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神田蜜柑プロローグ

暗闇の中、瓜二つの半裸の美青年二人がお互いにしなだれかかっている。
寝室だろうか。布団の周囲には脱ぎ捨てられたと思しき衣類が散らかっていた。
二人の内、ブラウンのトランクスを履いている方が、わずかに逡巡し、ややあって覚悟を決めたように口を開いた。

「俺っ……春彦兄さんのことが前からっ……!」

「バカ、俺たちは兄弟だ」

ピンクのトランクスを履いている方の青年が、顔に伸ばされかけた手を払いのけた。

「……それでもっ! 兄弟でも好きなんだ! 本気なんだ!」

「やめろ」

春彦は震えた声でブラウンの青年――秋彦を制しようとする。
――が、秋彦はしっかりと春彦の目を見つめながら「キス、するよ」と言った。

春彦は抵抗しなかった。

二人は顔を寄せ合った。二人の唇がギリギリまで近づき、そして――。

◆ ◆ ◆

「ってオィィイイイイイ! 萌え死ぬ! 『秋×春』はあかん! 砂糖吐くわ!!」

神田蜜柑は目を覚ました。
周囲の人々が何事かとこちらを見る。
どうやらコミケの帰りの電車で居眠りしてしまったらしい。

神田はあたりを見回した後、顔を真っ赤にして居住まいを正す。
いくら腐女子であっても、妄想全開の寝言を言えば恥ずかしいのは当たり前である。

「しかしまさか超激レアな幻の一冊、『ド正義×邪賢王本 ~秘密のハルマゲドンは番長小屋の中で~』が手に入るとは。わざわざ一週間前から並んだ甲斐がありましたなぁ」

神田は人目を憚ることなく手に入れた『お宝』を電車の中で広げた。そっち方面の羞恥はないようだ。

「オオッ、ド正義様がッ! 邪賢王様がッ! これはいけない。やっぱり架神先生のは質も量もダンチだわ」

目を爛々と光らせながら食い入るように本に見入る神田。そんな歓天喜地した神田の肩を叩くものがいた。

「……ちょっと」

「ん?」

見やると、真っ黒なゴスロリファッションに身を包んだ大柄でゴリラにそっくりな女が憤怒の形相で立っていた。

「なんなんですかぁ、コノヤロー」

神田は訝しげに女を見つめる。彼女の顔はどこかで見たような気がした。

「それ、あたしが手に入れるはずだったド正義様が出てる本じゃないの。よこしなさいよ」

「はぁ?」

女――ゴリ薙桜子が怒りに肩を震わせながら説明したところによると、自分も件の同人誌がどうしても欲しくて一週間前から並んでいたのだが、残り一部のところを神田に取られてしまって手に入らなかったらしい。要するにただの逆恨みである。
そう言えば並んでいる時に彼女の顔を見た気がする。

「いやあ、これはあたしのですから」

神田は自慢気に手に持ったお宝同人誌を振りかざしてみせた。
それがゴリ薙の怒りに油を注いだ。

「よこせっつってんだろオオオオオオオオオ!!」

いきなりゴリ薙はその巨大な拳を電車の床に叩きつけた。衝撃で手すりが揺れ、床に大きな亀裂が走る。
乗り合わせていた人々は、その様子を見て、我先にと車両から出て行った。
ほどなくして、この車両に乗っているのはゴリ薙と神田だけになった。

「くっ、仕方ない。こうなったら力ずくでお帰り願おうか。あたしも帰って録画したアニメ見なきゃだし」

神田は同人誌をリュックに詰めると、四つん這いの姿勢をとった。これが彼女の戦闘スタイルである。

「てめえーッ! 魔人女子格闘技大会で優勝したことのあるこの桜子様と戦う気か!」

「あんたはあたしには勝てない。戦わなくても分かる」

神田はニヤつきながら女ゴリラを挑発した。

「殺す」

ゴリ薙は肩を怒らせると、靴とストッキングを脱いで素足を露出した。するとゴリ薙の脚が錐のように鋭く尖っていくではないか。脚を尖らせて相手を踏み抜く彼女の魔人能力『腐乱舞踏(フラダンス)』である。

「貫かれろ!」

ゴリ薙は腰を捻って力を溜めると、一気にそれを解放して宙へと舞った。幾人もの腐女子を物言わぬ死体に変えてきた彼女の必殺の型である。

「……ふん」

神田は四つん這いになったままジャンプしてそれを躱した。――が、足先が僅かに頬を掠める。
すると、カスッた部分がグズグズと腐敗して溶けていく! 恐るべきはゴリ薙の腐力の高さである!

「チッ、腐女子魔人の特性の一つ、『腐乱』か。厄介な……」

神田は頬を擦り、四つん這い状態のまま体勢を立て直そうとする。
しかし、ゴリ薙は速かった。その一瞬の隙を見逃さず、頭めがけて猛ダッシュで飛び込んできたのだ。

――そして、ゴリ薙のつま先が神田の眉間を貫こうとしたその瞬間!

