「早く大人になれたら良いのに」
「大人になんかなりたくないと思っちゃうけれど」
幼馴染の少女は女主人の否定的な発言に目を丸くした。
「だって、やりたいことも出来なくてつまらないじゃない」
「でも格好良いでしょ」
小首を傾げる少女。
「どうすれば早く大人になれるかなぁ」
「そうね。少なくともタネのある西瓜を食べられるようになったら大人じゃないかしら」
「もう! またそうやってからかうんだから!」
軽快に跳ね返る反応に、堪え切れず女主人は腹を抱えて空を仰いだ。
「御免なさい。御免なさいね。あんまり可笑しくって。でもね、本当に大人なんて良いものでもないのよ」
涙を指先で拭い、口元を手で隠し再び笑い、釣られて幼馴染も笑う。
この世界は変哲もない夢であった。
「大人って何なんだろう」
溜息と頬杖を同時についた幼馴染が掌で片頬を押し潰し、言った。
「そうね。私が思うに、大人っていうのは――」
それは夢の戦いが始まる前の泡沫の夢であった。
橙に燃える夕日が揺らぎ西の山へ姿を隠し、周囲の景観が濃紺と黒の影絵へ変わった時刻。
「私達のデビューには丁度良い舞台だ。そう思わないか? 空海。いや――」
今宵、この夢の世界は壮大なダンスホールとなる。そう確信する男が月明かりに照らされそこに居た。
その数、二人。
「寂尊!」
「Aaow!」
一方は茂木箍一郎。
自らの感情を両手から煙状に吐き出す魔人能力者。
他方は茂木が実験により造り出した存在。
彼が行った「脳死状態の男に感情を吹き込み再び蘇らせる」倫理の禁忌たる所業の産物。
歌唱とダンスで80年代日本の仏教シーンを塗り替え続けた男、"三代目 J soul 空海"――またの法名を寂尊。
「見ろ」
「Aaow?」
夢の戦いが始まり数時間。
広大な採石場を探っていた彼らは高台から見下ろす一角、採石場の隅にふらつく女性の影をついに見つけた。
「二人なら夢の戦いにも勝てる――証明しよう」
「Aaow!」
「では寂尊は前衛で何かあった時の肉壁で。私は後ろでブレーン役」
「ちょっと待っとくれ。ワシゃ齢じゃからアップダウンはキツくて」
「黙れジジイ。ゾンビ化してりゃ痛みもないでしょ。ハリー! ハリー!」
二人の男は岩場を滑り落ち行く。往年のアイドルの意志を継ぐ彼らの足にはローラースケートが装着されていた。
80年代日本。歌と踊りを同時に見せるパフォーマンスで一世を風靡した歌唱舞踏集団「EXILE」の戦闘装束。
これ以上に彼らに相応しい装備は無かった。
およそ仄暗い月夜に血塗れの僧衣を纏い、禿頭を光らせる皺だらけの老人が眼前に現れたらば、腰を抜かさぬ者がどれだけいようか。両腕で強く胸を抱き、不安からか青ざめた顔で足取りも危うく採石場を歩いていた女主人は、物陰から跳び出してきた怪物に悲鳴をあげて腰砕けになった。
「Aaow!」
「あ……あの……」
身を捩り、組んだ腕に一層の力を込めながらも女主人はなんとか奇声を発する怪物に声をかけようとした。だが、その必要も無かった。
「貴女が女主人さん。どこかの店主さん? ゴメンねぇ、驚かせてしまいましたか」
異形に続いて現れたのは理性的な言葉を喋る人物。
そしてその姿は女主人にとって見覚えのあるものであった。
「脳科学の茂木先生?」
「イエス・アイ・アム!」
TVのバラエティ番組で時折に見かける著名人と、よもやこのような場所で出会うことになるとは。
女主人は怪物との邂逅から一転、全身の強張りをやや緩め、息を吐いた。だがその安堵は――
「あの、手を貸して頂いても?」
「いいですとも――なんて言うと思ったかッ! アハッ! 茂木汁ブシャーッ!」
理解不能の台詞と共に、茂木の手から噴出された煙を浴びて雲散霧消した。
「茂木先生。何をいきなり」
「夢の戦いに決着をつけるのさ」
「Aaow!」
「待ってください。私、争いごとは駄目なんです」
