年.月.日 作中の出来事 朝鮮での出来事 世界の主な出来事
1920 順天で朝鮮初の小作争議が起こる
1924 金範俊、上海へ
1925 朝鮮共産党創立され、李鉉相、重要な役割を果たす 治安維持法が施行される
1927 金範俊、父と再会
1929 呉判ドルの一家、間島へ移住
1930頃 金範俊、東京へ留学後、独立運動で満州へ
1932 金範俊、上海を去り、金美玲と別離
1933 朝鮮全土の農民団体、1351を数える
1935 安瑞珪安昌民の父)、南原で死去
1936 安昌浩、獄死
1939 河大治(19)、徐順心(18)と結婚
1939.9.1 ドイツ、ポーランドに侵攻、第二次世界大戦開戦
1940 河大治(20)、徴用される
廉相鎮(19)、投獄される
1941 河吉男、誕生
1941.1 徐民永、治安維持法違反で実刑に処せられる
1941.12.8 真珠湾攻撃、日米開戦
1943 素花(17)、巫堂の跡取りとしてお披露目される
1944 李鶴松、共産主義者として逮捕される
1944.1 金範佑(23)、学徒兵に志願
1945.8.15 朝鮮、日本の植民地から解放される 日本、無条件降伏
第二次世界大戦終結
1945.9.2 38度線を境に米ソの分割占領が発表される
ホッジ中将、初めてビラの布告文を撒く
1945.9.6 朝鮮人民共和国成立
1945.10.10 米軍政、朝鮮人民共和国を否認
1945.12 金範佑と朴斗炳、アメリカから帰国する船に乗船
1945.12.27 モスクワ三相会議
朝鮮5ヶ年の信託統治決定
1946 47年にかけて教会堂建設の嵐、全土で起こる
1946 復員した金範佑、結婚(25)
1946.3 雲頂、38度線を越えて南へ
1946.3.5 北朝鮮で土地改革実施
1946.4 金範佑、順天中学の社会科の教師になる
鄭河燮、中学5年生
1946.6.3 李承晩、井邑発言
1946.9 米軍政により共産党活動、非合法化
1946.10.1 大邱で労働者、学生など蜂起(十・一民衆抗争)
1946.11 徐民永、共同農場と夜学を始める
1947.6 孫承昊、左翼活動に見切りをつける
1948.2.7 2・7救国闘争
1948.3 南朝鮮単独選挙
1948.4 南北代表者連席会議開催
1948.4.3 済州島四・三事件
1948.4.19 南北朝鮮協商会議、平壌で開催
1948.5.10 南朝鮮で単独選挙
1948.7.20 李承晩、大統領に就任
1948.8.15 大韓民国樹立
1948.9.7 反民族行為処罰法、国会を通過
1948.9.9 朝鮮民主主義人民共和国樹立
1948.10.20 麗水・順天反乱事件発生
1948.10.25 第1巻第2章時点
1948.11.1 麗水・順天反乱事件の関連者89名に死刑執行される
1948.11 南仁泰、光陽警察に左遷される
権炳済、筏橋警察署長に赴任する
病院事件
1948.11.20 沈宰模、戒厳軍司令官として筏橋に赴任する
1948.11.25 反民族行為特別調査機関組織法、国会を通過
1948.12 素花とドルモル宅、囚われる
李知淑、学校をクビになり、夜学で働くようになる
崔益達と柳周祥、筏橋へ
外西宅、自殺を図る
廉相鎮ら、筏橋を囲んで狼煙を上げる
1949.1 反民特委員暗殺計画が発覚。指揮者:盧徳述
1949.2.11 反民族特別調査委員会(略称「反民特委」)が活動を開始する
1949.3.8 韓国政府、全国に学徒護国団を結成
