「おはよう!」
鈴の音が転がるような声が教室に響く。遍く世界を照らす、柔らかな陽光を思わせる声色。
教室に居る者は、その一声で世界が色彩を取り戻したような感覚さえ覚えるだろう。
爽やかな小春の風が木々の緑を揺らし、授業前の憂鬱をも吹き飛ばすような。
枝葉に泊まる小鳥達は盛んに春を囀り、世界が今日も平和である事を謳う。
長閑で平穏な一日の始まりだ。
「おはよう清音!」「オハヨ!」「おはよーモズー」
百舌川清音の友人――つまりクラス全員だ――が口々に挨拶を交わす。
少女は一人一人丁寧に返答していく。挨拶は人間関係の基本である故、
彼女がそれを疎かにする事は無い。クラス委員長である百舌川が、毎日行う行事である。
その内、彼女は机に立てかけられた松葉杖に気付いた。
病気で長期欠席していた平本歩の席である。
「おはよう、百舌川。今日からまたよろしくな!」
「――おはよう、平本くん」
彼もまた、周囲と同じく快活に呼びかけが、返す百舌川の挨拶は歯切れが悪い。
それも無理からぬ事であろう。平本少年の長期欠席の原因は、
百舌川にあると言って過言では無いからだ。
「体の方はもう大丈夫なの?」
「ああ、ちょっと左半身が痺れるけどな。授業を受けるのに支障は無いさ」
平本はぷらぷらと左手を振って見せる。
彼の利き手は右であるから、確かにノートを取るに支障は無いだろう。
「……ごめんなさい、平本くん。正月だからって私がおせちなんか作らなければ、あんな事には……」
「もう気にすんなって。俺なんかまだ良い方さ、こうやって学校に出てこれたんだから」
そこまで言ってから、平本は失言に気が付いた。
確かに百舌川のおせち料理(と称する形容し難い何か)を食した生徒の中には、
未だに病院のベッドでうわ言を繰り返しているヤツも居る。
だが、だからと言ってそれをここで仄めかしては嫌味と取られても仕方が無い。
「あ、いや……なんつーか、とにかく俺は百舌川を責める気なんて無いよ。そこは分かってくれ」
「――うん、ありがとう。平本くん、優しいね」
ぽんわりとした、陽だまりのような笑顔を浮かべる百舌川。
ああ、この顔だ――と、平本は思う。この暖かな笑みの為なら何も惜しくは無い。
例えかのおせち料理(と百舌川が呼称するドブのような何か)によって8人が死亡し
23人が精神と肉体に重篤な瑕疵を負ったとしても、この笑顔が守られるならそれは瑣末な事では無いか。
「おいおい平本ー、退院早々良い雰囲気作ってんじゃないぞー?」
「そうだよー、モズはあたしのモノなんだかんね!」「いやいや、クラスの共有財産だろ」
わいのわいのとクラスメイト達が好き勝手に囃し立てる。
百舌川も目尻に涙を浮かべて笑っていたが、不意に何かを思い出したように鞄を探り出した。
「ん、どうかしたか百舌川。珍しく忘れ物か?」
「ううん、実は平本くんに渡したい物があって。ちょっと遅れちゃったけど……」
【それ】を百舌川が取り出した瞬間。
弛緩していた教室の空気が一瞬にして張り詰めた。
「はい、バレンタイデーのプレゼント。あっ、一応その、義理なので……気軽に食べてね!」
百舌川が差し出したのは丁寧にラッピングされた菓子袋である。
可愛らしくも洗練された包装は、男女の別なく送られた相手の好感を呼ぶものであっただろう。
その中身が、限りなく黒に近い紫色の液体で、常温にも関わらずぼこぼこと音を立てて沸騰していなければ。
「ア……ア……」「ひ……ッ!」「あ、ああ、そんな……!」
生徒達が【それ】を認識したと同時に、太陽は忌むべき物を避けるように雲間へと身を隠し、
春風は木枯らしの如き寒々しさへ変貌し、木々や緑は枯れ、鳥達は金切り声を上げて我先に安全圏へと飛び立った。
少年はさながら爆発寸前の水素爆弾を差し出されたかのように、
蒼白の面持ちで脂汗を流し、合わぬ歯の根を噛み締めていた。
多少の差はあれ、他の生徒達も同じ様相である。無理からぬ話であろう、
1-C生徒の誰もが恐れていたバレンタインデーという行事を、奇跡的に無傷で乗り越えた矢先の不意打ちであった。
平本は生唾を飲み込み、引き攣った笑みを浮かべる。
ここで返答を間違えれば待つのは破滅。それは平本個人の死などという生易しいものでは無い。
百舌川を除く1-C全員――あるいは希望崎学園そのものが消失する。今がその瀬戸際なのだ。
「う――嬉しいよ百舌川。うん、ありがたく頂こうかな、は、ははは、はは」
「えへへ、結構自信作なんだー、それ」
それは大量破壊兵器としての話か、というツッコミを喉元で抑え、
平本はおそるおそる常温沸騰する液体の入った袋を受け取った。
読者諸兄の中には自分の料理で8人も病院送りにしておいて、その被害者の快気祝いに手料理を送るとは
どういう神経してんだスカタン、てめえの面の皮は百科事典並か――と思われる方も居られるやもしれない。
だが彼女の名誉の為に付け加えるならば、彼女の認識する世界に置いて彼女の料理は至極正常なのである。
故に彼女は自身が魔人であるという事すら知らない。彼女の料理が引き起こす惨劇も、その原因に気付く事は無い。
想像して欲しい。普通に作って出来たナポリタンが高レベルの放射能を有すると思うだろうか。
ハンバーグが治療法の無い未知の疫病を蔓延させると考えるだろうか。そういう事なのだ。
「ち、因みに、これは……何?」
「えっ?チョコクッキーだけど……?」
――チョコクッキー!