「なんと白々しい! アハッ!」
茂木は女主人が右手を差し出した時、僅かに攻撃の意思を示していた事を見逃さなかった。
恐らく接触型能力者。相手が勝ちを目指す意思を示す以上、茂木もきっちりとヤることを殺る。
「遠巻きに構えれば危険少なし! いけっ! 寂尊!」
「役得じゃぁーっ!」
女主人へ寂尊の暴力が襲いかかろう寸前であった。
聴こえる音といえばこの場の三人の声しか無かった山奥の採石場に、乾いた破裂音が鳴り響いた。
「アハッ!?」
「Aaow!?」
その一撃は避けられよう筈も無い。
何せそれは――夢の戦いの戦闘領域外である森から放たれていた。
「婦女暴行の未遂で現行犯逮捕だな」
ざわめく茂木陣営を尻目に、その男は大樹の陰から姿を見せた。
手には年代物の細長い銃。銃口から黒い煙が薄く立ち昇っていた。
「店主さん! 大丈夫ですか?」
「ええ。ええ。ありがとう! 川口さん!」
「お安い御用です!」
そこに居たのは15年来、女主人の店の常連客である警官――川口であった。この男は魔人警察官であり、昼間に女主人から夢の戦いの相談を受け、市民を護るのは警察の勤めと銃を引っ提げてこの戦いに飛び入り参加した。そして、夢の戦いのルールには「同伴者の場外負けに関するペナルティが無かった」事実に目をつけた女主人の案により、場外からの狙撃作戦を展開していたのだ。
「痛いの痛いのトンデケーッ! ブシャーッ! そんでもって寂尊!」
「Aaow!」
森の陰から姿を見せた敵の脅威を認識した茂木は、寂尊に素早く指示を下した。
「これで2対2。アハッ! だが私達が勝つ! 先に警官を殺れ!」
「Aaow!」
狙撃用の銃を放り投げ、ホルスターから拳銃を引き抜き川口も迎撃姿勢を整えた。
「来てみろ馬鹿野郎共!」
ここに採石場の戦いの最終章が幕を開けた。それは決着まで1分に満たない戦いであった。
「Aaow!」
川口の拳銃が火を噴いた。だが寂尊は掛け声も勇ましく背面へ向かって水平移動し、回避動作を終えていた。
これこそ彼が世界を震撼させた驚異のローラースケート術――その名も「月面歩行」。
「Aaow!」
第二の銃弾が間髪入れず放たれる。
月面歩行は予備動作も無い縮地術。弾丸は空を切る。
「Aaow!」
第三の銃弾が発射される。この一矢もまた夜の陰影に呑まれた。
寂尊は地を蹴り天高く舞っていた。
坊主と警官。勝敗を分けたのは彼らの選んだ道の違いであった。
川口は寂尊が跳んだと同時、即座に腰から警棒を引き抜いていた。
空を舞い蹴る寂尊の脚を潜り抜け、刹那の後、伸び切った胴体を横薙ぎに切り払った。
宙に浮かぶ影絵が二つに切り離され、黒い血飛沫を散らし冷えた大地へ転がる。
「アハッ!」
だが、寂尊もまた「人の目を惹きつけて離さない」仕事をこなしていた。
寂尊を切り倒した筈の川口は、腹部に風穴を開け、寂尊とほぼ同時に地面へ倒れ伏していた。
二人の物言わぬ死体を見下ろし仁王立ちするは天然フラクタルパーマの影。茂木箍一郎であった。
「アハッ! 寂尊サイコー! 茂木サイコー!」
強烈なアハ体験ブーストを経て土手っ腹に拳を打ち込んだ茂木の急襲は容赦無く川口を絶命させたのだ。
「さて店主さん! 貴女の秘策もこれで終わり! 勝負アリ! アハッ!」
フラクタル頭の男がアルカイックスマイルを浮かべ月夜に立つ。その足元は羅生門。
余りの光景に女主人は青ざめた顔を更に蒼白にさせ、それでも声を振り絞った。
「ええ。勝負ありです。……私の勝ちです」
「……アハッ?」
「ありがとう川口さん。痛かったでしょうけど。お陰で……私は勝てました」
女主人と茂木はその時、明確に認識していた。
脳内で姿無き声が高らかに宣言したのだ。採石場、夢の戦い。勝者、女主人――と。
茂木は変わらず混乱したままであったが、女主人の目から見れば至極単純であり当然の帰結であった。
