女主人 プロローグ

薔薇に棘あり――そんな言葉があります。その言葉に似つかわしい、一人の女性のお話です。




十五年以上も昔のこと。二人の中年紳士が花に飾られた料理屋で談笑をしていた。
テーブルの横に立つ女店主に向かい、より年配の紳士が言う。

「独り身ですか。勿体無い。私に妻や娘がいなければ立候補したいくらいだ」

眉尻をやや下げて、僅かに首を傾げながら笑って話を聞く女店主の様子に、紳士はフォローを続けた。

「しかし独り身を続けるというのも親孝行かもしれないね。少なくとも父親にとっては」

やや歳若いほうの紳士が、それはどういう意味ですかと疑問を投げた。

「娘が結婚をしないと不安だというなら分かりますが」

老紳士は答える。

「娘の結婚式というのは酷く泣けるんだよ。あれほど哀しい思いをしたことがあったろうか」

老紳士の言葉の熱に惹かれたのか、女店主も身を傾けてその熱弁を見守っている。

「娘が実家から離れて一人暮らしを始めたとか、男を連れ込んで自堕落な学生生活をしていたとか、
 そんな時は哀しいとも思わなかった。けれど結婚だけは違った。
 距離が離れたとか、親より男友達を優先しだしたとか、そんな即物的なものじゃない。
 娘の魂が自分の手元から離れていってしまったんだなという実感が結婚式では襲いかかってきた。
 私は年甲斐もなく泣いてしまったよ。
 ――あの哀しみを親に与えないというのなら、それは立派な親孝行じゃないかってね」

相方の紳士がなるほどと頷く。

「価値観というのは人それぞれですしね」

老紳士は笑いながら、お前も娘の結婚式では絶対泣くぞと釘を刺し、グラスを呷った。

その時、カウンターの奥で電話が鳴った。
にこやかに話を聞いていた女店主は失礼しますと一言断りその場を離れた。

料理上手で気立てよし、しかも美人と三拍子揃っていれば、付き合う相手など星の数と言えよう
この女店主であるが、独り身でいるのには他人に秘する理由があった。

それでは閉店後に、と電話口に向かって告げ受話器を置いた女店主。
その電話の先にあるものこそが、彼女の『秘密』であった。


――――――


閉店時間はとうに過ぎた夜半。店内の奥まった座席ひとつだけに灯っていた明かりが消えた。
ほどなくして店の入口の扉が開き、一人の影が路上に出た。
軽トラックのエンジン音が湿った深夜の空気を震わせ、見送った女店主は静かに扉を閉めた。

他人の目に触れることのない、窓もない部屋に戻ってきた女店主は長いため息をついた。
部屋の中央には深夜の来客が持ち込んだ、大人がすっぽりと入る大きさの木箱が置かれていた。
荒削りの板切れを張り合わせたその箱の蓋にかけられた女店主の白い手は小刻みに震えていた。

箱の蓋が開けられる。
中を覗き込んだ女店主のその時の表情は、眉ひとつ動かず、唇ひとつ動かず、頬ひとつ動かず、
強張っているとも、弛緩しているともいえない、感情を全て削ぎ落とした能面のようであった。

およそ一分、微動だにせず箱の中身を見据えていた女店主であったが、壁掛け時計の長針がカチリと
時を刻むと、その音に魂を呼び戻されたかのようにビクリと肩を震わせ、みるみると様子が変わった。

赤らんだ頬に短く浅い呼吸を始め、額に珠のような汗を滲ませたかと思うと、突如、身をよじった。
喉の奥からひゅうひゅうと呼気を漏らし、纏っていた洋服が肌に張り付くほどに冷や汗を流しながら、
女店主は部屋の隅に寄せられていたテーブルからハンドタオルを掴むと口元へ押し付けた。

