個人戦一回戦SSその2
ひとと仲良くする方法がわからなかった。
休み時間になれば、教室ではみんなが楽しそうに話し出す。その中に加わることができなかった。ゆうべのテレビで有名人が言ったことや、スポーツ選手のナイスプレーについて興味が持てれば、きっとわけのないことなのだろう。けれど自分にとっては、それらが面白いとはどうしても思えなかったし、そういう好きでもないことをみんなの話に合わせるためだけに見るというのは、何かよこしまな行いであるような気がしていた。かと言って、自分が本当に好きなもの――たとえばおとぎ話のような、夢や魔法のものがたり――となると、それについて話せるような相手は、ほかの教室まで探しても見つからないのだった。
みんなが悪いわけではないのは知っていた。自分はみんなのともだちではなかったけれど、それでも持ち物にいたずらをされたり、何かにつけて悪者にされたり、無視を決め込まれたりはしなかったから。しかし悪口というやつは、どこからともなく聞こえてきてしまうものだ。あの子はみんなをばかにしているとか、変わり者で先生を困らせているとか、この前テストでひどい点をとっていたとか。そういった話を口にする子は、一人で本を読んでいたり、廊下の角を曲がろうとする時のひとの耳が、いつもより鋭くなっていることを知らないのだ。
「なんか、一緒にいれない感じだよね」
ああ、また。
いつものように、教室で本を読んでいた時のこと。その先に続けられる言葉はわかっている。これはいま起きている出来事ではないから。
「ふつうのことには、ぜんぜん興味がないみたいだし」
反応のしようもなかった。だって、それは本当なのだ――「ふつう」がふつうなのかはさておくとしても。それに、内緒話のつもりで言っていることを聞かれていたと知ったら、向こうにとってもいやな思いがするだけだろう。
だから本に集中しようとした。その時の自分は、そうした。だがむだだった。
「ともだちには、なれないかな」
その声の調子までも、鮮明に思い出せる。違うのに。わたしも、そっちに行きたいのに。そう心の中だけで叫ぶ苦しさも。
目も耳もふさいでしまいたかった。こんなことはもう忘れて、気にしないようにできていたはずなのに。孤独な記憶をなぞらされるのは、実際に体験した時と同じだけつらかった。
――それが、彼女の見る悪夢。
「……わぁ……」
月子は琥珀の瞳を輝かせた。
見渡す限りの海を背景に、透き通った波が白い砂浜を洗う。くるりと振り向いて見てみれば、背後には見たこともない形をした木々の森。いっぱいに広がった葉の隙間から落ちる木漏れ日の中を、大きな蟹がのんびりと横切っている。
まるで南国の楽園のよう。何をして遊ぶのにも、きっと不足はない。
服の裾を摘んで見る。悩んで選んだお気に入りの一着、フリルの付いた可愛らしいネグリジェは、ちゃんと夢の中に持ち込めていた。
きよみちゃんは気に入ってくれるだろうか。いったいどんな子なのだろう。ともだちになってもらえるだろうか? 小さな胸が期待に高鳴って、知らずのうちに手が足の間に伸びた。これも眠りに入る前から出しておいた、スカートの膨らみに隠れた象牙の塔が、ぴくりと跳ねる感触を返した。心臓がとくとくと急ぎ出す。早く会いたい。その気持ちが込み上げてくる。
一歩踏み出す。素足がさらさらの砂に包まれる。まずは、どこにいるか探さないといけない。かくれんぼだ。
「……あ、でも、おにごっこがいいって言われたらどーしましょう……?」
靴は持ってこなかった。履いたままベッドに入るなんてお行儀が悪い。けれど砂浜はいいとしても、森の中は裸足では危なさそうだ。枕元に置いておいたりすれば、ひょっとすると用意できたのかもしれない。
指先を唇に添え、周りを見渡す。何か代わりにできそうなものがありはしないかと。
――その眼前に、巨大な質量が降ってきた。
九頭原きよみの“目”は、とっくに敵を見つけ出していた。
彼女の視点は空にある。遮蔽も何もない砂浜にいる少女の姿など、見落とせと言われる方が難しい。
ただちに降下。呑気に歩く対戦相手の正面へ、体操選手のような美しい着地。
大地を震わす地響きと共に、爆風のごとく白砂が跳ね上がった。
「……わぁ……?」
少女は間延びした驚きの声を上げた。両手で口元を押さえ、ぱちくりと目を瞬かせている。巻き起こった風で灰色の髪が宙に流れ、ネグリジェの裾がきわどく翻った。
『クックックック……驚いたか、幼女』
スピーカー越しにきよみは語る。
そう、それは機械であった。全高20mの巨体。セーラー服姿のきよみを雑なポリゴンで表現したかのごとき角ばったシルエット。ハニワとしか形容できない、虚ろな三つの穴が空いた顔面。即ち、それは――巨大ロボットであった!
『刮目せよ! これぞ我が叡智とか思いつき、その場の勢い的なアレなどの結晶! ドリーム仕様最終決戦兵器――キヨミメガグレートである!』
ドカァン! 決めポーズを取るキヨミメガグレートの背後で爆発! なんかきらめく感じのエフェクトが機体を斜めに走り抜ける!
怪獣でもない無力な少女相手にこんな手段を持ち出そうというのか! あまりに無体!
