保坂一誠プロローグ


世の中の大半が気づくことのない、ささやかな事件があった。

郊外の峠で、一人の男がドライブ中の事故を起こしていた。
右の前輪のホイールが脱落しており、整備不良によるホイールナットの緩みが原因とされた。
幸いにして事故に巻き込まれた者はおらず、運転手の男だけが、全治一週間の軽傷を負っている。

ほど近い町では、一人の男が町を発つ準備を整えていた。
老母が好むロックバンドのライブツアー鑑賞の旅は、親孝行も含めて三泊四日ほどの休暇になるだろう。
母が希少な公演チケットを偶然手に入れた経緯について、別段気に留めることもなかった。

深夜、泥酔の末に喧嘩騒ぎで留置された、一人の男がいた。
先に絡んだのは相手の浮浪者の側だったが、男には傷害事件としての起訴が見込まれていた。
加害者の男が、格闘技の……アイドルの段位者であったことが、その理由だった。

世の中の大半が気づくことのない、ささやかな事件。
ゆえにこの時点で、三つの事件の共通項を結び付けて考える者も存在しなかった。

――彼ら三人はすべて、マカマカ教体操学名誉顧問、天川宗理の高弟であった。



空調が稼働するかすかな音が、最初の違和感だったのだろう。
早朝6時。天川宗理がダンススタジオの照明スイッチに指をかけた時には、異変は始まっていた。
――死角からの上段回し蹴りが、その指を襲っていた。

「おめぇ」

天川宗理は、寸前でスイッチから引いた手で、ほぼ無意識に上段をカバー。
続けざまに放たれた顔面への蹴りを受け、叩き落とす。
奇襲であった。

一度目は指を狙い、壁を反動に、同じ蹴り足での上段蹴り。それも扉を開けた入口の死角――暗闇から。
そこまで計算している。生半なアイドルであれば、この時点で意識を刈り取られていただろう。

「……何モンだよ」

脅威を認識すると同時、吊り上がる口角を天川は自覚している。
敵の影はひとつ。一人で、かつて伝説と呼ばれた老アイドルを相手取ろうとしている。
こいつは、何者だ。

「保坂一誠」

暗がりに白く浮き上がる、猟犬めいた三白眼が印象に残った。
襲撃者はトントンと跳ねるようにステップを踏み、既にスタジオ中央へ陣取るように距離を取っている。
このまま入口付近で白兵戦に持ち込んでしまえば、天川だけが遮蔽に隠れながら戦うことができた。
慣れてやがる。

「青年部の保坂一誠。覚えてないかな? どっちにしろ、まあ……これから覚えてもらうんだけどさ」
「ガキめ。不意突きてえなら空調くらい切っとけや」

天川は誘いに乗らず、会話による探りを選択した。室内の闇に慣れる時間が必要だった。

四肢は太く、極限まで鍛え込まれていることがわかる。
身長は160cm半ば。リーチでは天川宗理に分がある。格闘者として、小柄な部類であるとさえ言えた。
それでも、確信する。

(アイドル。やってる奴だわなァ……)

老いたとはいえ、かつて伝説のアイドルとして名を馳せた天川宗理が、一度、攻撃を防ぐ必要があった。
何よりもそのステップが、攻撃のリズムが、ふんだんにフリルをあしらった黒基調のゴシックドレスが、
男の――保坂一誠の、抑えきれないほどのアイドル性を表している。
こいつは何者だ。天川の知らないアイドル。今までどこに隠れていた。

「困るよなァ……弟子連中がな、スタジオに来ねェんだ」

頭を掻き、笑う。普段装っている好々爺の印象からかけ離れた、獰猛な笑みになっているのだろう。
強者の血を、ライブを求める気持ちだけは、現役時代から、呆れるほどに変われない。
世捨て人めいたスクールストロベリージャージすらも、その実、アイドルとしての常在戦場精神の現れである。

「ここ何日かな、朝っぱらの掃除から何から……オレ一人でやらなきゃなんねェのよ」
「知ってるよ。こうでもしなきゃ、立ち会ってくれないタイプでしょ、アンタ」

暗闇から返るのも、牙を剥く凶暴なスマイルアピールだった。
……こいつが。この保坂一誠が、天川宗理から高弟三人を引き離した。一対一の状況に持ち込んできた。
そういう戦いができる『やつ』だ。