1949.3 金範佑、沈宰模の遣いで廉相鎮に会いに栗於へ
1949.3.16 金範佑、ソウルへ
1949.3 沈宰模、差出人不明のハンカチを受け取る
1949.4.29 李承晩、妻とともに済州島訪問
1949.5.1 廉相鎮ら、学習会開催
1949.5.12 沈宰模、容共行為で逮捕
1949.5.16 白南植、筏橋の戒厳軍司令官に赴任
1949.5.28〜6.4 南労党員の金任一、李永生ら46人が検挙
1949.6.4 反民特委、崔査察課長と鍾路署の趙査察係主任を逮捕
1949.6.21 農地改革法公布
1949.6.29 金九、暗殺
在韓米軍の撤収完了
1949.7.5 金九の国民葬
1949.7 廉相鎮、宝城郡党委員長を退き郡党を離れる。後任は安昌民。筏橋のキャップは河大治
李鉉相、智異山に遊撃司令部を構築
1949.9 慶尚南道党、智異山に入山し、拠点作りを始める
1949.9.14 木浦刑務所から350人余が脱獄
1949.10.1 中華人民共和国成立
1949.10 筏橋で小作人たちのデモ
1949.10下旬 鄭鉉東、殺される
1949.10.27 慶州南道の晋州市内を300名余りのパルチザンが奇襲
1949.11上旬 金範佑、筏橋に帰郷
姜東植、姜東基、廉相九を夜襲するが失敗、姜東植死去
1949.11 沈宰模、順徳に再会
外西宅、廉相九の息子を出産
1949.12上旬 素花、鄭鉉東のクッを行う
1949.12.18 軍と警察合同の栗於の挟撃作戦
1949.12下旬 李根述、栗於警察の支署長を申し出る
1950.1 鄭鉉東殺害事件の裁判で判決が出る
主犯は死刑、残る11名は殺人幇助で実刑5年
1950.1下旬 沈宰模、名もなき女パルチザンの死に心打たれる
1950.2.3 鄭河燮、肩を撃たれて素花の家で1ヶ月、静養する
1950.2.5 戒厳令解除
1950.2.10 農地改革法公布
1950.3.27 金三龍李舟河、検挙
1950.3.31 李鶴松、逮捕
1950.4 4月が新学期開始になる
1949.4.10 農地改革法実施
1950.4中旬 鄭鉉東殺害犯の葬式 小作人たちに土地の分配予定通知書届く
1950.5 梁孝錫宋京姫にふられる
1950.5.30 崔益承、落選し安昌培、当選 第2回国会議員選挙の投票日
与党惨敗
1950.5.31頃 林萬洙、筏橋を去る
1950.6 孫承昊、逮捕
戒厳軍の部隊の半数が宝城を去る
1950.6中旬 白南植、筏橋を去る
沈宰模、金範佑に手紙
1950.6.25 朝鮮戦争勃発
1950.6.26 輔導連盟員に召集
1950.6.27 沈宰模の中隊に待機命令 政府、水原へ移転
1950.6.28 人民軍、ソウル解放
1950.6.29 政府、大田へ移転
1950.7 筏橋の輔導連盟員、全院長以外、ペムコル峠で殺される
1950.7.1 米陸軍、釜山に上陸
1950.7.2 沈宰模の中隊に退却命令
1950.7.7 安全保障理事会、国連軍の結成を決議
1950.7.8 全国に戒厳令布かれる
韓国軍、国連軍に編入
大韓学徒義勇隊、結成
1950.7.15 統帥権、米軍に移譲
1950.7.16 政府、大邱へ移転
1950.7.23 人民軍、光州と木浦を占領
1950.7.24 筏橋の警察官、町から脱出
輔導連盟員の遺族、犠牲者を掘り起こし、警察官や青年団の家族に報復
1950.7.25 韓次席、栗於以外の警察官が全員退却したことを李根述に伝える
安昌民の部隊、宝城郡全域を掌握