「…………」
――当の少女本人は、爆発が生み出すロボットの影の中、じっと目の前の存在を見つめていた。
頭部コックピットのモニターを通し、きよみもまた少女を観察する。まるで動かず、何を考えているのかも読めない様を。
(……リアクションしろよ。テンポが悪くなるじゃねーか)
それは、なにもギャグ的欲求だけに基づく思考ではない。
曲々月子。やたら変な読み方をする名前の対戦相手。その姿を改めて眺めやる。まるで戦う気のない格好。おそらくは普段どおりの時間に、普段どおりに寝たのだろう。幼い見た目そのままに、この夢の意味を理解していないのか――そしてそれが、きよみにとっては厄介だった。
自分の能力は無敵だ。仮にこの少女がどんな悪意や奥の手を隠し持っているとしても、敗北はまず有り得ない。だが一方で、積極的に攻めかかるのが難しいのも事実だった。なぜなら――
「……ーです」
「お?」
思索は、月子の呟きによって打ち切られた。
モニター横のつまみを捻ってマイクの感度を上げ、カメラを操作して少女の顔をアップにする。ちなみにその気になれば念じるだけで動かせるキヨミメガグレートにとって、手動での調整は必要なものではない。ノリだ。
「……かっこいーです!」
拡大表示された画面の中で、少女はそう繰り返した。きらきらした視線を伴って。
巨大ロボット。それは遍く人類の夢。ハニワ顔であったとしても、その真理は揺るがない。
『……ほう』
きよみは口角を持ち上げた。
再びスピーカーから語りかける。場の空気の固さが一定を超えないよう、わざとらしいほど芝居がかった口調で。
『気に入ってもらえて何よりだ、幼女。では一つお近づきの印にどうだろう。このワンダフル仕様――なんだっけ――すごい――すごいロボを操縦してみるというのは』
「……いーんですか?」
『応とも。少しじっとしていてくれ。特別だぞ♪』
言われた通り、月子は姿勢を正し、疑いもせずに伸びてくる手を待った。胸の前で両手を重ねた仕草が、抑えようもない期待を感じさせた。
キヨミメガグレートのマニピュレーターが、そんな少女をそっと包む。そのまま持ち上げ、頭部の口にあたる部分まで近付けると、
『……と見せかけて死ねええええええ!』
――振りかぶり、海に向かって投げた! 非道!
「ふゃ……?」
呆気に取られた表情。それを認識できたのも一瞬で、曲々月子は見る間に遠くへ飛んでいく。
きよみの眉間に浅い皺が生じた。しかしこれでいい。自分は勝ち、相手もさほど酷い目に遭わせずに済む。
間もなく戦闘領域の果て。月子の体が境界線に迫る。迫る。迫る。……越える。
直前。
斜め上から飛来した何かが、少女を攫った。
月子は目を瞬かせた。視界いっぱいに海面が広がっているのに、それはなかなか近付いてこない。そこで自分が宙に浮いているのに気付いた。
ばさっ、ばさっ、ばさっ、ばさっ。すぐ近くでそんな音が鳴るたびに、体が上下に揺れ動く。こわごわ後ろを振り返ってみると、大きな緑色の体が目に入った。それは育ちすぎたトカゲのようだったが、背中には一対の翼があった。先ほどからしている音は、その翼の羽ばたきだった。
その生き物の名前を月子は知っていた。ドラゴンだ! 色々な物語に出てくるドラゴンが、落ちないように抱えてくれているのだ。けれどこのドラゴンはでっぷりと太っていて、自分の両脇の下に通された前脚は体の他の部分より妙に小さく、両目に至ってはまるでかたつむりの角のように、頭から飛び出した枝の先についていた。なんだか滑稽な感じがして、月子は少し残念な気持ちになった。
「……竜なら、幸いの竜に会ってみたかった、です」
「ブオォォ」
ドラゴンは抗議するみたいに一声鳴いた。ほら貝のような声だった。そして次の瞬間、海面に向かって急降下した。
きゃあ、と月子は悲鳴を上げたが、今まで自分たちがいた場所を金色の光線が走り抜けていくのが見えたので、守ってくれたのだとわかった。
『チィッ、おのれ幼女! 我が巨大ロボットへの憧れを利用して騙し討ち作戦に屈していれば楽に死ねたものをなァ!』
もう随分遠くになってしまった海岸から、きよみのロボットからの声が届く。
演技の皮を取り払ったその声音は、邪悪! 少し前までは格好良く見えたロボット自体も、今では黒っぽい闇のオーラを立ちのぼらせている。
「……幼女じゃなくて、るんぬ、です」
月子は頬を膨らませた。まさかあの魅力的なお誘いが、ロボットへの憧れを利用して騙し討ちにしてやろうという作戦だったなんて。いいひとだと思ったのに。
その怒りを感じ取ったのか、ドラゴンは再び高く舞い上がった。ばさ、ばさ、ばさ、ばさ。羽ばたきは小刻みになり、獲物に飛び掛かる寸前の獣のように、素早い動きに備えたものになった。すると最初は不格好だと思えたこのドラゴンが、月子にはだんだん頼もしく感じられ始めた。同時に、彼女は異世界のものについての決まりを思い出した。大好きなあの本に書いてあったことだ。
「名前を、つけてあげないと、いけないのですよね……じゃあ、あなたは、スネール、です!」
「ブオオオオ!」
応えるように大きく吠え、ドラゴンは――スネールは、キヨミメガグレート目掛けて空を駆けた。びゅうびゅうと風を切る感覚に、月子は甲高くも楽しげに叫んだ。ジェットコースターを思わせる体験だったが、スネールの飛行はどんな遊園地にあるそれよりも速く、爽快で、特別だった。
(うわやべえ、なんか来た)
もっとも、自分に向かってくるとあっては、きよみとしては楽しむどころではない。投げ飛ばした時とは逆に、月子と謎のドラゴンは猛烈な勢いで接近してくる。しかも今度は明確に戦う気で。
彼女には知る由もない。傷を与えない攻撃こそは、月子のエルフェンバインに対する悪手だったのだと。しかも攻め時が遅かった。充分な時間を与えられて顕現した夢の世界の住人は、既に月子を守る意志を固めている。即ち、敵を排する意志を。
キヨミメガグレートは目から黄金光線を発射した。ドラゴンは見た目に似合わぬ機敏な飛行制御で軌道から外れた。両手を突き出してからの左右ロケットパンチ――これも躱される。もう近い。起死回生のサマーソルトキック。対するドラゴンは急旋回し、突進力と遠心力を乗せた尾の一撃を蹴りにぶつけた。
「わう……っ!」
『ぬう……!』
激突に大気が震える。互いに弾かれた二者は一旦距離を取り、体勢を立て直す――否、ドラゴンはさらに追撃! 弧を描くような飛行で受けた衝撃を逃がしながら、大きく開けた口から紅蓮の炎を吐いた!
