大鋸草菊 プロローグ

窓から見える空もすっかり赤く染まり、既に下校する生徒たちも疎らになっていた。
大鋸草菊は読んでいた本を棚に戻すと、彼女も下校するために図書室の出入り口に向かった。

「くーちゃんもまだ学校にいたんだ」

図書室の扉に手をかけようとすると、草菊は後ろから声をかけられた。
黒い髪に花飾りをつけた、白を基調としたドレスを着た少女。クラスメイトで友人の朝木水仙だ。
彼女も、図書室で本を読んでいたらしい。

「最近、この辺物騒なんだよ。この前も不良グループが全員ボロボロにされて倒れてるところが見つかったんだって」
「へえ、そうなんですか」
「なんかね、みんな生きてるのが不思議なぐらい滅茶苦茶で、ネットだとどこかの研究所から逃げ出したバイオゴリラの仕業なんじゃないかっていううわさまで流れてたり」

被害者の両手両足の骨がすべて砕かれていたり、現場の周囲にあった標識が折れ曲がっていたり、明らかに常人が行ったものではない。
警察は魔人の犯行ということで捜査をしているらしい。

「それは怖いですね。ただ、誰も死んでいないのが幸いです。人が死ぬのはとても悲しいことですからね」
「でしょ。だからね、一緒に帰ろ。人気の少ない道も通るし、危ないから」
「かまわないですよ。特に用事があるわけではありませんし」
「よかった。断られたらどうしようかと思って」

水仙は草菊の返答を聞いて安堵の表情を浮かべる。

「何を言ってるんですか、水仙。私たちは友達ではないですか」

当然のことだと言った様子で草菊が言った。
そのあと二人は授業のことや好きな本のことなど他愛のない話をつづけながら下校の途についた。

二人ともこの時はあんな事件に巻き込まれるとは思っていなかったのだ。




日が暮れて、辺りもすっかり暗くなり、空にはすでに月が昇っていた。
大通りから少し離れた小路で柄の悪いチンピラたちが二人の少女を取り囲んでいる。
周囲は人通りも殆どなく古びた街灯と空に輝く星と月だけが彼らを照らしていた。

「やめてよ」
「へへへ、いいじゃねえか。減るもんじゃねえんだし」
「そうそう、俺たちといいことしようぜ」

少女は水仙と草菊である。
チンピラたちはこの辺では悪名高い不良集団だ。少し離れた位置にハイエースの車体も見える。
そのまま連れ込んで乱暴するつもりなのだ。
男がハイエースに引っ張り込もうと水仙の手を掴んだ。

「放して!放して!」

水仙が男の手を振りほどこうとする。が、所詮ひ弱な彼女の力では男の力に逆らえない。
それでも抵抗を続ける水仙をチンピラの一人が殴った。
殴られてふらついた水仙がそのまま尻餅をついた。

「痛い」
「へへへ、無駄な抵抗するからだぜ。大人しくしてりゃあ痛い目に合わずにすむんだ」
「そうだぞ、へへへ」

下卑た笑いを浮かべる男たち。

「そっちの嬢ちゃんはどうだ」

男が矛先を草菊に向ける。もちろん彼女の意思を本気で尊重する気など毛頭ない。
あくまで自分たちに逆らったらどうなるか理解したかという確認だ。

「いいですよ」

それまでずっと黙っていた草菊が口を開いた。

「私と楽しいことをしましょう」

草菊が嫣然と笑った。
尻餅をついたままの水仙は彼女の言葉を聞いて「えっ」と驚いた。草菊は恐怖に屈しておかしくなってしまったのかと思った。

「大丈夫ですよ、水仙。死ぬことはありませんから」

心配そうに草菊を見つめる水仙を励ますかのように草菊が言った。

「へへへ、そっちの嬢ちゃんはわかってるじゃねえか」
「そうそう、素直にそういえばいいんだよ」

チンピラたちは草菊の言葉を聞いて笑っている。

「じゃあさっそ……」

草菊の一番近くにいたアロハシャツを着たチンピラが草菊の肩に手をかけようとした。

だが、次の瞬間、そこに立っていたはずのチンピラの姿が消えていた。
そして、何かが何かにぶつかったような轟音が周囲に響き渡った。

何が起こったのかその場にいた誰もすぐには理解できなかった。
拳を返り血で真っ赤に染めた草菊以外は。

「あはははははははっ、やっぱり気持ちいいものですね。血の香りって」

楽しそうに笑う草菊。彼女の視線の先ではアロハシャツの男がビルの壁に突き刺さっていた。

昔から血が見たいという衝動が抑えられなかった。血の匂いを嗅ぐと官能がうずいた。
誰かを殴りたかった。誰かにこの衝動をぶつけたかった。
春情に身を任せたかった。
でも、

