ある日、少年は夢を見た。
それは目覚めの直前だったからか、深い眠りの最中だったからか
それはもはや夢とも呼べない、水面へと浮かび上がる間に消えゆく泡のような、淡く儚い幻想のようなものではあったが、
少年は夢を見た。目覚めて目蓋を開けた時の眩しい朝日、それに目を細めた瞬間に、危うく忘却に置き去りにしてしまいそうな夢を。
朝日が放つまばゆい光と、家の前の通学路を走りゆく小学生達の弾むような笑い声に、まだ重い目蓋を手の甲で擦りながらこじ開ける。
首に感じる鈍い痛みと、傍らに無造作に転がる天文学の雑誌を見て、またやってしまったのかと少年は苦笑した。
その苦笑も机上に置かれた時計を見て焦りの表情へと変わるが、少年はまるでこの事態に慣れたかのように再びフローリングの床へと身を横たわらせる。
「…あーあ、二日連続の寝坊か…もう良いや、今日も休んじゃえ」
…どうせ、父さんも寝坊したんだ…親子揃って低血圧、朝は弱いもんなぁ…
言い訳にもならないことを考えているうちに、目蓋はまた重くなってくる。そうして完全に目を閉じそうになったとき、部屋のドアが勢いよく開けられた。
「…朝だ!」
「…そんなの知ってるよ、父さん」
「…なんで起こしてくれなかった!?」
「…いい加減に目覚ましで起きてよ…まあ、僕が言える立場じゃないけどさ。…じゃ、僕、寝るから…」
そして僕は再び眠りにつこうと、机の横に投げっぱなしになっていたタオルケットを手繰り寄せた。
「何言ってんだ、今日は平日だろ!学校だろ!それをこんな時間になって…」
「それは父さんも同じですー。今から準備したって遅刻するし、だったらもう一眠り…」
「それを言うなら俺も同じ!同じように寝坊したのに、俺だけ遅刻で怒られるのは納得できん!」
…なんか、親として怒るべき部分がずれてる気がする。でも僕は気にせず、籠城を決め込むようにタオルケットに包まった。
「ふふ…晴樹、お前だけのうのうと休めるとは思うなよ…」
「うー…なんだよ父さん、気持ち悪いなぁ…良いから、早く仕事に行きn」
「既にまひる君を呼んだ。彼女なら引き摺ってでも、お前を学校へ連れて行ってくれるだろうからな」
「…マジカナ?」
「マジダヨ♪」
「邪魔するぞ、晴樹。ああ、お父様もこちらにいらっしゃいましたか。おはようございます」
「おはようまひる君、ではこいつをよろしく頼んだよ。俺は仕事に行かねばならないからね」
「了解しました、お父様。…なんだ晴樹、まだ着替えてもいないじゃないか。」
さっきまでの邪悪な笑いは何処へやら、爽やかな笑みを浮かべて父さんは部屋を出て行った。
「…ごめんねまひる、すぐに準備するから玄関で…って、なんで手をわきわきさせてんの」
「深いことはハァハァ気にするな、それよりハァハァ急ごうじゃないかハァハァ」
「気にするなって…ちょ、なんで息まで荒いの」
まひるが、両手をわきわきさせながら、鼻息を荒くしながらにじり寄ってくる。昔からの付き合いだから、この次にはどうなるかわかっているわけで…
「仕方ないなハァハァ寝起きで着替えるのもハァハァ時間がかかるだろうハァハァし手伝ってあげようハァハァほらばんざーいフヒヒ」
「やめてぇえぇえええええぇ!!!!」
少年は夢を見た。記憶には無いのに懐かしく、しかし何故か悲しくなるような夢を。
…だがそんな夢も、朝の喧騒に少しずつ掻き消える。
少女は駆けた。すらりと伸びた足は軽やかにアスファルトを蹴り、腰までもある艶やかな黒髪を踊るように風へなびかせて。
その走りはすれ違う人々皆が振り向くほどに華麗で、かつ少女らしい躍動感があったが、残念なことに道行く人はほとんど見られなかった。
「まったく、無駄に派手な抵抗ばかりして…冗談に決まってるのに、余計に時間がかかったじゃないか。」
「まひるのやることは、全然、冗談に、見えな…ま、まひる早すぎ、ちょっと歩こうよ…」
少年は駆けた。…いや、駆けていると呼べるだろうか。
その足は、地面を蹴るには程遠く靴の踵を引き摺り、右へ行ったかと思えば左へ行ったり…
何より、その目を見事に渦巻きを描いて回していた。
「まったく、只でさえ遅れそうだというのに…仕方ない、その様子ではいつ倒れるかわからないしな。」
「はあっ、はぁ…ごめんね、僕のために…」
「晴樹が倒れたら、遅刻どころの話じゃなくなるからな…第一、そう言うなら寝坊なんかするな。」
「う…ご、ごめんね…」
…ほんとに、まひるは言いたいことをズバズバ言うなぁ…と、少年は心の中で呟きながら頭を垂れた。
「まあ、昔からのことだからな…いい加減、晴樹の世話役にも慣れたよ。不本意ながら、な。」
「わかってるよ、感謝してるってば…昔から、まひるには迷惑かけっぱなしだもんね…」
「うん、一応理解してるようだな…。それにしても、随分と頑固なまでに二度寝に執着していたようだな。何かあったのか?」
声色は先ほどまでと変わり無いが、首を傾げながら少年の顔を覗き込んで問うあたり、どうやらまんざら不本意というわけでもないらしい。
「何か、って…別に何も無いよ?」
「うーん…ほんとに、か?」
「うん、ほんとに。…でも、なんでそんなこと?」
「いや、なんと言うか…」
少女は、隠し事を打ち明ける子供のように、どこか恥ずかしいような表情で、
人差し指で頬をかきながら、少しばかり考え込んだ。
「…晴樹があんなに駄々こねたの、小さいころ以来だったから、さ。」
「…だ、駄々って…」
少年は、そのあまりに子供扱いな言葉に一瞬顔を引きつらせたが、
少女のどこか遠くを見つめる表情を見て、朝の自分を思い返した。
…いつもなら、絶対に逆らわないまひるの言葉を聞いても、それでもずる休みを決行しようとした自分。
どうして?