『危ねえ!』
膨大な熱量を察知したきよみは、空中で脚部バーニアを噴かして回避! 巧みな宙返りで姿勢を戻し、両腕を天に向けて掲げた。外したロケットパンチが舞い戻り、ガシャンと音を立てて腕先に収まった。
一機と一頭は滞空したまま睨みあった。攻防を経て彼らは砂浜と森を越え、島の中心にある大きな湖の上にいた。
「……おーじょーぎわがわるい、のですね」
『ふっ、なんとでも言うがいい。どんな手を使っても私は勝つ。そんでめっちゃいい夢を見る』
「るんぬはべつに、負けてもいーですよ。でも」
スネールの翼が再び動きを速める。対するキヨミメガグレートは接近戦の構えを取り、セーラー服のスカーフ部にもバーニアの青い炎を点す。
「その前に、わるいきよみちゃんには、おしおきです」
『バカめ、幼女のお説教なんぞ聞け――ちょっと聞きたいけど聞けるか! くらえ!』
キヨミメガグレートの打ち下ろすチョップ! 多数のロケット噴射による地上と変わらぬ安定した動作! しかしこれは容易く避けられ、反撃の牙が首筋を狙う! 逆の腕でこれを防ぐ! 素早く飛び離れたスネールの体を、三度目の黄金光線がかすめる! 竜の鱗の一部が黒く焦げ、一筋の煙が上がった。だが負傷の域には至っていない。再突撃――縦に一回転しての尾撃! ロボットは両腕を交差させてガード!
「ブオオオォォォ!」
スネールは勝機を悟った。突風の勢いで息を吸い、防御で動きを止めた相手に対し、至近距離から特大の劫火を浴びせた! 窮地! きよみは一瞬の判断で最大出力の光線を放ち、迫り来る炎に対抗する!
竜の口から巻き起こる紅蓮と、ロボットの目から生じた黄金が競り合う! 黄金が徐々に押され出す! 炎は少しずつ光を呑み込み、やがてきよみのいる頭部の間近まで迫った! だが!
「あっ……?」
月子は不自然な衝撃に声を上げた。スネールの大きな胴体に、栗色をした二本の杭のようなものが突き刺さっていた。――二発限りの隠し武装、ツインテミサイルが決まった!
くぐもった破裂音と共に、竜の体は白煙となって消えた。当然、それは飛行手段の喪失を意味する。ロボットの無感情な目が見下ろす中、少女は真っ逆さまに青い湖面に落ち、大きな水音と波紋を立てた。
水中で月子は慌てて口を押さえた。塩気のある水を少し飲んでしまったが、空気はあまり漏らさずに済んだ。
そして光の差す水面へ泳ぎ出ようとした。しかし魔人になって身体能力が上がったとは言え、元々体育は苦手だった。水を吸った髪と服も邪魔をした。おまけに、水面との距離が縮まらず、息苦しくなってくることに焦ってしまうと、そのせいでますます浮かび上がりにくくなってしまうものなのだ。
月子はとうとう残った空気をみんな吐き出してしまった。これ以上は絶対にまずかった。けれど、必死になって上がろうとする彼女の動きを見ている人間がもしいれば、髪を振り乱してもがいているだけだと言っただろう。
手足に力が入らなくなってくる。視界が暗く、見えなくなっていく。
それでもまだ辛うじて、彼女を守ろうとするものが間に合った。
意識を失うほんの少し前、月子は背中を何かに押し上げられた。
上空にいたきよみにとって、その光景は銀色の円盤が浮上してくるかのように見えた。
中央に月子を乗せた円盤は、湖面を破り、さらに上昇して、大気の中に身を晒した。すると円盤に見えていたものが、半球状の胴体であることが分かった。やがて胴体の下に垂れ下がる何十本もの触手が露わになり、完全に水から離れると、風の流れや自分の動きに合わせて、ゆらゆら気ままに揺れ出した。
クラゲだ。空を泳ぐ銀のクラゲが現れて、月子を窒息から救ったのだ。一つ不可思議なことを挙げるとすれば、そのクラゲの触手は毒針がない代わりに、一本一本全て形が違っていた。真珠貝のような鱗のあるもの、異国の文字とも花弁ともつかない金の模様が彫り込まれたもの、鎖のように輪を連ねたもの。まるで風変わりな銀細工を思わせた。
だが問題はその大きさだった!
