キアスムとは何か

二つの文の一部が入れ替わることを意味する。ポストモダン思想の源泉であるリオタールとデリダは政治的なことを語っている。リオタールは「大きな物語」ということについての「大きな物語」をした時点で政治的である。

ポストモダン思想がなぜ政治の議論に向かっていったのか

リンダ・ハッチオンの『ポストモダニズムの政治学』(1989)参照。まず、芸術において前衛芸術とポストモダニズムの芸術は決定的に別のものである。前衛芸術は様々な実験を行い「次の時代」を模索する政治的実践であり、時代そのものが終わったとするポストモダニズムとは異なる。すなわち、ポストモダン思想といわれるものはこれら前衛芸術のように「次の時代」を模索する政治的実践であったのであり、その意味では未だ近代の延長にあった。

リオタールに端を発するポストモダン思想はポストモダンであったのか。

違う。結局は前衛的なモダンの延長にある政治的主張にすぎなかった。

真に論じるべき「ポストモダン状況」とはなにか

人間性そのものの変化である。これを早くから指摘していたのはルイス・マンフォード『変貌する人間』(1956)であった。「ポスト歴史」において人間は消滅し多数の機械に取り囲まれただけの、何の価値を見出さず、欲望もしない人間が現れつつある事を指摘した。

ポストモダン状況を描き出そうとした人物はいるか

フーコー。フーコー学の特徴は二点ある。構造主義的歴史観と生命政治という新たな政治哲学である。これらを用い、フーコーはポストモダン状況について「人間の脱中心化」と「世界の脱中心化」を軸に語っている。

人間の脱中心化とは何か

人間が機械に取り込まれていくこと。

世界の脱中心化とは何か

世界の中心が存在せず、もしくは分散化してそれぞれ異なる方向へ異なる速度へ動いていくこと。
最終更新:2011年05月27日 06:30