第1試合SSその1【不幸という名の楽園】

【不幸という名の楽園】







「だあああ! 追いかけてくんじゃねー!」

 五月女の叫びは、空しく熱帯雨林のジャングルに響いた。
 懸命に走る彼を、ゴリラの大群がウホウホと追いかける。古今東西各国から取りそろえた、より取り見取りのゴリラ達だ。五月女は完全に涙目である。

 今回の戦いにおいて、五月女の不幸はとどまるところを知らなかった。
 あれほど大々的に対戦相手を募集したのに、芳原梨子なる相手は名乗りをあげなかったこと。
 ならば夢の中で説得すればいいと思ったものの、戦いの舞台であるジャングルには、無数のゴリラが蠢いていたこと。
 ゴリラに話が通じないこと。
 五月女が、ゴリラという動物が死ぬほど嫌いであること。
 対戦開始の時点で、既に不幸のオンパレードである。

「それにしても、多すぎだろこれ……!」

 ジャングルは、完全にゴリラの海だった。
 中には、ジャングル特有の生物であるザトウクジラに呑まれるゴリラや、ジャングル特有の生物であるマンモスに踏みつぶされているゴリラなどもいる。
 完全に、生態系におけるゴリラ許容量を超えている。

 その数、約20万ゴリラ。

「ジャングルって、こんなにゴリラがいるもんなのか……? いや、んなわけねえよな」

 だとしたら、これは敵の能力の可能性がある。そこまで考え、五月女はふと思い出した。
 自分は、こんなことができる能力者を、ただ一人だけ知っている。

 ふんがーどんがーふんがーどんがー。

 五月女の耳に、間の抜けた行進曲が届いた。
 音の先に視線を向けると、そこには、ゴリラの海をモーゼの如く切り開き、ゴリラ一個中隊を引き連れ歩く女の姿。

 その姿を見た瞬間、『無色の夢』で知った対戦相手の名が、10年以上前の淡く切ない思い出に繋がった。
 ゴリラ・モンキーチンパン……芳原梨子。
 五月女のゴリラ嫌いの原因にして、初恋の人である。




【残ゴリ数:20万匹→18万8564匹】




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 五月女が高校生のころ、1か月だけ五月女の隣家に住んでいた、中学1年生の少女がいた。
 少女は太陽のような元気さと、わけ隔てない優しさを持ち合わせていた。
 その輝くような笑顔は、生きることを心から楽しんでいるような、子どものような純粋さを感じさせた。
 少女は、五月女の心を一瞬で奪っていった。

 だが、別れの時も早かった。
 少女に魔人能力が発現し、その時の暴発により、近隣一区間にゴリラ・パンデミックを引き起こしたのだ。
 梨子が能力を解除し、ほとんどのゴリラは人間に戻った。しかし、やはり周りの目が痛かったのであろう。12歳の梨子は、ゴリラ化した父親に手を引かれ、引っ越していった。

 隣家に住んでいた五月女もまた、パンデミックに巻き込まれてゴリラになり、それが今でもトラウマになっている。
 それでも、梨子に感じた淡い恋慕の情は、時を重ねても色あせることなく、五月女の心に秘められていた。

 そんな梨子と、争うことが約束された夢の戦いで再会を果たすとは、何の因果だというのか。

 五月女にとって、芳原梨子が対戦相手だったことが、最大の不幸であった。




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「梨子ちゃん!」

 五月女が声をかけると、梨子の周りのゴリラ達が、鼻息荒く五月女を睨み付けた。
 と同時に、ジャングル特有の生物であるプテラノドンが、ゴリラ達に襲い掛かった。
 その強烈な急降下攻撃に、ドラミングやゴリラパンチで応戦するも、敵は空中だ。地を這うゴリラ達には、手も足も出ない。これには、ゴリラも苦笑い。
 大自然の生態系ピラミッドに、ゴリラ達はなすすべもなく惨殺されるのであった……。