茂木が今、立っている場所は――川口が潜み銃口を構えていた場所は、採石場の外。
夢の戦いの試合場の場外であったのだから。
女主人が胸を抱き続けていた両腕を初めて解いた。
左手には果物包丁が握られ、白刃が鮮血で濡れ輝いていた。
その血は他でも無い、女主人自身のもの。彼女の左手小指が切り落とされ無くなっていた。
「茂木先生の脚を撃ったのは、私の指だったんですのよ」
女主人の指先が茂木に触れた。直後、茂木は目を見開き肩を震わせた。
女主人の能力の条件を満たし、茂木は全てを理解した。
「………………アハッ」
前装式の銃は、銃口に入るものであれば何であれ銃弾に変えると言われる。
女主人は予め自らの小指の先を切り落とし、銃弾として川口に渡していた。
「ア、アハハハーー! アハ! アハァ! 分かりましたァーー! これは凄い! ナイス・アハ!」
「ええ。ええ。……私の能力で、『場外負け』のルールを忘れてもらいました」
薔薇は手折られたとて薔薇の名を失わない。
余人ならばいざ知らず、女主人にとって、切り離された自分の指先もまた、変わらず己の指であった。
夢の戦いは終わり、残すは勝利の褒賞を求めるだけとなった。
勝者の瑞夢は見たいだけ。望むならばいつまでも見続けられるという。
もし己が望む世界を夢見られたならば、恐らく二度と目覚めることは無いであろう。
「いいかしら。妖精さん」
女主人は脳内に語りかける声に向かい、宣言した。
「私の見たい夢は『大好きな花と好きなだけお喋りできる世界』よ」
それは夢の戦いに臨む前から抱えていた彼女の変わらぬ願い。
「世間なんて知ったことじゃないわ。社会なんて知らないわ。私は私の夢を見るのよ。夢だってことも忘れてやるわ。もう二度と私がやりそうにないことと一緒に、もう二度と思い出さないように忘れてやるわ。何も残さず、夢の中で幸せに暮らすの」
願いを言い終え、女主人は逆手に持った包丁を握る左手に力を込めた。
直後、刃は過たず彼女の喉笛を刺し貫いた。
「ほらぁ! 起きてー起きてー!」
机に突っ伏し寝ていた女主人は驚いて上体を起こした。
自分を覗き込む幼馴染の顔を間近に捉え、眼尻を下げる。
「御免なさい。寝ちゃってたのかしら」
女主人は周囲を見渡した。都心から少し離れた山間のベッドタウン。そこに造られた新興住宅街の緑地公園。
その広場の休憩所で、女主人と幼馴染と、二人はピクニックをしていたのだった。
「いいお天気だねぇ」
「本当にね。これじゃあ眠くなっちゃっても仕方ないわよね」
「そうだけどー。今日はお店に入れた新しいお花を見せてくれるって約束でしょ?」
「ええ。そうね。そうだったわね」
女主人は立ち上がり、うんと声をあげて伸びをした。
「それじゃあ、行きましょう」
「うん! よーし! しゅっぱーつ!」
肩は並ばずとも歩調を合わせ、二人は芝生を踏み分け並び歩きだした。
「そうそう。大人って何だって話の途中だったわね」
「あれ? うーん、そうだったっけ?」
大切なことを思い出したと女主人は足を止めた。
「私にとって大人っていうのは――そうね。よく言うでしょう? アレよ」
「アレ?」
「――子供らしさが死んだ時、残された死体を大人と呼ぶのよ」
「何それぇ! 聞いたことないよー?」
「さあ! きっとびっくりするわ! 凄く素敵なお花達が待っているわよ!」
二人の姦しい声は丘の上から長く梢の葉を震わせ続け、やがて消えた。
人影の無くなった丘の上。
一匹の白い蝶がひらひらと舞い降り、二人の残した花と土の薫りに誘われ丘の向こうへと姿を消した。
この後、女主人は夢の中でどう暮らしたか。
きっと幸せに暮らしたと、或いはいつか目を醒ましたと信じてみたいかもしれない。
だが、彼女の未来を追い続けるに、ここは余りに紙幅が足りない。
<了>