二日市保養所

『水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録』(現代史出版会)

「引揚げの途中である村を通過する際に人質を出すという。~/~人質に選ばれて強制されて行くでしょう。そして朝帰ってくると、もうみんなが、同じ日本人の団員が白い眼でみていろいろいうらしいのね。~」
佐賀県・中原療養所で働いていた福士さんのことば
「兵隊同士が女の居所について情報を交換し合っていたらしく、『移動のたびに新しい兵がやってきて…』と両親は泣いていた。
その結果娘さんは妊娠してしまったわけでね」田中さんは両親から、娘をどうかもとの体にもどしてくれないか、~と泣きつかれた。
この親の申し出に、田中、泉氏ら救療部の人は、どう対処していいか迷いに迷ったあげく、とりあえずこの教え子の堕胎手術にふみきった。【168頁・堕胎手術に失敗し、母子ともに死亡した】
暴行したのはソ連軍の兵士である。
泉靖一氏たちの認識はこうであった。「戦争に暴行はつきものである。北朝鮮に進駐してきたソ連兵は、長い戦争の間、極端な耐乏生活をへてきただけに、戦禍にさらされていない朝鮮で目にうつるものは何でも欲しがった。特に最初に進駐してきたソ連軍は戦闘部隊であるだけに、粗暴なものが多かった。
婦女子への暴行は、日本人ばかりではなく、朝鮮人の女性にも見さかいがなかったようで、北部朝鮮からは朝鮮人の南下者も激増した。【169頁】
ひどいのは六十三歳になる老婆さえ暴行を受けました。【216頁・佐世保婦人相談所の問診日誌より】
http://plaza.rakuten.co.jp/chako8000V/diary/201205040000/

 帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか——。きっかけは、暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。
 このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。しかし、話しかけても泣くばかり。両親から「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。
すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。
 外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。
医師らから提案を受けた厚生省(当時)博多引揚援護局は福岡県と交渉
し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月、「二日市保養所」を開設した。
厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、当時、聖福病院に勤務していた元職員は「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」と推測する。

恨みと怒りの声、手術室に響く

 引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。
「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」——。手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。
 おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。
 幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。白い肌に赤い髪、長い指——。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。
 食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。
死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった吉田はる代さん(78)(埼玉県川口市)らの仕事だった。
手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。
 手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。会話もなく、横になっているだけ。大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。
 女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400〜500人にのぼると見られる。
1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。
設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。島松さんは、
二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」
と記憶している。一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。
二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。
今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。「私はこの手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」

