思い出せ、自分は何故この闘いに挑むのか。
冷静になれ、感情は何も解決してはくれない。
洗面台の前で鏡を覗き込んだ蛇ノ目は、己の鉄色の瞳から生命の色が失せていることに気づいた。
顔色は気味悪く青白い輝きを放ち、髪も昨日までの銅の輝きを消している。
原因は一つしかない。昨日の秘密の舞踏会で、彼女は足を滑らせ踊りを止めた。
雨宮棗という少女の扱っていた水で作られた鎖。そこに何らかの潤滑剤が含まれていたようで、縄蛇の背を走っていた蛇ノ目は高層ビル並みの高さから、姿勢を立て直せないまま落下したのだ。
いや、正確に説明すると、姿勢を立て直す前に、バレーボールの容量で遠心力の乗った鎖でアタックされた。
その攻撃で、脊髄を損傷していたらしい。身体が動かぬまま痛みに耐え、大地への衝突を待ち続けるしかなかった。
死亡後に蘇生と治療を行われた後も、その体験はトラウマとして蛇ノ目の精神を蝕んでいた。
縄蛇の背を駆けるのは、高さとスピード、自分にとって有利な距離というアドバンテージを得るために生み出した、最高の戦術だったのだ。
しかしあの落下以降、脚が震えて縄蛇の上に乗ることを拒否する。
そもそも上空を走るというのは、思いの外酔う。
背中からの断続的な衝撃と、次々と移り変わる景色、全力疾走時の酸欠、細くて揺れる足場に立ち続ける集中力、能力の副作用などの要素により、生命の危険がある上に自分が疲れるジェットコースターに乗っている気分になる。
それでも、一撃必殺に等しい能力や腕力を持つ魔人や侍に立ち向かうためには、回避技術が必要になった。
雨の日や風の日であっても実戦で利用できるほどの技になるまで、訓練を続けたのに。
今、その時の全ての努力が意味を無くした。
もしも今日、労働者達が反乱を起こしていたら、生きていられたかどうかも分からない。
今日中に何度もそのような恐怖に襲われ、食事は喉を通らなかった。
点滴で取り入れた以外の栄養は、全てストレスから来る嘔吐で消えてしまった。
今日の夜も、武闘会がある。
出場を辞退するべきか迷っていたが、どうせもうこれ以上失う物も無い。
最初の出場目的を思い出す。そう、昼間の仕事の時間を忘れられる、刹那の戦闘に身を浸そうとしたのだ。
そもそもこの大会には、前戦のように基本的な体力が低い相手という者もそう多くいるはずが無く、相手を嬲るような戦いとなることはもう無いだろう。
そんなに強くない相手に惨敗を喫したのだから、これからはより油断無く戦いに挑まなくてはならない。
蛇ノ目はせめて何かを得られることを祈りながら、ポータルへと向かった。
そしてあと一歩で転送されるという所で対戦相手の名前を思い出した。
「は……? え、何それ……」
■ ■ ■ ■
その日の学校生活を送る最中、人に見られない所で雨宮棗は震えていた。昨日の夜の出来事が忘れられなかったのだ。
普段から、そこまで親しく話す友達がいるという訳でもなかったため、挙動不審に気づかれることはなかった。
誰を相手にしても、結局は人的資源同士の交流に過ぎず、与え合う情報の内容は、損得のみの判断で占められている。
親友など夢のまた夢だ。そして、親友であっても昨日の出来事を話すことは出来ない。
敵となった少女の背骨を折った感触は、水の鎖を通してまだ生々しく残っている。
そして地面へ肉の塊が落下する音
肉
はみ出す臓物
肉
しばらく震えてから動かなくなる死体
肉
広がっていく血溜まり
肉
300万円
肉
肉、肉、肉、そして突き出した骨に溢れる脳味噌。
リアルの世界で起きていることだと信じることはできなかった。
