皇すららプロローグ
<混沌の魂>
マダマテの住む世界は虚無だった。
世界の名は「アデル」。第六次元と呼ばれる宇宙に存在する、虚無と混沌が同時に存在する世界。
マダマテはそこで生まれた。
原初の記憶は存在しない。気づけば彼らアデルの住人は虚無の宇宙(うみ)を漂っていた。
宇宙の観測者のあるべき完成体の一つとして、彼らは自然発生した。彼らは肉体と呼べるものを持たず、観測することで、相補的に情報を共有しあうことでしか、お互いを認識できなかった。
しかし、彼らという観測者が生まれたことで、虚無の宇宙に世界が生まれた。
彼らの観測できる世界は、全か無かによって表されたマトリクスの海である。マトリクスの海が表すもの、それは即ち、色であり、音であり、物質であり、空間であり、時間であり、全てである。だが、観測者として生まれた彼らは、情報を一つの纏まりとして認識する能力を具えず生まれてきた。彼らは、「マトリクスの海」を、記号の纏まりとして認識し、計算処理する能力は与えられたが、それを統合的に表現し、知覚・描画する能力は与えられなかったのだ。
マトリクスの海ーーそれは彼らにとって何の意味も持たないただの記号の羅列でしなかった。
彼らの観測の外にある世界生命の誕生、進化を経て知性体となり、文明を築き、憎み合い、ときには愛し合いながら、命を紡ぐがあることも知らずに、誰ひとりとして異を唱えず、全と無が無秩序に書き換わっていく世界を機械的に観測していた。
そして、まるで予めプログラムされていたかのように、互いに互いを観測していく中で、彼らは同質かつ同量の存在へと変わっていった。なぜなら、彼らは相手を観測することでしか、自己の存在を知り得なかった。
いつしか彼らからは、彼我の概念もなくなり、彼らは個々の集まりでありながらも孤独な集団となった。
それゆえに、価値観も、存在する理由も、自ら何かを生み出すこともなく、観測することも止めて、マトリクスの海を漂うだけの存在へと成り果てた。
彼らが観測をやめたとき、観測者を失った世界は虚無へと還った。
マダマテが虚無の宇宙に発生した時、もはや彼らは、記憶や知識、意識さえも捨てて、虚無の宇宙に混ざって一つに融けているだけであった。この時点において、マダマテに、マダマテという名は無く、マダマテも彼らの中の一つに過ぎなかった。
マダマテは、同質・同量として完成された存在である彼らの中で、唯一、不完全なモノ、異質なものとして生まれた。
そもそも、マダマテの住む世界には「彼我」の定義すらなかった。
自己は連続したものではなく、他者を変えることも、他者に合わせることも、彼らはいくらでもできた。
可逆性を持ち、同質・同量へと向かっていく存在に、個性などなく、彼らはこの宇宙に生まれた瞬間から既に客性に支配されていたのだ。
だからこそ、「アデル」の住民は皆が兄弟であり姉妹だった。全体でなければ個として成り立たない「アデル」とは、屋根を一つにする家族でもあった。ゆえに、彼ら全てが一つになったとき、彼らは虚無へと還った。個では存在できず、個で生まれたならば、虚無へと還るしかない。
だが、マダマテは、家族の元へ、虚無へと還ることを拒絶し、混沌の世界に憧れる。
マダマテが観測を始めた時、マダマテの住む世界には、虚無と混沌があった。
アデルの家族は、既に虚無の宇宙に融けており、そこにはマダマテと混沌たるマトリクスの海だけが広がっていた。
マダマテの持つ選択肢は、家族の待つ虚無へと還るか、自らも混沌へと沈むかの二つだけだった。
対象を機械的に観測することしかできず、最後には虚無へと還る選択肢しかとれなかった家族に対して、マダマテは混沌に魅入られ、世界に混沌を欲した。
孤独なものとして生まれたマダマテは、他者を求めていた。
それは、同質化し、最後には虚無へと還ることが、最終進化であった家族にとって、マダマテの渇望はプログラムのエラーというほかなかった。
しかし、マダマテの世界にはマダマテしかおらず、マダマテを止める者は誰もいなかった。
ここじゃない世界に、一つになるべき他者を求めて、マダマテはマトリクスの海へと沈んでいった。
そして、彼は「皇すらら」と出会う。