相談員だった母…暴行・妊娠を聞き取り

 博多港とほぼ同じ約139万人が引き揚げてきた佐世保港。「引揚第一歩の碑」が立つ
 戦後、九州で博多港とともに中国大陸などからの主な引き揚げ先となった長崎県・佐世保港。佐世保市に住む中山與子(ともこ)さん(66)の母、西村二三子さんは、終戦翌年の1946年5月、佐世保引揚援護局が設置した「婦人相談所」の相談員だった。西村さんは77年に70歳で亡くなったが、その数年前に相談員だったことを中山さんに打ち明けていた。
「相談員当時の母は、朝早く家を出て、夜には消毒薬のにおいをさせながら帰宅していました。でも、何の仕事をしているのか、具体的には全くわかりませんでした」
中山さんは振り返る。
相談員を務めたのは、女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」会員の主婦たち。
15〜50歳の女性引き揚げ者を対象に、引き揚げ中に暴行を受け、妊娠していないかどうかを聞き出し、
妊娠している場合は、中絶手術を受けさせることが役目だった。
 相談員だったことを打ち明けた西村さんは、「問診日誌」と題した、便せんをとじ込んだつづりを中山さんに手渡した。西村さんら相談員による聞き取り記録で、女性たちが満州(現中国東北部)などで受けた暴行被害が克明に記されていた。
16歳の女学生がソ連軍(当時)の司令のところに連れて行かれ、暴行されそうになったので、見るに見かねて身代わりとなった。
ソ連兵から女性を要求されたため、売春をしていた女性を雇いに行く途中に暴民に金を奪われた。やむを得ず、未婚の女性47人を出し、足りないので、さらに未婚の女性80人を出した——。
 日誌では引き揚げ者の女性たちは、つらい体験を具体的に語っていた。だが、
暴行のために妊娠した女性について、佐世保引揚援護局史には、「婦人相談所で事情を調査し、療養処置を要する婦女子は国立佐賀療養所(現在の東佐賀病院)に移送した」としか記されておらず、実態は明らかではない。
 佐賀療養所でどのような治療が行われたのか——。同援護局史には書かれていない事実の一端が、一通の手紙からうかがえる。手紙は戦争にまつわる女性の被害を調べていた九大医学部卒の産婦人科医・天児都(あまこくに)さん(71)(福岡市城南区)が97年、九大医学部産婦人科教室OBの医師数人に尋ねたところ、1人から送られてきたものだ。
「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」
「(産婦人科教室の医師が)1、2か月交代で佐賀療養所に行っていた。患者の大部分はソ連兵や現地住民に暴行されて妊娠した人で、妊娠中絶が主な仕事だった」——。
厚生省の指示によって、
国立病院で、当時は原則として違法だった中絶手術を国立大医学部の医師たちがひそかに行っていた——と告白する内容だった。
 組織ではなく、個人的に中絶手術を手がけたという医師もいる。博多引揚援護局が福岡県筑紫野市に設置した二日市保養所に下宿しながら九大医学部に通った東京医科大名誉教授・相馬広明さん(84)(東京都世田谷区)。
 相馬さんは終戦後、国立福山病院(広島県福山市、現在の福山医療センター)で、18歳くらいの女性の手術をした。卵巣の腫瘍(しゅよう)だと診察したが、開腹して妊娠と判明。慌てて腹部を縫い合わせ、麻酔から目を覚ました女性に聞くと、
「実は終戦直後にソ連兵に暴行された」と打ち明けられた。
 相馬さんは女性に中絶手術をし、ほかにも同様の手術を数件行ったという。
http://hogetest.exblog.jp/4979697
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朝鮮は日本統治され、発展し、朝鮮人の寿命が伸びた事実があります。
戦時中は、共に戦いましたが、日本が負けた事を知ると日本人を虐殺したり、日本人女性が強姦されたりした事は、紛れもない史実です。
台湾にいた日本人は、台湾人と涙ながらに別れて引き揚げて来ました。
しかし、朝鮮半島からは、命からがら逃げて来たのです。
終戦1週間前の1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦を布告して満州と朝鮮に侵攻して来ました。
窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫等にアリのように人間が群がった。家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。
 町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。ある人はトランクを担いで逃げる。皆走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。
引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。
南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。
北と南に民族性の違いはないのである。
「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」朱栄福著
 8月15日(終戦日)を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった… 文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。
元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めた
という噂が入ってきた。私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。
 そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。
ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。
その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。
私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。
ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。時には敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家にかくまってもらったりもして難を逃れていた。
 こんなに恐ろしいことになったのも、

それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、

日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、

警察官補助者であった者が保安隊員となって

報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。
 命を削り取られるような不安におののく毎日であった。男の子のような姿になっていても、
顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。
保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。
ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。
私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。
(中略)
 そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪にもやってきた。十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。しかし文坪でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。
 秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵の行動に一喜一憂していた。
 あるときは、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後3時までに、駅前広場に身の回りの最小限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した… 両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。もう帰国することだけが頭にあった。元山駅に向かって歩き出した… 数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。しかしここで座り込んでいてはどうにもならないので、お互いに励まし合って、またもとの道をトボトボと引き返して家に戻った。戻ってみてびっくりした。家の中がひっくり返ったように荒らされていた。タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。
実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。
その上に今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が押し込められてしまった。リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった… 布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。
 厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった… 薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。
ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。

