照波 しいプロローグ
照波しいプロローグSS / ホールド・ユア・ハンド
無色透明な夢に、新たに呼ばれた者が一人。
ルールを認識した彼女――照波しいは目を覚ますと、
寝間着代わりのジャージから着替えもせずに、目的地へと駆け出した。
千時夜滅がその目を開かなくなってから1年半以上の時が経過している。
医者曰く、彼女は生命を維持するための脳の部分がダメになってしまっていて、
大量につながれたチューブやら電極やらがなんとか彼女を生かしているらしい。
そんな近代医学の恩恵を受けている今でさえ、
いつ死んでもおかしくないという嫌な太鼓判を押されている。
五感すら失った滅は、
自らの精神が昏いどこかで落下し続ける錯覚に囚われ続けている。
『ねえ、滅!滅!大変大変、ビッグニュース!』
だから、そんな死に損ないの友人にすら元気に話しかけることができるのは
魔人 照波しいの特権である。
彼女の能力は【ホールド・ユア・ハンド】。
身体的に触れた生物とテレパシーで会話する能力である。
生物であれば、物理的に喋れない相手だろうと問題はない。
口を開くことも手を振り払うこともできない滅には、
彼女の喧しいテレパシーを防ぐ手段はないのである。
『…毎度のことながら、うるさいよ』
『うんうんうん、うるさいよねごめんね。
それでね、無色の夢ってやつを見ちゃったの!』
滅は全く反省していないしいを睨み付けたかったが、
残念ながら目も開かないのであきらめた。
『夢の戦いね…。
勝っても負けても夢を見るって、何か意味あるのそれ?』
『あるよ、もちろん!
好きな夢を好きなだけ見られるんだよ!?
しかもその間現実の時間も経過する……
ってことは、夢を見ている間は死なないってことだよ!』
滅は、強制テレパシーを受けているにも関わらず、絶句した。
昔から、こいつは悪気なく無理を通そうとするんだ。
そんなところが嫌いだったことを、滅は久々に思い出した。
『……そういうことになる?』
『なるなる!絶対なるよ!』
その絶対という自信がどこから来るのかは謎だったが、
たしかに話を聞く限り、最低限の理屈は通っている。
しかし、通ったとしても疑問が残る。
『アンタ、ずっと夢を見てまで長生きしたいわけ?』
『いやー、だからさ、滅と一緒に参加したいわけ
滅のことをばっちり直せるぐらい、医療技術が発達するのを
夢の中で待とうよ!その…二人で…』
視覚情報のないテレパシー越しにさえ、
しいの顔が赤くなっていることを察したが、
滅にツッコむ気力はなかった。
この大バカは、あるかどうかも分からない医療技術の発展を夢の中で待ち、
滅を救おうという魂胆らしい。
その代償として自分の人生の大切な時期を棒に振ることに、何の疑問も持っていない。
…そんなしいがそばにいたからこそ、
滅はどこか昏いところに沈んでいく自分の意識を
手放すまいとしてこれたのだけれど。
『…死にぞこないの私にとっちゃ、それなりに魅力的な提案かもね』
『でしょ!でしょ!』
『……アンタだと、冷静に考え直すとかもないわよね』
『ないない!絶対ない!』
きちんと伝わるように、滅はテレパシー越しにわざとらしくため息をつく。
『お前の両親と、私の両親に、きちんと事情を伝えて。それが条件。
私みたいなネボスケがいきなり倍になったら困るでしょう』
『うん。わかった。ありがとう』
ありがとうと言うべきなのは自分の方だろうと思ったが、
滅はそれを伝えることはしなかった。
『私も伝言を残すよ。
いつものある?』
『あるよ!今のっけた』
しいは、可愛らしいクマのぬいぐるみを滅の右手の上に置いた。
滅は、感覚を失った右手に力をこめる。
滅の能力【ガルバナイザー】は、
自分に触れた対象に仮初の生命を与える能力である。
例えば、自我を持たせたぬいぐるみに
私の生存率を高めるために、おたくの娘さんの人生を台無しにさせてください
といった内容を伝えてもらうことができる。
伝言を託すぐらいであれば、生命を与える時間は一瞬で済む。
「しいちゃん久しぶり。
こんなご主人のために、随分と思い切ったクマね…」
ぬいぐるみが口をひらき、しいはふふと微笑をもらした。
滅は事故後にこの能力に目覚めたため
自分の下僕がこんなに可愛らしい語尾であることをいまだに知らない。
『じゃあ、事情を伝えに行ってくるね。
何か準備もしなきゃだし、戦いの直前になったらまた来るから』
『はいはい、いってらっしゃい。
…にしても、戦闘相手が雑魚であることを祈りたいものね』
当然のことながら、
非戦闘能力のしいと死にかけの滅が戦いに勝つのは容易ではないだろう。
しかし、しいは頑張ればなんとかんるだろうと根拠のない自信を持っていた。
『うん、頑張ろうね
またね、滅』
『とっとと行きなよ』
しいは【ホールド・ユア・ハンド】を解除し、病室を出る。
滅の精神は、また昏いところで一人きりになる。
この単純明快な悪夢が、見たい夢にさしかわるというならば、
それはたしかに十分な褒賞に違いない。
しいがまず訪れたのは、滅の両親の家だった。
なんと伝えるべきかはあまり固まっていない。
(私もぐっすり寝ちゃうけど、滅のためなので気にしないでください。とかかな?)
そんな風に考えながら玄関のチャイムを鳴らす。
「こんにちは、照波しいです!」
滅の両親は、自分たち以上に娘を見舞う彼女のことをよく知っていたし、
しいに対して申し訳なさと、それ以上の感謝を持っていた。
「照波さん!」「しいちゃん!」
だから、しいは、滅の両親のその表情を見たのは初めてだった。
混乱と悲しみと怒りとあともろもろの感情が入り混じった顔で、
二人は悲鳴をあげるように玄関から飛び出してきた。
「あ、あの…。どうされたんですか?」
「今 病院から電話があったんだ…」
「滅が。滅が死んだって」
滅はいつも通り病室に横たわっていた。
ただし、大量のチューブや電極はもう彼女に接続してはいない。
しいが滅の手を握る。
その体温は、どこかに失われていた。
"いつ死んでもおかしくない"
そんなこと、知っていたけれど。
いったいどれだけの時間が経過しただろう。
既に陽は沈んでいる。
照波しいは望むべき願いすら失ったまま、
その目を閉じた。
夢の戦いが、はじまる。