しばらくは自分は襲われて反撃しただけの被害者であると考えることもできたが、どう見ても相手は本気では無かった。
本気で潰しに来たならば簡単に殺されるだけの実力の差があった。
殺さないような手加減をしていた相手を殺してしまった。
そもそも法規外の闘いではあるが、罪の意識に苛まれる。
もしかして何もしなかったならば殺されていたかもしれない。
そう考えてもただただ気分は重くなるばかり。
そしてまた、今夜も闘いがあるのだと気がついた。
そう、前回はラッキーの勝利。
幸運による勝利はもう無いと考えて良い。
昨夜の少女だって結局治療を受けて助かったのだ。
思い切り攻撃して怪我をさせても、今更罪の意識を感じるまでも無い。
もし次に戦うことになるのがJKが性的に大好きな変態野郎だった場合、そうでなくても相手のストライクゾーンに自分が入っていた場合、殺される以外の心配が現れる可能性がある。
誰もいなくなった屋上で、彼女は水の鎖を生み出し、振り回してみた。ここならネットワークに繋がるカメラもない。
その速度、秒間に20回転。
試しに校庭の隅にある木にぶち当ててみた所、太い幹を割って倒してしまった。
「私……実は最強を狙える器なのでは?」
試しに正拳で他の木を殴りつけてみた。後ろの木を巻き込んで倒れる。自然破壊はここまでとして、他にも今夜のためにできることを探した。
放課後に、校内で武器を探して回った。探せば意外と凶器となる物は置いてあるものだ。
普遍的人的資源教育を受けて戦闘本能を鈍らされていた今まででは気付くことのできなかったことだ。
取り敢えず隠すことのできるものだけ鞄に入れて帰ることにした。
ーーーー
「フンッ!! ハッ!! フンッ!! ハッ!!」
『希望崎学園』で他の魔人に教えてもらった違法トレーニングビデオのダウンロード先を訪れ、体力作りに勤しむ。
『君も武士になろう! DNAから変える、本格的な魔人のためのトレーニング※効果には個人差があります』
どう見ても怪しい、効果があるようには思えないビデオだった。
事実、教えてくれた魔人もそんなに効果を感じることはできなかったと言っていた。
それでも何もしないよりはマシというつもりで、画面の中の動きを生真面目に真似した棗はいつの間にか運動に夢中になっていた。
どこまでも胡散臭い題名のビデオだが、トレーニングをしているうちに効果は分かった。途中に挟まれた5分間の休憩の間に、ハードな1時間のトレーニング分の疲労が抜け落ちている。
そして身体が柔らかくなっている。スタミナもパワーもスピードも、今までとは段違いだ。
どうやら何よりも自分の身体に合うトレーニングを見つけてしまったらしい。
『希望崎学園』の魔人に礼を言い、鞄やポケットに武器を詰めると、棗はポータルへ向かった。
道中、携帯電話を開き対戦相手を確認して驚いた。
「ほほう……あちらからすればリベンジというわけですか。良いでしょう、今回は後腐れなくブチのめしてやります」
雨宮棗は強化した握力で携帯電話を塵芥へと分解し、意気揚々と先陣へ向かうのだった。
■ ■ ■ ■
〔STAGE:スクラップ置き場〕
ヒュウヒュウと風が吹き、山のように積み重なったゴミを揺らす。上空からは雨と思しき液体と、風で吹き上げられたゴミと思われる塵が降り注いでいた。
どちらも健康に直ちに影響を与えるものではないときっぽちゃんからの説明があったが、長期的な危険を及ぼすことは間違いなかった。
視界は悪い。ゴミの山は一つ一つが高く、向こうを見渡すのは難しい。
足場も金属片が突き出したり、異形の小型生物が歩き回ったりしていて歩き回るのにも注意が必要だ。
