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川崎徳次

1948年5月29日、宇治山田球場での対中日戦で1球敗戦の第1号となった。
13-12でリードしていた9回裏無死一塁でリリーフに立ち、杉山に初球を左翼席に逆転サヨナラ2ランされたのだ。

この前年の7月4日の対阪神戦でも9回裏1死満塁でリリーフ、代わりバナの初球をサヨナラ安打された。この時は先発の多田が敗戦投手となったが、二度まで出会いガシラでやられた投手は珍しい。

1940年の都市対抗で伏兵・撫順(満鉄クラブ)が優勝候補の東京(藤倉電線)を破った。この時の撫順の投手が久留米商出身、19歳の川崎だった。

南海に入団して神田武夫とともにマウンドを守ったのち、戦後、巨人に移って1947年24勝、48年27勝と星を稼いだ。

1950年、西鉄に移籍して一時は一塁手として出場したりしたが、53年には47試合に登板して24勝、防御率1.98でプロ入り13年目にして初の最優秀投手に選ばれた。シュート、カーブ、シンカー、ナックルと球種は多彩で、特に打者のタイミングをはずすピッチングに味があった。

49年、金沢の対大映戦で投手として1試合に3本塁打を放ったが、このとき打たれた8本塁打も被ホーマー数の最高記録となった。この試合で飛び出した本塁打は両チーム合わせて13本。これもいまだに破られていない日本記録となっている。

自作自演の一人芝居の主人公となった川崎は、60年から2年間、西鉄の監督を務め、「徳さん」の愛称で親しまれた。




【参考資料】
「プロ野球を創った名選手・異色選手400人」

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最終更新:2010年04月22日 20:53
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