり、再び手を合わせる。
「おそまつさまでした」と姉。俺の前のどんぶりを持ち上げ、台所へ持っていくと、蛇口をひねって手際よく洗う。
「悪いな」と俺は言った。「俺の家なのに、いろいろしてもらっちゃって」
「何言ってるの」と姉が答える。「ゆーくんの家だからこそ、私がやるべきでしょ。居候なんだから」
「居候」と俺は言った。「そういえば、姉ちゃんはいつまでこの家にいるの?」
「そうねえ」と姉。「とりあえず、ゆーくんが正社員になるまでかな?」
「いつになるだろうな」俺は冗談めかしく言った。
「明日も面接でしょ?」と姉。「頑張ってね。お姉ちゃん、おうえんしてるから」
「……もしかして、あのカレンダー見たのか?」
「あはは、うん。見ちゃった」
「情けないな」俺は後ろ手を付き、中空に視線を彷徨わせながら言った。「全然ダメでさ」
最終更新:2017年03月13日 13:25