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藤本英雄

太平洋戦争が始まって、大学の卒業期が早くなったため、明大の優勝投手だった藤本は1942年の9月に巨人入りしてすぐマウンドに立った。主将の水原茂が応召して2週間後のことで、藤本の初登板は前日の読売新聞で予告され、その日だけで1万7000の観衆が集まった。

この秋の藤本は10勝無敗、防御率0.81という抜群の成績で飛ばし、翌43年には早くもノーヒットノーランを記録、チームの84試合の3分の2に相当する56試合に登板し34勝をマークした。この年、藤本以外の投手は合計で20勝しかしていないのを見ても、いかにすごい働きをしたかが分かる。

特に7月16日から8月17日にかけて11連勝。この間12試合に登板して完封は9。100イニングを投げて自責点0という驚異的な投球内容だった。結局、この43年は自責点35、防御率0.73をマークしたが、この記録はいまだに誰にも破られていないアンタッチャブルレコードとなっている。

戦争でプロ野球が中断された44年には巨人の監督を務め、再開された46年にも中島治康が復帰するまで巨人の代理監督を務めた。

47年、中日に移ったが、まもなく巨人に戻り、肩を痛めている間に「火の球投手」といわれた大リーグのボブ・フェラー投手の書いた投球術の本をヒントにスライダーを編み出した。
マスターしたばかりのスライダーが威力を発揮したのは50年6月28日、青森球場での西日本戦だった。この試合で藤本は日本初の完全試合を記録した。

引退が間近となった54年のシーズンが終わった時、藤本の通算勝利数は199勝だった。55年は開幕からずっと戦列を離れていたため、念願の200勝達成は無理かと思われていたが、水原監督は終盤の10月11日、和歌山球場での広島戦に藤本を起用。藤本も向かい風を生かしたカーブで好投してついに200勝をマーク。これを最後にマウンドから姿を消した。76年、殿堂入り。


【参考資料】
「プロ野球を創った名選手・異色選手400人」

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最終更新:2010年04月19日 20:29
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