白木はのちに公明党から参議院議員となり、「プロ野球出身の国会議員」として活躍したのは知られた。
東京出身で慶応商工から慶大へという根っからの慶応ボーイ。慶応商工が1937年春夏とも東京代表となった時のエースだ。東京大会前に右足首を亀裂骨折したが、自分でギブスを壊して準決勝からマウンドに立ち、決勝も投げ切った。
長い手足と長いあご。投手前に転がってくる凡ゴロをそのまま一塁に送球せず、一度捕手に投げ返し、捕手から一塁へという「投捕ゴロ」で仕留めるショーマンシップで人気があった。ただし、こうしたスタンドプレーはチーム内では評判が芳しくなかった。ひとつミスすると負けにつながると厳しく咎める声もあった。
セネタースでは「青バット」の大下の華やかな本塁打と、慶応ボーイらしいセンスあふれる白木の投球が人気を呼んだ。二人が漂わせる雰囲気が、このチームに都会的なカラーを与えたといわれる。
白木は46年、新人ながら30勝22敗で最多勝投手。チーム名が東急となった47年は26勝25敗、防御率1.74で防御率1位に輝いた。
特徴は抜群のコントロール、それに配球のコンビネーションの巧みさ。50年に作った74イニング連続無四死球は、73年に安田猛に破られるまで日本記録だった。
選手層の薄かった当時の東急では、野手としても器用さを発揮、内外野を掛け持ちで守ったりした。52年、阪急に移籍。
現役時代から創価学会員だったが、引退後は特に熱心に活動し、それが国会議員への道を進む原因となった。
【参考資料】
「プロ野球を創った名選手・異色選手400人」
最終更新:2010年04月19日 20:38