それでも柿霜蛇ノ目は普段と変わらないように悠々と歩き、適当なゴミ山の陰にしゃがみ隠れると、魔人能力を全力で発動した。
『追い詰める枷・絞める檻・逃がさない獄』
手元から離れた偽物の蛇達は、あるものは上空へ、あるものはゴミの隙間へ、あるものは地を這って索敵を開始した。
蛇の持つ感覚器として、熱及び赤外線を感知するピット器官、臭気を敏感に感知するヤコブソン器官、細かな振動を逃さない皮膚感覚器官は極めて優秀であり、透明化や変身などを行う魔人に対しても、追跡が可能だ。
彼らが感じ取れないというのは基本的に完全に形而上学的な世界操作型能力か、存在というものを再定義するような強能力、一部の幻術に対してのみである。
相手の能力は既に知っている。水で作られた鎖を操る能力。
能力による誤魔化しは効かない。
一方的に追い詰め、少なくともトラウマが消えるぐらいには苦しんでもらう。
昨日の戦闘で感じた限りでは、そもそも本体の蛇ノ目が目の前に出なければ試合には負けなかったはずだ。
蛇ノ目の周辺を護衛する縄蛇が、コートのフードを広げて被せてくれた。
耳が聞こえないと戦闘に支障が出るだろうと思って被らずにいたが、わざわざ有害物質を防ぐために気を使ってくれたのか。
親切を拒絶することはできない。
動かない身体を無理に操ろうとせず、頭の中で簡単にお礼を言った。
既に護衛の蛇は本体である蛇ノ目の視界の外へ出てしまい顔も見えないが、共有した感覚でなんとなく感謝が通じればいいな、と思った。
その直後、蛇ノ目の隠れていたゴミ山が倒壊した。
護衛の縄蛇は素早く手元に戻り、蛇ノ目のコートの首の辺りを咥え、空を泳いで雪崩を回避した。
下手人は何処!?
索敵に勤しんでいた縄蛇から連絡があり、直後蛇ノ目の全身を激痛が苛んだ。
縄蛇の内の40匹、僅か5秒の間に全滅。
敵の振り回す鎖は悉く縄蛇の身体を切り裂いていた。鉄や特殊合金、化学繊維から作られた縄蛇を完全に断ち切るには至らずとも、殺された縄蛇には致命傷に至る傷が与えられている。
蛇ノ目は残された縄蛇の内2匹以外にかけた能力を全解除。敵のいる地へ向かった。
■ ■ ■ ■
呆気ない。
雨宮棗を威圧的に取り囲んだ蛇の群れは、彼女の振り回す鎖に触れて皆倒れていった。
思い切り振り回した鎖は周囲のゴミ山も纏めて吹き飛ばしたが、棗には関係ない。
棗の操る水の鎖には現在、苛性ソーダが溶け込んだ物が3本、クレンザーを混ぜ込んだ物が5本、その他有害な廃液や化学物質の溶け込んだ鎖が10本程存在していた。
水は溶媒としてこれ以上なく優秀だ。
彼女の能力で作り出した水の鎖には、何か他の物を溶け込ませることで真の力を発揮できる。
比重を増して振り回した時の力を強化することに留まらず、溶質によっては全く別の性質を持たせてしまうから面白い。
ふと見ると蛇達の姿はロープに変わっている。
前回しっかりと見ていなかったから断定できないが、敵の柿霜蛇ノ目という少女は縄を蛇に変える能力でも持っているのだろう。
結構簡単に大量の蛇を倒せた。
今回は普通に勝てる気がする。
それにしても敵本体を倒さないと試合は終わらないので、探しに行こうとした矢先。
足が縺れ、その場に転んだ。
取り敢えずなんのゴミが落ちているか分からない場所は危険だから、無骨な長靴で挑んで来た棗であったが、思っていた以上にここは危険だ。
手を着きかけた地面には、牙のように鋭い金属片と、紫色蛍光色の液体が所々に見つかった。
空中で気付いて良かった。さもなければこの手は今頃腐り落ちていたかもしれない。
ふと転んだ原因を確認しようと足下を見ると、両足足首部分は太さ5㎝程の蛇に縛り上げられていた。
