「スペース・インベーダー」開発の父 ミハエル・コーガン様

「スペース・インベーダー」開発の父 ミハエル・コーガン様


●ユダヤ人保護に尽力した安江仙弘大佐は、大連で終戦を迎え、ソ連軍によって捕虜として拉致され、シベリアに抑留された。
そして各地の収容所を転々とした後、脳溢血で倒れ、収容所の中で帰らぬ人となった。
●1954年、失意の生活を続けていた日本の安江家を、一人のユダヤ人が突然訪問した。

この巨漢の男は安江大佐の遺族に「葬式は出したのか?」と尋ねた。
「まだだ」と遺族が答えると、「こちらで金は用意するからぜひ出してくれ」と言った。
遺族は、初め遠慮した。
すると男は、「在日ユダヤ人協会」を代表して「極東のユダヤ人たちの安江大佐への恩返しの気持ちだから、葬式を出してくれ」と頭を下げて頼み込み始めた。
遺族は、この男の熱心さに打たれて葬式を執り行なった。
以後、この男は安江大佐の長男と親交を結ぶようになる。

●この男こそ、知る人ぞ知るミハエル・コーガンという名のユダヤ人だった。
彼は1920年にロシアのオデッサで生まれたが、ロシア革命後の混乱を避けて、満州のハルビンに移住。1938年にハルビンで開催された「第2回極東ユダヤ人大会」では、シオニ

スト青年団の一人として参加し、安江大佐をエスコートしていたのである。

スペースインベーダーを開発したミハエル・コーガンさん、貴公は才人です。

ミハエル・コーガンさんは、安江大佐が大連の
特務機関長就任時から面識があり、戦前、戦中の
安江大佐の行動をよく知るユダヤ人の一人であった。
彼は日本人顔負けの流暢な日本語をあやつりながら、
「安江さんに助けられたユダヤ人の数は
5万人に上ります」と語っていた。

●「極東のユダヤ人保護」に奮戦する安江大佐に感銘を受け、親日家となったミハエル・コーガンは、翌年1939年(19歳の時)に来日し、東京の「早稲田経済学院」で貿易実業を

学んだ。5年間の日本滞在中、ロシア文学者の米川正夫氏の家に下宿し、彼のドストエフスキーの翻訳を手伝った。

その後、1944年に、コーガンは天津に渡り、貿易商を営み、1950年に再び来日。「太東洋行」という個人営業の輸入会社を始め、世田谷の仮住まいで雑貨の輸入業を営んだ。●

1953年に会社名を「太東貿易」と改名し、日本で初めてウォッカを醸造・販売したり、米軍払い下げの中古ジュークボックスのリース業を始め、成功を収める。

(※ この会社名の「太東」は「極東の猶太(ユダヤ)人会社」という意味だという)。 

●1956年には組立は日本産で中枢部品は外国産ジュークボックス1号機を開発し、1958年には日本で初めて「ピンボールゲーム」をリースし、ヒット商品とする。1964年に

は東京オリンピックにあやかって、新顔の「オリンピアゲーム」を市場に導入。これは後に「パチスロ」と呼ばれる娯楽ゲーム機に進化していく原型であった。翌年1965年には遠隔

操作のマジックハンドで玩具を吊り上げる「クレーンゲーム」を開発。こうして、コーガンは次々にアミューズメントの世界を変えていった。


●1973年、コーガンは「太東貿易」の社名を「タイトー」に変更。この年、日本初の業務用テレビゲーム「エレポン」を発表し、テレビゲーム市場を築いた。1977年には「ブロ

ック崩し」でテーブル式ゲームマシンを発売し、ゲームセンターだけでなく喫茶店にも販路を拡大した。翌年1978年、「スペース・インベーダー」を発表、空前の大ヒットとなり、

社会現象になった。


「タイトー」の創業者は満州出身の
ユダヤ人ミハエル・コーガンである。
彼は「スペース・インベーダー」を生み出し、
日本の文化史に大きな足跡を残した。


■コメント



wwwwwwwwwwwwww 反モーグリ同盟長 さん
君の言いたいことの意味がわからないよ? (Dec 16, 2008 12:57:02 PM)
返事を書く


外部リンク

最終更新:2014年04月09日 20:44