女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった…

死者が出ても葬式をだせるはずもない… なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た… 深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。 家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした… 
保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。
噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。
(中略)
 昭和21年の正月を収容所で迎えた。その頃になると満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難してくる人が増えてきた。 …相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどり着いたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。 …収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。 …やっと綿密周到な、「集団脱走計画」が完成した。決行日は、昭和21年4月3日の夜と決定された… 北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行なわれていない。命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、ソ連兵や保安隊のすきをみて突破・脱出してきたのである。
それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まっておくり返されたりしてしまった。
いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。
元山から多額の金を払って船を雇い、集団で脱出しようとしたが、途中の38度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。それこそ死を覚悟しての38度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。
 私たちの脱出グループは70人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した… 闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。38度線突破行の第一歩がこうして始まった… 東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした… 大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。通行料は10円ぐらいだったと記憶している。そのほかに荷物検査料とか、何とか名目をつけては、2、30円は取られていた… 38度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。4月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかった… 行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査されたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。 …連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積されて歩くのも困難になった人が出てきた… ある女性は、2歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上歩けないからここに残ると言い出した。しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いた時に、とうとう2歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。みんなも、自分のこと、子供のことだけで精一杯の極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。致し方ないことであった。私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。 …3歳になったばかりの妹は私が背負い、10歳の弟と一緒に歩いていた。父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。歩いている人の中には、藁沓(わらぐつ)を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。
…国境近くになると警戒が一段と厳重になって。保安隊員が組を作ってあちらこちらに立っていた。 …疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射された時は、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終りかと観念したが、相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっと安堵の胸をなで下ろした。38度線上の山々は、標高が400メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出できないと思うと、苦にはならなかった。1日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。
 いよいよ明日は、38度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。そしてさらに、「 …最後は走るようになるから履物が脱げないように上から結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。 …ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけが全てであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。どの人の顔をみても必死の形相で、それは凄まじいものがあった。
 夜半の12時に行動が開始された。やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視、激励していた。深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。ただ、サクサクと踏みつぶしていく霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。息を殺して歩いていたが、38度線の山の頂上にはなかなか出ない。歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた… そんな時に、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足に力が出てきた。無言の行進が続いた。しばらく歩いている時に、家畜商人が「あの丘の向こうが38度線だ」と、指差した。勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。はじめてだまされたことに気付いた。みんなはそれを知って、一遍に疲れが出てその場にへたへたと腰をおろしてしまった。今までの張り詰めていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。その夜は特に寒さが厳しかった。腰をおろしている間にも霜が降りてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。
…夜はもうとっくに明けて、太陽が上がってきた。 …しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。山頂に出たのだ。見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。紛れもなく三十八度線を流れている川であった。一同は、なんの抵抗もなく急いで渡った。弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、力なくてを振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはその隙間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。自動車の音で、みんな我に帰って立ちあがった。よく見ると赤十字のマークのついた車だった。最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。とうとう38度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せていった。母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。(その後、筆者は2、3日収容所で過ごした後、京城から列車で釜山へ行き帰還船に乗って無事に故郷へ帰った。)戦争は、本当に怖く悲しいものである。アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。帰国が果たせなかった多くの人が、異郷の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。謹んで哀悼の意を表したいと思う。
私の三十八度線突破記録  梶山緑
北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、
在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられる事になった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。
反抗したもの、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。

ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かった。

富坪の避難民3000名中、その半数が死亡した。
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。
 在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾に倒れ、人々は南に辿り着いた。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 
日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行する事になった。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。牛車代は多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる。山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。
 もうこの頃には、醵出する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、
「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」
と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。
生きて祖国へ5 死の三十八度線  引揚体験集編集委員会編
http://create21.iza.ne.jp/blog/entry/1463002/
http://megalodon.jp/2013-0514-0234-08/create21.iza.ne.jp/blog/entry/1463002/