驚愕と恐怖を伴うざわめきがさざ波のように教室に伝播した。
チョコクッキー、チョコクッキーである。百舌川はこのドブ川の汚泥を掬って煮詰めたような色をした、
マグマのように沸騰し続ける液状の何かをチョコクッキーと呼称したのである。物質の三態すら定かでない。
平本は死体の腸を思わせる不気味な質感と温度のそれを手にしたまま、ただ能面のような笑顔を浮かべるしか無かった。
絶望のあまりその場にへたり込み、失禁する生徒も少なくない。
「ウワアアアーーッ!!」「キャアアアア!」「な、中田が落ちたーーッ!」
恐怖に耐え兼ねた生徒の一人がベランダ側の窓をぶち破り、校庭へ転落した。
パニックは枯野に放たれた野火の如く広まり、生徒達は堰を切ったように出口へと駆け出した。
4階にも関わらず窓から脱出を試みる者が多いのは、廊下側の席に座る平本の持つ
チョコクッキー(と称する世界を終わらせる可能性を内包する何か)に1ミリたりとも近付きたくないからだ。
当の百舌川はクラス委員長らしく混乱を収めようと宥めにかかるが、元凶たる彼女の言葉を聞く者など居ない。
程なくして教室には百舌川、平本、そして両者と特に仲の良い友人数名が残るのみとなった。
「あ……あの、これってやっぱり、私のせい……なのかな」
自身の料理とそれが引き起こす結果を結び付けられない百舌川も、これ程の事態となっては流石に異変を感じる。
おせち事件も明確に自分の料理の所為とは考えていないが、
料理を作った事で何かバタフライエフェクト的に不幸が重なったかも知れない、とは薄々思っているのだ。
平本としてはやっぱりもクソもお前しかあり得ねーだろボケナスと思わなくも無いが、それを口に出す事は無い。
彼女は純粋に退院を祝う気持ちでチョコクッキー(と百舌川が呼称するこの世の怨念の集合体みたいな泥水)を
作ってきたという事を知っているからだ。料理を除けば、本当に完璧な美少女なのである。
ただ料理の出来が彼女の持つ長所全てを帳消しにしてなお有り余るだけなのだ。
「――そんな事ある訳無いだろ。お前はチョコクッキーを持って来た、ただそれだけじゃないか」
有体に言って彼は百舌川に惚れていた。クラスの男子の殆どがそうであるように。
だからこそ退けなかった。惚れた女が今にも泣きそうな笑顔で戸惑っている所に、
慰めの声をかけない男があるだろうか。そういった場面に直面した際、
平本は悲劇的なまでに男前な精神構造を有していた。
少年はリボンの封印を解き、チョコクッキー(チョコクッキーだ)の包装を広げた。
無臭であるのが逆に恐怖心を煽る。
「平本ーー!やめろ、それだけは!」「よせっ、お前も死ぬぞ!」
液体なので、袋の淵に口を付けて呷る。止めようとする友と、それを止める友。
涙目で平本を見つめる百舌川。最期に思う、父と母と幼い妹の事。
平本は強く目を瞑り、冷たく沸き立つチョコクッキーを口内へ流し込んだ。
その後の出来事を詳細に記す術は無い。
少なくとも文章では不可能だ。どんなに精緻な絵画でさえ現実を写し取る事は至難であるというのに、
いわんやそれを文字の上で表現するなど。
ただ事実を事実のまま描写するならば、1-C教室は永遠に封鎖された。
教室を脱出した生徒が教員に事態を告げると、異様なまでの迅速さで政府の役人を名乗る男達が派遣され、
魔人能力によって1-Cを物理的に封鎖したのだ。“普通に”脱出してきた百舌川を除く、
1-Cに残っていた生徒数名を残して。
教室の中で何が起きたのか、生徒がどうなったのか、知る者は居ない。
いや、正確には百舌川は知っている筈だが、彼女はこの件について完全に口を閉ざしている。
石棺の如く塗り固められた1-C教室は、時折中から引っ掻くような音が聞こえる以外に変わった様子は無く、
希望崎学園は今日も喧騒に塗れた日常を謳歌している。