「薫崎香織、感情を揺さぶる調香師か……」
秘密院恭四郎は自らの対戦相手の情報に目を通していた。
そこには薫崎香織の詳細なプロフィールと、彼女が関わったと考えられる事件の類が事細かに記載されている。
「戦場の時間設定にもよるが、学校となると厄介な相手だ」
夜間でない限り、学校には数多くの生徒や教員がいるだろう。
仮にそれらの人間全ての感情を操れるとなれば、不利は必至だ。
「いずれにせよ、対策は必須だな」
恭四郎は必要な装備を整えるべく、部下にメールで指示を出す。
敵の戦術を分析し封じること、それが彼の唯一の戦い方だ。
戦場である学校で目覚めた薫崎香織は、秘密院恭四郎と思しき匂いを感知し、安堵した。
(どうやら、無条件で使えるEFB能力ではないみたいね)
彼女が最も危惧していたのは、試合開始と同時に決着が付いてしまうこと。
もし、秘匿されている秘密院恭四郎の能力が学校全域に甚大な被害をもたらすものだとしたら、手の施しようがない。
だが、最悪のケースは免れたようだ。
おそらく射程がもっと短い、もしくは何らかの条件を満たさなければ使えないといったところだろう。
(それなら、私にも勝ち目がある)
幸い、現在の時刻は夕方。
下校途中の生徒や部活中の生徒、書類仕事をしている教員と手駒にできる人間は十分すぎるほどいる。
「じっくり観察させてね、素敵な実験材料さん」
薫崎香織の掌が妖しげに蠢いた。
グシャッという音を立てて、試合開始からちょうど100人目の被害者が崩れ落ちた。
その姿に感情のない視線を送る加害者の名は、秘密院恭四郎だ。
「しかし、妙だな。いくらなんでも芸が無さ過ぎる」
湧き上がる疑問が独り言となって口に出る。
ここまで喜怒哀楽、さまざまな感情に支配された生徒や教員が彼の前に立ちはだかってきた。
だが、この学校は魔人溢れる希望崎学園にあらず。
いくら理性のリミットが外れているとは言え、一般人相手に遅れをとる秘密院恭四郎ではない。
(順当に考えれば時間稼ぎだろうが……)
しかし、それにしても駒の動かし方が散発的すぎる。
「これだけの手駒が使えるなら、もっと俺の体力を削れるだろうに」
確かに生徒や教員はこの戦場にたくさんいる。
しかし、いくらたくさんいると言ってもリソースとしては有限だ。
それを無駄に使い潰しているようにしか見えない薫崎香織の思惑を、恭四郎は掴みかねていた。
(まあいい。最低でもこの学校の人間を殺し尽くせば彼女も姿を現さざるを得ないだろう)
血に濡れた武器を握り締め、秘密院恭四郎は次の場所へと足を踏み出した。
それから数十分の後、薫崎香織と秘密院恭四郎は1階の教室で対峙していた。
「ようやく会えたな」
そう声をかけられた薫崎香織は自らの対戦相手、秘密院恭四郎を改めて観察する。
右手には血塗られた日本刀。
左手は全身を包むコートの中に隠されている。
その不自然な構えは、能力に関する秘密を守るためのものかもしれない。
だが、一番見るものの目を惹くのは顔をすっぽりと覆った濾過式のガスマスクだろう。
造りから見て軍用のA級品に違いない。
(さすがは秘密院の当主様。こちらのことはしっかりと調べてるわけね)
もし香織がただの調香師であったなら、勝負は簡単に付いていただろう。
(でもお生憎様。私が生み出す作品はガスマスクじゃ防げない)
そう、彼女には魔人能力『パーム・パフューム』がある。
ガスマスクの仕組みをご存知だろうか?