ぎゅっと瞑られた目じりから大粒の涙を幾筋も流れるままに、震え続けること暫し――。

落ち着きを取り戻した女店主は長く息を吐き、立ち上がった。
水差しからコップへ水を注ぎ、ゆっくりと喉の奥へ水分を流し込み、ようやく再び箱へと向き直った。

「みっともない姿を見せちゃってごめんね」

店で客に聞かせるどのような声音よりも優しい口調で女店主は箱の中へ語りかけた。

声色に反し、女店主の様相は酷いものであった。
服は濡れそぼりシワがよって肌が透け、乱れた髪は額や頬に張り付いたままであった。

赤らめた頬は熱を帯び、脱力した口の端はわずかに開き、そこから先程口に含んだ水がつうと垂れた。
汗が浮き絹を思わせる光沢の首筋を辿り、浮き出た鎖骨を迂回し、雫は胸元の陰へと消えていった。
それら全てを気にも留めず、女店主は箱の中へ両手を差し伸べて笑いかけた。

「歓迎するわ。勿論。勿論。今日からずっと一緒ね」

そう言って箱の中へ身を沈めていった。
この箱の中身こそが、彼女の『秘密』であった。


――――――


「山崎さん。刑事さんですか」
「すみませんね。お邪魔しちゃって」

その日、女店主の店へ思わぬ客が訪れた。
以後、女店主から安らぎの時間を奪い去る事となる、不吉の鐘を鳴らしたのは二人組の刑事であった。

「ザキさん、顔が怖いんだから店主さん可哀想ですよ」
「お前は鼻の下伸ばしてないで仕事しろ」
「いや、そんな、怒らなくとも。店主さん綺麗なお店ですね」

山崎と名乗る恰幅のよい男は、丸い顔を皺いっぱいの笑顔でくしゃくしゃにしながらも、
細い双眸は女店主を射竦める程の輝きを覗かせていた。
上背は無いが首元まで盛り上がった肩と潰れた耳、節くれだった指は男の戦歴を物語っていた。

それに連れられているのは新米なのか、まだ若い男であった。
店を訪れ、女店主の顔を見るやだらしなく笑い、以降は落ち着かない風で店内を見回していた。
背は高いが、泳ぐ視線や所在無さげに手足をふらふらとさせる様はなんとも頼りない雰囲気だ。

「あの、私、確かにこの人にはよくお世話になっていますが」
「はい。それが、その写真の御仁ね。ちょっとドロンしちゃいまして。行方不明ってヤツです」
「まあ」
「足取りを追ってましたらどうもドロンするちょっと前にこちらへ来てると分かって」

日付や時刻、細かな情報の確認に手帳へ視線を落とし、女店主の顔へと戻し、山崎の口調は軽妙だった。

「ええ、その日は夜にお店に来ていただいて、お夜食をお出しして別れました」
「何か変わった様子はありませんでしたか」
「仕事帰りでだいぶお疲れだったみたいですが、それ以外は、これといって」
「店主さん。その人、そんな時間にお店に上げるなんてもしかして」

話に割って入った若い男の言葉に、山崎は「余計な事は聞くな馬鹿」と拳骨を返し、女店主は苦笑した。

「ガーデニングでお世話になっているんです。ほら、このお店はお花がいっぱいでしょう」
「ははあ。この御仁は造園と生花を扱っているんでしたな。それで親しくされてたと」
「珍しいお花も届けてもらったりして、助かっているんです。その時も生花を車で届けていただいて」
「では、店主さんは特に何も知らないということで」
「はい。お役に立てずすみません」

――話を終え、店を後にした山崎は「で、どうだった」と相棒に向かい顎をしゃくった。

「美人でいいっすねえ。俺も花とか届けたいっすよ」
「真面目にやれ馬鹿」
「ああもう、ザキさん拳骨は勘弁ですよ。はい、店主さんはシロですね。なんも知りません」

二人組の刑事のうち、この一見すると頼りない優男、実のところは魔人能力者であった。
『公務であれば他人の記憶を読める』面倒臭い制約の能力を持つこの男は、山崎の頼れる相棒であった。

彼らが女店主に語った内容は事実のごく僅かな断片であり、彼らが追っていたのは殺人事件であった。
切り落とされた手足だけを残し、行方不明となった被害者の胴体の探索をしているところであった。

「よし。次行くぞ」
「今度はあのお店、仕事抜きで行きたいもんっすねえ」
「見栄張ってどうすんだ安月給。やめとけやめとけ」
「あっ、ザキさん俺の実技の点数知ってるっしょ。そんな事は言いっこ無しっすよ」
「実技が良けりゃなんだってんだ」
「ほら、俺のピストルで彼女のハートを射止めるって」
「馬鹿。上手いこと言おうってんならな、それこそああいうのを高嶺の花って言うんだよ」
「ザキさんそりゃないっすよお」

