ロシア革命の際に、一族の中に王党派がいたため革命政府から迫害され、1925年に一家で旭川に亡命した白系ロシア人。ウラル山脈の南エカテリンブルグの生まれ、旭川での一家は、市内八条で小さなミルクホールを営むかたわらパンを焼いて売り、生計をたてていた。
日章小から野球をはじめたが、他の少年たちより体が大きすぎるため、中学生チームに入って投げていた。
大日本東京野球クラブに入って第1回アメリカ遠征に最年少で参加。無国籍でパスポートのない
スタルヒンは、危うく収容所送りになるところだった。
191cmの長身から投げおろすストレートは威力があり、巨人入団2年目に早くも28勝をマーク。3年目には33勝と、以後、
沢村栄治とともに草創期の巨人を支えた。
1939年には42勝。それもチームの全試合が96試合のとき68試合に投げ、完投勝利が38という驚異的な記録を残した。2年連続でMVPに選ばれたのも当然で、40年にも38勝と、44年までの9年間で199勝を挙げた。
戦時中は軍部の命令により、「須田博」と改名させられた。後楽園球場へ向かう途中、憲兵にスパイ呼ばわりされないよう薄目でまっすぐ前方だけを見て歩いた。戦争たけなわとなってからは、軽井沢の外国人収容キャンプに閉じ込められて靴直しをしていたという話も残っている。
戦後、進駐米軍の通訳としてジープに乗っていたところを、偶然、父のように慕っていた藤本監督と再会、プロ野球に復帰した。パシフィック、太陽、金星、大映、高橋、トンボと藤本について弱小球団を転々と渡り歩いた。
プロ野球史上初の300勝を達成したのは1955年9月4日、京都・西京極球場だった。通算完封83は日本記録。
引退後の57年1月12日、カーマニアだったスタルヒンは愛車を運転していて世田谷の路上で停車中の玉川電車に激突、40歳の生涯を終えた。60年に殿堂入り。
【参考資料】
「プロ野球を創った名選手・異色選手400人」
最終更新:2010年04月23日 11:30