 それはともかく。

 五月女は、目の前で行われた過酷な生存競争に若干引きながらも、気を取り直して梨子に近づく。
 梨子は五月女が誰だかわからない様子で、クエスチョンマークを2,3個飛ばした後、合点した様子でポンと手を叩いた。

「サンダー・ゴルルコビッチ大佐じゃないですか! 南極で、サーベルタイガー部隊に野営地を爆破されて以来ですね! あれ、右足は義足ですか?」

「うん、それ絶対違う人だね」

 いったい、どんな人生を送ってきたんだこの子は。

「俺だよ。君が中学1年生の時、隣に住んでた五月女水車」

「あー! 水車にいちゃん! お久しぶりですー! お元気でしたか?」

「梨子ちゃんも相変わらず、元気そうで嬉しいよ」

 ニコニコと、心底嬉しそうに再会を喜ぶ梨子に、五月女は目を細めた。相変わらず、邪気のない良い笑顔をする子だ。変わらない想い人の姿に、嬉しさを禁じ得ない。
 芳原梨子の魔人能力、『ゴリのゴリリズム』は、芳原梨子が発した「ゴリラ」という言葉を聞くと、少しずつゴリラ化が進行していくという恐ろしい能力だ。だが、それは精神的か肉体的に弱っていなければ、無害なものである。気を張ってさえいれば、決して強い能力ではないのだ。

「いや、相手が梨子ちゃんで良かったよ。実は俺、あんまり夢の戦いに興味なくてさ。対戦相手に勝ちを譲ろうと思っていたんだ」

「えー、いいんですか!?

 ピョンピョン跳ねながら喜ぶ梨子に、五月女は久方ぶりの愛しさを覚えた。相変わらず、この子はかわいい。
 ゴリラにされたトラウマはあるが、基本的には愛嬌のあるいい子だ。こんなに喜んでもらえると、こっちも嬉しくなってくる。

「もちろんだよ。他人ならともかく、相手が梨子ちゃんなら喜んで」

「うひゃー、ありがとーございます! 水車にいちゃん、やっさしー」

「いやいや、ははは」

 梨子は、喜びの勢いのままに、ギュッと五月女の腕に抱き着いた。押し付けられる柔らかい感触。五月女は、思わず梨子の股間に尿をぶち込みたい衝動に駆られた。

「あ、じゃあねじゃあね、お礼! 水車にいちゃんは、ニシゴリラとヒガシゴリラどっちがいい?」

 懸命に悪い自分と戦っていた五月女には、一瞬問いの意味が分からなかった。

「……んん? ごめん、なんの話してんの?」

「褒章の夢で見たものは、現実世界に反映されるでしょ! だから、その時のために、なりたいゴリラのリクエストを聞いておこうかと思って!」

 五月女は、頭を殴られるような衝撃を覚えた。
 夢の戦いに臨むにあたって、五月女も出来る限りの情報収集は行ったが、そんな話は聞いたことはない。現実的に考えて、そんな出鱈目あるわけがないとは思う。
 しかし、確証はない。
 そもそも、この『夢の戦い』自体が出鱈目なのだ。さらに輪をかけて出鱈目なことがあるはずがないと、誰が言えるだろうか。
 『勝利の報酬で見た夢が現実にも反映される』可能性は、決してゼロではない。

 五月女の疑惑は、五月女自身の思い込みと深読みにより、根拠のない確信へと変わっていく。
 この時、梨子によってもたらされた根も葉もないデマゴーグは、五月女にとっては真実に足り得るものとなってしまった。

「……ちなみに、梨子ちゃんはどんな夢を見るつもり」

 不安に心臓が高鳴る中、五月女は梨子に尋ねた。安心を得たくて、尋ねてしまった。答えなんて、聞く前からわかっているというのに。

 梨子が、顔一面に満開の花を咲かせた。
 その愛くるしい少女の言葉は、五月女を絶望に追い込むには、十分なものであった。

「世界がゴリラになる夢!」

 五月女は、世界を守るために戦うことを決めた。




【残ゴリ数:19万8564匹→8万2873匹】




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 五月女が尿を漏らし、魔人能力を発動させた。一瞬にして、整った顔の美丈夫から、麗しいゆるふわ森ガール系の女子に変化する。
 どうせ、五月女が勝てば梨子の記憶は消えるし、負ければ世界は終わりなのだ。ここに至って、躊躇をしている余裕はなかった。