上空に影。
見上げれば目に表情の見えぬ少女が身長より少し短い棒を振り上げている。
棗は反射的に飛び跳ね、両足を縛る蛇の顔部分を、毒々しい液体に塗れた金属片に無理矢理突き刺した。
「痛ッ!! ……痛つつ」
目の前の少女の動きが止まった。
召喚中の鎖はまだ全て地面に落ちたままだ。
上下左右前後から、触れた物を溶かし、削り取る邪悪な鎖をけしかける。
間合いが短すぎて回転はつけられない。
それでも並の魔人なら反応しきれない速度だ。
「こ……ンの!」
有害溶液性の鎖が一度に5本は砕かれ、敵は背後に退路を作り上げた。滑りやすく凹凸も多いゴミの上を難なく走り、後方へ素早くステップする。
取り敢えず足に巻きついていた蛇は力を失い解けた。
残った鎖を掻き集め、棗は静かに戦略を練る。
スカートのポケットや一応持ってきた鞄にはまだ武器が詰まっている。
身体能力もクリーンヒット数発で魔人を殺せる程度まで成長した。
完全な形で、倒せる。
現在棗の顔に浮かんでいたのは、人生で初めての勝者の顔。
相手を否定し、自分を肯定する顔だった。
個性もへったくれも無かった今までならこんなことは絶対に無かっただろう。
奇跡だ。
神様仏様きっぽ様ありがとうございます。
私は今、安定した地位で働くよりも、掛け替えのない友達を作るよりも、金を手にするよりも嬉しい体験をしています。
黒い粒子が降り注ぐ中、棗は両手の先で鎖を回転させた。鎖の長さは3m程度。あまり長ければ鎖に自分が引きずられるし、コントロールも難しい。
回転が加速を続け、鎖の表面には湯気すらも見え始めた。
「オラァ!!」
右手に構えていたクレンザー入りの鎖が、手から離れた。
■ ■ ■ ■
半径約3mの円を描いた水が、高速回転を加えられてブーメランのように飛んで来る。
ブーメランのようにとは書いたが、勿論武器のブーメランと同じで術者の手元へ戻っていく様子は無い。
避けた水は、後方にあったゴミ山を吹き飛ばし、未だ勢いを失っていない。
魔人の身で受けたとして無事ではいられないだろう。
もし今蛇ノ目が、以前のように空からの襲撃を選ぶことが出来ていたならば迷うことなくその戦術を使っていた。
自分は上から、縄蛇は下から攻めることで少なくとも一対一でスピードの勝る相手であれば、完全に動きを止めることができる。
しかしやはり無理だ。昨夜の死と痛みの記憶は、空からの攻撃を拒絶している。
続いて2本目3本目の鎖が飛んでくる。まるで刃のようだ。
ある程度の間合いを取っていれば避けることも簡単だ。蛇ノ目のブーツは旧蝦夷の殺人リアス海岸でも使われた極環境用の特殊技術が使われている。
新潟での行動にも支障は無い。
敵の攻撃は段々と頻度を増した。
無闇に縄蛇を作って動かしてもそれは即座に殺され、蛇ノ目本人の動きも鈍る。
それにしても能力発動の適当なタイミングを選ぶことが出来なければ、追い詰められていくばかりだろう。
いつの間にこの棗という少女はこれ程までに強くなったのか。昨日は力を制限していただけなのか。
今そんなことは関係無い。相手が鎖に回転のエネルギーを与えているタイミングを見定めて、能力を発動した。
太さ約30㎝、全長5mの大型の縄蛇を作成する。
敵の回転鎖が飛んでくるが、蛇ノ目本人の体をぐるりと囲んだ縄蛇は、危険な攻撃を完全に受け切った。痛みを感じる前に一瞬で能力解除、そして再び発動。再び解除、また一度発動。また一度解除、まだまだ発動。
縄蛇を盾に、少しずつ敵との距離を詰める。
毒やら研磨剤が混ぜられたらしい攻撃は少しずつ縄の繊維を劣化させている。早く決着をつけなくてはいけない。