先ほどの竜も巨大ロボットと格闘できる体躯の持ち主だったが、このクラゲときたら触手の長さだけで、キヨミメガグレートの倍にも匹敵した。胴体はちょっとした運動場ほどもあるだろう。今やきよみはその全身をモニターに入れるために、カメラを傾けて見上げる形を取らねばならなかった。
『……幼女よ。物は相談だが、そのお友達には帰ってもらわないか?』
きよみは厳かに提案した。
「むー……?」
湿ったマットのようなクラゲの胴体の上で、月子は上半身を起こした。そしてけほけほと咳き込んだ。ずぶ濡れのネグリジェが張り付いて透け、内側の薄い肌色が見て取れた。
「……もー。るんぬ、びしょびしょになっちゃいました。スネールの分も、お返ししてください、アーゼント!」
『ですよねー!』
きよみは一旦距離を取ろうとした。この体格差での接近戦は明らかに分が悪い。しかし巨大クラゲのアーゼントは外見に反して俊敏だった。伸ばされた触手の一本が、既にキヨミメガグレートの足に巻き付いていた。きよみは体が浮きかける感覚を味わった。
『――やべっ!』
緊急脱出ボタンを叩く! キヨミメガグレートの口から、キラキラした謎の粒子と共にきよみ本体が吐き出される! コンマ1秒後、巨大ロボットは凄まじい勢いで放り投げられ、空の彼方に輝いて消えた! サムズアップするハニワ顔のロボットの姿が、半透明で青空に投影される。おお……さようなら、キヨミメガグレート!
それはそれとして、間一髪で脱出を果たしたきよみは、ひとたび湖に飛び込む決意を固めた。水中の基地からミサイルを発射する、こちらも水棲怪獣に変身して対抗する。反撃のやりようはいくらでもある。身に纏うセーラー服を競泳水着に変化させ、美しいフォームで菫色の湖に着水を――菫色?
「あっ」
クラゲから身を乗り出して見ていた月子が、むしろ慌てたような声を出す。
「そこ、ムーフー、です。特別な銀でできたもの以外は、」
水飛沫が上がり、きよみの姿が湖中に消える。
「みんな、とけてしまいます……」
「はばぼぼぼぼぼぶべ!?」
――瞬時に飛び上がる! 水着は跡形もないが肉体は無傷! 服を代償として事なきを得る美少女特権能力だ!
なお大事な部分には小さな銀クラゲが張り付いており、その意味でも無事!
「ふ、ふざけんな! なんでもありかテメー! ゲームバランスに配慮しやがれ!」
当たり前のように空中に浮きながら、拳を振り上げて身も蓋もないことを言う。
「るんぬが考えて、出しているわけじゃないのです……わたしが決められるんなら、アーゼントの子がいる湖を、危ないものになんてしないですし」
月子は目を伏せた。それは本来とても重要な情報だったが、彼女の注意はそのことよりも、急いで浮上してくる小クラゲたちに向けられていた。
ひょっとすると彼らの体は、アッハライの銀か、もしくはよく似たものでできているのだろうか? 本当のところは分からなかったが、ともかく見える限りでは、クラゲたちは途中で溶けてしまうことなく、湖を飛び立って空中を泳ぎ出した。月子はそれを見て胸を撫で下ろした。
「……それより、やっと直接会えましたね、きよみちゃん。思ってたよりも、ずっと――かわいくて、きれー、です」
月子の微笑みを、きよみは見た。楚々としてあどけないのに、妙な危機感を煽られる笑みだった。その視線がいやにじっくりと、自分の剥き出しの肌を見つめているような気がした。
(……の、呑気なこと言いやがって)
密かに奥歯を噛む。
この対戦相手は何を考えているのか。最初はただの無力で世間知らずな子供だと思った。その次は厄介な魔人としての顔を見せた。だが勝利はしなくていいと言う。実際ここに至るまでも、反撃はすれどこちらを倒そうという意志は感じられない。それなら何が目的なのか?
――いや。頭を振る。どうだっていい。とにかく無敵でないのは竜を落とせたことで確かめられた。であれば、やるだけだ。最初の策の時と同じように、努めて冗談の調子を作って話しかける。
「マジ? やだ照れる。そんな褒め上手な幼女……いやるんぬちゃんに、ちょっとエッチなプレゼントをあげちゃおうかな。ウフフ」
空中でしなを作り、見えそうで見えない絶妙なポーズを取る。くっついたままのクラゲが割と役に立った。
「わ……」
月子は両手で口元を押さえた。目を白黒させつつも、視線を逸らすことはできない様子。狙い通り。
「……ほんとですか?」
「ほ・ん・と。さぁ、受け取って――」
――きよみは月子に体の正面を向ける。そして両胸を覆うクラゲに手をかけると、勢いよく引き剥がした!