1950.7.28 人民軍、宝城郡へ駐屯
廉相鎮、筏橋へ
1950.8上旬 金範俊、筏橋に帰郷
人民裁判にて尹泰柱、呉七星、池三峰、裁かれる
鄭河燮、平壌へ
1950.8.15 筏橋にて解放祝賀式典開催
崔瑞鶴、松岩寺辺りを通過
1950.8.18 政府、釜山へ移転
1950.8中旬 許出世、南陽宅とモッコル宅を凌辱した罪で銃殺
金範佑、朴斗炳と再会
1950.9上旬 一世帯当たりの財産と収穫量の調査開始
1950.9.15 国連軍、仁川に上陸
1950.9.16 李鶴松、仁川作戦を取材 国連軍、洛東江戦線で反撃開始
1950.9.25 廉相鎮、全羅南道党から退却指令書を受け取る
1950.9.26 金範佑と孫承昊、朴斗炳に招かれる 秋夕
国連軍、ソウル奪還
1950.9.28 道党から退却を始める
1950.10.2 閔基弘、自宅に帰る
1950.10.10 李鶴松ら、遂安到着
1950.10.11 平壌市民に避難勧告
1950.10.15 宋成一、崔瑞鶴を見舞う
1950.10.17 李鶴松ら、平壌到着
1950.10.19 李鶴松ら、北へ避難
金範佑、米軍と開城通過
1950.10中旬 宋法一の一家、論山に戻る
1950.10 白南植、筏橋に現れ、尹末子と結婚
1950.10.24 李鶴松ら、慈江道通過
1950.10.25 中国軍、参戦
1950.10.26 李鶴松ら、鴨緑江到着
1950.10末 廉相鎮、全羅南道党司令部の副司令官となる。それに伴い、安昌民、曹溪山地区の政治委員に、李海龍、有治地区の連隊長に、河大治、曹溪山地区の機動隊長に、呉判ドル、宝城郡党の委員長になる
1950.11.10 李鶴松ら、満州の通化を経由して磐石へ。鄭河燮と出逢う
1950.11 マッカーサー、中共軍の越境を発表
その二日後 玄五逢の連隊、全滅
1950.冬 40年ぶりの寒波襲来
1950.12.4 国軍が平壌から撤退したという噂が筏橋に届く。権炳済、李根述に復職を打診するが断られる
1950.12.16 国民防衛軍設置法、国会を通過
1950.12.21 宋成一、国民防衛軍に徴収される 国民防衛軍設置法、公布
1950.12.23 李源朝と李鶴松、ソウルへ
1950.12.24 ソウル市民に避難命令が出される
1950.12.25 閔基弘、ソウルから避難
1951.1.3 政府、再び釜山へ
1951.1.4 中国軍、人民軍、ソウルを再占領
1951.1.5 金範佑、ソウル着
1951.1.6 李鶴松、ソウルに到着
1951.1.8 金範佑、李鶴松と再会
1951.1.19 金美善、ソウルに戻る
1951.1.26 国連軍、仁川に再上陸
1951.1.30 国民防衛隊の予算、国会を通過
1951.2初旬 討伐隊、盧嶺地区を襲う
1951.2.5 梁孝錫の第三大隊、神院面へ
1951.2.7 パルチザン、神院面の警察支署を奇襲
李源朝、李鶴松ら、再度、ソウルを発ち、通化へ
1951.2.9 第三大隊、再度、神院面へ
1951.2.10 第三大隊、再々度、神院面へ
1951.2.11 韓国軍による慶尚南道居昌郡神院面の良民虐殺事件発生
1951.2.12 中国軍、人民軍、ソウルを再放棄
1951.春 金思鏞、死去
1951.3半ば 軍と警察の攻撃、勢いを増す
1951.3.16 金範佑の部隊、退却中に集中砲火を浴びる(京畿道金村付近にて)
1951.3.20 金範佑、釜山の病院へ送られる
1951.3.24 安昌培、釈放 マッカーサー、38度線以北への進撃を命令