 昭和20年7月26日、ベルリン郊外のポツダムで、米英中華共同の対日宣言が発表されたが、当時の日本人の殆どは、ポツダム宣言受諾の動きなど未だ知らず、ヒタヒタと迫り来る連合軍の包囲下にあって、本土決戦、一億総特攻のかけ声に、いよいよ生と死の対決に迫られる時がきたのを感じていました。
 やがて広島、長崎に原爆が投下され、両市は一瞬のうちに壊滅しました。そして同年8月9日、ソ聯軍が対日参戦。ソ聯軍侵攻と同時に満州は戦火にさらされ、満州在住日本人は避難を開始し、ソ聯軍の攻撃に合い、暴徒と化した満人の襲撃を受け、大勢の人々が殺されたり、集団自決をしたり、略奪されたり、大変悲惨な運命にさらされていました。
 ソ聯軍は満州だけでなく、日本海に面した北朝鮮の、羅津や清津の港町にも上陸を開始し、これらの街は火の海と化し、多くの日本人が避難を開始しました。満州や北朝鮮北部の避難民が着のみ着のままで一挙に南下してきて、北朝鮮一の大都市であった平壤の街も大混乱をきたしていました。
 当時平壤中学の生徒であった私達は、これらの避難民を、学校やお寺や旅館やその他収容できる建物へ誘導してゆく役割に
日々追いまわされていました。当時平壤の人口は約40余万人、その内日本人は4万人余、避難民は在住日本人の約30%といわれています。
 やがて8月15日終戦の日を迎えました。真夏の炎天下の校庭で終戦の報に接した時は、負けて残念というより目の前が明るくなり、これで助かったという思いの方が強かった感じでした。
 当時私達一家が住んでいた巖町の社宅の下には、平壤刑務所の赤レンガの建物が広がって見え、毎日毎晩釈放されたばかりの政治犯を取り囲み、各種の団体のデモ隊が「独立万歳」を叫び、怒号と喚声と歌声とで騒然として不気味で怨念に満ちた雰囲気に包まれていました。
 8月25日、そっとカーテンの隙間から眼下の路上に目をむけると、草色の詰め襟に半長靴スタイルのソ聯軍兵士の姿が望見され、これらの兵隊達は一様に肩から小型の自動小銃をぶら下げていました。私達はこれをマンドリンと呼びました。日本軍は実弾の管理が厳しかったようですが、軍規の弛んだソ聯軍は、これらの兵士に丸型又は縦型の70数発の実弾入り弾薬の携帯も許していましたから、彼らは街中を歩きながらでも面白半分に発砲するのです。
 それからというものはマンドリンを突きつけてのソ聯兵の凄まじい略奪が始まりました。
略奪に加えて・・・暴行、強姦、拉致、殺傷などの行為は、周囲の目を意識せず公然と行うのです。
私の家にもこれらのソ聯兵が土足のまま上がって来て時計やアクセサリー等めぼしい物を略奪していきました。
 その頃。北朝鮮と南朝鮮との境界とされた38度線はソ聯軍によって完全に封鎖されたため、私達日本人は北朝鮮に閉じ込められたことになりました。やがて日本軍将兵は武装解除され、平壤市郊外の秋乙にあった旧師団に終結させられ、満州の延吉経由でシベリアに送られ、その後数年も酷寒のシベリアで過酷な強制労働に服することになります。これらの将兵達を満載したトラックの列は、平壤市内を毎日走り抜けたが、将兵達は一様に 「一足先に日本に帰ってお待ちします」 と叫び、私達は 「兵隊さん頑張って」 と叫び、お互い手を振って別れを見送ったものの、まさかこれらの将兵が酷寒のシベリア送りになるとは思いもしませんでした。
 またソ聯軍は日本軍の員数が不足しているという理由で軍人でない18才から40才までの一般男子を街頭から連行し、同じくシベリアに送り強制労働に服させたのです。私は船橋里の広場でこれらの人々がソ聯兵に連行されて行く姿を恐怖心を抱きつっ見送ったものです。私達少年は毎日の様に使役と称して飛行場や兵舎、倉庫やその他施設の資材などの運搬や貨車への積込などの労働に無償でかり出されました。また日本人の警察官、司法関係者、行政官庁の職員、大会社の幹部社員等はその頃創立されたばかりの北朝鮮保安隊に逮捕拘留されました。当時62才だった私の父も前職が刑務所長であったということで大同保安署の留置場に拘留されました。日本人がこうして逮捕、収監されたので留置場はすしづめの状態となりましたが、父達は居房内で正座を強いられ、姿勢を崩すと棒で強く叩かれたりしたそうです。父はその後3ヶ月ほど拘禁され、北朝鮮では官吏として勤務した経歴はないという主張が通って12月中旬釈放されました。