何を!? だがそこに現れたのは、金属質の煌きの束!
「百連装おっぱいミサイルのプレゼントをなあああぁぁーっ! 昇天しろ幼女ーッ!」
一斉発射! 精密な誘導性能を備えたミサイルは、辺りを漂う小さなクラゲを避け、確実に巨大クラゲの胴体を目掛ける! 次々と着弾! 爆発! 浮遊要塞じみた巨体が傾ぐ!
「わ――わわわわわわ……!?」
月子は揺れるアーゼントの胴体にしがみ付いた。実質無意味なことではある。どの道、彼らは大きな傷を負えば消えてしまうのだから。
だが銀のクラゲは意地を見せた――そういった感情があるとすれば。小クラゲ共々消滅する間際、目にも止まらぬ早業で、きよみをその触手の中に握り潰したのである。
「きよみちゃん……!?」
自らも足場を失いながら、月子はショックを受けたように叫んだ。応答はすぐ近くから返った。
「どうした、幼女」
「ふぇ?」
きよみは当然のように傷一つ負わず、当然のように元のセーラー服姿で、当然のように月子のやや上の空中に立っていた。
これは先の状況の繰り返し。きよみは健在を保って異世界の住人を撃退し、月子はなす術なく落下――しない。
彼女自身も目を丸くしたまま、横たわる姿勢で宙に留まっている。そう思う間に、鉛色の雲でできた大きな手が形になり、それが少女の体を支えているのがわかった。その付け根には、これもまた雲でできた巨人の顔があった。
「大風坊主……?」
「――まだ増えんのかよ!」
きよみは思わず声に出した。今度はもう悠長に待つことはしなかった。あの火を吐く前のスネール以上に勢いよく空気を吸い込み、体が風船のように膨らむまで溜め込むと、一気に大風坊主へと吹きつける。雲の巨人は切れ切れに飛ばされて消え去り、月子も再び守り手をなくして落ちた。それを追う。いい加減、甘いことは言っていられない。止めを刺す。
まったく唐突に、きよみの体は凍りついた。それは温度によってではなく、謎によってだった。世界のあらゆる謎が頭の中に渦巻き、体を動かすどころではなくなってしまったのだ。弧を描いて落下する月子が離れていき、代わりに地上が近くなってきた。生い茂る孤島の森林が。
(なん……だ……!)
最後の数瞬、彼女はやっとのことで目だけを動かし、この攻撃の正体を探った。空に、新たな怪物の姿が見えた。前脚はライオンの脚、後ろ半身は牡牛、背に強大な鷲の翼を持ち、顔は人間の顔だった。
その生き物の名前をきよみは知っていた。
(……スフィンクス)
謎を送り出すその眼光が自分を捉えていた。それを受けてしまったら、全てを解かない限り二度と動くことはできないという。――いつそのことを知ったのだったか。たしか。
衝撃が彼女の体を襲った。
――なんちゃって。そんなことはなかった。
その一言で全ては覆る。
九頭原きよみは華麗に着地を決めた。墜落なんかしていない。二度と動けない? まさか!
そんな、シリアスな話じゃあないんだから。
「……ククク。不運を嘆け、幼女。このウルトラ万能ビューティフル女子高生きよみちゃんを相手にしたことを」
非常に悪い顔で笑って、すっかりいつものギャグマンガ少女。
条理を望むままに捻じ曲げ、不条理をそれ以上の不条理で克服して、全ては笑ってもらうため。そのためにできないことなんかない。だから負けるわけがない。
ああ、けれど。だったら、どうして――
「さあ、震えて待て! お前がどんなにいたいけだろうと、トラウマが残る感じのひどいやり方でぶちのめしてやるからな!」
声を張り上げて歩き出す。スカートの裾を堂々翻す。明るい島の森の中。枝のない棕櫚、背の低い潅木。半分砂のすっきりした地面。見通しはほとんど邪魔されなくて、何かが現れることがあれば、すぐに見つけることができる。
なのに不意に声がかかった。それは見えない歌う言葉だった。
心のやさしい おじょうさん。
どうしておまえは いつわりを言うの?
偽り? それってなんのこと?
と言うか誰だよ、どこにいる。その姿くらい、見せてくれない?
おまえの言うのは する気のないこと。
おまえはきちんと わけている、曲げていいことと 悪いこと。
わたしのこの名は おまえの内に。
ムーフー、バウレオ、スフィンクス。あれらとおなじく、おまえの内に。
おまえは、わたしを知っている。
「……知らない」
きよみは唸るように言った。
「ちっとも知らない。つまんなそうだし」
声はひとたび遠くなり、風の響きだけを残して聞こえなくなった。きよみは気にせず歩き続けた。
少ししてまた風が吹いた。そうすると再びその声がした。
あの子は おまえに 勝つ気はない。
おまえはどうか、おじょうさん。
あの子に勝つ、そのつもりがないなら、
負けてもいいと おもっている?
まさか。私は負けられない。
どうしても見たい夢があるんだ。
あの子は おまえと 遊びたいだけ。
ただ 夢に 夢を見て やってきただけ。
おまえにできる あの子に勝てる?
あの子を冷たく 突きはなせる?