「うわ! 水車にいちゃん、なにそれ! すごい!」

 梨子が、驚きの声を上げる。そう、目の前に立つ人間の性別がいきなり変われば、人は驚く。それこそが、五月女の勝機。
 五月女の能力『ニューヨーク・オーシャン』は、尿という限定条件はあるものの、とどのつまりは少量の水を操る能力である。戦闘においては、心もとないものだ。

 だが、それでも攻撃手段がないわけではない。

 五月女は、尿を芳原梨子の顔面に向けて飛ばした。
 狙うは、酸欠による失神。これこそが、『ニューヨーク・オーシャン』を使った、最も確実な勝ち筋である。
 梨子は、五月女の変化にただ驚き、初めてマジックを見た子どものように手を叩く。既に五月女が敵になったことなど、知る由もない。
 今ならば、当たる。
 五月女の尿が、梨子の眼前に迫った、

 その瞬間。

「ウホオオオオ!(あぶなーい!)」

 ビチャ。

 五月女渾身の顔射は、梨子の盾となるべく飛び込んだゴリラの顔面に吸い込まれた。
 五月女は、膝から崩れ落ちた。正直、役得と思っていた。世界を守る口実で、初恋の女の子の顔面に自分の尿をかけるのだ。そんな美味しい話はない。
 その結果、ゴリラへの顔射。なんということだ。俺の期待を返せ。五月女は、本気で涙ぐんだ。
 そこに、顔を真っ赤にして頬を膨らます、梨子の怒声が響いた。

「負けてくれるって言ったのに! 水車にいちゃんの嘘つき! 極悪人! ばかー!」

 梨子が右手を高々と上げ、五月女に向かって振り下ろした。すると、梨子の背後に待機していたゴリラの群れが、津波のように押し寄せてくる。
 五月女のトラウマが刺激される。全身に、鳥肌が立った。

「ゴ、ゴリラ! こっちこないでー!」

 一糸乱れぬ隊列で迫りくるゴリラ達。並の魔人であれば、この圧倒的物量に、たやすくゴリ殺されてしまうだろう。
 しかし、五月女の動きは軽やかだった。まるで宙を舞うように、するするとゴリラの猛攻を躱し続ける。

 これは、五月女が手と足につけたプラスチック製の腕輪と足輪の力である。
 リング状のこれらは空洞になっていて、中に尿を入れることができるようになっている。そこに入った尿を操ることで通常では考えられない動きを可能にする。
 五月女は、尿を手足以上に自在に操るのだ。
 しかし、ゴリラ達もそう簡単には振り切られない。訓練された軍隊のように波状攻撃を仕掛けながら、徐々に五月女の逃げ場を塞いでいく。

「ちっ……!」

 五月女は、逃げ場を求めて空高く舞い上がった。尿を空中で操れるのだ。当然、尿を手足に装備した自分も空を飛べる。

「むむむー。空を飛ぶなんて、卑怯だぞー!」

 梨子には、当然空を飛ぶ手段などない。このまま指をくわえて見ているしかないのだろうか。

 答えは否!