「何が狙いだ、おめぇ」
「『無色の夢』」

襲撃者は油断なく構えたまま、天川が室内に踏み込む機を伺っている。
『無色の夢』を見た後、教団のインタビューに答えたことを思い出す。いつかの会報に乗っているはずだ。
頻発する異常昏睡事件にまつわる、くだらない都市伝説。
天川宗理自身も、知らずその発信源のひとつになっていたか。

「アンタがそれを見た話は、教団の連中なら誰でも知ってる。その後、どういうことが起こるのかも。
 ――俺もそいつを見た。詳しい話を聞きたくてさ」
「カハッ、ジジイの夢聞くだけで、ここまでする野郎があるかよ」
「あるんだよ。怖いなら逃げても構わないけど? 警察に通報すれば間に合ってくれるかもだし。
 アンタの側はかよわいジジイだもんな……ま、そんなことが信者どもに知れ渡ったら」

保坂一誠はダンススタジオの中央。天川宗理は入口前。

「アンタも名誉顧問失職だろうけど」
(挑発。会話を打ち切ろうとしてやがんな)

攻めさせようとしている。達人級のアイドルとただの喧嘩自慢を隔てる大きな壁は、経験による予測だ。
短い攻防の間で、保坂一誠の戦力は概ね理解していた。
技量では圧倒的に天川宗理が上だ。それでも天川が踏み込んでいけない理由はいくつかある。
保坂一誠は、このダンススタジオの有利を最も活かす、中央に陣取っている――
壁に追い詰めることができる立ち位置だ。

ダンススタジオの壁は鏡張りで、室内に踏み込めば、後ろ手の初動をほぼ見破られてしまう。
照明のスイッチを入れ、暗闇に慣れた敵の目を眩ませた一瞬に攻めかける手もあるが、不可能だろう。
……その不可能に気づいていないかのように、保坂を騙す必要がある。

(この手で行くか)

おもむろに、照明のスイッチに左手を伸ばす。
機を逃さず、助走の勢いをつけた蹴りが天川の指に飛んだ。

「ぐうっ……!?」

……だが。短いうめきを発して倒れたのは、保坂一誠の側である。
アイドル同士の戦闘は、往々にして一瞬で終わる。
天川宗理が切り抜けてきた、多くの実戦と同じく。

「アイドルとやるつもりならよォ……サイリウム術も当然知ってらあな?」

老いたアイドルは武器を突き出したまま、笑った。

スタジオの入口前……室内から見えない位置に、傘立てが存在する。
保坂一誠の蹴りのリーチよりも、さらに長く。槍の如き勢いで、傘の石突が脇腹に食い込んだのだ。
会話に気を逸らし、右の後ろ手に構えていたものだ。
故に、有利な位置に陣取る保坂の側から仕掛けさせる必要があった。

「かはッ……! くそ、いッてえッ……! ああっ!」
「アイドルに武器を寄越すのは、バカだぜ。おめぇ」

照明を点ける意図など元よりない。保坂一誠は、恐らく照明のブレーカーを個別に落としている。
指を狙った最初の回し蹴りで……誤ってスイッチを入れてしまっても構わないように。
加えて、天川がスイッチを入れようとした瞬間、再び指を狙った一撃を叩き込むため。
空調が点けっぱなしだったことすら、スタジオに電気が通っていると印象を植え付け……
『照明の』ブレーカーが落ちているという事実に至らせないための工夫だったか。

保坂一誠。マカマカ教の青年部に所属している。
『無色の夢』を追っている。
そのためだけに、伝説のアイドル、天川宗理を暴力で襲う。
だが、周到に奇襲を仕掛ける頭脳も持ちあわせている。
そして、アイドルでもある。
こいつは何者だ。

「いてええ……クソッ、いてえ……。痛……」
「おう。とりあえず眠るか?」

保坂は既に戦闘不能だ。次は意識を刈り取る。
地面を転がり悶えるその頭部に、間髪を入れず――傘の石突を、

「……く、ねぇ」

掴まれた。



――伝説のアイドルと、戦う必要があった。

ずっと、独りでアイドルを続けてきた。
他に情熱を傾けるべきものを持っていなかったから。
守ってくれる者のいない保坂一誠は、世界と戦う手段を他に知らなかったから。

無銘のDVDに刻まれたライブ映像がある。
はじめは何ひとつ持っていなかったが、それだけは持っていた。
一日の大半で。一年の大半で。……二十年近くの大半で。
試声(ボイス)、吐納(ブレス)、套路(ダンス)、歩法(ステップ)。
擦り切れるほどにライブ映像を眺めて、保坂一誠が身につけた動き。

