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若林忠志

ハワイ出身

ハワイ出身の二世で、愛称は「ボゾ」。BOZOはスペイン語で「薄ヒゲを生やしている男」の意。少年のくせにマセていたからだという。
マッキンレー高時代に田中義雄の勧めで捕手から投手に転向。在学中からノンプロのハワイ朝日軍で活躍した。

1928年、カリフォルニア州邦人チームのスタクトン野球団とともに来日。手続き上、日本の旧制中学を卒業する必要があったため、横浜・本牧中を経てから法大へ。
法大では3度の優勝に貢献。1935年、川崎コロムビアから阪神入り。この時、若林を巡って阪神と阪急が争奪戦を展開したが、若林はアメリカ流の合理主義を発揮して「契約金1万円」を要求。阪神はこの要求を飲んだ。


阪神入団

阪神での若林は1936年、巨人・沢村栄治と死闘を演じるなど活躍。しかし37年は肩を痛めたため、温泉治療を9ヵ月続けたあとチームに復帰。38年は4勝、防御率3.00。39年は全試合の半分にあたる48試合に登板、28勝7敗、防御率1.09で防御率1位。40年からは主力選手が次々と兵役に取られた中で孤軍奮闘した。


プレーイングマネージャー

戦局がますます深刻の度を増した44年にはプレーイングマネージャーとして22勝、防御率1.56で優勝、最多勝と防御率1位、MVPのタイトルを総なめにした。
また戦後の47年にも監督兼任で26勝して2度目のMVPに輝いた。


毎日に移籍

2リーグ分立の50年、別当薫、土井垣武、本堂保次らと毎日に移籍。シーズンは4勝だったが、松竹との日本シリーズ第1戦に先発。技巧を駆使した絶妙の投球で延長12回を一人で投げ切り勝利投手になり、毎日の初代チャンピオンに貢献した。


七色の変化球

「七色」とは、様々な証言から、ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックルの7種類と考えられている。


【参考資料】
「プロ野球を創った名選手・異色選手400人」

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最終更新:2010年04月19日 16:47
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