「ゴリミーッド!」

 梨子が叫んだ瞬間、ゴリラ達の組体操が始まる。
 扇を模るゴリラ。飛行機を模るゴリラ。それらをウホウホと応援するゴリラ。そうさ僕らは世界に一つだけのゴリラ! 一人一人違うゴリを持つ! そのゴリをゴリすることだけに一生懸命になればいいじゃないか!
 ゴリラ達が四つん這いになり、その上に乗ったゴリラがさらに四つん這いになる。それを繰り返すことで、空高くそびえ立つ、ゴリラによるピラミッドが完成していた。

「ウッホウホウッホウホ!」

「みんな、ありがとう!」

 ゴリラを踏みしめながら、五月女に向かって猛烈な勢いで走る梨子。それに続く、ゴリラの群れ。もはや、空中に死角はない。五月女は絶体絶命だ。
 だが、五月女水車は慌てない。ゴリミッドの建設中から、既に布石は打っていた。

「チェックメイトだよ、梨子ちゃん」

 五月女の手足につけたリングには、ほとんど尿が入っていない。浮遊を保持するための、最小限の量だ。では、残りはどこにいったのだろうか。

 答えは、地面すれすれに浮く、5ミリ程度の小さな球にあった。

 成人の一回の排尿量は、約200mlから400ml。
 それが、1cmに満たない大きさに押し込まれた時、中の水圧はどれほどになるだろうか。
 五月女は、球のほんのわずかな一部分の圧力を緩くした。ぎゅうぎゅうに詰められた尿は、開放を求めてその出口に飛び込んだ。

 尿によるレーザービーム。それは、ゴリミッドの土台である、1段目のゴリラ達を無慈悲に惨殺した。

「ウホアアアアア!」

 ゴリラ達の絶叫。足場を崩された幾万ものゴリラ達も、瞬く間に地上の星となった。
 当然、芳原梨子も例外ではない。既に、ゴリミッドの高さは10メートルを超える。落下すれば魔人と言えど、無事で済むわけがない。
 ここに勝負は決した。

 そのはずだった。




【残ゴリ数:8万2873匹→2万1243匹】




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 五月女は、己の目を疑った。

 梨子は、ゴリラを2匹手に持ち、それをばっさばっさと羽ばたかせ、宙に浮いていたのだ。読者諸兄も何を言っているのか全くわからないと思うが、これが眼前に存在する事実だ。ノンフィクションは、フィクションを超えうる! それを教訓としてほしい。

 1匹のゴリラは、あまりの上下運動の激しさに、吐しゃ物をまき散らしながら「助けて……助けて……」と呟いている。もはや、ウホウホ言うことすら忘れてしまったようだ。
 もう1匹のゴリラは生気が無く、目は白濁色に濁り、一言もしゃべらない。普通に死んでるっぽい。

「ふふ、水車にいちゃん、知らなかったようだね。ゴリ剣は、ゴリラを武器とする剣道! ゴリラをうまく使えば、空も飛ぶことだって可能なんだよ!」

「いや、梨子ちゃんの言ってることが何一つわからない!」

「くらえ! ゴリラ手裏剣!」

 梨子が、吐しゃ物をまき散らしていたゴリラを投げた!
 手と足をかぎ型に曲げ、卍の形をしたゴリラが、五月女に向かって飛んでくる。明らかに顔色が悪く、今にも死にそうなのに、ちゃんと卍の形を作るとは。
 何が、ゴリラをそこまで駆り立てるのか。この異様な忠誠心こそが、戦後日本を先進国へと発展させた、なにくそ魂とでもいうのだろうか!

「ウホオオオオオオオオオオォォォォォォォォォ……」

 あっさり躱され、明後日の方向に飛んでいくゴリラ手裏剣。さらば、ゴリラ手裏剣。また会おうゴリラ手裏剣。我々は、君の雄姿を忘れない。

 梨子は、いつの間にか再度組みあがっていたゴリミッドの頂上に、仁王立ちしていた。強風にスカートのすそをはためかせ、その目には涙を浮かべている。

「なんて人! 尊いゴリラの命を無残に散らすなんて! 水車にいちゃんの鬼畜め!」

「いや、投げたの梨子ちゃんだよね!?」

「そんなド鬼畜水車にいちゃんは、このゴリラブレイドを食らえー!」

 そう叫んで、梨子は「死にたくねえ……死にたくねえ……」と呟くゴリラを手に取り、五月女に向かって振り上げた。

 その後の大空中戦は、筆舌に尽くしがたいものであった。

 梨子は、何棟も建てられたゴリミッドを渡り歩きながら、ゴリラを投げたり、振ったり、飛ばしたり、細切れにしたり、みじん切りにしたり、炒めて盛り付けしたりと、それはもう圧倒的な攻撃を放った。
 ゴリラ嫌いの五月女は、上下左右と縦横無尽に飛びながら、完全に防戦一方だ。正直、あまりにもひどいゴリラの扱いに同情していたというのもある。