 やがて北朝鮮当局から接収という名目で私達一家は社宅から追い出されることになります。それも1時間以内に立ち退けという命令で、私達は長年愛着して使っていた家財道具を捨て、持てるだけの衣類や日用品をリックに詰め仮住まいの住居に住むことになりました。このようにしてソ聯軍の幹部達は日本人の住宅を接収して進駐中、家族を呼び寄せました。北朝鮮の当局者達もこれにならって日本人の住宅を接収して、短時間の内に立ち退きを強要し、建物のみか残された家具、調度品、その他の荷物はすべて没収してしまうのです。
 その頃父は大同保安署に留置されていたので、これらの立ち退き作業は当時43才だった母の采配で行われました。だがその第二の住宅も間もなく接収され私達は船橋里の旅館跡に押しこまれます。そして10月の中旬にはその旅館跡からも追い出され、第4の仮住まいは同じ船橋里の一軒家の四畳半の部屋に押し込まれました。 この家の前に医師の一家が仮住まいし、医院の方はソ聯の将校が居住していました。その将校の当番兵にグレイシヤという好青年がおり私達はこの若い兵士と仲良くなりました。 
 その頃「マダムダワイ」という怒号と銃声と、建物の入り口を銃床で叩いたりするソ聯兵が夜毎あとをたちませんでしたが、その都度グレイシヤがで出てきて追っ払ってくれて、
この一画だけはソ聯兵の婦女暴行の魔手から逃れることが出来ました。
それでもこの一画から一歩でも出ると、そこには日本人婦女子にとっては恐怖と汚辱とに満ちた世界であり、夜毎ソ聯兵が踏みこんできて、銃で威嚇し、女性と見れば見境なく、衆人監視の中でも平然と強姦に及びました。 
婦女子は髪を切り、顔を汚して、男のような服装をして、床下に穴を掘って隠れる等で身を守りました。
当時警察の任にあった保安隊も、日本人から検問と称して金品を奪ったり、特別な理由もないのに逮捕拷問したりする存在で、
このような時でも私達を守ってくれるどころか、私達日本人にとっては恐怖の組織にすぎませんでした。
 やがて北朝鮮にも凄惨な冬将軍が訪れます。 夏の盛り満州から着の身着のままで避難してきた人々にとってはまさに地獄の季節でした。
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 夏の盛り満州から着の身着のままで避難してきた人々にとってはまさに地獄の季節でした。満足な食料の配給もなく、バラック小屋などに詰み込まれて、朝になると冷たく凍った死体と化していく人々。零下20度をこえる寒気の中で、栄養失調と発疹チフスで死んでいった遺体はカチカチに凍り、菰包みにして船橋里日本人会の倉庫に積み重ねられていました。私達は日本人会の要請により、これらの遺体を大八車に山と積んで、毎日、平壤東北数キロ離れた山の中に埋葬に行きました。そして発疹チフスで亡くなられた遺体は焼却場に運びました。遺体を運んで埋葬した山には、冬期は土が凍って埋葬しにくいため、
あらかじめ日本人会の手により、暖かい季節に塹壕のような長い帯状の墓穴が掘られていました。しかし墓穴はすぐに一杯になり、私達はツルハシで凍土を削って1日かかって穴らしいものを掘ります。そして山麓からバケツリレーの要領で山の中腹に掘った墓穴まで運び埋葬し、板切れに死亡者の名前を墨で書いて墓碑として打ち込みました。やがて山全体に針の山のように墓碑が隙間もなく打ち込まれてゆきます・・・その悲惨な様子に、胸がつぶれる思いがしました。このようにして私達は毎日のように大八車に山のように菰包みにした遺体を積んで、大同江を渡り、平壤市内の中心街を通り山に運びました。
