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中尾碩志

伝説の名投手・沢村栄治と同じ宇治山田市の出身で、京都商から巨人と沢村と同じ道を進んだ中尾は、入団1年目の1939年11月3日、セネタース戦でノーヒットノーランをマークしたほか、いきなり12勝を挙げた一線級のサウスポーだった。

ただし、このノーヒットノーラン試合では、なんと四死球を10個も乱発。球は速くてもコントロールは保証できないという荒れ球の持ち主で、2度目のノーヒットノーランをマークした41年7月16日の名古屋戦でも8四死球を記録している。

47年に「輝三」から「碩志」に改名。エースナンバーの18番をつけ、翌48年にはさしものノーコンも安定して最多勝(27勝)と防御率1位(1.84)をマークして沢村賞に輝いた。

2リーグ分立した50年ごろ、”トンコ節集団”と呼ばれた若手グループがあり、中尾はそのリーダー株だった。武宮、多田、大友、内藤、藤原、小松原、松田、それに市川マネージャーの8人組だが、中尾は彼らを引き連れて夜の街へと繰り出して行き、「飲んで騒いで、さっと引き揚げ、あれで我々若手は救われたし、中堅クラスが一つにまとまった」と、のちに巨人歴代3位の防御率をマークした大友は述懐している。元気印のトンコ節集団の大将だった中尾は、その頃からスキンシップの名手だったわけだ。

巨人一筋に57年までの16シーズンを投げ抜き、巨人では別所に次ぐ歴代2位の通算209勝を飾り、のちにコーチから二軍監督となり、川上巨人を支えた。

現役から二軍監督まで、中尾がジャイアンツのユニフォームを着ていた期間は、なんと33年間。川上に次ぐ巨人一筋の野球人生だった。のちにフロント入りしてスカウト部長に就任。律義な中尾は甲子園の全国高校野球大会を偵察に行った際もグラウンドの選手に文字通り張り付くようにして眺め、食事もわざわざネット裏まで運ばせ、食べながらプレーを注視していたという。1998年殿堂入り。


【参考資料】
「プロ野球を創った名選手・異色選手400人」

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最終更新:2010年04月19日 20:54
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