(……やっぱ、すごいな。天川宗理――)

アイドル全盛の時代は、彼が生まれるよりも前に過ぎ去ってしまったのだという。
かつて無敵を誇った殺人術は新興宗教の健康法に堕して、レッスンも形骸化した。
今の子供の誰一人として、アイドルの強さを信じている者などいない。
最初に持っていた映像がライブ映像でなければ――それに縋る必要もなかったなら、
きっと、保坂一誠がアイドルを目指すこともなかった。

それでも、時代の全てがアイドルを忘れ去ろうとしている中でも、
伝説のアイドルは……何十年もの間、牙を失わずにいた。

(天川宗理。この世でアンタだけは、全盛期の、ままだ)

耳を潰す軌道で傘が突き下ろされる。
その容赦のなさがうれしかった。

「痛……く、ねぇ」

その瞬間を狙っていた。石突を掴み、引き寄せて崩す。
長柄武器を介した『崩し』は、相手が掴ませてくれる限り、素手への崩しよりも遥かに容易い。
同時に、右足のトーキックを金的へと捻じり込む。
スクールストロベリージャージのコーデならば、股間を守る余地はない――

「おおッ! と……危ねえ、危ねえ」

……防がれている。
腿を閉じて内股に、猫めいた可愛らしいピーカブー・スタイルで顔面を防御。
顎を引き、上目遣いに。見事なまでのキュートアピール。
必殺を狙った反撃は一瞬で読みきられ、顔面、腹部、金的の全てに対応した。
完全に虚を突いていたはずだ。あまりにも滑らかな攻防の切り替えだった。

「迫真の演技だと思ったんだけどな……。わざわざ……崩しに持っていけるように、傘まで置いといたのに」
「嘘ぬかせ。使わせるための武器なら、持ち手に剃刀でも瞬着でも仕込むぜ」
「そんなのアンタには通用しないし、石突の方を持たれたら俺が危ないでしょ。……それに」

蹴りを放った反動で、十分に距離は取っている。再び部屋の中央で、奪った傘を構えた。
ポールに巻き付くアイドルの如きセクシーアピール。別の武術では八相の構えとも呼ばれる。

「どっちみち俺が使うつもりだったし」

半身になることで、先程痛打を受けた右脇腹を庇っていると思わせる狙いがある。
……だが、痛みは感じていない。
戦闘不能の傷を負いながら攻撃に転ずることができた理由は、そこにある。
保坂一誠は魔人だ。

能力の名を『自明なる公理』という。
『痛くない』と口にした時点で、実際に肉体から全ての痛みを消し去るほどの、強力な自己暗示能力。
人間である天川宗理を、地の利を活かして襲ってなお、この能力を前提に策を練る必要があった。

「……なんでまた『無色の夢』のことなんざ聞きてェ」
「のし上がるために決まってるだろ。……俺の考えなら、『無色の夢』はそのための最短ルートになる。
 ……アンタ、今の状況のままでいいと思ってるわけ? ……本当に」

……余計なことを言った、と保坂は思う。
常に勝利への布石として会話を投げるべきだったのに、思わずそれを口に出してしまった。

強大な勢力を誇る教団。教団体操学名誉顧問、天川宗理へと届く道。
保坂一誠はまだ、果てしなくのし上がらなければならない――

「何がだよ? 全国のガキどもがオレのレッスンをやってて……
 尊敬されて、高い金でおまんまも食えてる。あいにく、恵まれすぎなくらいだぜ」
「嘘だ。俺は『今の状況』としか聞いていない。心の底で後悔しているからそう答える。
 今の教団のアイドルレッスンなんて、アイドルじゃない。ただの踊りじゃないか……
 アンタが人生をかけた……本物のライブパフォーマンスを見せられる日は、もう永遠に来ない」
「……」
「ビジネスに役立つ精神鍛錬? 誰でも出来る長寿体操? 会いに行けるアイドル?
 ――ふざけてる。全部クソ喰らえだ。
 本物のライブパフォーマンスは、気に食わない奴をブッ殺して、勝つための力だ。
 天川宗理。アンタは、悔しくないのか……」