また眠って、ずる休みをしてまで何があっただろう。
せいぜい、夢を見るくらいで…
…夢?
なんだろう、何か大切なことを忘れてる気がする。
別に、忘れても何が問題があるわけでもないことだけど…
それでも、大切な何かを。
「よし、休憩は終わりだ。…校門までラストスパート、倒れるなよ晴樹!」
「わ、ちょ…待ってよまひる!」
『…晴樹があんなに駄々こねたの、小さいころ以来だったから、さ。』
追憶の続きは後回しにしなくては、と少年は思った。
とにかく今は、自分の前を駆ける少女の後を追い、一刻も早く校門をくぐらなければならないのだから。
電線の上の雀は、小刻みに首を傾げながら、二人の少年少女を可笑しそうに見下ろしていた。
教室は、朝という独特の、澄んだような空気の中で、
やはり独特の雰囲気を醸し出していた。
始業のチャイムまで、あと数分もない。しかし、この教室の二つの席は、まだ空いたままだった。
少女は豪快な音をたてて教室のドアを開け、滑り込むように自分の席へ座った。
「や、やっと……着いた…」
それから数秒遅れて、少年が……またしてもぐるぐると渦巻きに目を回し、
へろへろとふらつきながら教室へ入って着席する。
「朝からぐだぐだじゃねえか……さすがにずる休み、二日も続けらんないか?晴樹」
「ああ、おはよう太一……仕方ないよ、まひるに迎えに来られちゃ…」
座るなり力なく机に突っ伏した少年に、太一と呼ばれた前の座席に座る
もう一人の少年が、にやにやと笑いながら話しかけた。
どちらかというと色白で、前髪がだらしなく目の下まで垂れている晴樹とは違い、
太一は、日に焼けた肌といい、短く刈り揃えたといい、見るからに、
根っからの体育会系といった風貌だ。
「ふーん……なんだ晴樹、私の出迎えはそんなに迷惑だったか?」
「……滅相もございませんよ、まひるさん」
まひるは自分の席、晴樹の斜め後ろの席に座ったまま、
走ったために少しばかり乱れた髪を和風の櫛で梳かしながら、
ドスのきいた声色と冷たい眼光で晴樹を睨む。
こうなっては、少年はヘビに睨まれたカエル。
晴樹は半ば怯えたような表情で、両手と首を同時に振った。
「でもまあ……何だかんだ言っても、まひるは晴樹の良い保護者だよな。それに、晴樹
だってまひるとほとんど一緒にいるし……幼なじみっつうか、姉弟だな」
「昔から、晴樹の世話をするのは私の役目だったからな…
今でも、危なっかしくてなかなか目が離せないのはそのせいだ。」
「ご、ごめん…」
まひると晴樹を交互に見ながら面白そうに笑う太一。
髪を整え、櫛を小さなポーチにしまいながら仏頂面で言うまひる。
目を隠している前髪を指で弄りながら、苦笑いを浮かべて謝る晴樹。
「まあまあ…いつか晴樹に彼女でもできれば、まひるの役目も軽くなるんじゃねえの?」
「そうだな…私も人並みに恋愛にうつつをぬかしてみたいが、
このままではずっと晴樹の世話役で青春時代を終えてしまうかもしれない」
「ご、ごめんなさい…」
いよいよ肩を落として落ち込む晴樹を見て、少し言い過ぎたか、と思った。
……無論、太一が。
まひるも、決して人を傷つけて喜ぶような性格破綻者ではないし、
人の痛みが理解できる、心優しい少女なのだが、
それと同時に、この気弱な幼なじみの弱々しい顔を見ることを楽しむ、少々過激な性癖もあった。
「そ、そう落ち込むなって!な、まひる!」
「そうね……まあ、晴樹のような天文オタクに、彼女ができるかどうかは…」
「うわーっ!まひるっ、それ以上は言うなぁー!」
「…………」
こうした朝の喧騒はいつものことで、
遅れてきた担任の一声で、喧騒が落ち着くのもいつものことだった。
夢は夜に見るもの。
ならば、夢の回顧もまた、夜に行うのだろう。
若い彼らは、その目が開いている限り、ただ日常を、現実を、楽しむ。
いつも通りの学校生活が終わった。
思い思いに過ごす放課後。日が落ちるにはまだ早く、外はまだ明るい。
早々に帰り支度をする者、
まだ教室に残り友人と雑談を楽しむ者、
部活の練習のために、慌ただしく教室を後にする者……
「まひる、今日は?」
