菱川結希プロローグ
菱川結希プロローグ「周回遅れのスタートライン」
――その時、私はひたすら走っていた。
千切れそうになる足に喝を入れて、私は前だけ向いて走る。
呼吸をする一瞬がもったいない。まだだ、まだ動かせる。自分にそう言い聞かせながら、ただひたすら足を動かす。
刻限まではあと5分足らず。もう、諦めてもいいんじゃないか。そんな甘い考えを吹っ飛ばす。
(約束したんだ。だから、絶対たどり着く!)
誘惑なんて見えやしない。諦めなんて知ったこっちゃない。
大事なのは約束を守ること。私を信じてくれた人を、絶対に裏切らないことだけだ。
能力を使えば間に合うんじゃないか。鎌首をもたげる次の誘惑は、ひどく魅力的だった。
私の特殊能力『アムネジア・エンジン』は記憶と引き換えに力をくれる。もちろん、何のために走っているのかを忘れるなんてことはない。
一番必要な記憶が消えるのは他にくべる燃料がなくなってから、消えていくのは、二番目に大事な記憶から。
だから――だから、今は使うわけには行かない。
今の私の頭に詰まっている記憶をエンジンにくべるわけには行かない。私は、自分の身体だけで走らなくちゃいけない。
平坦な道が終わり、次にやってくるのは長い階段。残り時間はあと3分。間に合うかどうかは未だ未確定。
立ちはだかる最後の難関を、私はキッと睨みつける。
あと少しだ。限界まで足を動かせ、一秒でも時間を短縮しろ。私の未来を、掴むために。
リズミカルに階段を蹴る。ゴールは近い、最後の一段を踏み切れば……
そこで、視界が暗転した。
原因は明白、単純な酸欠。呼吸をする間すら惜しんだ代償だ。
反射的に吸い込んだ息はリズムを崩す不協和音に。たったそれだけの綻びで、私の足は全てを踏み外した。
落ちていく、落ちていく、苦しみながら、もがきながら、伸ばした手は空を切る。
終わりを告げる時計の音を聞きながら、私は、奈落の底へと落とされた。
――もがきながら、苦しみながら、私はどんどん落ちていく。
――それにしてもおかしい、もう随分と長い間落ちている気がする。この階段はこんなに長かったっけ?
――ああ、息が苦しい。呼吸ができない。これはまるで……鼻を……つままれているような……?
~~~~~
「ふがっ!」
息苦しさで目を覚ますと、視界いっぱいに誰かの手が見えた。
空からそそぐうららかな日差し、背中には硬い感触。どうやら私はベンチで寝っ転がっていたみたいだ。
「起きてください、ねぼすけさん」
「ふぁ、文乃……?おはよひゃひゃひゃ」
半ば寝ぼけたまま挨拶を返すと、文乃は摘んだままの私の鼻を引っ張った。
「はい、文乃ですよー。よくわかりましたねー。それじゃあ聡明な結希ちゃんはなんで鼻を引っ張られてるかわかるかな~?」
文乃が怒っている。怖い。何か怒らせるようなことをしただろうか。
記憶を探ってみるが全く分からない。だが、わかりませんとは言いがたい。それを言ったら怒られる気がする。
ちょっと真面目に考えてみよう。早いところ正解しないと、鼻が引っ張られてのびてしまいそうだ。あと痛い。もしかしたら伸びきる前にちぎれるかもしれない。
確か……今日は、朝早くに家を出た。登校途中で自動車が脱輪して困っている人が居たから『アムネジア・エンジン』を使って車を持ち上げてあげた。
それなりに感謝されて、それなりにいい気分で登校して、随分早くに大学についたので二限の講義が始まるまで仮眠でも取ろうと思って……
あれ?
そもそも、なんで私は朝早くに家を出たんだっけ?