濾材を詰めた吸収缶でガスの成分を吸着することで、吸い込む空気を浄化する。
大抵の匂いであれば、ガスマスクの向こうに届くことはない。
だが、全ての物質を吸着できる吸収缶もまた存在しない。
ガスマスクをした相手と戦うときのため、薫崎香織は吸収缶をくぐり抜ける匂いを開発していた。
手駒をぶつけて得た秘密院恭四郎の情報を加味して調合すれば、望みのままの感情で支配することができるだろう。
能力を発動させる仕草を見せることもなく、恭四郎は少しずつ歩み寄ってくる。
(つまり、まだ能力の射程範囲外なんでしょ!それなら!)
香織は素早く掌を敵に向け、『憤怒』を射出した。
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いくら冷静さを保とうとしても、すぐに怒りの感情が理性を排除する。
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ドカッ。グシャッ。ベキッ。
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怒りのまま、壁に叩きつけた拳が鈍い音を立てる。
今の秘密院恭四郎は『憤怒』に支配された獣だ。
仕掛けは全てうまくいった。
『憤怒』が生み出す初期衝動は、計算通りに私に逃げ出す隙を与えてくれた。
しばらくすれば、私への怒りに支配された彼はわざとらしく残しておいた痕跡を追ってこの2階の部屋に向かってくるだろう。
だけど、ここに至る階段には機関銃が仕掛けてある。
機関銃の弾丸が当たるよりも速く動くことも考えて、視認しにくいワイヤーも用意した。
普段ならすぐに気付かれてしまうだろうけれど、今の彼なら問題ないはず。
あとは監視カメラで勝利の瞬間を目撃するだけだ。
(そうすれば、夢の世界で好きなだけ理想の作品を追い求められる……!)
戦いの報酬への期待を胸に香織は監視カメラの映像を確認し続ける。
だが、秘密院恭四郎はなかなか現れない。
(落ち着かなきゃ。気持ちが逸りすぎているんだ)
薫崎香織はそう考えていた。
ガシャンッ!
窓ガラスを割って秘密院恭四郎が部屋に入ってくるまでは。
突如2階の部屋に現れた彼の姿に香織は狼狽する。
肉体派の魔人ではない彼女にとって想定外の移動ルート。
強化された魔人が鍛え上げた肉体能力をもってすれば、2階の部屋へ直接侵入することはそれほど難しいことではない。
だが、彼女を真に驚愕させたのはその移動ルートではなく、恭四郎が発した言葉だった。
「ありがとう、薫崎香織さん」
彼の声には憤怒を感じさせない落ち着きがあった。
「あなたのおかげで俺の能力の本当の意味を思い出せた」
ガスマスクから覗く瞳は心なしか笑みを浮かべているようにも見えた。
突発的な破壊衝動が去った後、秘密院恭四郎の心を支配したのは指向性のある怒りだった。
「クソッ!クソッ!あのクソ女がッッッ!」
怒りの対象はもちろん薫崎香織。
だが、その怒りは自分を窮地に追い込んだ彼女への怒りではなかった。
「なぜこれだけの能力を持ちながら、俺を殺せないッ!」
嫉妬と失望。
自分がその能力を持っていたならば、もっと上手くやれていたはずだという怒り。
数多の人間を操ることができるにも関わらず、未だ自分を殺せていないことへの怒り。
もちろん、薫崎香織が慎重策をとったのは恭四郎の能力が不明だったからであり、その怒りは理不尽と言うほかはない。
では、なぜそんな理不尽な怒りを?
なぜ?
なぜ、俺は?
なぜ、俺は、そんなことに怒る?