――子供の頃から、アイドルに憧れていた。

たとえ彼の両親を殺したのが、薬物に溺れた地下アイドルだったとしても。
彼の手にただひとつ残された、アイドルのライブDVDに刷り込まれた夢だったとしても。
幼い頃からそのステージだけが、保坂一誠が見ることのできた、世界の輝きだった。
ただ純粋に、強さに憧れていた。アイドルの強さに。

若くして青年部幹部に上り詰めた保坂のことを、若き天才という者がいる。
教団の中では異例の成功者で、同年代に並ぶものはいないという者がいる。
これからの名誉も金も、約束されているのだろうという者がいる。

……何もわかっていない。
その程度のことでは足りない。
まだ、果てしなくのし上がらなければならない。
最強のトップアイドルならばきっと、保坂のいるようなステージでは踏みとどまっていないから。
保坂が目指した夢ならば……あのライブ映像で見たアイドルならば、
絶対に、妥協などしないはずだ。

「で?」

天川宗理は冷淡に笑ったように見えた。
かつて、トップアイドルに最も近いとすら言われた男。
現役を退いて久しい彼のスクールストロベリージャージは、遠い時代に色あせている。

「どうすンだよ実際。ぐっすり眠るだけで成功できるとくりゃ、オレも今頃億万長者だろうよ」
「……封筒を使う」

保坂一誠が僅かの感情を露にした、先の一瞬。天川から仕掛けるにはこれ以上ない隙だったはずだ。
老いたアイドルは何故か、会話を続けることを選んだ。

「夢の報酬で『好きな夢を見られる』ってさ、アンタは言ってたよね……
 普通の夢とは違うなら、試合の世界と吉夢の世界を、アンタ以外の誰が作ってる?
 ――そこで封筒の」
「封筒の中に……協力者しか知らねェ何かを書かせて、オレの部屋に置かせとくわな」

瞳孔が開く。
天川宗理がそのアイデアにまで辿り着いていたことは、保坂の想像の外だった。
……だからこそ、今も体操学の名誉顧問などに甘んじているのだと。

「そんで? 夢の中で封筒の中を見て? 帰ってきた時に協力者に確認を取れば、分かるってか。
 ……夢を見ているオレ自身も知らない、『隠された情報』を、夢の中で見られるかって話をよォ。
 オレもそいつを確かめた。……大当たりだったぜ」
「だったら……どうして、」

神速の前蹴りが襲っていた。
咄嗟の迎撃に振り下ろした傘は、鎌のように曲げた天川の膝に絡め取られ、破壊される。
今度は逆に保坂が、引きこまれた傘に崩される番だった。

(……天川宗理!)

直撃。肺への掌打が次の呼吸を停止させた。襟首が掴まれる。

「潰すぜクソガキ」

獰猛な狩猟の表情が。アイドルとして最高のスマイルが、保坂一誠の眼前にあった。

(ああ)

高弟三人を遠ざけて、暗闇のダンススタジオで襲い、狙い通りに傘を使わせた。
先程まで、保坂一誠が、ライブの流れを完全にプロデュースしていたはずだった。

(ヤバい)

襟首を深く掴まれている。浅くフリルを掴めば、千切って逃れることができると知っている。
隙を見せたあの一瞬を突かれなかったために、知らぬ間に保坂の側が『会話』を選ばされていた。
保坂の求める情報と、予想外の返答。それがどのように心理を揺さぶるのか、
伝説のアイドルは、持ち前の老獪さで全て読みきっていた……

「――《切なさエボリューション》」

――来る。


~《切なさエボリューション》 ~
作曲:Sunny大橋
作詞:天川宗理

「♪いつも の街角 高く手をー かざっして♪」
歌声とともに、保坂の体が高く旋回した。
胸ぐらを支点に地面に投げ落とされ、脳が揺れる。

「♪駆けてー いくよ 君のもとに♪」
間髪をいれず、震脚じみた踏みつけが鎖骨を破壊している。

「♪輝くRainbow Road Hmm... 感じてる の♪」
起き上がろうとした瞬間、顎を蹴りあげる足刀。
一瞬、意識が遠のく。輝くRainbow Roadが見えてきそうだ。

