曲々月子プロローグ
生徒はみんなそろそろ帰らなければいけない、夕方のこと。
蓮知杏は図書室の扉を開けた。図書委員として、下校前に日課の見回りをしておこうと思ったのだ。
窓の向こうの傾いた太陽が、部屋の空気を朱色に染めている。
古ぼけたストーブが燃やす石油のにおいが、かすかに鼻の奥に触れる。
穏やかで、そして忘れられたような静けさ。校舎の中でも目立たない場所にあるここは、普段から生徒が来ることは少ない。
今も、そうであるようだった。
杏はそっと足を踏み出す。
彼女は、委員としての活動以外でも、それなりに本に親しむ方だ。だから、ばたばたとうるさく足音を立てて、いるかもしれない誰かの邪魔になることはしない。
途中、貸し借りをするカウンターの前を通る。誰もいないが、変には思わなかった。こんな時間だ。自分以外の図書委員が残っていなかったり、先生が席を外していたりしたって、おかしくはない。
立ち並ぶ本棚の隙間を抜けて、部屋の一番奥に出る。
そこは狭く、ひそかな空間だった。入口やカウンターからは本棚が視線をさえぎって見えず、窓の外は校舎裏に面している。
かわいらしい文字と色使いで“どくしょスペース”と書かれた紙が、セロハンテープで壁に貼られていた。
窓際には机が並ぶ。教室にみっしり詰まったのとは違う、大きくて、どっしりとしていて、一つに四つの椅子がついているものが。
三つの机、十二の椅子に、腰かけているものの姿はない。今日も異常なし。ほっと息をついて踵を返そうとしたそのとき、視界の端に気になるものが掠めた。
それは開かれたままの本だった。
左側の机の隅。ページをめくる手も添えられず、図書室そのものと同じく忘れられたようにしてそこにある。
よく見れば、その傍らの椅子は、他のより少し机からはみ出ている。ふと杏はこんな想像をした。たった今まであの本を読んでいた子は、何かとても不思議なことが起こって、物語の中に入ってしまったんじゃないか――
「……えーい、です♪」
「ふひゃあああああっ!?」
――背後からの声は気が抜けるほど柔らかかったが、杏は飛び上がるほど驚くことになった。
いつのまにか間近まで忍び寄っていた声の主が、まるで無防備だったお腹の両脇を、ぎゅっと掴んだからだった。
「ふふ……杏ちゃんは、思ったより、ぷにぷにじゃないのですね。お洋服の上からでも、わかります。ちゃんと、ごはん、食べてますか……?」
どうやら自分のことを知っている誰からしい。しかし、杏にそんなことを気にしている余裕はなかった。その誰かの手はまだ離れていなかったし、強くて弱い奇妙な加減で指先を押し込まれるたび、くすぐったさが走り抜けてへたりこんでしまいそうになる。
彼女はじたばたと暴れて体をよじった。すると意外にもたやすく解放された。脇腹を抱くようにしてかばいながら振り向くと、ほほえむ琥珀色の瞳と目が合った。
「……月子、ちゃん?」
「はい。るんぬ、です」
杏からしても、その少女は見ず知らずの他人ではなかった。
同じ組の曲々月子。変わった読み方をする名前で覚えやすかったし、お互いに本が好きと分かってからは、二人で話すこともそこそこあった。
それに何より、その姿。白いセーターにチェックのスカートという服装こそ普通だけれど、膝の裏まで届くほどの長くてきれいな灰色の髪と、まん丸の月のようにきらきらした目は、一度見たひとならきっと忘れない。
……こんなふうに、ときどき、いたずらっぽいところも。
「……なにをしてたの?」
「ここは図書室なんですから、本を読んでたに決まってます。杏ちゃんったら、るんぬがここで、道化蛾みたいに騒いでたなんて思っちゃうのですか……?」
月子はぷい、と顔をそむけた。
あまりにもわざとらしい仕草だったのだが、杏は言葉をなくした。謝ったり笑ったりして会話をつなぐのを忘れてしまうような何かが、頬をふくらませた横顔にはあった。そんなふうに感じることなど、今まではなかったのに。
けれど、彼女がその感情の正体に気付くよりも早く、月子はころりと表情を戻した。
「……とゆーのは、とーぜん、嘘です。お願いがあって、杏ちゃんを待ってました」
「え?」
二重に意表を突かれた杏の手を、両手で包み込むようにして月子が取る。
すっと近付けた琥珀の瞳で、杏の顔を覗き込む。
杏は色のある鏡に映る自分の姿を見た。
ありふれた黒い髪は三つ編みにしただけ。よくある黒い目には眼鏡をかけている。無地のパーカーとデニムを着て、ひとに気を向けられるところは一つもない。月子とはまるで正反対。
……だけど、だから、仲良くなれるのではないか。こっそり、そう思っていた。