「今日は休みだからな、もう帰る……太一は練習だと言って、もう部活に行った」
「うわ、相変わらず忙しそうだねぇ……」
「うちの野球部は、県内ではわりと強豪の部類に入るからな」
「陸上部はどうなの?」
「強豪と呼ばれるほどの部活なら、晴樹の面倒など見ていられないさ」
まひるは苦笑いを浮かべながら溜め息混じりに言うと、
小さく「行くぞ」とだけ呟き、鞄を持って静かに立ち上がった。
まひるは、陸上部のキャプテンを務めている。
本来なら最上級生である3年生の役割だが、部員の少なさと、
何よりまひる自身の実力によるもので、異論を唱える者はいなかった。
1年生の時には既に副キャプテン、そして今年に入って、見事キャプテンの座に着いた。
「まひるの家、今日は?」
「ああ、いないな」
「僕も……じゃ、どうする?」
「晴樹の家だな、洗い物が楽で良い」
晴樹もまひるも、片親だ。
晴樹には母親が居らず、まひるには父親がいない。
なので物心ついた時から、互いの親を
「お父さん」
「お母さん」
と呼んでいた。
晴樹の父も、まひるの母も、まるで自分の子供が
増えたかのように喜んだ。
そして二人の少年少女が大きくなると、親が仕事に行っている間、
どちらかの家で、二人で留守番をするようになっていた。
子供を一人にすることへの不安か、罪悪感か……
しかし、二人は喜んだ。一人で待つのではない、
二人で待つということ。例えそれが留守番でも、二人は楽しかった。
そしてその習慣は、もう一人にしてもほとんど心配のないほどにまで、
二人が成長してもなお、続けられている。
「まあ、別に良いんだけど……」
「では決定だ、材料で必要なものはあるか?
あるなら、私の家から調達するが……」
まひるの言葉に苦笑いを浮かべながら、大丈夫、と一言だけ答えた。
もう太陽は二割ほど沈んだ。
その光は雲を、山を、ビルを、錆びれた交通標識を、
二人の頬を紅く染めた。
二人の家に帰る途中にある河川敷に差し掛かると、まひるは美しい夕日に目を細めた。
「…綺麗だ、これは明日も晴れるな……晴樹?」
小さいころから、二人で何度も見てきた夕日。
いつもの晴樹なら、自分以上にはしゃぐはずなのに……と思い、
ゆっくりと振り向いて、後ろで立ち尽くす晴樹を見た。
晴樹は、黙って夕日を見ていた。
しかしその表情は、何かに見惚れている表情ではなく……
その目も、夕日を見ていると言うよりは、どこか遠くを見ているようで……
「…はる、き……?」
晴樹は、夕日を見ていた。
いや、夕日ではない。その向こうの、どこか遠い日を。
昨夜に見た夢……それはもはや不鮮明で、その上には、
何枚ものフィルターがかかっていた。
しかし、無意識の内に、晴樹の口は言葉を紡いだ。
「…晴樹、いったいどうし……」
「…こが…ね、いな…ほに……あか、ね、ぞら……」
まひるの聞いたそれは、言葉ではなかった。
歌のようだった。それも古い、民謡のような……どこか、懐かしくさせる歌。
「…もゆ……る、あき…やま……ひ、ぐれ…を…み……あげ……」
「……っ…おい、晴樹っ!!」
気付けばまひるは体ごと晴樹へ向き直り、手のひらを強く握って叫んでいた。
手のひらに爪が食い込むのがわかったが、そんなことはまひるの頭には無かった。
怖い?違う、この感じは違う。
怒り?違う。
悲しみ?……違う、似ているかもしれないが、違う。
「…てん……と…て……まり、を……も…ひと、つ……つ……け…ば……」
「晴樹っ!!」
晴樹がはっと気付いたときには、まひるが自分の両肩を強く掴んでいた。
「ま、まひる……?」
おろおろと、肩を掴んでいる腕とまひるの顔を見る晴樹の
表情を見て、まひるは直感的にわかった。
わかった、というと少し違うかもしれないが……
「……あれ、今僕…?」
「………いきなり道端で呆けるな、バカ晴樹」
「…あ……えっと、ごめん!」
気まずそうに浮かべる苦笑い、謝罪の言葉。
大丈夫だ、いつもの晴樹がここにいる。
正直、晴樹の身に何が起こったのかはわからない。だが、一つだけわかったことは……