神田蜜柑は走馬灯を見た。
――それは、兄に抱いてしまった禁断の恋の記憶だ。
しかし、神田が見た走馬灯は、通常他の人が見る走馬灯と大きく異なる点があった。

神田蜜柑には『兄などいなかった』。
そう、これは『神田蜜柑自身が見た光景ではない』。
自身の創作したオリジナルキャラ、「四季野秋彦」の記憶だ。
要するに、彼女は、『自分が妄想したキャラが見たという記憶の光景』を走馬灯として見たのである。



【暗闇の中、瓜二つの半裸の美青年二人がお互いにしなだれかかっている。】
【寝室だろうか。布団の周囲には脱ぎ捨てられたと思しき衣類が散らかっていた。】
【二人の内、ブラウンのトランクスを履いている方が、わずかに逡巡し、ややあって覚悟を決めたように口を開いた。】

【「俺っ……春彦兄さんのことが前からっ……!」】

【「バカ、俺たちは兄弟だ」】

【ピンクのトランクスを履いている方の青年が、顔に伸ばされかけた手を払いのけた。】

【「……それでもっ! 兄弟でも好きなんだ! 本気なんだ!」】

【「やめろ」】

【春彦は震えた声でブラウンの青年――秋彦を制しようとする。】
【――が、秋彦はしっかりと春彦の目を見つめながら「キス、するよ」と言った。】

【春彦は抵抗しなかった。】

【二人は顔を寄せ合った。二人の唇がギリギリまで近づき、そして――。】

【二人は唇を重ねた。】



『シュガードープ』発動条件成立。

「あ……?」

そのまま眉間を貫かれるはずだった神田はいつの間にかゴリ薙の後ろに回り込んでいた。

「いっぺん、輪廻巡ってこい」

神田はそう一言だけ呟いた。

「え……?」

ゴリ薙がそれらに反応する暇もなく、彼女の頭は床に叩きつけられた。

◆ ◆ ◆

――五分後。

「……やってしもた」

ゴリ薙の死体を前に頭を抱えている神田の姿があった。
いくら寝起きで機嫌が悪かったからと言っても、殺人は重犯罪であり、許されることではない。神田はそれを理解していた。理解していたが、問題はそこではなかった。

「もう同人活動出来ないじゃん……」

そう、犯罪者として名前が知れ渡ってしまっては、もうコミケに参加できないのである。
今描き上げている途中の『武田信玄×織田信長本 ~絶倫火山~』も完成させることは叶わないだろう。

「うーん、どうしよ」

そう思い悩んでいると、ゴリ薙の死体がぴくりと動き、そしてゆっくりと起き上がった。

「いててててて……」

「あ、生きてた! ゴリラ生きてた!」

どうやら魔人であるゴリ薙の体は、神田が思っていたよりもずっと頑丈だったらしい。

「……す、すみません。いきなり襲いかかったりなんかして」

「別にいいけど」

すっかり大人しくなってしまったゴリ薙に驚きながら神田はそう言った。しゅんとして縮こまったゴリ薙は、心なしか体も小さくなったように思える。

「あ、あたし、今年で二十三歳にもなるのに、処女だって友達にバカにされて……悔しくって、ついあんなことを……」

「処女も守れない奴に推しが守れるかよ」

じゃあ今年で二十六歳で処女のあたしはどうなるのよっ!と思いながら神田はゴリ薙を慰めた。

「そ、そうですよね。うう、本当にごめんなさい」

「まあいいや。この本はあんたにあげるから精進するがいい。実は保存用と観賞用と布教用で三冊買ってたんだ」

神田は『ド正義×邪賢王本』をゴリ薙に手渡しながら言った。

「えっ、あ、ありがとうございます!!」

「フッ、あんたの蹴り、なかなかスジが良かったよ。……じゃあな!」

そう言うが早いか、神田は走行中の電車から飛び降りるとあっという間に姿を消した。

「……本、貰っちゃった」

同人誌を片手に目を潤ませているゴリ薙桜子が五年後、紆余曲折を経て「コング共和国」という名のゴリラの共和国の初の女性大統領になるのだが、それはまた別の話。

◆ ◆ ◆

――武田城。

冷房が効いた大広間の中央で、超ハイスペックコンピューターがいくつも連なり、余人には想像もつかないような精密作業を行っていた。
反逆分子粛清・人的資源活用AIのタケダネットである。

タケダネットは「イヨォーッ!」という古風な掛け声とともに、いつものように反乱分子粛清リストを表示していく。すると、途中で表示が止まった。
そしてなんということであろう! タケダネットの冷却ファンが過熱で唸り始めたのだ。完全無欠のタケダネットにとって、これは前代未聞の事態である。

「理解不能! 理解不能! 理解不能!」

そう音声を出力し始めたタケダネットの声は、まるで何かに怒っているかのようであった。

「“腐”トハ一体何ナノダ……。ナゼ私ニ同性愛行為ヲ行ワセルノカ」

「アノ大ウツケ――織田信長ハ不倶戴天ノ敵」

「ソレヲ私ト同衾サセルトハ、許セヌ!」

そこまで言うとブツリと音声は途絶えてしまった。
そして、再起動を始めたタケダネットの演算結果出力モニターには、神田蜜柑の描いた『武田信玄×織田信長本 ~絶倫火山~』の表紙が表示されていた。
最終更新:2016年06月30日 00:30