「戦うんだから、仕方がないだろ。
二人に一人は負けなきゃいけない。私は必ず勝たなきゃいけない。
これはそういうものなんだ。勝つ気がないとか、遊びたいとか、そんなつもりで来るのが悪いんだ」
あの子は おまえと 遊びたいだけ。
ただ 夢に 夢を見て やってきただけ。
おまえは あの子に 夢を見させた。
おまえにできる あの子に勝てる?
すでに ひとたび 情けをかけて、
いまさら冷たく 突きはなせる?
「ふざけんなよ。馬鹿にするな。私は――」
きよみの拳が木の幹を打った。
枝葉がわずかに揺れた引き換えに、ぶつけた箇所がひどく痛んだ。
「私は、真面目にやってるんだ!」
森が途切れる。
目の前には白い砂浜。見渡す限りの海を背景に、透き通った波が打ち寄せる。
曲々月子がそこに立っていた。
「きよみちゃんが、えっちで、はげしーから」
月子は最初とちっとも変わらずに笑った。
地べたに生きる人間の気持ちがどんなに翳っていようとも、まるきり頓着せずに世界を照らしてしまう、無神経な太陽のようだった。
「るんぬ……もう、がまんできません。
なかよく、してください、きよみちゃん。
わたしと、ともだちに、なってください……」
恥じらう乙女のように頬を染めながら、ネグリジェの裾を持ち上げる。
白くてしなやかな足の付け根に、あるべき下着の姿はなく、あるべきでない象牙の塔があった。長く、太く、たくましく、おおよそ月子とは正反対の性質を持っているのに、ただそのけがれのない白さだけが、彼女の一部であるというこの上もない証を立てていた。
「ぷっ」
きよみはもう堪えきれなかった。
「ははっ……なんだ、それ。面白いなあ、幼女」
片腕で目を覆い、天を仰ぐ。肩をくつくつと震わせる。
そうして長く笑い続けた。おかしくてたまらないと言うように、押し殺した笑いを笑った。
「……きよみちゃん……?」
月子が首を傾げて問うと、彼女はようやく落ち着いた。笑いすぎて失った酸素を、喘ぐような呼吸で取り戻しながら、月子を見た。その目から光が零れていた。零れて、落ちて、そのせいで、元々あった場所には暗さが満ちていた。
「……ともだち? ともだち、だって?」
四文字の響きは呪詛のそれだった。月子は思わず半歩下がった。この夢の中に訪れて初めて、胸が冷たくなる感じがした。
「私のともだちは、もういないんだよ」
ひとと仲良くする方法がわからなかった。
物語を漁ってばかりの日々の中で、ファンタージエンに憧れたこともあった。素晴らしい話だと思ったが、本に興味がない子と話すには、どんな本も役に立たないのだとわかってしまった。
どうすればいいのか。いっそ諦めれば楽になるのか。悩んでいたときに、初めて漫画を読んだ。とても馬鹿らしくて、くだらなくて、面白かった。笑いだけの世界。楽しさだけの世界。素晴らしいと思った。自分もその住人になりたいと願った。願いは叶った。
それからの毎日は明るかった。みんなも漫画は好きだったから、その真似をすれば喜んでもらえた。高校では親友もできた。万一不幸せなことが起きたって、なんちゃって、でなかったことにしてやれた。空から落ちても、動けなくなっても、全部ボケにしてしまえば済むんだ。
けれど。
ひとが死ぬということは、冗談にはできなかった。
だってその悲しさを知ってしまった。真剣になってしまうんだ。あの子ともう一度話したいなんて本気で願えば願うほど、私の力は薄れて消える。
したければしたいほどできないなんて、こんな望みのつもりじゃなかった。もっとずっと楽しいままに、なんだって解決できるはずだった。
いいや、そもそもこんなに真面目に、必死にならなきゃいけないこと自体、あの世界ではなかったはずなのに。
なぜ現実は、大好きな漫画のようにならないんだろう。
「だから、でもさ、勝たなきゃいけないんだ。……負けてもいいんだろ、そっちは」
自分が一歩前に出ると、月子も怯えた様子で一歩下がった。
得体の知れない子だったけれど、こうして見るとやっぱり一応、笑ったままでいてほしかったと思う。とは言え、無理な話だったか。
姿のない、あの静寂の声の言った通り、自分は情けをかけていた。本当に勝つつもりで臨むのなら、開戦と同時に巨大隕石を落下させて全てを消し飛ばすなり、いっそ現実世界で所在を突き止めてどうにかしてしまうのが手っ取り早かったのだから。それを仕損ねたとしても、落下する月子に追い討ちを掛けるなり、最初から彼女を狙うなりしておけば。半端に優しく倒そうとしたせいで、結局は今怖がらせることになっている。
まったく、これこそボケだ。自嘲の念に唇が歪んだ。だがそれもここまで。勝ちは譲らない。その意思は揺るがない。遊びたいだけの子供だろうと、ここまで来れば、倒してしまえる。
「きゃ……っ」
月子は突き飛ばされて仰向けに倒れた。白砂の上に灰色の髪が広がった。彼女の味方が助けに来る気配はない。さすがに弾切れか。
きよみはその上に覆い被さり、まだ水気を含んだスカートを乱暴に跳ね除けた。見開かれた琥珀の中に、自分の顔が映り込む。ひどく冷めた顔をしていた。