「でも、私怖かったんです、人を殺してしまうのが」

人間は、いや魔人すらも彼女には脆すぎる。手加減をしないと簡単に死んでしまう。
衝動のままに生きるには草菊は強すぎた。
だからずっと我慢していた。

「たとえ悪人だとしても、人が死んでしまうのはとてもとても悲しくて。ほら、貴方達も死にたくないですよね」

友人でも、敵だとしても、クズだとしても、外道であっても。
たとえそれがだれであっても人が死んでしまうというのは悲しい。
死んでしまったらそこでおしまいだ。可能性をそこで終わらせたくない。
大鋸草菊は“心優しい少女”なのだ。

「でも、安心してください」

どうして人は死んでしまうのか。人が死ななければいいのに。

―――人を殺せなければいいのに。

そう思ったとき、彼女は魔人になっていた。


「貴方達は私が何をしても死ぬことはありませんから」

それはただ人を殺せないというそれだけの魔人能力。
魔人能力としてはランクE(さいじゃく)に分類されるだろう。
だが、それでよかった。
だって、それこそが彼女が最も求めていたものなのだから。

「安心して私と楽しみましょう」

草菊が狂気を湛えた瞳で艶笑を浮かべる。彼女の心は多幸感に満たされていた。

「……ひっ」
チンピラの一人が恐怖から後ずさりした。そのまま恐慌に駆られてその場から逃げ出そうとする。
だが、結果としてそれはかなわなかった。

逃走した彼の背中には草菊が投げた消火器が直撃していたからだ。

「あはははははっ、どうしたんですか?貴方達が私を誘ったんですよ。逃げるなんてひどいじゃないですかぁ」

草菊が笑いながら、倒れたチンピラに近づいていった。そして、消火器を受けて悶絶していた彼の顔面を思いっきり蹴る。
闇夜に顎が砕ける音が響いた。

「もっと私を楽しませてくださいよぉ、ほらほら」

挑発的にそういうとさらに頭部を踏みつける。頭蓋が砕ける音。
そしてさらにもう一度踏みつける。さらに骨が砕ける音。
すでに普通なら死に至るほどの打撃が加えられている。
だが、彼は意識は失っているが、死んではいない。
生命賛歌とはそういう能力だからだ。

「ふざけてるんじゃねえぞ、クソガキィィィ!!」

部下を痛めつけられたリーダーと思しき入れ墨男が懐から拳銃を取り出した。敵対グループとの抗争に備えて準備していたものだ。
持っててよかった拳銃。

「あはっ、面白そうな拳銃(おもちゃ)をもってるじゃないですか。そうこなくっちゃいけませんね」

黒光りするものを見て、興奮したのか草菊の息が徐々に荒くなっていく。だが、恐れている様子は全くない。
それどころか彼女の声は弾んでいた。

「いくらてめえが魔人でもこいつなら…!死ねっっ!!」

入れ墨男が引き金を引いた。銃声が夜の闇を切り裂いた。
だが、弾丸が草菊を捉えることはなかった。
回避していたからだ。それが当然であるかのように。

「クソッ!なんなんだよお前ッ!死ねッ!死ねッ!死ねッ!死ねッ!死ねッ!」

入れ墨男が銃を乱射する。だが、弾丸が草菊を捉えることはない。
全て華麗に避け続ける。舞台で舞う踊り子のように。

「あはははははははっ!どうしたんですか?私はこっちですよぉ?」

草菊がまるで遊園地のアトラクションで遊ぶ子供のように楽しそうに笑った。

「化け物ッ!死ねッ!死ねッ!死ッ。クソッ!」

当然のことながら拳銃の弾丸は無尽蔵に存在するわけではない。
拳銃を撃ちつづけた結果、入れ墨男のついに弾切れを起こした。
彼にはもう身を守るすべがなかった。

「あれっ、もう終わりですか?」

草菊が拍子抜けだといった様子で小首をかしげる。その姿は無邪気な子供のようだった。

「じゃあ、こちらの番ですね」

そういうと草菊は停められていたハイエースを片手で軽々と持ち上げた。

「ま、待て!やめっ……」

彼女が何をするつもりなのか理解した男が懇願の声を上げた。

「大丈夫ですよ」

草菊が優艶に微笑んだ。何も心配することなどないのだといった様子の優しげな声で。

「死ぬことはありませんから」

そしてハイエースは無慈悲に宙を舞った。



そのあとは一方的な殺戮といってよいものだった。
抵抗するものは当然のこと、命乞いをするチンピラも全く意にも介さず、殴ったり蹴ったりした。

それでも彼らは死んでいない。
腕を逆方向にへし折られても、全身の骨を砕かれても。自動車の下敷きになっても。
たとえ彼ら自身が痛みや苦しみから死を望んだとしても。


水仙はずっと呆然とその光景を見つめていた。
最初は恐怖心から草菊を置いて逃げようかと思った。
友人のおかげで助かったのにそういう考えが浮かんだ自分のことを最低だと思った。
だが、活発艶麗な草菊の姿に釘付けになりその場から一歩も動くことさえできなかった。
そして、月に照らされる血塗れの草菊を見て思ってしまったのだ。


―――綺麗。


だと。
最終更新:2016年03月29日 22:21