現代哲学の一般的な解説書の難点は何か

19世紀後半からのあらゆる思想家達の系藤樹を書き出すようなことをする点である。そもそも系統樹のような書き方ができるのは近代哲学の観念を前提にしている。

近代哲学だとなぜ系統樹のように思想家を分類できるのか

近代の「人間」という見方に基づいている。どんな時代でも人間がたてた問いに対してそれに答えるという活動を行っておりそうやって得られた知識は普遍的なものだとされていたから。

ポストモダンでは普遍的な知識についてどう考えるのか

重大な問題ではないと考えている。

なぜポストモダンでは普遍的な知識が重要でないと考えるのか

近代の直線的な歴史が終わった事によって各時代の意義が失われ、近代を含むあらゆる時代の思想が見出されるようになったことによって社会全体における普遍的な知識のような問題が求められなくなったから。

現代哲学の解説ためには系統樹ではなく何が必要なのか

雑多な思想が渦巻くポストモダン状況においても、この状況を解明し、指針となるような哲学が生じているのかの見極めが必要である。

現代哲学者と呼べる最初期の人物は誰か

アメリカのC・S・パース、ドイツのウィルヘルム・ディルタイ、フランスのジャン-マリー・ギュイヨー等

彼らは何をしたのか

機械論的進化論を受容しつつ、優生思想を導くような素朴実在論的な要素をそこから抜いた。

彼らの後に続く20世紀前半の人物は誰か

フランスではベルクソンとサルトルとメルロ=ポンティ、英米ではジェイムズとデューイとホワイトヘッド、ドイツではシェーラーとハイデガーとヤスパース等

彼らが用いた道具立ては何か

「生の哲学」「解釈学」「現象学」「実存主義」「存在論」「論理実証主義」「プラグマティズム」等

彼らの哲学に共通の特徴は何か

現代の諸問題に対応できないのは近代の哲学に問題があるのであり、現代の科学的知見をもとに近代哲学をやりなおす点(「ル・ルネッサンス」)。

彼らの哲学に共通の難点は何か

過去の哲学の延長で「哲学は何らかの真理を語りうる」という前提のもとにあったこと。そして、その前提に立つが故に「ことばとは何か」という問題に十分な注意がいかなかった点。

日本の西田や和辻といった思想家は現代哲学者ではないのか

仏教や儒教といった日本の伝統思想の取り上げ直しに過ぎない。

彼らの議論に欠けていたものは何か

彼らの主題である人生問題や人間関係は、「人間とは何か」、「生命とは何か」を論じることになるが、これらの問題を論じるにはそもそも、その時代の文化や社会が与えることになる人生や人間の時代のイメージ(時代のイデオロギー)についても考察する必要がある。そうした考察の上でその主題がなぜ問題となり、それにどう答えるのかを思考するのが哲学だが彼らにはそれがない。

西欧の危機が認識されるようになったのはいつか

1918年にシュペングラーの『西欧の没落』がベストセラーになっている。真に歴史を生成しているのは生命的なものであり、生命に終わりがあるように西欧文明は終わりに向かっていると主張した。

西欧の危機に対する哲学者の反応は何か

1935年、フッサールの講演『西欧的人間性における危機と哲学』、ハイデガーの講演『ドイツ的大学の自己主張』がある。

西欧の危機に対する哲学者の立場はどういったものか

二つの立場があった。一つは進化論をふまえた「生」こそが哲学の真の主題であるという立場(ディルタイ、ギュイヨー、シェーラー等)と、もう一つは生から進化によって「意識」は生まれないとして、「意識」こそが哲学の真の主題であるという立ち場(フッサール、ジェイムズ、サルトル等)である。

「生」とはどういった概念か

「精神」と対立する概念。ディルタイによれば「生」とは純然たる物質以外のすべてのものであり、人間が作った機械をも含めて生物たちを貫くもののことである。

「生」を哲学の主題とする哲学とは何か

「生の哲学」と呼ばれる。デカルトのように「わたしは存在する」(わたしは思考する実体である)からではなく「わたしは生きている」を出発点とし、「生きている」という観点から近代の認識論と倫理学を根本からやりなおそうという哲学。

ディルタイにとっての哲学の仕事とは何か

生は流動的で汲み尽くしがたいものであるので、哲学の仕事は、生の語ろうとしていることに耳を傾け、それを不完全ながらも精神の言葉で解釈する「解釈学」である。

ギュイヨーが主張した倫理学とは何か

生の延長として人はどう行動すべきかを考えた。1885年『義務もサンクションもない道徳』によって生命としての人間は力のあるひとほど「なすべき」ことがあり、冒険し、破壊しては社会の道徳的進歩に貢献するとした。

シェーラーの「哲学的人間学」とは何か

進化論によって人間も他の生物と同様に進化してきた生き物の一種に過ぎないことがわかった時、それでは「人間とはなんであるか」という問いが生まれる。シェーラーは『世界における人間の地位』(1927)において、動物はそれぞれの種に固有な環境世界を生きるのに対して、人間精神はそういった環境を超えた客観的な一つの世界を認識できるとする一方、精神は生の衝動抜きに人間性を支配することはできないとし、精神と生命についての新しい哲学の必要性を述べた。

最終更新:2011年07月16日 16:14