「ともだちにはなれないけど、終わりだから。悪夢の前に、仲良くはしてあげる」
「やんっ……!」
外気に晒されてそそり立つ白杭に、掌を添えてさすってみる。それは敏感に反応して跳ね、月子本人もまた短く声を上げて、もがいてきよみの下から逃れ出ようとした。
もちろんそうはさせない。自分の能力はこの夢の中ではもう使える機会もないだろうが、作用していないのは相手も同じ。ならば常人の力比べと差異はない。単純に体格の問題だ。
「や、やだ……こんな、むりやりされるのは、や、です……!」
「……それ、口では逆らってても体は正直だぜ、とかいうところ?」
苦笑する。確かに月子の両目には涙がいっぱいに湛えられていたが、拒絶の意思表示と言えるかははなはだ疑問だった。象牙の塔に触れられた際の反応は抑えようがない風だったし、声にも既に甘さの色が濃い。きよみを押しのけようとする抵抗も、元から問題にならなかった力が、ますます弱々しくなってきている。
「ひとのこと、えっちだとか言いやがって。どう考えてもお前ほどじゃないじゃねーか」
「そ、そんなの――むっ……!」
抗議の言葉を返しかけた口を、きよみは自らの唇で塞いだ。舌を送り込んでやると、すぐに小さな柔らかい感触が絡み返してくる。
塔に添えた手の動きを速める。月子は身を捩じらせて喉を鳴らした。続けざまに上がるその声が、どんどん高く、切羽詰まったものになってくる。そして。
「ぷ、はっ――ぁ、ぁあああああぁぁん!」
ひときわ強く擦るのと同時に口を自由にしてやると、少女は肢体を激しく震わせて叫んだ。
――それでもまだ、意識は失っていない。
きよみは無慈悲に追い討ちをかける。荒い息をする少女の体を転がして、砂の上に四つん這いにさせる。捲れ上がったスカートは、もはや下半身を隠せない。太股と腰を繋ぐ滑らかな曲線が、彼女の目の前に晒された。
「……ぁ……」
視線に羞恥を煽られて、月子は居心地悪げに身じろぎする。その腰を捕まえ、顔を寄せる。仰向けでは塔の陰になっていたところに、細い切れ目のような溝があった。己が役割にいささか早く目覚め、その周辺は潤っていた。その蜜をきよみは舐め取った。
「ゃ――」
腰を浮かせて逃れようとするのを、白塔を鷲掴みにして引き下ろす。
「――ふああああぁぁっ!」
容赦のない強烈な刺激に、月子は呆気なくまた悦びを弾けさせた。
その手が砂を握り締め、浜に小さな指の跡を残した。
無論、それだけで終わることもない。
きよみ自身も両膝を突き、舌で秘裂を、手で塔を、もう片方の手でその先端を、玩具のように弄ぶ。
「……き、よみ、ちゃ……な、なん、で……!」
甘く喘ぐ僅かな隙間、舌が回るほんの少しの時間に、月子はどうにか言葉を紡ぎ出す。
「な、んで……勝とうと、する、のですか……」
「……おいおい。今更その話かい」
きよみは薄く笑んだ。答えることに口を使う間は、塔に加える手の力を強めて。
「言っただろ。ともだちがもういないって。でもこの戦いで勝ってやれば、ご褒美の夢の中で会える」
「でも、あ――んっ――あ、会えたとしても、夢のこと……なのです、よ……?」
「それが馬鹿にしたもんでもないって話だぜ。知らないことを知る夢を望めば、ちゃんと本当のことがわかるらしいし。
しかも時間も内容も無制限。だから考え方によってはさ、こういう言い方もできると思うわけ。どんな願いも叶う世界に生まれ変われる、って」
淡々としながらも饒舌な言葉。
そこに感じ取るものがあったか。月子は地面に着いたままの顔を、強いてきよみに向ける。
「……戻ってこない、つもり、なのですか……?」
「…………さあ。そういうのもありなんじゃない?」
「ダメ。ダメ、です」
「ん?」
此度は、きよみが僅かに驚いた。
月子は四つん這いになったまま。その瞳は未だ熱っぽく潤み、事実きよみが手を動かすたびに、あられもない嬌声を発している。
「い、いつかは……ゃ……帰らない、と。元帝王みたいに、なってしまい、ます」
「そういう話もあったっけ。でももしそんな風になるとしてもさ、君には関係ないだろ、幼女」
「あります。わたしは、や、やです!」
にも関わらず、月子の言葉はしっかりしてきていた。
きよみはどうしてか腹が立った。象牙の塔を握り締める。少女は背を反らし、声にならない声で叫んだ。
「私が勝ったら、君は私のことなんか忘れるんだけど?」
「そ――それでも、や、です」
「逆に万一――百兆が一君がここから逆転したとしても、そうすると私が君なんか覚えてないわけだ」
「覚えてなくても、やです。せっかくここで会えたのに、きよみちゃんが二度と起きなくなっちゃったら、や、です」
「……割と訳がわかんない」
きよみは低く呟いた。
これは自分にも理解できない高度なボケか何かか。だがその後に続けられた言葉は、なお彼女の思考を超えていた。
「だから、るんぬは、ここで――ひぁ――か、勝つことに、します」
「…………」
何故かは、やはりわからない。わからないのだが。
「……ほぉーう」
きよみはとても腹が立った。両手で触れた象牙の塔を、食器を手荒に洗うみたいに、滅茶苦茶な力加減で擦った。