「……行くぞ、私は空腹なんだ。見たい番組もあるし、な」
「わ、いきなり走らないでよ……ま、待ってよまひるー!」
わかったのは……
あの時、私の言葉が晴樹に届かなかった時、私の心を襲った、冷たく重い感情。
……寂しかった。
晴樹の目が、私の知らない何処か遠くを見ているようで。
晴樹の心が……私の届かない、遥か遠くへ行ってしまったようで。
……ずっと一緒だった幼なじみが、急に知らない誰かになってしまったようで…
「……何なんだ……くそっ!」
そんな感情を振り切るように、まひるは走った。
運動音痴な幼なじみを遥か後ろに、彼の家へ続く道を。
黄金稲穂に 茜空
萌ゆる秋山 日暮れを見上げ
てん、と手鞠をも一つつけば……
「……ねえ、まひるも手伝ってよー」
「うるさーい」
晴樹が一人で食後の洗い物をしている間、まひるはリビングの床に寝転がってテレビを見ていた。
「まったくもう……まひるのうちでご飯食べた時には、いつも手伝わせるくせに……」
「……んー……まあ、細かいことは気にするなよ」
晴樹は、自分専用の水色の前掛けを台所の壁にかけると、
テレビから流れる平面的な笑い声を聞きながらソファーへ座った。
「あ、これまひるが好きな芸人だよね!」
「あー……そうだな……」
その夜、まひるは静かだった。確かに普段から物静かだし、騒がしい性格ではないが、
何を話しかけても上の空だった。今も、仰向けになったままテレビを見てはいるが、
内容にはまるで関心が無さそうに見えた。
「……なあ、晴樹」
「なっ、なになに!?」
ようやくまひるの方から話しかけられ、晴樹は、目を輝かせながら身を乗り出した。
「……夕焼けを見てるとき、何考えていたんだ?」
「え?何をって、別に何も……ただ、ぼーっとしてた、っていうか」
「……そうか」
それだけ答えると、まひるは気だるそうに再びテレビへ目を向けた。
どんな答えを期待してたのかな、と晴樹は思った。
しかし実際に、ぼーっとしていたとしか言い様の無いのも事実だ。
夕焼けを見て……その奥に何かが見えたような気がして、
気がついたときには、まひるに肩を掴まれていた。
「ねえ、まひる?」
「んー、なんだ?」
「明日、土曜日だよね?」
「ああ、土曜日だな」
「部活も休みだったよね?」
「そうだな、休みだ」
「それじゃあさ……も、もし良かったら、久しぶりに」
どこか気の抜けたようなまひるの返事を聞きながら、
このどこかくらい雰囲気を払拭しようと、晴樹がさらに身を乗り出した瞬間、
玄関から、聞き慣れた呑気な声が聞こえてきた。
「たーだいまー!」
「ああ、お父様が帰ってきたようだな」
「……みたいだね…」
実に間の悪い父親の帰宅に、晴樹は顔を引きつらせて答えた。
二枚の映画の割引券を、再びズボンのポケットへねじこみながら。
「良い匂いだ、今日の夕飯はまひる君が作ったようだね?」
「お疲れ様でした、お父様」「……おかえり、父さん」
「いやー、まひる君にはいつも世話になってるね。……なんだ晴樹、まだ起きてたのか」
「まだ九時だよ、っていうかそれが帰りを待ってた息子への態度?」
父親の露骨な態度の違いに、ジト目で睨みつける晴樹。
「はいはい、正直すまんかった。……ところでお二人さん、明日は暇かな?」
「ええ、私は部活も休みですし。どうせ晴樹はいつも暇ですから」
「人を暇人みたいに言うな!」
まひるは、でも事実だろう?と呟いて小さく肩をすくめた。
「まあ良いけどさ……で、明日がなんだって?」
「私もそれをお聞きしたい、何か用事でもあるのでしょうか?」
「いやー、大した事じゃないんだがな……」
そして、少年達は舞台に上がる
少年は、日常から非日常へ
少女もまた、日常から非日常へ
そしてまだ見ぬもう一人の少女は、あまりに長い時間を経て、非日常から日常へ。
電車の窓からは、夏の始まりを感じさせる青々とした山が見える。
木々の葉は眩しい太陽のをちかちかと反射し、雲は高くそびえる山の上を流れた。
そんな山奥を走る電車の中、晴樹は窓に後頭部をつけて小さく溜め息を吐いた。
(……父さんも、いきなり急なこと言うんだもんな…)