彼は「皇すらら」に恋をした。雄も雌も無く、何にでもなれる彼を本当に「彼」と呼ぶべきかはわからない。だが、少なくともマダマテは皇すららから何かを感じ取り、そしてそれに惹かれたのだ。
彼はこの世界を知り、皇すららの気を引くべく、子犬の姿で近づいた。
種を別にし、さらには生殖の概念が無い彼にとって、同じ人間の姿で彼女と出会う必要はなかった。
道端で一人と一匹が出会ったとき、皇すららは、なぜその子犬が自分にこんなにもなついてくるのか分からなかった。
しかし、兄弟が欲しかったすららは、自分になついてくるその子犬を気に入り、彼を家族に迎えることにした。
両親は渋ったが、世話は自分が一人ですると言って、すららは両親を説得した。
それからしばらくして、彼にとって大きな誤算があった。
すららが彼に、自分が好意を抱いている異性の話をするようになった。
マダマテは絶望した。
彼は、その苦しみに耐えられず、自ら彼女の前から姿を消した。
一方で、すららの方は、兄弟のように接していたマダマテが消え、深い悲しみに包まれた。
マダマテの存在は、彼女にとってかけがえのないものだったのだ。
彼女は家に篭りがちになり、最後には学校にも行かなくなった。
それを見かねて、すららの両親は、彼女を転校させた。
新しい学校で、すららは新しい友達とふれあい、少しずつ以前のような明るさを取り戻していった。
だが、マダマテは違った。
マダマテの心には、憎しみや嫉妬といった負の感情が満ちていった。
屈折した感情に支配されていたマダマテが、過ちを犯すのはある意味で必然だった。
それはすららの修学旅行の帰りだった。
無邪気にはしゃぐすららの笑顔――それが自分に向けられていない。マダマテはそれを苦々しく思っていた。
やがて、クラスメイトの一人が、こんなことを言い出した。
「すららって宮部君のこと好きでしょ?」
マダマテは凍りついた。
「そ、そんなことないよ!」
すららは、顔を真っ赤にして首を振るが、マダマテの思考は停止していた。
『コロシテヤル』
その言葉が何を意味するかも分からず、マダマテはそう呟いた。
彼には殺意という概念が理解できなかった。ただ漠然と、この世界の言語を表面的に使ったに過ぎない。
だから、マダマテは自分が何をしているのか理解できなかった。
男子生徒にとりついていた彼は、すららを含めた四十四名をそこで皆殺しにした。
悲鳴と絶叫が飛び交う中にあっても、マダマテの中には、すららへの想いだけが渦巻いていた。
マダマテは男子生徒から離れると、大量の血を流し、冷たくなってしまったすららを見て、はじめて後悔というものを理解した。
『コンナハズジャ、ナカッタノニ』
そのとき、マダマテは思った。
――初めから間違っていた、やり直そう。
彼の歪んだ決意は、ふとした思い付きによって実現された。
彼は、彼の周囲の空間そのものを『皇すらら』へと変えることで、失ったものを取り戻そうとした。
しかし、記憶や心まで、再生しようとしたために、その複雑なプログラムは大量のエラーを生み、それは結果として『皇すらら』とはあまりにもかけ離れた異形の存在へと変貌した。
そして、その姿は、この世界における彼自身の本当の姿でもあった。
マダマテは考えた。彼は諦めなかった。いや、諦めきれなかった。
一つ一つは欠陥品でも、寄せ集めれば完全な形で『皇すらら』を生み出せるはず、そうマダマテは考えた。
そして、マダマテは、木や草、石や水といった無機物さえ『皇すらら』へと書き換え、足りない要素を補おうとした。
そうして作られた『皇すらら』は完璧なものに見えた。
しかし、大きな欠点があった。それは寄せ集めであるが故に、あまりにもその命は脆かったのだ。
だが、マダマテの心は満ちていた。
自分がいなければ、『皇すらら』は、満足に生きながらえることができなくなった、その事実だけでマダマテは、全てを手にした気持ちになれた。
この先、別の誰かが『皇すらら』に近づこうと、もはや自分の優位は揺らがない。
「マダ……マテ……?」
皇すららがそう自分に問いかける。
マダマテは以前と同じ姿で、彼女へ駆け寄る。
新しく生まれたすららは知らない、自分がどのように生まれてきたかを。
