政治と経済の統合

政治と経済の違い
意思決定に参加する権利をお金で売買できないことによって、資本主義経済から政治は大きく分離されているのだが、
お金以外の通貨を使用するならその壁を乗り越えられる。

また、その分それらの障壁の必要性が少なくなっていくだろうし、投票権も通貨の一種なのだから、いろいろな政治と経済の中間の意思統合システムが想定できる。


政治と通貨の統合とは、両者の機能を抽象化して取り出すことで両者を実現するとともに、それらの中間またはそれら以外のエネルギー交換システムを個人が創造し利用できるようにすることと、それら作られたすべての交換システムにどれだけ足を突っ込み義務と権利をもつか自由に選択できるようにすることでなされます。

民主主義における普通選挙制度では年齢のみで生命を区別し、各生命ごとに同量の意思決定権を割り振っているのに対して、制限のない市場では意思決定の手続きを契約をしていない限り他人の意思決定に干渉することは完全に自由であるり、ひとつの生命に対して誓った量の意思決定権が割り当てられている。

民主主義以外の意思決定の方法があるとすれば、命を基準としない投票権の割り当てが、集合知の最小単位として有効に機能する集合知の新しい分野であり、それが機能するためには社会的に妥当性を認められなければならない。

細胞ごと

 デブ有利は絶対に認められない

脳細胞ごと

 頭が大きくたって役立たずはたくさんいる

人格ごと

 多重人格者が幅を利かせるのでだめ。

このような提案が考えられるがどれも妥当性がない。

なぜ一つの体に一つの人格が搭載されていることを前提に制度が発展したのかというと、体の中での葛藤は個人で体を動かして処理することが一番適していたからだ。生命を維持するために体を動かすと、必然的にひとつの命の中では本能的にも理性的にも矛盾が起きなくなってくる。したがって、それによって合理的になった各生命が出力する信号を効率よく伝達する言語が自然言語なので、それ以外の合理的な意思の集合間の信号を効率よく伝達する言語は発達してこなかった。
 言語のみ紙などの生命以外の永続性のある記憶媒体に記録できる。そのうち自然言語を操ることに人間のコミュニケーションの能力が特化して、それが命を単位とする理性が操るようになっているがゆえにが世界中に広まった。言語が命を単位にすると言うよりも、一つの命に一つの体、ひとつの魂という組み合わせが自然淘汰に一番打ち勝ちやすかったら、そうなったのだと思う。
だから、自然淘汰圧が弱くなった世界で生物の多様性が増えて命と魂と体の数にバリエーションが増え、民主主義以外の政体が現れるためには、自然言語以外のコミュニケーションが既存の言語の良さを取り込んで進歩しなければならないと思う。
最終更新:2013年07月22日 10:48
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