怒りに支配されているにも関わらず、もう一人の自分がいるように思考が重なっていく。
原始の姿に近い感情のうねりは、秘められてきた記憶のドアを叩く。
そして、思い出す。
秘密院恭四郎にとっての大いなる始まりを。
「そうだ、俺は魔人に憧れてなんかいなかった……」
秘密院恭四郎が魔人と化したきっかけは、今と同じ怒りだった。
魔人への嫉妬と失望だった。
「俺には能力なんてものは『ない』……『必要ない』」
魔人としての能力に目覚めなかったのは、それを望まなかったから。
魔人としての認識が、それを必要としなかったから。
「なぜなら、俺は『能力なんてなくても世界は変えられる』と認識している!」
いかなる感情に心を支配されたとしても、魔人の認識は動かせない。
戦いを好む炎魔人は、悲しみながらも葬送の炎を燃やすだろう。
愛を歌う淫魔人は、怒りながらも性戯に溺れるだろう。
『能力なんてなくても世界は変えられる』という認識だけは、どうなろうと失われない。
無論、その認識を思い出したところで条件は何も変わらない。
相変わらず、秘密院恭四郎に魔人としての能力は存在しない。
しかし、その認識を思い出したことで状況は変わる。
能力がなくても世界を変えられると確信できるなら、誰だって世界を変えるだろう!
その瞬間、秘密院恭四郎の思考は加速する。
もし、薫崎香織の『パーム・パフューム』が匂いを介して人を支配する能力であったなら、成す術はなかったはずだ。
だが、心を支配する『憤怒』の感情がただの物質に引き起こされているものなら、対処はできる!
感情も突き詰めれば情報に過ぎない!
故に秘密院恭四郎は支配できる!
己の憤怒を!
拳を叩きつけ、怒りを発散!
伝わる痛みをもって、刹那の平静を取り戻す!
その間に繰り返される那由他の思考と試行!
膨大な怒りを嚙み砕き、味わい、飲み込む!
抑えつけるのではなく、変換する!
怒りの矛先は、薫崎香織!
怒りを解消する手段は、彼女の殺害!
殺せ!殺せ!殺せ!
血統に染み付いた秘密院家の情報処理術を用いて、怒りを殺意に変えていく。
その姿はまるで残酷無慈悲な殺人チューリングマシンだ。
かの計算機科学の天才、ジョン・フォン・ノイマンもこれほどの殺戮機械の誕生は予見しなかっただろう。
尽きることのない殺意を胸に、恭四郎は静かに歩き出した。
(この短時間で『憤怒』を無効化した?!それともさっきのは演技だったとでも言うの?!)
薫崎香織は、想定とはまるで違う秘密院恭四郎の姿に混乱した。
それでもいくつもの修羅場を潜り抜けてきた彼女は、すぐに次の手を打つ。
護身用の拳銃を胸元から取り出し、構える。
銃の扱いは得意ではないが、愚直に前進してくる相手に当てるだけなら容易い。
「死ねッ!死ねッ!死ねッ!」
何度も何度もトリガーを引く。
だが、秘密院恭四郎はその弾丸の全てを身体で受け止めた。
コートの下に隠した防弾スーツ。
それが彼の持ち込んだ対策だった。
薫崎香織が関わったとされる事件の被害者の死因は同士討ちか射殺のみ。
己の鍛錬に対する自負から単純な殴り合いで敗北する可能性は低いと考えた彼は、銃弾への防護策を優先していた。
眼前に迫る秘密院恭四郎。
薫崎香織はとっさに腕を上げて頭部をかばう。
だが、恭四郎の愛用する日本刀の形をした鉄の塊は腕ごと彼女の頭蓋を打ち砕いた。
走馬灯のようにゴドーとの思い出が浮かぶ、そんな時間すらないほどの即死だった。
「やはり、たいていの魔人は全力でぶん殴れば死ぬ」
殺意を解放するように彼女を殴った後、秘密院恭四郎は自分の認識を確かめるようにそう呟いた。
俺は夢を見るのが嫌いだ。
ただ一夜で消える仮初の世界に深い眠りを妨げられたくはない。
俺は夢を見るのが嫌いだ。
実現する可能性のない空想をいくら語ったところで世界は変わらない。
だから、俺はもう『夢を見ない』だろう。
好きな夢を見れる力など、必要ない。
彼女が思い出させてくれた認識だけで十分だ。
さあ、現実を始めよう。
(完)