 道路には大きな金日成将軍の肖像額が掲げられて、なにかの式典が開催されていたり、多くの朝鮮人から罵声を浴びせられたりで敗戦国民の情けなさと、恐怖心を味わいました。  
 あとで知ったのですが、越冬した日本人の死亡率の最も高かったのは、ソ聯占領軍司令部、北朝鮮政権があった平壤を中心とする西北朝鮮でした。権力者のお膝元だけに、日本人に対する締め付けは厳しく、平壤地区では満州などからの避難民の死亡者は実に40%にも達していたそうです。
 戦後、北朝鮮だけは国交が正常化してないため、巡拝者や遺骨収集団などの訪問も許されずに今日に至っています。祖国に引揚の夢を抱きつつ、無念のも異国の土となられた方々のご冥福を祈るばかりです。
 当時私達は、ソ聯や北朝鮮当局の命令で使役と称する労働に駆り出されたり、日本人会の要請で遺体運搬、埋葬などの労働につきましたが、これら労働の報酬として賃金をもらったり食糧の配給を受けたりした記憶はありません。
 創立したばかりの北朝鮮の政府は、自己の政権維持に精一杯で、日本人のことなど、かまってる暇は全くなかったようです。また、ソ聯軍当局も、満州や樺太と同様、日本人の帰国や生活、その生死にさえ全く無関心であったそうです。
 だだ地区によっても異なっているようですが、北朝鮮の人民委員会から終戦の昭和20年に成人1日当たり米8勺程度、雑穀6,6勺程度の配給があったとの記録を読んだことがあります。
 こうしている内に、私達平壤在住日本人の殆どが所持金も衣類その他の物資を失って、飢餓感は日増しに強くなり、帰国への希望は益々強くなっていきました。特に満州などからの避難民の場合は、売る衣料などなにもないので、その焦燥感はより強かったものと思います。 
 昭和21年、やっと遅い春が北朝鮮を訪れたと、平壤在住日本人のすべてが、このまま二回目の冬を迎えたら、間違いなく日本人の殆どが全滅してしまうことを肌で感じていたのです。依然として38度線はソ聯軍により封鎖されており、このまま平壤に残るのも死、逃げても死なら、万に一つの生への可能性のある逃げ方を選ぶのが自然です。
 当時日本人の入浴は月に1回とされていたので、日本人は皆不潔となり、その居住区はシラミやノミやダニ等の巣くつとなり、発疹チフスやコレラが蔓延し防疫上も好ましくない環境になっていました。昭和21年6月頃から、ソ聯軍や北朝鮮当局者の中にも、日本人をこのまま抑留させておくことに疑問を感じる者が多数出てくるようになり、ボツボツ日本人の平壤脱出は黙認の形で行われるようになりました。このようにして私達一家は、昭和21年8月5日、他の日本人避難民と共に、肩に食い込む程積めこんだリックを背にして平壤駅に集合しました。まる2日間、平壤駅に寝泊りしましたが、
その間もソ聯兵の 「マダム ダワイ」の怒声に悩まされました。
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 北朝鮮脱出のため平壤駅で寝泊りしていた私達一家6人は、3日目の昼、北朝鮮の定州からの避難民を満載した貨物列車に乗り込むことが出来ました。列車の避難民引率者が「医師はいないか。いたら乗ってくれ。」と叫んでいたので、私達一家と同行していたT医師が、「 栗本さん一家と一緒でなければ乗らない 」とこれに応じ、私達一家も乗ることが出来たのです。
 貨物列車の中は想像を超える陰惨な情景がひろがっていました。 
丸坊主の表情を失った女性達がぎっしりと積みこまれていました。