やる気の無さそうな表情で、窓の外を見た。
山は日の光に輝いてはいるが、山特有の気候のために、それほど暑くもないだろう。
晴樹は、小さい頃に何度も体験したのでよくわかった。
(久しぶりだなぁ……何年ぶりだろ、お婆ちゃんのうちに行くなんて)
「えー、お婆ちゃんのとこに!?」
「そうだ、明日行って来い」
「お父様、それで私は?」
「大丈夫、切符は二人分買っておいた。まひる君も、久しぶりに行きたいだろ?」
「父さん、また勝手にそんなこと決めて……」
父親が堂々とポケットから取り出した二枚の切符を見て、
晴樹はあからさまに肩を落とした。
「私は構いませんが……しかし、なぜ?」
「晴樹一人だと、どこで迷子になるやら熊に遇うやら川に流されるやら……」
「んなわけあるか!」
「いえ、私がお聞きしたいのは……うるさいぞ晴樹、少し黙れ。
なぜ、急に今お婆さんの家に?」
一喝されて泣きながら体育座りをする晴樹を尻目に、まひるは素直な疑問をぶつけた。
「いや、何か渡す物があるとかなんとか……
まあ、ちょうどいい機会だ。久しぶりに墓参りにでも行って来いよ」
「いきなりの提案にしては、随分とアバウトだね…」
ようやく立ち直った晴樹が、ジト目で睨みながら呟いた。
その言葉を聞いた父は、晴樹の頭をわしわしと撫でまわした。
「な、なにすんだよ!」
「良いから言って来い、ここの所墓参りにも行けなかったしな」
「そうだ晴樹、ご先祖様は大切にすべきだ」
「結局、まひるもそっちに着くわけね……わかったよ、行けば良いんだろ」
こうして、晴樹とまひるは二人、ひたすら山奥へ突き進む
電車に乗って、線路に揺られながら晴樹の実家へ向かうことになった。
(おかげで、映画の割引券はゴミ箱行き、か……)
再び溜め息を吐いて、暇潰しに持ってきた文庫本へ目を落とすと、
ことりと片方の肩に重みを感じた。
「……ま、まひる?」
「…んー……すぅ…」
まひるは晴樹の肩に頭を乗せて、静かに寝息をたてていた。
「…まあ……こういうのも悪くない、かな」
「んー、やっと着いたか」
「まひる、ずっと寝てたくせに」
小さく伸びをするまひるを見て、晴樹は笑いながら言った。
「退屈だったんだ、仕方ないだろう。そんなことより、早く行くぞ」
「そ、そんなに急がなくても良いんじゃない?」
さっさと歩き出そうとしたまひるを、あわてて呼び止める。
「お婆さんに用事があるんだ、お婆さんの家に行かないでどうする」
「そうだけど……久しぶりに来たんだし、いろいろ見て行こうよ」
晴樹の提案を聞いたまひるは、幾分か考えた後、仕方ないかと頷いた。
「うわー! この川も、相変わらず綺麗だね!」
「そうだな……あまりはしゃぐなよ晴樹、川に落ちるぞ」
山沿いの道路を少し降りて、二人は川原にいた。
流れる水に手を浸してはしゃぐ晴樹を見て、腕を組んで注意するまひる。
「はいはーい」
「まったく、どこまでわかっているんだか……」
晴樹が呑気に返事をすると、まひるは小さく溜め息を吐いて、
近くにあった岩へ腰掛けた。
「あはは、ちゃんとわかってるよ?」
「どうだかなぁ……」
「昔みたいに、まひるに助けてもらうわけにもいかないしね!」
「昔……?」
「そう、小学校三年生のときだったよね? 僕が溺れて、まひるが助けてくれて……」
「いや、ちょっと待ってくれ……小学校三年生のとき?」
「うん、間違いないよ!」
晴樹の答えを聞いて、まひるは口元に手をあてて何か考え込んだ。
「……なんのことだ?」
「え、まひる覚えてないの!?」
「小学校三年生のとき、私はここに来なかった。母が体調を崩したからな」
「……そういえば、そんなことも……」
「何かの勘違いだろう?ほら晴樹、川の近くでぼーっとするな」
勘違い?そんなわけない、と晴樹は思った。
足を滑らせて川に落ち、流された恐怖感。
嫌でも水を飲んだ苦しさ。
差し出された手に助けられた時の、安堵……
それが、この記憶が、勘違い?
そんなわけないと、もう一度晴樹は思った。
「晴樹そろそろ行くぞ?」
「あ、うん……」
(あれ……結局、誰に助けてもらったんだっけ?)
