寒空は遠く。鮮やかに広がったオレンジとブルーの境目が、淡くラインを描いていた。
「今日は寒いですね」
「うん。昨日はあんなに暖かかったのに、また冬に戻ったみたいだ」
僅かに吹いている風が頬をかすめ、ひりひりと痛んだ。家までは後十分といったところか。
「春の訪れはもう少し先になりそうです」
「冬は嫌い?」
「いえ、季節に好き嫌いはありませんね。暖かいのも、暑いのも、涼しいのも、寒いのも、それぞれ情緒がありますし」
実に彼女らしい意見だった。
「廉くんは嫌いな季節があるのですか?」
「……別に嫌いって訳じゃないけど、そうだね、春はあまり好きになれない」
「何故です?」
「物心がつくかつかないか位の頃だったかな、中原中也の詩を読んだんだ。春日狂想っていうんだけどね。
凄く綺麗な、でも哀しい詩で、子供心に腹が立った。その詩のタイトルに春という文字があったからか、
人をそんな気持ちにさせる春にまで嫌悪感を抱いた……のかな。
何分幼い頃に思ったことだから、どうにも上手く言えないけどね」
「私、その詩、好きですよ」
彼女はそう言って、すぅっと息を吸い込み
「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない」
凛とした声で、詩の始まりを諳んじた。
「……良く覚えてるな」
「幾度となく朗読しましたから」
中原中也の生涯は波乱に満ちていた。
授かった長男を亡くし、精神を病み、それでも立ち直って「在りし日の歌」という詩集を書き上げた。
その中の一作が、今彼女が諳んじた「春日狂想」だった。
「読む度に思ったんです。ああきっとこの人は正しく狂ったんだな、って」
「変なこと言うね。狂うのに正しいとか間違ってるとかあるの?」
「私なりの考えですけどね。精神を病みながら、それでも彼はこんなにもやさしくて厳しい詩を残した。
彼の答えがそこに行き着いたのならば、それはとても哀しくて、けれども美しいことだと思ったんです。
……きっと、一度も狂わずに生を終える人なんて、いない。だからそれは正しかったと、
せめて誰かが肯定してあげるべきだって。所詮は私の自己満足に過ぎませんが」
言葉が出てこなかった。そんな俺に追い討ちをかけるように彼女はまた口ずさむ。
「愛するものは、死んだのですから、たしかにそれは、死んだのですから。
もはやどうにも、ならぬのですから、そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。奉仕の気持に、ならなけあならない」
彼女の声はとても深くまで心に染み入る。だからだろうか、堪えがたい衝動が湧き上がってくる。
それは、とても気高く、人間臭い物語。
「……そこが、許せない」
「え?」
ぴたりと立ち止まった俺に気づいて振り向いた彼女に言葉を浴びせる。半ば八つ当たりだ。でも止まらない。
「奉仕の気持にならなくたっていいじゃないか。哀しいのは当たり前だ。誰も、誰も悪くないだろう!
そんな重荷を背負ったって、いいことなんて何もない! それはもう死者に報いているんじゃない、
死者の持つ生者の面影に身を縛られているだけだ!」
言葉にした後はっとした。そうか、俺が許せなかったのは、俺がやりきれなかったのは、
哀しみに骨の髄まで犯されながら、それでも己の背に何かを背負う彼が、
余りに、
余りにも、
不憫だったことか。
「……廉くんは、本当に優しいんですね」
じっと俺の言葉に耳を傾けていた彼女は、はっきりとした意思をこめて、そんな言葉を紡いだ。
「んなっ……、な、何が?」
答えずそっと俺の目の周りをポケットから取り出したハンカチで拭う。
どうやら自分でも気づかないうちに泣いていたらしい。
何だか物凄く恥ずかしくなって、今言ったことは忘れてくれ、と言おうとした矢先に、彼女は訥々と語りだした。
「ええ、そうですね。彼は真実死者に縛られていたでしょう。死を受け入れ、同時に死を手放さなかった。
緩やかに溶けていくはずの哀しみを抱えて、そのまま生きようとした。
でも、彼が立ち直れたのは、そのおかげではありませんか?
きっと彼にとって、背負うものがあったほうが良かったんです。結果彼がその短い命を散らしたとしても、
己の生にたとえ悔いが残ったとしても、
背負ったものはいつまでも残り続ける。だから彼の生は決して不幸なだけのものではなかった。
……それが、哀しみで彩られていたとしても、決して」
納得できたとは言いがたかった。哀しみを忘れない為に哀しみを背負うなんて、やっぱり許しがたい。
けれども彼女もそんなことはお見通しのようで、
「でも、廉くんはそのままでいいと思います。そんな廉くんだから好きで好きで仕方がないのです」
なんて、さも当たり前のように言うのだった。
思わず赤面しそうになるのを誤魔化すように慌てて取り繕った言葉は、
「……あー、でも、最後の一節を考えると、そう悪くなかったのかな、とは思う」
「はい。では私たちもそれに習うとしましょう」
差し伸べられた手は俺よりずっと小さい。ぎゅっと握ると彼女は僅かに笑みを浮かべ、
「習いはしますが同じだといつまで立っても帰れません。そうじゃなくて、こうです」
そう言って俺の手からするりと逃げ出し、反対の手で指を絡めて繋いだ。
「なるほど」
「ええ、そういうことです。では参りましょう」
春の到来まであと少し。舞い散る桜吹雪の中でいつか狂う日が来たとしても、俺は正しくいられるだろうか。
ただ、願わくば、どうかその時俺の隣に、今と変わらず手を繋いで歩く彼女がいますように。
最後の一節を、もう一度だけ心の中で蘇らせる。
ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。
つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。
ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。
― 了 ―
最終更新:2007年01月30日 11:16