私の前にいた女性の背中には、すでに息を引き取りむくろと化した赤ちゃんがしっかりと背負われていました。列車は間もなく発車しましたが、平壤から三つ目の黒橋という小さな駅に停車して、そのまま動かなくなりました。列車の中で仮泊2日。どうやらこの列車は動かないと見た私達は、列車を降りて避難民の体列を作り、38度線まで徒歩で行くことにしました。
 やがて背負えるだけの荷物を肩にして、山野を彷徨する避難民達に飢餓が迫ってきます。私達はその都度、現地の人と交渉して、リックの中の衣類などと食料品を物々交換して飢えをしのいで歩きました。同行のT医師の奥さんは、自分と背丈の変らない娘さんを背中に背負って歩かれた。身障者の娘さんを背にして、無事日本に帰るという常人ではなし得ない驚嘆すべき愛の力には今でも敬意を表し、忘れることの出来ない思い出となって私の脳裏に焼き付いています。
 河原に石を積んで竈を作り収穫後の畑に落ちた粟や高粱、野菜のくずを拾ってきて、川の水で炊事をします。食器はソ聯軍が捨てた缶詰の空缶です。たった一つの鍋を囲み薄汚れた顔、汚れた衣類、石ころの上で済ます食事、まるで乞食のようでした。
 時々北朝鮮保安隊員の検問があり、その都度「北に帰れ!」と怒号されましたが、北に戻ることは死を意味するので、無視して南に向って歩くだけです。夜は露営で地面にごろりと横になり、星空を眺めて夢路に入り、朝は夜露に濡れた衣類を乾かす間もなく、そのまま歩き続けるだけでした。
 やがて8月も中旬になり、黄州では終戦記念日が近くなり、日本人が出歩くことは危険という理由で保安署の留置場に1週間足止めされました。留置場の中に押収した密造酒のかめがあり、この香りをしたったヤブ蚊に顔や手足を刺され、腫れあがり、帰国後も私達一家はマラリアで苦しみました。保安隊員は日本の避難民を待ち構えて、検問と称し残り少なくなったリックの中味と調べあげ、めぼしい物があれば強奪しましたが、逆に私達避難民の護衛として私達の前後につき、一般朝鮮人の暴徒から私達を守ってくれたりもしました。 
 発疹チフスやコレラに蔓延した家は赤い旗を揚げていました。
 日本人避難民はソ聯兵や保安隊に見付からない様に部落を避けながら山野そして川を越え一生懸命に南へ向って歩き続けました。山の中に死体が残されていました。老人や子供が多く力尽きて日本帰国を前にして無念であったであろうと万感の思いがしました。38度線を越えるまでは、どんなに苦しくても歩き続けるしかありません。しかし疲れ果て足が重い、一歩でも日本に近づきたい一心で歩きます。
 行く手に高い山が見えてきました。あの山の向こう側は、アメリカ軍の支配する南朝鮮だと聞かされました。国境線が近くなり、日本人避難民は、みんな一団となって坂の多い山道を最後の力をふりしぼり、あえぎながら登りました。
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 頂上に着いた9月初旬。38度線を突破した!。豪雨の中、ずぶ濡れになりながら、米軍の管理する開城のテント村に保護されました。テントの中は筵や茣蓙でしたが、なんとも言えない温かみを感じ、ああこれで助かった!!!と涙があふれ出て、みんな言葉もなく泣いていました。
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 満州やシベリアに関する物語は数多く出版されていますが、国交のない北朝鮮に関する物語は出版物も少なく、知られていない様です。
 北朝鮮の平壤で迎えた敗戦、そして1年余の抑留生活、そして38度線を越え、南朝鮮への脱出と日本への帰国。 今は遠い遠い思い出となりました。しかしこの出来事は、少年時代の貴重な体験として、私の心の中に生き続けています。
 敗戦で外地から引揚げた日本人総数は6,295,496人。( 民間人3,188,085人、軍人軍属3,107,411人 )
 数多くの人々が外地で死んで行きました。 
最終更新:2013年10月22日 11:58