そんなことを考えながら、晴樹はまひるの後ろを歩き始めた。
「晴樹もまひるちゃんも、久しぶりじゃねぇ」
「そうだね、久しぶり」
「ごぶさたしていました、お婆さん」
ようやく晴樹の実家へたどり着いた二人は、晴樹の祖母の歓迎を受けて古びた茶の間へと通された。
「それで、さっそくなんだけど……渡したい物って、なに?」
「ん? むかーし、この家に晴樹が忘れていったものじゃよ」
「忘れていった、もの?」
「そう、とても大事な、だーいじな、ね」
祖母の言葉に、晴樹は記憶の糸を手繰り寄せた。しかし、まったく記憶が無い。
第一、そんなに大事な物だったら、もっと昔に自分から取りに行ったはずだ。
「心当たりが全然無いよ……それで、その忘れ物はどこに?」
「自分から行ってやりなさい、とてーも大事なものなんじゃから」
「ええ、自分から探しに行くの!? 忘れ物が何かもわかんないのに……」
「宝探しじゃよ、小さい頃よくやっとったろ?」
「そ、そんな……」
「面白そうじゃないか、晴樹」
「ま、まひる?」
それまで静かだったまひるが、突然口を開いた。
「つまり、その忘れ物はこの家のどこかにあり……見ればすぐにわかるもの、でしょう?お婆さん」
「そうじゃよ、大事な、そしてすぐにわかるものじゃ」
(うわぁ、まひる燃えてるよ……こういうの好きだもんな、昔から)
「よし晴樹、探しに行くぞ! ではお婆さん、また後で!」
「はいはい、頑張りんさい」
目を輝かせて勢いよく立ち上がったまひるに、首の後ろを掴まれて引き摺られていく晴樹。
祖母は深いシワを寄せて笑いながら、二人を見送った。
「早く見つけてやりんさい……ずっと、ずーっと、待っとったんじゃから」
「ここか!? むぅ、違うな……そっちか!?」
「ま、待ってよまひる……」
幼い頃に帰ったような生き生きとした表情で、次々に部屋を覗き込んでいくまひる。
晴樹は、そんなまひるの後を、苦笑いを浮かべながら着いて行った。
「……昔からさ、まひるはこういうの好きだったよね」
「うん?」
「山とか、森とか……探検するの、好きだった」
「ん?そうだな、確かに」
「僕は、いつもそんなまひるに着いて行くばっかりで……」
「迷子になって、大人達を慌てさせたこともあったよな」
「あはは、あったあった! 確かその時、助けが……あれ?」
そこで晴樹はふと立ち止まり、怪訝な表情で記憶を振り返った。
「どうした?」
「……その時、どうやって助けられたんだっけ?」
「それは……あれ、どうだったかな?」
二人はしばらくの間回想に耽ったが、すぐにやめた。
疑問は、何故かそれほど尾を引かなかった。
それからも、まひるはバタバタと家の中を巡り、晴樹はその後を着いて歩いた。
その間も二人は、幼い頃の思い出を話し続けた。
森の中で蝉を取ったこと、川で魚を釣ったこと。
近くの小さい神社の夏祭りに行ったこと、浴衣を着て、花火大会にも行ったこと。
しかし、どの思い出もちぐはぐで、つじつまの合わないところがあった。
「あ、まひる!」
「なに、見つけたのか!? ずるいぞ、私が見つけたかったのに!」
「違うよ、ほら……この柱!」
苦笑いを浮かべながら、晴樹は古く黒ずんだ柱を指差した。
そこには、晴樹のお腹辺りの高さの場所に、乱暴に傷がつけられていた。
「懐かしいなー……昔、僕たちが背比べして、傷つけて怒られたんだよね」
「ああ、これか……懐かしいな」
「確かこの頃は、僕よりまひるの方が小さかった」
「うむ、今では大逆転だ」
「う、うっさいなぁ……」
「事実だ、受け止めたまえ」
「なんか、柱に印をつけるのに憧れてたんだよね……あ…」
柱を指先で撫でていた晴樹の様子が急変し、まひるは訝しげに晴樹の様子を伺った。
「晴樹……?」
ガタッ!!
「お、おい晴樹!?」
「僕、庭のほう探してくる!!」
晴樹は突然顔を上げると、言葉を残して勝手口の方向へ走りだした。
「やっぱりだ……やっぱり…!」
柱を撫でていて、気付いた。否、目に止まった。
「おかしいと思った……何か、足りないと思った…!」
まひるのつけた傷。その少し上に、晴樹がつけた傷。
「なんで思い出せないんだ、大事な……とても、大事な!」
二つの傷より、頭一つ分上に……もう一つの、傷。
「間違いない……」
僕の思い出には、何かが足りない。
『……早く見つけてやりんさい、ずっと、ずーっと、待っとったんじゃから』
「…はあっ……はぁ…」
勝手口を開けると、そこには昔と変わらない……いや、昔よりはいくらか寂れた、裏庭があった。
晴樹は古びたサンダルをつっかけて、裏庭に出る。
晴樹は肩で息をしながら、ゆっくりと歩き始めた。
あまり手入れのされていないそこには無数の石ころが転がっている。
晴樹が一歩踏み出すごとに、薄っぺらいサンダルの裏から鈍い痛みがはしった。
「…何もない……誰も、いない……」
