754 名前:520[sage] 投稿日:2009/09/17(木) 21:19:33
ID:FBGm9vK0
>>641 お前が書けっつったんだからな!責任取れよ!
Stuck On You
僕の肩に爪が食い込んでいる。
手にも。
長い爪、長いまつげ、長い髪。きれいな肌、いい匂い。汗の雫が服に落ちる。
心臓が痛い。理一さんのバイクのエンジン音に似たものが全身を揺らす。相変わらず瞼の奥に陰る白いスパークはいつか読んだ本の一節を思い出させる。つまり『あの眼差しは彼の目を貫いて喉を通り、心臓のまんまんなかを突いたのだ』。
無茶苦茶で出鱈目な8月1日まで、僕がじっくり見た事があるのは先輩の後ろ姿と横顔だけだった。部室で静かに髪を梳く背格好を見てああ女の人ってきれいだな、と思ったあの日から。
どんな気持ちでまなざしてたか、貴女はきっと知らないんだ。
緊張して歯がガチガチと鳴る。姿を見るだけで体温が一気に上がる。泣きたくなるような日だってあった。
『ちゃんと幸せにしてくれるかい?』
初めて会った彼女は僕の目を見据えてそう尋ねた。先輩と同じ色の瞳で。
僕は上手く答えられず、ついに改めて言い直せぬまま彼女と二度と会えなくなった。
もし、あの時世界が終っていたら。
もし、あの時僕の何かが欠けていたら。
もし、あの時どこかの歯車が噛み合っていなかったら。
僕はこうして先輩とキスをする事もなかったし、大好きと言ってもらえなかったし、告白だって……
急に全身の毛穴が開いたみたいにゾッと身体が冷えて、ザワザワと正体不明の感覚が肌を這う。
「なななな夏希せんぱい!」
唇が離れると同時に名前を呼んだ。ぬるぬる光る生命の色をした唇。後れ毛なんか首筋に張りついちゃってて、とっても、その、なんというか。……エッチです。
「んもう、その、センパイっていうの、ムードない」
不満と書かれた顔でさえ僕の魂とかそういうものが容赦なく揺さぶられて堪らない。
さっきまで触っただけでビクビク震えて人の肩を力いっぱい握り潰してたあの人が、精一杯いつもっぽく振る舞おうとしているこの人が、取るに足らぬ何でもない僕みたいな奴にこんな視線を向けるなんて。
……いや違う、僕は知っている。先輩が向けてるのは「僕みたいな奴」じゃなく、誰でもない「僕」だってことを。
ああ、ああ、もう、嬉し過ぎてくらくらする!この喜びをどう伝えればいいのか解らなくて胸が張り裂けそう!
「す、すいません!でも、もうが、が、まん、できなくて!」
しまった噛んだ。なんだい、変なイントネーション。みっともない、だらしのない。頭の隅っこのいつもの僕が頭を抱えて蹲っているのが見えた気がする。
756 名前:520[sage] 投稿日:2009/09/17(木) 21:20:31
ID:FBGm9vK0
汗がしとしとと服の襟に染みてゆく。のどぼとけに絡みながらゆっくりと伝い落ちていく気持ち悪さ。火照る顔を背け、下唇を噛んでただ耐えた。ああ、もう、情けない!
「なにをがまんしてるの?」
白くまろやかな指が自分の真っ赤な指に絡んで、ぴくりとも動かない。その途端、畳に何かが降った。ぽたぽたと音を立てて。
それが彼女の汗だと気付くより先に、はっと顔を上げる。
赤い顔。
指を絡めただけで、僕と同じくらいに。
これでも僕は年頃の男なので肌を露わにしている女性が掲載されている碌でもない本だって読む。その碌でもない本から得た知識によるとこうだ。
【とりあえず肌が火照ってれば気持ちよくなってると思ってOK】。
間違って二冊買ったからと、あの「今年の夏こそ!初体験Q&A大特集号」を押し付けられて財布を出し渋ったけれど、今なら言える。ありがとう佐久間!愛してる!