「♪Ah... この道を通って 変わるよ♪」
変化。上段のガードを読みきったローキック。
アイドルが持ち歌を歌い始めたとき、状況からの脱出は不可能に近い。

「♪君へ の♪」
金的への膝蹴り。
――鬨、もしくはウォークライと呼ばれる作用が実在する。
戦闘中の歌唱はある種のトランス状態に精神を導き、高揚のマインドセットを常に可能とする。

「♪恋の♪」
幾百、幾千のレッスンの中で肉体に刻みつけられたリズムは。
人間を、そのダンスのためだけにチューニングされた殺人機械へと変える。

「♪Powerで♪」
――《切なさエボリューション》。

恋を夢見る少女が、君のために変わろうと進んでいく、希望に溢れたミリオンヒット曲。
あまりにも聞き慣れた曲。
かつて天川宗理が……ドームを満たす五万人の観客を相手取った、伝説のライブパフォーマンスだった。

「負け……、な……い」

連撃を浴びながら、保坂一誠は呻いた。
『自明なる公理』。あと少しの意識を失わないために『負けない』。

「――くたばれ。♪君のまなざ しぃー に 今♪」

(あと、少し……)

全開のライブパフォーマンスを繰り出す天川に対して、反撃の余地は存在しない。
保坂一誠とて、ただ魔人能力の作用のみで、少しの意識を保っているだけだ。

「♪Ah この気持ち 抱きしめ て♪」
背後を取ったままに地面に引き倒し、両足を胴体に絡める。
乙女の恋心を表すかのように、長い腕で、喉を抱きしめる……裸絞。

――天川宗理が、保坂の魔人能力を考慮に入れているわけではないはずだ。
だが、『負けない』と自己暗示を行ったところで、意味はないだろう。
タフネスではなく、純粋な酸欠による失神。気管への圧迫で決めにくる。

(あと少しで……アンタなら、気づく)

「♪切 な さ  ――――……?」

サビの寸前。
それは、絶大な違和感だった。

天川宗理の締めが緩む。
同時。温存した力の全てで、後頭部を背後、天川の顔面へと叩きつける。

「ぬ、う!」
「……かっ、ハッ、殺るぜ……」

攻防を転じた刹那に、今は保坂一誠が、天川のマウントポジションを奪っていた。

「……『殺るぜ』」

『自明なる公理』。二度、呟く必要があった。

「――《Secret☆放課後》」


~《Secret☆放課後》~
作曲:MC TAKE
作詞:小林エマニエル

「♪手と、ゲホッ、手、かっ……さ、な、る たびー……にッ!♪」
左拳。

「ぐぉ……あ!」
「♪君の、鼓動とォッ!♪」
右拳。

「がッあ!」
「♪熱い! 想い 感じてぇー、るッ! よ!♪」
左拳。
熱い血液が顔を濡らしても、止めることはない。決して。

「おぶ……っ!!」
「♪いつだって……君を!♪」 
右拳。

「ばっ、は!」
「♪ケハッ! 想ってぇ……る!♪」
血を吐きながら、左拳。
秘密の恋愛、放課後の少しの時間しか会えない君だけど、想いだけは絶対に負けない。
甘酸っぱい、強い意志を……
そして誰よりも強い憧れを歌い上げたナンバーだった。

「♪こんなに、強く!♪」
――『自明なる公理』!

「……!」
「♪強く!♪」
ただ『強く』、拳を叩きつける。
何度でも、何度でも――幼い頃から見続けてきた、憧れのアイドルの顔面へと。

「♪強く!♪」
「♪強く!♪」
「♪強く!♪」
「♪強く!♪」
「♪強く!♪」
「♪強く!♪」

「♪……強、く! ……ハァ……カハッ、秘密の…………この、キモ……チ……♪」

……そして崩れ落ちる。

もはや、一曲を歌い終えることすらできないほどに。
伝説のアイドルの乱打を耐え続けた体は、暗示では支えきれない限界を迎えていた。



早朝の烏が鳴いている。

「……ひとつ聞かせろ」

その歌声を聞きながら、天川宗理は座り、スタジオの壁にもたれている。
殺し合いという意味ならば、それは最後まで意識を残した老アイドルの勝ちだったのだろう。

理不尽な襲撃を受けたが、戦ったが故に、保坂一誠を追い出す気にはなれなかった。
門下生のアイドルレッスンが始まるまで、まだいくらかの時間はある。
保坂一誠は、天川も知らない強さを持っている。