「んむむむふががが……ふが?」
思い出せずに悩んでいると、引っ張られていた鼻が不意に離された。
文乃はため息をつき、さっきまで私の鼻をひっぱっていた指でこつんと私の額を小突いた。
「もう、また能力使いましたね」
「ふぇ、なんで分かったの?」
「それはこちらをご覧あれ」
文乃は手帳を開いて私に見せる。今月のカレンダーのページ。今日のところに可愛らしいシールが貼ってあり、一時間目と書いてある。
前に文乃が教えてくれた。このシールは、私と同じ講義が入っているマークで……一時間目に……?
「あああああ!」
すっかり忘れてしまっていた。そうだ、今日は一時間目の講義に出るために早起きしたのだ。
多分『アムネジア・エンジン』に焼べてしまったのだ。自動車を持ち上げる力の代わりに、今日の講義の予定を忘れるなんて……
頭を抱える私に、やけににこやかな文乃の声が投げかけられる。
「昨日帰る前にも言ったし、夜もメールしました。モーニングコールも。これで能力使ってないけど忘れた、なんて言ったら怒りますけど?」
「もう怒ってるような……」
「あ?」
「ごめんなさい!」
またやってしまった。私はいつもこうだ。目の前のことが放っておけなくて、ついつい大事な記憶を焼べてしまう。
自己嫌悪におちいる私を前に、文乃はまたため息を一つ。
「何かあったのか心配してたらまあ、こんなところでぐーすかぐーすか……全くもう」
「反省してます……」
「期末テスト前だって分かってます?出席も、テスト範囲の確認も、すごく大事ですよ」
「分かってます。もうしません……」
「本当に?」
「……」
視線が怖い。
「本当に?」
「出来る限り善処したいと思ってはいます……」
さらに大きくため息をつかれた。
「でしょうね。まあ、結希の癖が治らないのは仕方ない。不治の病ですからね」
不治ってことはないだろう、というとまたにらまれるので反論しない。
「あ?何か言いたいことでも?」
口に出してないのににらまれた。ありませんすいません。
「分かったならいいです。ほら、二限も講義があるのは忘れてませんよね?行きましょう」
文乃に、今度は手を引っ張られて私は立ち上がる。
背中がやけにべったりしている。夢見が悪かったせいか、いやな汗をかいていた。
「まあ、今回は油断してた私も悪かったです。明日からは迎えに行きます」
「えっ!?そんな、悪いよ」
「待ちぼうけさせられるよりはマシですよ。まったく……それで、サボっている間にいい夢は見られました?」
何気ない、ちょっとした嫌味のつもりだったであろうその言葉は、私の心に少しだけ刺さる。
夢で見たのはあの日のこと。私が約束を守れなかった日。私が……全てを、失った日。
「結希?」
「あ、ううん。たいした夢は見なかったよ。寝心地も悪かったしね」
心配そうな文乃にそう返したところで、私の身体は凍りついた。
私達とすれ違うようにやってくる上級生のグループ。仲よさげに談笑している。
私はうつむき、視線をそらす。
上級生達は私に気づいただろうか。知りたくない。知られたくない。私は目をそらしてやり過ごす。
突然、手が引っ張られた。文乃が私を引っ張っている。
「あ、えっと……」
「行きましょう」
有無を言わせぬ口調で、文乃が私を引っ張っていく。視線を合わせず上級生達の横を通り抜ける。
談笑していた上級生たちが黙ったような気がした。視線を感じるのは気のせいだろうか。
「結希」
手が強く握られる。
「あなたはもう大丈夫。私が居ます」
ふっと、冷えていた心にぬくもりが落ちた。
「だから、ほら、行きましょう?」
「そだね……ってもうこんな時間!?急がないと遅刻だよ!?」
「そうですね。誰のせいでこんな時間になったと思ってるんですか?」
「私のせいです、すいません……」
かつて、道を踏み外した私が居る。
そんな私のとなりに居てくれる、文乃が居る。