「せ、いやっ!な、夏希さ、ん。をっ!」
「や、やだ、落ち着いてよ」
「なつきさん!」
「はっはい!」
「ナツキサン!をっ!その!そのっ……!」
おかしいな、こんなに汗でドロドロ、変な唾が止まらないのに喉がガラガラでうまく言葉が出なくて、焦る。早く言わなくちゃ、上手く言わなくちゃと急けば急くほど頭の中がバラバラになって……!
「健二くん、今年の8月1日って何曜日?」
突如先輩が顔を覗き込んだので、僕は咄嗟にツェラーの公式を頭に思い描く。
「えっ……2009年の8月1日だから……」
「遅いっ土曜!」
「あっ……はい。土曜日、です」
一瞬先輩も数学好きなんですか、と訊ねようとして、自分がどれだけ正体を失くすほど興奮しているか知った。
「……どう? 数学のこと考えたらちょっとは冷静になれた?」
汗で濡れ鼠みたいになってる紅い頬の先輩が意地悪っぽく笑って。
僕の世界が消えた。
畳も、そこに散らばる汗も、先輩の白いワンピースも、自分の着てる少々くたびれたシャツも。何もかもが全部闇だか光だかの彼方にぶっ飛んで消えた。
守ろう。この人を守ろう。世界中の何からでも誰からでも。守ってあげたくなるとかじゃない、守らなければならないと頭よりもっと深くが命じる。そうせよと僕を突き動かす。
これは一体何だろう。単なる情動だろうか。勢いとノリだろうか、流れだろうか。
なんとか残った理性にやっと引っ掛かった小指の力を振り絞って僕は必死でしがみ付く。この性欲でも思慕でも憧憬でもない、強力で抗い難い初めての衝動の正体を僕は心から知りたいと思う。
「ナツキ」
757 名前:520[sage] 投稿日:2009/09/17(木) 21:21:21 ID:FBGm9vK0
うわ、呼び捨てにしちゃったよコイツ。急過ぎだろ。ナニソレ。頭の中の僕のアバターがラブマシーンに乗っ取られたあの性根の悪そうな顔でシシシと嘲う。……うるさい!だまれ!!
「ひゃいっ」
目ん玉をきょときょとさせている先輩がおかしな声で返事をしたのが最後。
ベタベタする服の引っ掛かりを無視して。冷たく滴る汗でぬめる彼女の髪ごと頭を掴んでがっちり固定して。畳の上にぺたんと座っている彼女の側に立て膝で起き上がって。
取り返しがつかなくなるキスをした。
肌が熱い。心臓がうるさい。汗が煩わしい。頭はズキズキするし、下半身はもっとズキズキするし、目から謎の涙は出るし。まるっきり見っともなくて情けなくて恥ずかしくて最悪なまま、大好きなこの人に。
栄さん、栄さん。もしも天国から見ていらしたら、少し目を閉じていてください。どうかお願いします。小磯健二、一生のお願いです。
クチュクチュした振動が鼓膜に響く。まわりの音が聞こえなくなって「ちゅぱ、ぬちゃ」って音だけが大きく聞こえていた。
くすぐったい。こそばゆい。先輩の額に髪が張り付いている。パックの卵みたいに並んだ玉の汗が思い出したように滴り落ち、僕の指の間を通ってゆく。
どこまでも沈んで行けそうなほど柔らかくて日なたのコンクリートみたいに熱い先輩の舌がおずおず蠢いている。
息が詰まる。てゆーか息をしてる暇すら惜しい。でも息をしなくちゃ死んでしまうし、さりとて唇を離すなんて出来やしない。だって、先輩が、夏希先輩がっ!僕の口を吸ってるんだぞ!!