 梨子は、徹頭徹尾ただはしゃぐのが楽しくてしょうがないといった様子だった。まるで、おもちゃを振り回す幼稚園児のように、なんの陰りもない笑顔を見せる。
 本当に、この子は昔から何も変わらない。

 引っ込み思案の五月女は、人生を楽しむためなら敵を作ることも厭わない梨子の姿勢に、ずっと憧れていた。それは、周りにとっては、さぞ迷惑なものだっただろう。
 だが五月女は、どこまでも自分を貫くことができる梨子を、心底格好いいと思ったのだ。
 今の梨子も、その時とまるで変わらない。これでもかというくらい全力で、人生を謳歌している。

 五月女は、この笑顔を、いつまでも守ってあげたいと思った。

 五月女水車は、改めて、芳原梨子に惹かれている自分に気が付いた。




【残ゴリ数:2万1243匹→2976匹】




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「ふわー、楽しかったー!」

 残り1棟となったゴリミッドの頂上で、梨子が爽やかに汗を拭った。息をするたびに肩を上下させる。かなり疲れているようだ。

「水車にいちゃん、すごいね! こんなにゴリ剣を躱し続けた人、今までいなかったよ」

「ふふ、梨子ちゃんもすごかったよ。まさか、あそこでゴリラをサウザンドレッシングに和えるとは思わなかった」

 五月女は空に浮きながら、乱れた髪を整えた。
 まだ余裕はある。家でいつも尿を操り、魔人能力の扱いに慣れていたことが功を奏した。継続こそ力なり、と言うやつだ。
 残ゴリも底を尽きはじめている。このまま消耗戦に持ち込めば、梨子の勝ちの目はなくなるだろう。
 事実上の、詰みだ。

「梨子ちゃん、降参してよ。これ以上やっても、この勝負は私が勝つよ」

「むぅー、それはやだ。世界をゴリラにするのー!」

 梨子がゴリラの上で、じたばたと足を踏み鳴らす。本当に、子どものまま大人になってしまったんだな。五月女は、思わず笑みをこぼした。
 しかし、梨子がこのままでいられるほど世界は優しくない。彼女もいずれ、現実の壁にぶち当たるだろう。
 この世は、楽園ではないのだ。その時、梨子は今と同じように、笑っていられるだろうか。

「梨子ちゃんさ。世界をゴリラにする以外にも、楽しいことはあるんじゃないかな」

「えー、そうかなー」

「例えば、今私と遊んでいるときは、楽しかった?」

「あー、うん! 楽しかった! 水車にいちゃんは、昔から強くて格好いいもんね!」

 今の俺には、金がある。人気芸能人と言う、地位もある。俺ならば、梨子ちゃんの笑顔を守れるのではないか。
 そうだ。この世に楽園がないならば、作ればいい。梨子ちゃんにとっての楽園を、俺がこの手で。
 それが例え、梨子ちゃんが真に望む楽園ではなかったとしても。
 俺は梨子ちゃんのそばで、この笑顔を守っていたい。

「だったら、俺のところに来ないかい?」

 五月女は、唾を飲んだ。
 生放送の舞台だって、こんなに緊張はしない。受け入れてもらえなかったらどうしよう。そんな不安と、弱気が顔を出す。
 それでも、俺は君が好きだから。

「俺に一生、君を守らせてほしいゴリよ」

 言い知れない違和感に、全身が包まれた。

 今自分は、なんと言った?