解除、発動、解除、発動、解除、発動。
敵との距離は残り5mを切った。
更に距離を詰めようとしたところで足に違和感があった。生で感じる鋭い痛み。
鋭い金属片と蛍光紫色の液体を含んだ見た目のグロテスクな鎖が、いつの間にか周囲の地面一帯を敷き詰めている。
急ぎ能力を発動、服の中に仕込んだ紐蛇にきつく足を縛らせて血の流れを止め、毒を吸いださせる。
それでも歩みは止めず、前へ、前へと進む。
地面に敷かれていた鎖は舞い上がり波のように蛇ノ目に襲いかかり、更に傷をつける。
棗という少女は手に持った彫刻刀やハサミ、カッターナイフを投げつけてきていた。
どれも刃先に怪しい液体が塗りつけられ、シュワシュワと表面が泡立っている。どうやら足元の新潟生物の体液が塗りつけられているようだ。
蛇ノ目のコートは防刃機構も備え付けており、うちに着込んだベストも強力な防御力を持っていたが、新潟由来の有害な液体に蝕まれ、ボロボロになっていく。
遂に刃は肌に傷をつけ始めたが、それでも歩を止めぬ。
気づけば涙が出ていた。
痛みのせいだけでは無い、自分が何故こんなことをしているのか分からなくなった。
それでも体は動きを止めない。射程内に入った。
腕が千切れかけても、杖を構える。
いつの間にか目の前の少女も泣きそうな顔をしていた。
そして攻撃も止んでいる。
蛇ノ目は杖を少女の頭目掛けて振り下ろした。
■ ■ ■ ■
棗は訳が分からなくなった。
自分とほぼ同年代の少女が、血だらけになり、服も体もボロボロにして自分の方へ向かってくる。
異常な光景だ。これまでの人生で観る機会など無かった光景だ。
そしてこの光景を作り上げたのは自分だ。
攻撃しているのは自分だ。
少女の足元に、小さな蛇が見えた。じっとこちらを見ている。
いつの間にか棗は、攻撃を止めていた。
自分は特別になりたかったが、異常になりたい訳ではない。
目の前の少女と自分では、戦いに挑む覚悟が違う。
自分が彼女のように傷ついてまで闘っていられるとは思えなかった。
彼女は段々と近づいてくる。
見る人が見ればその傷だらけの身体は醜くも見えるだろうが、今、この時、何故か棗には素晴らしく美しいものに見えた。
その動きが、女神の持つもののようにすら見えた。
黒い背景を背負い、音も立てずに近づいて来た彼女との邂逅は一瞬だった。
トドメを刺そうかどうか迷っていた棗に対し、蛇ノ目の動きは速い。
彼女の腕が動いたことが分かった時、棗は崩れ落ち、目の前が少しずつ白く染まっていた。
眩い光が私を包む。死ぬのかなあと思った。
それでも最後に凄い体験ができたなあとも思った。
あれ?ルールには死んでも優秀な医療スタッフが治してくれると書いてあったっけ、と思っている時には、もう意識は飛んでいたようだ。
■ ■ ■ ■
「え!? 死んでいなかったんですか、私!」
目の前のメガネの少女は、驚いていた。
そう、私、柿霜蛇ノ目が彼女に与えた一撃は、到底命を奪うというには軽すぎるものだった。
「何でですか? 私が、あんなに痛いことをしたのに……」
「いやそれはお互い様でしょう、私もこの前は貴女を殴りまくってたし。最終的にすっ転ばされたけど」
雨宮棗という少女は、しばらく考えて、ようやくお互いに攻撃を交わしたことを思い出したらしい。
「実際のところ、最初は本当に殺すかもしれませんでした。でも、あの有毒な紫の液体? での攻撃を食らった後、貴女は後悔をしていた。その後悔が無ければ、私が攻撃を与える暇も無かったというのに。だから私も殺すのは止めました」