「オレの歌をどうやって乱した」

天川宗理の裸絞に完全に捉えられ、発声すらも封じられたあの状態から、
保坂一誠がなんらかの行動を行う余地など、どこにもあり得なかったはずだ。
――それでもあの一瞬、天川の攻撃には異常な隙が生まれた。
まるで、極めて精密な機械の歯車に、致命的な異物を差し込まれたかのようだった。

仰向けに転がる保坂は、腫れ上がった瞼をわずかに開こうとしたように見えた。

「……フロン」
「あぁ?」
「フロンだよ。ヘリウムガスを吸うと、声が高くなるってやつ……
 ……あれは、ガスの音速の違いで……それを吸い込んだ声帯の、振動数が変わるんだけど。
 実はフロン類でも同じことが起こるんだよね……そっちは声が低くなるんだ」

天川は口元を抑え、沈思した。
――声が変わる。

「……俺に知られず吸わせたってのか。そのガスか、なんかを……」
「いいや。アンタ吸ってるよ。ずっと」

保坂の顔が、天井の一点を向く。

「空調の風をさ」

天井中央の送風口。
保坂一誠は、部屋の『中央』で天川を待ち構え続けていた。送風口の真下で。
発声と呼吸を要する《切なさエボリューション》のライブ中も、天川と保坂はそこにいた。
――空調の音は、最初からずっと鳴り続けていた。

「ダンススタジオに行き渡るほどの業務用空調……それも、これだけ古いタイプのエアコンなら、
 一基あたり約6kg~8kg。気体換算で1300L近くのフロン類が冷媒として充填されている。
 冷媒管に小さな穴を開けておけば、常温で気体になって、空調の風で吹きつけられる……」
「…………おめぇ……それで、オレの声を変えやがっただと……
 そんな程度のことで、おめぇ、隙ができるとでも思ったのかよ。
 ハハッ……ライブの最中……おめぇをタコ殴りにしてる間なんだぞ、オイ」
「思ったさ。いいや……信じてた……」

保坂一誠は、酷い顔面のまま、口元で笑った。
どうして笑うのか、天川には分からない。こいつが何者なのか。

「もしも、ほんのちょっと音程が外れるくらいの……少しの違和感にしかならなくても……
 それでもアンタが気づくことに賭けてた……
 天川宗理。なぁ。アンタは、本物のアイドルなんだから……世界の誰よりも、自分の歌に……
 アイドルであることに、誇りを持っているはずだから――」

この男は恐らく、天川宗理と同じような悪党なのだろう。
自動車のホイールを外すような闇討ちも、浮浪者を敵にけしかけることも、平然とやってのける。
けれど、それこそが、かつて誰もが目指した、アイドルの強さではなかったか。
綺麗事ではなく、ただ強く。相手が誰であろうと殺し、勝つための力。

保坂一誠。突如として天川の前に現れ、『無色の夢』について聞きたいと言った。
そして天川宗理に、アイドルとして、勝負を挑んできた。

「……一誠。おめぇ本当は『無色の夢』なんざ見てねェんだろ」

天川は初めて、青年の名を呼んだ。

「『夢』を見てから実際殺りあうまで、一日しかねェのによ。
 おめぇ、それが分かってて、先にボロクソになっとくようなバカじゃねェよな。
 ……弟子を三人潰すのにも、準備が必要だったろうが」
「……そうだよ」

保坂はあっさりと認める。
他の策略とは違って、この一つの嘘だけが、あからさまに稚拙なものだった。

「……次の戦いを考えてるって、思わせたかったから……
 わざと傘を食らう前提でいるのを、隠したくて……いや……違う……本当は、そうじゃなくてさ……
 ……俺も……あんたと同じ『無色の夢』を……見たくて……」

息を震わせながら、言葉が続く。

「……なんで、仕組みも全部分かってたのに、好きな夢を見られるのに、見なかったんだよ……
 教団の全部のスキャンダルを握れる……もっと、のし上がって……!
 ……本物の、アイドルを……取り戻せる。
 こんな、くだらない体操なんて、やらなくてもいいだろ……」
「ハッ、んなことァないさ。オレはな」
「……じゃあ! 何を見たんだよ!」