ははっ……と、乾いた笑いが口からこぼれた。
「……何をやってるんだ、僕は……こんなところに、何かあるわけ…」
その時、ぱしゃりと水の撥ねる音が聞こえた。
そういえば、裏庭の池には鯉がいたな。
そんなことを思い出して、晴樹は池の方へ目線を向けた。
小さな池のほとり。
そこには、一人の少女がいた。
「……おかえりなさい」
真っ白な布地に鮮やかな紅色の飛沫がかかったような模様の、変わった着物を身にまとっていた。
その整った顔は、まさしく美少女と呼ぶにふさわしいだろう。だが晴樹には、どうも現実感に欠けて見えた。
感情の見えない無表情。透き通るような声。黒く澄んだ瞳は、真っ直ぐに晴樹を見つめていた。
「やっと、見つけてくれたね」
「……え…?」
君は……?と聞こうとした瞬間、再び水の撥ねる音が響いた。晴樹は、ついそちらへと目を向けた。
水面下を悠々と泳ぐ鯉。
目線をこちらへ近付ければ、揺らめく水面に浮かぶ自分の姿。
そして、少しばかり目線を動かして、そして気付いてしまった。
目の前、池のすぐそばに立つ少女の姿だけが、水面に映っていないことを。
「……う、わっ!?」
晴樹はその時はじめて、血の気が引くという感覚を知った。
自分に霊感なんてものがあるとは思ったこともなかった。
だが目の前の少女が、少なくとも普通の人間ではないことだけはわかった。
さっきまで流れていた汗とは違う、冷たい汗が滲み出てくる。
ふと、少女が動いた。
ゆっくりと、晴樹へ向かって歩き始める。
晴樹の体はびくっと反応したが、それ以上は動いてくれなかった。
少女は徐々に、小走りに。
そして……
ぽすっ
「……あ、え?」
「そんなに、恐がらないで」
ぎゅっ
「うえ、あ、ええっ!?」
突然の抱擁に、いよいよ頭の中が真っ白になった晴樹は素っ頓狂な声をあげた。
少女は小柄だったが、晴樹の身長は同年代の男子の平均を大幅に下回る。
残念と言うべきなのか、胸に顔を埋めるとまではいかなかった。
「相変わらず、晴樹は恥ずかしがり屋なんだね」
「ど、どうして僕を……?」
少女はゆっくりと晴樹の体を抱き締めていた腕をほどくと、晴樹の頬に両手を添えた。
「なっ……!?」
「教えてあげる……ううん、思い出させてあげる」
少女は、晴樹の顔に自分の顔をゆっくりと近付けていった。晴樹は、反射的にきつく目を閉じる。
こつん、と二人の額が触れ合う。
「やっと解けるね、二人のおまじない」
181 名前: 愛のVIP戦士 投稿日: 2007/02/13(火) 08:38:52.89 ID:73CNVZ9uO
晴樹が恐る恐る目を開けると、目の前には少女の顔があった。
先ほどまでは無表情だった顔は、僅かに赤く染まり、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
まるで、美しい思い出の回想に耽っているようだと感じたとき、
少女の閉じられた瞳から、一筋の涙が零れた。
「また会えたんだね、晴樹……」
晴樹はその瞬間、触れ合っている額から、何かが流れ込んでくるような感覚に陥った。
夕暮れ、何もかもが茜色に染まっている
今晴樹がいるこの裏庭で、二人の子供が舌ったらずな声で、何かを唄いながらゴム鞠をついている。
『こがーねいーなほーに、あーかねーぞらぁー』
『もゆぅーるあーきや、あっ……』
その内、片方の少年の鞠がころころと転がっていった。
『まったく、はるきはへたくそだねー』
『うー、ごめんなさい……』
この男の子が、僕……?
『泣かないで、別に怒ってるわけじゃないよ?』
『ほんとぉ?』
『うん、ほんと! はやくじょうずになれたらいいね!』
『うん、ありがと! ――ちゃんはやさしいねぇ』
『えへへ……――は、はるきがだいすきだから!』
『ぼくも、――ちゃんがだいすきだよ!』
『――ちゃん』
『―ゅ―ちゃん』
『―ゅみちゃん』
「……千弓、ちゃん…」
「…おかえりなさい、晴樹……」
気付くと、晴樹の瞳からも大粒の涙が零れていた。
目の前の少女……千弓の瞳からも、次々と涙が零れた。
「……僕が溺れたとき、助けてくれたよね……」
「うん……」
「山で迷子になったときも、助けを呼んでくれた」
「うん」
「蝉を取りに行った、魚も釣りに行った、神社のお祭りにも行って、花火大会にもっ……!」
「うんっ……!」
晴樹は千弓を強く抱き締めた。千弓も、晴樹をきつく抱き返した。
二人は泣いた、しかし流れた涙を冷たくは感じなかった。
やっと、すべてのパズルのピースが埋まったような満足感、心は暖かかった。
「おかえりなさい……」
「……ただいま、千弓…」
冷たかった日常に、さよならを
暖かかい非日常に、ただいまを
「……では、それがどういった状況か説明してもらおうか」
まひるは、腕組みをしながら頬をピクピクと引きつらせた。
目の前には、説明に困っているのを力なく笑って誤魔化そうとしている晴樹と、