目を閉じても世界が歪む。赤や白や黒や灰色、緑とか紫とかピンクとか茶色の細かい色とりどりのドットが砂嵐みたいにザーザー音を立てて荒れ狂っている。オズの大混乱の時みたいに。
蕩けそう。馬鹿になりそう。もう死んでもいい。そんな事を思い始めたころ、やっと自分の手の甲にカリカリと先輩の抵抗を感じた。
それでも僕は躊躇いがちにそっと唇を半開きにしてほぼ零距離で口を動かす。
「ど、どうしました?」
「……も……だ、め……」
短いやり取りが終わった瞬間、先輩が僕の手の中からするりと抜け落ちた。待って、と掴む前に。
どうしよう。やっぱり嫌だったんだ。当たり前だよな、こんなの、急に……
最高潮の高揚から突き飛ばされて真っ逆さまに奈落へ落ちる。蜘蛛の糸が切れて地獄へ逆戻りしたカンダタの気分。
フェルマーの書き込み入りの『算術』原本を見て「この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」と書かれていたのを発見した息子の気分。
暗澹たる絶望のまま、畳の上にうつ伏せる先輩に怖々目をやると、どう見ても不自然な恰好だ。
「あの、せ、先輩? 夏希先輩?」
ちょんちょん、と肩に触れ、返答がないのでそっと起き上らせてみた。目を回している。
「な、なんで?」
慌てふためいて部屋を見回すに、柱に掛かっていた室温計が目に入った。
セ氏38度。
「ねねねね熱中症だあぁぁぁ!!」
悲鳴を上げたら通常とは違う方向へドンと開いた襖を踏み付けるようにして万助さんが飛び込んできた。
758 名前:520[sage] 投稿日:2009/09/17(木) 21:21:51 ID:FBGm9vK0
「佳主馬!風呂に水を張ってこい!万作は氷だ!急げ!」
どたばたと襖で仕切られただけの狭い四畳半の布団部屋が開け放たれて真夏の日差しと風が差し込む。
「え? え? えっ!?」
「お前さんも来い!体を冷やさんと馬鹿になっちまうぞ!」
「えっ!? ちょっ……!?」
先輩を抱えた万助さんが僕の左手首を引っ掴んでどたどた廊下を爆走した。グラングランする視界が頭を引っ切り無しに打ちのめしている。
「そおれ!」
掛け声とともに、いつの間にか僕の足を掴んでいた理一さんが楽しそうにブン投げた。
どっぽんと水しぶきが上がった音がして、皆が大笑いしている。な、なんだ? 何が起こってるんだ?
目をぱちくりさせている先輩が僕の隣で同じように頭の上をはてなマークだらけにしている。
「何事よぉ、このくそ忙しい時に!」
騒ぎを聞きつけてやってきたのか理香さんがやってきて、風呂場の戸口で僕たちの有様を一瞥した。
「熱中症の治療」
理一さんがクックックと笑いながら漏らした一言で全てを察しでもしたのだろうか。手に持っていた何かの箱でトントンと肩を叩いて、この真昼間っから閉め切って何やってたやら、と呆れ顔。
「な、何事なの?」
「わ、わかりません」
顔を見合せてぽたぽた雫の垂れるお互いを見ていたら、夏希先輩の白のワンピースがくっきり透けて肌に張り付いているのに気がついた。慌てて目を逸らそうとしているのに、おかしいな、体が動かない。
「お兄さん、鼻血!」
僕が覚えているのは佳主馬くんの悲鳴だけ。
あとは知らない。
枕元にうちわを持って髪を上げた夏希先輩がいる夢を見て、僕は手を伸ばした。
あの時みたいに力いっぱいじゃなくて、優しくなぞるように指が僕の指に絡む。
「ぼ、僕、翔太にぃみたいに車持ってないし、理一さんみたいにサイドカーも持ってないけど」
どうしてこんなことを言い出したのか自分でもよく解らない。ぼんやりフワフワしててあまりにいい夢心地だったから怖いものなしだったんだろう。
「でも、一緒にどこか行ってくれますか、と、東京に帰ったら」
手を握る。それだけで勇気がわいた。1+1が10にも1000にもなる瞬間を僕は知っている。
「楽しみにしてる、びっくりする程ボロい自転車でどこでも連れてって」
そんな声が聞こえたから、僕は満足してもう一度瞼を下した。
ああいい夢だ。
とってもいい夢だ。
ねえ栄さん、あなたもきっとこんな気持ちで瞼を閉じたんですね。