女店主が本当はその殺人事件に関わる重要な人物であった事実は、
立ち去る刑事達も、この時の女店主自身もまだ知らない話であった。


――――――


刑事達が帰ったその日の晩。女店主は日課である花壇への水やりの最中に変化は訪れた。

「ああ」

霧吹きを片手に、女店主は突如として感嘆の声をあげた。
彼女は思いだした。自分が自分の能力により忘れていた、『あの日のお遣い』の内容を。
刑事達の聴取を掻い潜り、秘する事に成功した己の『秘密』を。

「そうだったわ。そうね」

女店主は水やりを終えると調理場に寄り、西瓜と包丁を手に奥の部屋へ向かった。
部屋に置かれた四角い箱の暗幕を退け、ガラス製のショウケースを剥き出しにすると、
ケースに備え付けられた機材を確認し、ケース内の湿度や温度が問題無い事実に息を吐いた。

「寂しかったわ。貴女を忘れている間、すごく寂しく仕事をしてたの。
 早くずっと一緒にいたいけれど、もう少し時間が経つまでは念の為にね」

ケースの中へ語りかけながら、女店主は脇のテーブルで西瓜に包丁を入れた。
サクリと半分、黄色い果肉の種なし西瓜が瑞々しい断面を覗かせる。
転がらないよう、断面の裏側の皮を軽く削いで平らにして、女店主はサクサクと飾り包丁を入れる。

「黄色いお花だと別れ際のプレゼントになっちゃうからお店じゃ出せないけど、
 赤い西瓜は私のお店に置いてないから――さあ! 今日の歓迎の一品は西瓜の薔薇です!」

二つの大輪の薔薇を作った女店主は、その一方をケースへ差し出し、苦笑して話を続ける。

「あの人には悪い事をしたかしら。貴女を送り届けてもらったのに。
 『私が頼んだ』って事、忘れたまま事件に巻き込まれたのかしら。ちょっと可哀想ね。
 貴女を運んだせいで厄介事を背負ってたらと思うと申し訳ないけど。
 でも、そうね。無関係である事を祈りましょう」

返事の無いショウケースへ語り続ける女店主は、最後に西瓜を口にして言った。

「それじゃあ今夜も、貴女と私の夜に――乾杯」

彼女の瞳の先にあったものは、ひとつの花であった。彼女の好きな花であった。
特別に華美でもない、もし路傍に佇んでいたならば十人が前を通り、一人二人がふと振り返る、
ありふれた素朴さの花であった。

ただ、彼女にとってはその花は何よりも愛しいものであった。
一目惚れか、余人には分からない想いがそこにはあった。
彼女は花が好きで、その一心で花を手元に置いた。

だが、そこにひとつだけ問題があった。その花の所持は法律で認められていなかった。
ケシや大麻といった規制のかかる植物と同様、単純所持が違法となる花であった。
それでも欲しいという想いで、仕事で生花を扱う知人に密かに運ばせたのが彼女の『秘密』であった。

「ああ、ああ。美味しいわ。素敵な夜ね。とっても素敵」

やがて女店主は知る。その花を運んだ人物が死んだ事を。
その花を運搬する仮定で、無理を通す為に買った恨みにより殺された事実を。
それを知り、以降十五年以上もの長きに渡り、自分も殺されるのではと恐怖に怯える日々を過ごす未来を。

しかし、その日、その夜、その一時だけは、純粋に愛する花の事だけを考え、彼女は幸せの絶頂であった。
先を考えず、子供染みた衝動でただただ花を愛する事だけを考え続けた一人の女性。
彼女が夢に描く風景は子供の頃から大人になった今でも変わらずただひとつ――お花の天国であった。




薔薇に棘あり――そんな言葉もあります。主に使われる意味はふたつあります。
「綺麗な女性も恐ろしい内面を持つ」「欠点の無い人などいない」。
貴方の目に、彼女の『秘密』はどう映ったでしょう。

棘と言われて身構えず、手を伸ばしてみたならば。或いは素敵な花が手に入るかも知れませんよ。
最終更新:2016年04月03日 05:09