だから、私はもう二度と、同じ間違いはしない。そう信じることができた。
~~~
その日の夜。
いつの間にか、私は何も無いところに居た。
意識はやたらと明瞭だ。確か……さっきまで私は期末テストに備えて勉強をしていたはずだ。
一段落したところで切り上げて、明日に備えて早めに寝て……
となればこれは、夢か。
そう自覚した途端、頭のなかに何かが流れてくる。
――無色の夢を見た者同士は戦う定めにある
――勝者には褒章を、極上の夢を
――敗者には罰を、長き悪夢を
――開幕は翌、午前0時
――心せよ、これは只一度の機会である
………
…………
……………
跳ねるように私は飛び起きた。机に突っ伏して寝ていたため身体が痛い。窓からは朝日がさしている。
起きるときに飛ばしてしまったのか、教科書とノートが机の脇に落ちている。
だけど、私にはそれを拾う余裕もなかった。
スマートフォンを手に取り、祈るような気持ちでスケジューラーを起動する。
何度も、何度も、何度も何度も見直すけど、そこに書かれた予定が変わることはない。
あの夢で告げられた戦いの時刻は次の0時から。
勝てば良い夢を、負ければ悪い夢を見ることになる――どちらにせよ、何時間か睡眠に時間を拘束される。
良い夢ならいい。すぐに起きることはできるはずだ。
だが……悪い夢は、どれだけ長くなるか分からない。数十分か、数時間か、数日か……
それは、私が全てを失ったあの日を繰り返すには、十分過ぎるほど長い時間だ。
動悸が早くなる。心が冷えていく。喉に物が詰まったように息が苦しい。
「また……なの……」
あの日の記憶がよみがえる。昨日見た、悪夢のあの日。
守れなかった約束が、全てが、私の手からこぼれ落ちていったあの日。
「どうして……私が……」
涙が溢れる。もう二度と繰り返さないと誓ったはずなのに、こんな、こんな偶然でまた全てを奪われるなんて……
絶望に足をとられる。もう二度と、立ち上がれないような気さえしてくる。
そんな私を
「結希ー。起きてますか?」
文乃の声が、引き上げてくれた。
「寝てますね。まったくもう……開けますよー」
カチャカチャ、と合鍵を使って文乃が私の部屋の扉を開ける。
いつもと変わらない文乃が、そこにいた。
「なんだ。起きてるじゃないですか。返事くらいしてくださいよ……どうしたんですか?」
涙を拭い、笑顔を作る。
そうだ。一度全てを失った私にも、隣に立ってくれる人が居る。
だったら、諦めていい理由なんて無い。
「ちょっとね……ね、文乃」
「なんですか」
「私ね……もう二度と、留年しないよ」
去年の今頃、私は必修科目の試験を寝過ごした。ものの見事に寝過ごした。
時間に厳しい教授は遅刻した私の受験を許してくれず、そこで私の留年は決まった。
友達は皆、進級して……私は一人、取り残された。
死んだような気持ちで、見知らぬ下級生たちと一緒にオリエンテーションを受けている時、ただ一人声を書けてくれたのが文乃だった。
「何馬鹿なこと行ってるんですか、流石にもう一回留年したら愛想が尽きますよ。結希『先輩』」
ふつふつと、心の中に決意が湧き上がってくる。
文乃は同級生になった先輩を暖かく迎えてくれた。彼女の優しさに、私は救われた。
彼女の隣に居たい。一緒に進級したい。……もう、置いて行かれたくない。そのためなら、どんなことだってできる。
「ありがとう。それじゃ、行ってくるね」
絶対に勝たなくちゃいけない。そのためには準備がいる。
勝つために、私は部屋から駆け出そうとして。
「なんで留年したくないって言って学校サボろうとしてるんですか」
首根っこを掴まれた。
「いや、その、準備が……」
「あ?」
「すいませんでした」
……とりあえず、準備は学校が終わってからにしよう。そう思った。
菱川結希プロローグ「周回遅れのスタートライン」了
最終更新:2016年01月25日 20:19