虚勢の言葉は、それで止まる。
天川宗理は、確かに一度、『無色の夢』を見た。一生に一度の夢。
その戦いに勝ち進んだ男だった。

「くはっ、オレはな、一誠」

望んだ夢を見た。

果ても見えない、大きなドームの舞台。溢れそうなほどに、客席を埋め尽くすファン。
夜空の星々を反転したかのような、色とりどりのサイリウムの光。
あの時代のままの、頂点の熱狂の中で。
十万の視線が、他の誰でもなく、天川宗理を見ている中で。

――見たこともない、美しいコーデを着て。

――歌ったこともない、最高の一曲を。

――輝きに満ちた、夢のようなステージ。

老獪な男だった。数えきれぬほどのアイドルを殺し、指先をどす黒い血に染めた。
いつか最強に辿り着けると信じて、手段を選ばず勝ち続けた。
アイドルが衰退の道を辿り始めたその時には、生き残ることが勝つことと信じた。
新興宗教に取りいって、かつての名を利用して稼ぎ続けることを選んだ。

それでも、その日だけは。
ただひとつ、いつまでも変わらなかった夢を見た。
天川宗理。トップアイドルに最も近いと言われた、伝説の男ですらも。

「オレはなァ……一誠」

保坂一誠。こいつは何者なのだろう。
それがようやく分かった。
きっと、いつかの天川と同じように。

「オレは……バカだな。憧れてたんだ……トップアイドルに……」

この灰色の世界でのし上がる、唯一の手段がそこにあったのだとしても……
幻のような一夜の輝きへと、手を伸ばすしかなかった。
一生に一度の夢。
――それだけが、夢だったから。

「……俺が!」

無様に倒れた仰向けのままで、保坂一誠は叫んだ。

「俺がやる! 見ていてくれよ……天川宗理! なぁ!
 俺だけはさ、絶対に……! そんな、偽物のステージじゃなくて……
 本物のステージに、アンタを……!」

アイドルの拳に打ち腫らされたままの顔で叫んだ。

「戦って、分かっただろ! 俺は……のし上がる方を選べるからさ!
 だから、なぁ、諦めないでくれよ……天川宗理……!
 アンタは最強で、伝説で、本物の、アイドルなんだよ! アンタは、ずっと……!」

涙の混じった声で叫んだ。

「アンタとやりあえるようなやつが『無色の夢』を見た!
 強いやつだ! ……どんな類の強さでも、強いやつじゃなきゃ、殺し合いになんてならない!
 俺はここまでやった! 独りでアイドルを続けてきて……
 アンタを相手にさぁ! ここまでやったんだよ!」

自分の歌うライブを、天川宗理に見せるために。
保坂一誠はアイドルとして戦いながら、自分自身をプロデュースしていた……

「絶対『無色の夢』を見てやるから!
 今よりも、もっと強くなるから……! だから頼むよ、天川宗理!
 アイドルの……師父(マスター)になってくれ!」

視界もおぼつかないまま、手が差し出された。
光へ。もう朝が訪れて、窓の隙間からの細い輝きが、暗いスタジオへと差し込んでいる。

「本当のアイドルを」

そのためだけに、彼は来たのだ。

「アイドルを俺に教えてくれ」

世の中の誰も気づくことのない、ささやかな事件だった。



――かつて、アイドルこそが最強だった時代がある。

ユニットやチームのように群れを成すことなく。
グラビアや鉄道やガンダムのような武器を、使うことなく。
VTRや、番組の仕込みなしの、リアルな生放送の、実戦の場で。
押し寄せる数万のファンにただ一人、ステゴロで立ち向かう、頂点の星。

アイドルのライブに誰もが釘付けとなり、誰もがその輝きを目指していた時代がある。
アイドルであれば最強を目指せると、その時の誰もが信じていた。

今は、誰もが知っている。
アイドルは事務所の傀儡であり、芸人紛いの便利屋であり……
そして刹那の輝きで消えてしまう、淡い光だ。
天川宗理も保坂一誠も、その灰色の現実だけが真実だと、知っている。

それでも。

最強を望む誰かが、今もアイドルの道を選んでゆくのは何故なのだろう。
瞬き、消えていく光は少なくなったが、いつの時代も絶えることがない。

いつでも誰かが、見果てぬ夢を追いかけ続けている。

――きっとその誰もが、心の奥底では信じているのだ。


夢は夢で終われない。
最終更新:2016年01月25日 20:34