 梨子が、笑った。誕生日プレゼントが入った箱を受けとったときの、子どものように。もうすぐ、楽しい時間が訪れる。それが、嬉しくてしょうがないというかのように。

「わたしの魔人能力『ゴリのゴリリズム』は、消えることはないの。一度ゴリラになったら、解除されたように見えても、ゴリリズムの毒素は体内に残り続けている」

「ゴ、ゴリちゃん。何を言ってるウホ……」

 何を言っているのかわからないのは、俺だ。
 なんだ。なんだこれは。

「体内にゴリリズムが巣食う人は、ゴリラになりやすくなる。わたしのそばにいるだけで、ゴリラと言う言葉を聞くまでもなく、ゴリリズムの効果はあらわれるの」

 焦燥する五月女の脳裏に、ある旋律が響いた。
 CMソングとしても起用され、オリコンシングルデイリーチャートでは最高第4位を記録したあの名曲……にかなり似ている旋律が。

「ゴリリズムは、繰り返す」

 その瞬間、梨子ちゃんの体が空高く舞い上がった。
 いや、違う。
 落ちているのは、俺だ。俺の体が、地面に向かって真っ逆さまに落ちているのだ。




【残ゴリ数:2976匹→2977匹】




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 地面に至るまでの、永遠に感じるほどの一瞬。五月女は、自分に何が起こったのかを理解した。

 『ゴリのゴリリズム』は、精神的に弱っているとき、その効果を発揮する。
 今まさに自分は、緊張と、不安と、弱気に苛まれていたではないか。
 それはそうだ。初恋の女の子に告白するなんて、心臓がいくつあっても足りやしない。

 そして、『ニューヨーク・オーシャン』は、自らを女性化し、自らの尿を操る能力だ。制限として、五月女の主観で水準以上の容姿を持った女性の尿しか、操ることはできない。
 五月女は、自分の尿を操って空に浮いていた。

 『ニューヨーク・オーシャン』では、醜いゴリラの尿など、操れるわけがないのだ。

 五月女の意識が、闇に消えた。




【残ゴリ数:2977匹→2976匹】





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 五月女は、芳原梨子の膝の上で目覚めた。

 黒く柔らかな草が生えた草原は心地よく、遠くに見える灰色に剥げた山々は、どこか心を落ち着かせた。
 そこかしこに飛び交う、5メートルはあるだろう異様な大きさのノミにも、なぜか嫌悪感はなかった。そこにいるのが当たり前と言う、不思議な安心感があった。

 梨子の大きな胸が、五月女の額に当たっていて、梨子の表情はうかがえない。
 だが、五月女はわかっている。梨子は、いつもと同じように、子どもみたいに笑っているのだ。
 それが、芳原梨子という女なのだ。

「あ、水車にいちゃん。起きた?」

 梨子の柔らかな声が、五月女の耳をくすぐった。
 五月女は、右腕を持ち上げる。それは、自分の腕とは思えないほど強靭で、毛深く、獣臭い腕だった。

「すっごいよー。なんかねえ、世界がゴリラ!」

 ウホオオオオオオ……。

 梨子の喜びの声に呼応するかのように、地面からゴリラの唸り声が聞こえた。
 世界がゴリラになる。人も、草木も、惑星さえも。それこそが、芳原梨子の瑞夢。
 そして、それこそが五月女にとっての凶夢。
 二人は今、同じ夢を見ているのだ。

 この夢が、現実世界に反映されてしまうのかもしれない。それは、世界の終わりを示すのだろう。
 だが、それも五月女にとってはもはやどうでもいいことだ。梨子といつまでも一緒にいられるならば、どこであろうとそこが楽園なのだから。

 五月女にとって、芳原梨子が対戦相手だったことが、最大の不幸であった。
 だとすればそれは、なんと幸福に似た不幸だろうか。

 五月女は、空を見た。

 本来太陽があるべき場所には、にこやかに笑うゴリラの顔が浮かんでいた。




【残ゴリ数:∞】
最終更新:2016年04月14日 20:26