「え…?何で後悔していたって分かったんです?」
「私の蛇が鼓動や体温で教えてくれました。優しいんですね」
全身を潰されておいて優しいも何も無いが、目の前の少女は本当に普通の日常というものを切り取った存在に見えた。
それを私が奪うことはできない。
何よりも眩しい、日常というものを持つ者の未来を、絶望に浸すことはとてもできなかった。
棗という少女が、以前の何も知らなかった自分のように見えたのだから。
「優しいだなんで……あ、いえ、蛇ノ目さんも優しいと思いますよ」
よく分からないフォローをされた。
笑みが自然と頬に浮かぶ。
こんな簡単に笑えたのは久し振りだ。
試合終了後、きっぽちゃんはしばらくポータルを用意するまでの時間を与えてくれた。
既に治療は行われ、体や装備もすっかり元通りだ。
「……それじゃあ、蛇ノ目さんの話を聞かせて下さいよ」
「!? なんでいきなりそうなりますか? 」
「友達が欲しいからです」
「!?」
「あっ!! いきなりでごめんなさい、訳分からないですよね。本当に普段では体験できない大会に来てしまってなんだかテンションが上がってしまったみたいです」
棗は恥ずかしそうに俯いた。様子を見ていると、本当に普通の少女でしかない。
これが、あの刺激性の液体で自分の全身を溶かした相手との会話だと思うと本当におかしく感じられる。
このような普通の少女が、刺激を求めて闘いに手を染めた。
これは、仮にその手に魔人の能力が無かったならば、決して生まれることの無かった運命だ。
反乱する労働者達も同じような存在なのだろうか。彼らは、生命の安全と、強力な武器を与えられた。
この大会の出場者も、各々が強力な武器を持ち、生命の保障がされている。
武田が既にその完全な駆除を諦めた、混沌とした暴力達。
本当に、歪んだ世界だ。
しかし、その歪みは既に社会全体に根を張り、抜き取ってもその穴にはまた新しく邪悪な物が住み着くだろう。
蛇ノ目はこれを変えられないだろうし、武田にもきっと変えられない。
「ええっと……! そう、普段本当に友達と呼べるような人がいなくて……特別な場所なら、せめてお金でなくてもそれぐらい手に入らないかなって……そう思ったんです……」
少女は語った。所々が支離滅裂な、自分の物語を。
育った場所も違うし、そもそも意味を知らない言葉も多く混じっていた。
訳は分からない。だけど傍にあるこれは、かけがえの無い日常。
普通の日常。そう、私が一番欲しい物。
それが私に手を伸ばしてくれた。
「ああ疲れた……次は今度こそ蛇ノ目さんが話して下さいよ。一人でずっと話し続けていたら恥ずかしくなってきました」
「そうですね。聞いてて辛い所もあるでしょうから、嫌になったら止めて下さいね」
「止めませんよ、今更」
蛇ノ目は話を聞き、言葉を吐くことに、いつの間にか夢中になっていた。
楽しい思い出を話した。悲しかったことを話した。驚いたことを話した。
棗は、楽しい話の時には共に笑い、悲しい話の時には、眼に涙を浮かべてくれていた。
単純に楽しいお喋り。少女同士、年相応のコミュニケーション。
話題はいつの間にか本当にどうでもいい話にすら外れていったが、それでも途切れることが無かった。
どうしてなかなか、理想の世界ではなかろうか。
きっぽちゃんがポータルを開き、帰っていく棗を見送りながらも、蛇ノ目は今できたばかりの思い出に心を沈めた。
いつの間にかトラウマというべき物すらもなりを潜めている。
この大会で勝ち進もうと、世界を変えることはできないかもしれない。
それでも、蛇ノ目の中の世界は変えられる。
何度でも、何度でも。
ーー試合終了ーー