ぎゅっと晴樹のシャツの裾を掴んで、まひるをじっと見つめる着物姿の少女がいた。
「え、えーっと……あはは」
「晴樹の悪い癖だ、笑って誤魔化すな。
人が心配してようやく見つけてみれば、異性交遊の最中とはどういうことだ?」
「べっ、別にそういうわけじゃ!」
「……………」
「ちょ、まひるも千弓もなんでガンつけあってんの!?」
「……相変わらずね、まひるちゃん」
突然目の前の少女に名前を呼ばれ、まひるは些か困惑気味の表情を浮かべる。
「……どちらのお嬢様かな?」
「ち、千弓……」
晴樹は、何故か千弓に対して敵意むき出しのまひるを見て、
戸惑いながら千弓を見る。
「大丈夫、まひるにも思い出してもらうから」
「思い出す?一体何のことだ?」
さっきのアレか……と、千弓のどアップを思い出し、晴樹はわずかに赤面した。
しかし、千弓はただ自分の人差し指をまひるの額にあてただけだった。
「あれ?」
「……思い出した?まひる」
「ふむ……ああ。久しぶりだな、千弓」
おまじないとやらが解けたのか、まひるは千弓を思い出したようだった。
「……え、今ので思い出したの?」
「そうだが?」
「そうだけど?」
「じゃあ、さっきの……その、おでこ同士のアレは?」
「あれは私がやりたかっただけ」
晴樹はずるりと肩を落とした。
そういえば、千弓はこういう性格だった気がする。
一見おとなしく感じるけど、実は自分の欲求に忠実な性格。
「……だからと言って、千弓が晴樹にしがみつく理由にはならないな」
「久しぶりの再会だから。少しは感傷に浸っても良いじゃない」
「それなら私にしがみつくが良い。気持ち良く昇天させてやるぞ」
「お断り、気持ち悪いもの」
(久しぶりの再会にしては、なんか険悪な雰囲気のような……)
「でも、僕知らなかったな」
「何が?」
「千弓が、その……幽霊?だったなんて」
「晴樹は昔から怖がりだったから」
「気を使ってくれたの?」
「違う、私が怖がられたくなかっただけ。
私はこんな性格だけど、晴樹に怖がられたら、傷つく」
「小さい頃の僕でも、千弓を怖がることはなかったと思うよ?」
「そう?」
「そうだよ、だって千弓だから」
「私、だから……」
「うん」
「……嬉しい」
「仲良くご歓談の最中失礼だが、お婆さんの所に戻るぞ。
……行くぞ、晴樹」
「え、あ……!」
完全に蚊帳の外にいたまひるは、どこか不機嫌そうに言うと、
むんずと晴樹の腕を掴んで勝手口に入った。
「ほんと、相変わらずね……」
千弓が小さく呟いた言葉は、開けっ放しになっている勝手口に吸い込まれていった。
「あぁー……忘れ物、やっと見つけたみたいじゃね」
「まあ、ね……正直、まだ理解できてないことも多いけど」
「あの子のこと、かねぇ?」
「うん……」
晴樹が力なく頷くと、祖母は柔らかい微笑みを浮かべたままゆっくりと話し始めた。
千弓は、まだ三人のいる茶の間には来ていない。
「あの子は……ただの幽霊、というわけでもなくてねぇ」
「どういうことですか?」
意味深に受け取れる祖母の言葉に、晴樹の横に座るまひるが尋ねた。
「平たく言えば、この家の守り神じゃねぇ」
「えっと……座敷童、みたいな?」
「そうとも言えるがね……簡単に言えば、我々のご先祖様じゃ」
「僕達の?千弓が?」
さらに自分の理解を超えた祖母の言葉に、晴樹は困惑の表情を深めた。
その後も、祖母の説明は続いた。
千弓は、大昔から続く珠猫(たまねこ)家……晴樹の家系の一族の、ご先祖様だということ。
そして、代々この家を守ってきた、ということ。
そして……祖母の目にも、千弓は見えないということ。
「お婆さんにも、見えない?」
「でも僕の記憶だと、お婆ちゃんと一緒に遊んでもらってたような……」
「まったく見えない、というわけじゃないんだけどねぇ……」
「え?」
「どういうわけか、晴樹と一緒のとき……晴樹のそばにいたときは、私にも見えたんじゃよ」
「僕と、一緒に……」
そこまで聞いたところで、ふと晴樹の頭に浮かんだ疑問。
「ねぇ……僕が最後にここに来たのって、小学校を卒業する前だよね」
「そうじゃねぇ」
「僕の記憶でも、千弓と最後に会ったのは小学校卒業前」
「ん」
「じゃあ……僕がいなかった間、千弓は……」
「……ずっと一人だった、と」
思わず絶句する晴樹に代わって、まひるが小さく言った。
「そんな……ひどいよ、なんで僕を呼ばなかったの?」
「ご先祖様の……千弓ちゃんの、はじめてのお願いじゃったからねぇ」
「千弓の……お願い?」
「そこから先は私が話す」
気付くと、いつの間にか居間の入り口には千弓が立っていた。
「千弓……」
「晴樹」
千弓は音を立てずに晴樹の横に座る。
その凛とした声で名を呼ばれ、晴樹のは思わず身を固くした。
「な、なに?」
「とりあえず、私にもお茶」
#続く
最終更新:2007年02月24日 22:45