月子はひとと違うせいで、集団からは浮いてしまう。杏はひとと同じすぎるせいで、集団の中に埋もれてしまう。
ひょっとしたら、自分たち二人には、共にできるところがあるのではないかと。願望に近い予想を抱いていた。
「……お願いって、なに?」
そっと尋ねると、鏡の中の自分が揺れる。
月子の瞳は潤んでいた。
「はい」
それは寂しさや切実さとは違うものが原因だったのだけれど、そう察するには杏は子供すぎた。
「……るんぬと、気持ちいいこと、しましょう……?」
「……えっ?」
ぱちり、と音がした。
留め具を外されたズボンが落ちて、素足と白い下着がむき出しにされる音だった。
「なっ――ななな、な、なにしてるの!?」
「あは……。照れなくて、いーのです」
杏はあわてて振りほどこうとしたが、背中に回された腕が今度はしっかりと捕まえていて、逃れることができない。
それどころか、もう片方の手が、下着までをも魔法のように奪った。杏の顔が真っ赤に染まった。
「や、だ、だめ! 返して……!」
「ぜんぶ終わったら、ちゃんと返してあげます。だいじょーぶ……怖く、ないですよ」
「ひゃぁんっ!?」
何も守るもののなくなったそこへ、細くてあたたかい指先が触れる。
全体を撫でたり、亀裂をなぞったり。そうされるたびに、先ほどくすぐられたときのような、しかしそれよりもずっと強い、よく分からない感覚がこみ上げる。
「見た目どーり、すべすべ……杏ちゃん、かわいー、です」
「ふあ、ぁん……ん、んっ、んん……んんん……っ!」
杏は口を閉じ、声を殺そうと必死になった。残っている生徒がいないかと、いつ先生が来るかもしれないのだ。こんな格好でいるところを見られたら……。幸い、この場所は隠れているから、音さえ出さなければばれないかもしれない。
けれど無駄だった。何かが頭の中をいっぱいに満たして、爆発した。ちかちかと視界に星が飛ぶのを見ながら、杏は自分の叫びがこだまするのを聞いた。
もう、立っていられない。
くずれ落ちかける体を月子が支え、やさしく床に横たわらせた。
荒い息をする杏を、熱に浮かされたようなまなざしで見下ろしながら、月子は濡れた指先をぺろりと舐めた。杏の心臓が大きく跳ねた。
「……どうし、て……」
ぼんやりと呟く。
なぜこんなことをするのか。それに、月子がこんなに力持ちだったなんて。体育の時間の運動は、杏のほうがまだいくらか得意だったのに。
「それは、ですね」
月子は答え、
「これがあるからです」
自分のスカートを、胸元までめくり上げた。
杏の目は釘付けになった。月子はすでに下着をはいていなかった。そして、本来ならあるはずのない場所に、あるはずのないものがそなわっていた。
白くて、長くて、硬そうな、棒のようなもの。今は何もされてはいないのに、それを目にしているだけで、胸の鼓動がどんどん早まっていく。
「きのうの晩に、夢を見ました。目が覚めたら、こんなふうになれるように、なっていました」
月子が膝を折り、床に着けて、杏に覆いかぶさる姿勢を取る。
灰色の髪の一筋が垂れ落ち、鼻先をくすぐる。甘い香りがした。
「あれがきっと、るんぬの、入り口なのです。
あの本ではなかったけれど、わたしは今夜、夢の世界にいきます」
杏には、その意味のすべては理解できなかった。
だが、夢の世界というものの、姿の一部はわかる気がした。ほとんど視界いっぱいになるまで近くなった月子の顔の向こうに、硝子の塔や、限りなく広がる美しい花園を見たように思った。自分たちを取り巻いて、不思議な格好をした生き物が、色々な声音で喋っているように感じた。
ただの錯覚か、こうして触れ合っていることで月子の描くものが伝わってくるのか、あるいは本当にそこに現れているのか……それは、わからなかったけれど。
「……でも、向こうでともだちを作っても、ここにいるともだちの杏ちゃんのことは、忘れたりしません。
これは、そのあかしです……あなたに、わたしのはじめてを、あげます」
「ぁぁ……」
杏の喉が震え、熱のこもった息を吐き出す。
これはきっといけないことだ。頭はそう思っているのに、体は勝手に足を開き、月子を迎えるように両手を伸ばしてしまう。
ともだち――。仲良くなれればいい、と、隠した思いを持っているだけのはずだったのに。その相手から受け取った言葉が、拒もうとする意思をなだめていく。
そんな彼女の耳元に、月子が唇を寄せ、ささやく。
「そう……。そのまま飲み込んで。るんぬのエルフェンバイン……」
西日が差し込む図書室に、少女二人の嬌声が響き渡った。