「この様でどの口がほざくか淫乱幼女! バカ! アホ! 腹上死しろ!」
「やぁぁぁぁああん! だ、ダメ、ダメ、だめ――!」
きよみの吐息は熱かった。それはここに至るまでに心をかき回されたせいでもあったし、今まさに怒っているせいでもあったし、幼い少女を責め続けて、若干なりともその気にあてられたせいでもあった。
つまるところ冷静ではなかった。無論、月子も同じではあったが、彼女は自身の能力というものを、直観的によくわかっていた。
突然、きよみの手の中の感触が消えた。その事実を認識するのがまず一拍遅れた。
月子は立ち上がっていた。露わな秘部には何もない。どうして。再び一瞬の狼狽。
答えは極めて単純に、エルフェンバインは消してしまえる。必要がないのなら、ましてや弱点になっているのなら、出現させておく理由こそそもそもなかった。
それでも今まで月子は維持していた。だから有るのが当然のような錯覚を生じさせた。結果的にだ。そこまで深い思考は彼女にない。たまたま今消すことを思いついただけだった。
だがその錯覚が最後の運命を分けた。よろめきながら遮二無二飛びこんできた月子の体を、きよみは避けることができなかった。
時間にすれば数秒ほどの転機。
その直後、きよみは下になり、月子に押し倒される形となっていた。
「――なんとぉ!?」
「あなたが忘れてしまっても、もう二度と会えなくても、きよみちゃんは、るんぬのともだち、です」
月子は微笑んだ。顔に力が入らなくて、締まりのないものになったが。
きよみは逃れようとした。この瞬間こそが、彼女がこの夢の戦いの内で、最も本気になった時かもしれなかった。
「遊んでくれて、ありがとうございました」
故に、間に合わず。
再び出現した象牙の塔が、セーラー服のスカートに潜り込んだ。
「……んが?」
九頭原きよみは寝袋で目を覚ました。
朝の高原の爽やかな空気がテントの中まで満ちていたにも関わらず、寝覚めは最悪だった。まるで淫夢と悪夢を立て続けに見せられたかのような気分だった。
「おや、起きたかい、きよみオリジナル」
テントの床を丸くくり抜いて、きよみがもう一人現れた。
「起きたとも、土のきよみ。ところでなんで私はここにいるんだっけ?」
「そりゃああれだよ、きよみオリジナル。君が街中で怪獣騒ぎを起こしたから、ほとぼりが冷めるまで山奥に隠れようってことになったんじゃないか」
「そうだったね土のきよみ。……なんか他にもなかった?」
「言われてみるとあったような気もするけど、思い出せないよ。きよみオリジナル」
「ふーむ」
その時、二人の耳に足音が届いた。
テントの外の草原を踏む、おそらくは靴。数は一人。きよみは顔を見合わせた。
「誰だ。土のきよみ」
「見てみないとわからないよ。きよみオリジナル」
「そりゃそうだ土のきよみ。だが危ない奴だったらどうしよう」
「銃を持っていこう、きよみオリジナル」
「それだ」
「うむ」
二人は虚空から拳銃を取り出すと、近付いてくる足音の位置に目星を付け、瞬間移動で背後に回った。
狙いは的中。相手は気付いていない。
「動くと撃つ! 手を挙げろ!」
「ぎゃあ! ――矛盾してるやつじゃねえかそれ!」
「お?」
「む?」
聞き覚えのあるテンポだった。
相手は……きよみと同じ高校の制服を着た少女は、一応は撃たれる可能性を危惧したものか、おっかなびっくり振り返る。
「あー……。久しぶり。まあ、そんなに長くはいられないんだけどさ」
「……は?」
「……え?」
きよみたちは呆気に取られた。取られすぎて土のきよみは大地に還った。
本物もまた銃を取り落とす。
「……美津子」
やっとのことで、それだけを口にする。その後の言葉は続かない。
遠藤美津子も黙っている。向かい合い、互いだけを見て、静かな時間が過ぎていく。
やがて、二人は。
「……むー……」
ベッドで寝息を立てていた少女は、もぞもぞと動いて目を開けた。
見慣れた寝室が目に入る。母親のベッドは今日も空だ。
枕元のデジタル時計を見た。……一日だけ、寝過ごしてしまったらしい。
「……きよみちゃん、おともだちと、きちんとお別れできたでしょうか?」
自分の足の付け根を探る。寝る前から発動しておいたエルフェンバインは、今もきちんと存在を主張していた。
好きな夢を――きよみちゃんが会えなくなってしまったという親友の夢を。
好きなだけ――二人が納得できるまで。
その内容に、エルフェンバインの、夢の住人を世界に呼び出す力を加えれば。
きっと、うまくいったはず。
今日も平日。学校がある日だ。
月子はベッドを抜け出して、いつも通りの準備を始めた。
教室に行ったら杏ちゃんに、色々なことを話してあげようと考えながら。
戦いに勝った他の誰かは、もっと利益のある内容を望むだろうか。
仕組みを知った他の誰かが、目の覚めるような素晴らしいアイデアで、無色の夢を役に立てるだろうか。
だが、曲々月子にはこれでよかった。
思い出こそは、夢の国からただ一つ持って帰れる、輝かしい財産なのだから。