マダマテの生み出した操り人形として、彼女はその舞台で踊り続けることしかできない。
その日、すらら達を乗せたバスは忽然とこの世界から姿を消した。
彼らの行方を知るものは、唯一の生存者であるすららさえも知らない。
だが、ただ一人知るものがいる。マダマテに取り憑かれ、皆を殺した一人の男子生徒。一人、その場から逃げ延びた彼のみが全てを知る。
<男子生徒のその後とシスマ化>
「そこに、誰か居るのか?」
宮部允は誰もいないはずの部屋に、自分以外の何者かの気配を感じていた。
しかし、部屋を見渡しても、人影はなく、彼の心臓の音だけがドクドクと高鳴っている。
ふと時計を見ると、もう夜もふけようかという時間だった。
あの日以来、彼は何者かの気配に悩まされていた。
「親しいヒトを殺したことはありますか? それもたくさん」
目の前の男は、ぽかんとした表情で宮部を見ている。
公園のベンチで寝ていた浮浪者と思しきその男は、訝しげに宮部を一瞥すると、無言でその場を立ち去ろうとした。
「おじさんは、どうしてここにいるんですか?」
そう宮部は続けたが、男は宮部には目もくれずに足速に逃げていった。
宮部は誰もいないベンチを見下ろす。
あの日、彼は同級生を殺した。
「――宮部君のこと好きでしょ?」
修学旅行の帰り、友達と誰が好きかとか、そんなくだらない話をしていたときだった。
あのとき、女子達の会話が耳に入り、宮部は思わず聞き耳を立てていた。
彼は予想外のことに驚き、心躍っていた。
しかし、気づけば、彼は、目の前の少女の首に手をかけていた。
「え?」
周囲の視線が自分に向けられているのを知る。宮部は、まるで何かに操られたかのように、体の自由が聞かなかった。
誰かが、宮部の背に取り付くが、宮部は、普段の彼では考えられないような力でそれを振り払う。
真っ赤な血が、宮部の頬にかかった。
気づけば、宮部の手には血塗れのナイフが握られていた。
――どこから?
宮部自身がそのことに一番狼狽していた。
そして、狼狽し、混乱すればするほど、宮部の意識は遠のき、薄れていった。
次に目覚めた時、彼は全身血塗れで自宅の前に立っていた。
その日以来、宮部允は、何者かの気配から逃げ続けている。
彼はその気配を「悪霊」と呼び、名のある霊能力者のもとに駆け込んでは、そのたびに彼は門前払いをされていた。
何者かの気配に怯え、安いカプセルホテルを転々とするうちに、彼には、見えるはずのないものが見えるようになっていた。
「また来たのか」
彼は、ベンチに一人分のスペースを空けて座る。
それは何も言わず、彼の隣に腰掛け、ニタニタと笑うだけであった。けれど、宮部にはそれが言うことを理解できた。
「俺を慰めてくれるのか」
彼は微笑む。それが現れてから、彼が闇に怯えることも少なくなった。
それは、天使のようでもあり、ときには妖精のような不思議な姿で彼の前に姿を見せた。
「お前となら、どこまでも行けるよ」
彼はそれをそっと抱き寄せる。
しかし、その手は虚空を切り、彼はベンチから転がり落ちた。
それでもなお、彼の心が生み出した天使はニタニタと笑っている。
ヴィリギエル、彼が名付けたそれは、彼の心を少しずつそぎ落とし、自らはその魂を喰らうことで、彼に成り代わろうとしていた。
天使の顔がぱくりと割れる。
宮部允の意識は、その顔の奥に広がる闇へと飲まれていく。
彼は消えていく意識の中で、自らの生が終わりを感じ、不思議と安堵していた。
<サルクス>
昔から密かに変身ヒーローに憧れていた。
だからというわけではないが、こんな私でも誰かのために戦うことができるのなら、そうしてみようと思った。
分裂増殖するなんて言葉じゃ、生易しい。
それは魂の冒涜だ。
それは、他者の尊厳を踏みにじり、自分の色で塗りつぶす暴挙。
それは、自らが望んだわけでもなく、そのように私は作られた。
罪滅ぼしとでも、自己満足とでも何とでも思われてもいい。ただ、私は、私が私であっていいと思いたかっただけ。
何か、生きるための希望が欲しかった。
変身なんていえば聞こえはいいが、他者から見ればそれは、やつらと同じ化物だ。
けれど、あのアメーバ状の身体が、私の本質なのだから仕方ない。
なんでもいい。
私は私の本質を肯定したいのだ。