1951.3.26 沈宰模、高地戦中に盧徳甫と遭う
1951.3.29 韓国国会にて慎重穆が国民防衛軍事件を暴露
1951.4 軍と警察の攻撃、ますます熾烈に
1951.4 パルチザンに回帰熱流行
金福東、回帰熱で死去(発病から3日後)
孫承昊、回帰熱にかかるが回復
1951.4.9 金智会、銃殺
1951.4.11 トルーマン、マッカーサーを解任
1951.4.24 討伐隊、有治地区に致命傷を与える
1951.4下旬 中国軍、人民軍、春季攻勢開始、激戦となる
1951.4 李海龍、左頬に大怪我
1951.5 回帰熱の流行、下火に
1951.5 素花とドルモル宅に5年の懲役
1951.5 沈宰模、負傷のために入院(高地戦で受けた傷を悪化させたため)
1951.5 千チョンバグ、党員審査のために自叙伝を綴る
1951.5 趙源済、回帰熱の予防について、新聞に二度掲載
1951.5 廉相九尹玉子と結婚
1951.5 南朝鮮六道党委員長会議(李承燁の命だったが指示書がなくて口頭だったため、会議で紛糾)に朴永撥委員長、金善佑副委員長出席
廉相鎮、保衛第二隊長として両委員長に同行
李鉉相、南朝鮮遊撃隊の総司令官に就任、各道党の遊撃隊はその指揮下に入る
道党の幹部会議招集
1951.5 金美善、死刑を宣告され、転向書を書くよう李某に勧められる。最終的に承諾
1951.5 沈宰模、順徳の様子を探りに丹陽へ
1951.5 金範佑、釜山の病院で閔基弘と再会
1951.5.30 金範佑、巨済島の捕虜収容所へ送られる
1951.5〜6 国連軍、大攻勢開始、中部戦線の鉄の三角地帯で激突
1951.5〜6 討伐隊、白鴉山地区を攻略にかかる
1951.6 姜東基韓相根ともめごとを起こす
1951.6 盧徳甫の戦死の報せが女房に届く
1951.6.23 ソ連のマリク国連代表、休戦会談を提案
1951.6下旬 討伐隊の攻勢、さらに激化
1951.6下旬 金範佑、鄭河燮と再会
1951.7.10 休戦会談、開城で始まる(〜8.23)も戦闘は継続
1951.7 趙源済、開城で休戦会談が始まったことを知る
1951.7.15 ソウル−釜山間の急行列車の運行、再開
1951.7 徐民永、李根述を夜学の教師にスカウト
1951.7 姜京愛、後方部隊から李泰植の部隊に転属
1951.7.30 申東植尹在一、脱走を企てるも失敗
1951.8.1 申東植、尹在一の裁判が開かれ、銃殺刑の判決
1951.8 全羅北道党の司令部、智異山へ
1951.8.18 趙源済、負傷
1951.8下旬 解放区を失う
1951.9初旬 梁孝錫の部隊、緊急の作戦命令を受ける(秋季大攻勢)
1951.9.20 李承晩、休戦受諾
1951.9.30 李鉉相の南部軍、谷城を攻め、失敗
1951.9 巨済の収容所、戦場となる
1951.10 金範佑、通訳になろうと考える
1951.10 趙源済、元の隊に復帰
1951.10 李海龍と河大治、1年ぶりに再会
1951.10 孫承昊、智異山のペムサ谷へ
1951.10 全羅南道党、求礼郡党を核に智異山地区を形成
李海龍、副司令官に昇格
1951.10 十月革命記念相撲大会開催され、河大治、準優勝。昼食後、娯楽会も開催
各地区、武装兵力を中心に精鋭化を図る
1951.10.16 全羅北道南原でパルチザンが機関車を転覆さす
河大治、昇州郡党の指導下でチント峠のトンネルに奇襲
1951.10 李海龍、補給闘争に苦慮
1951.10 韓長寿、金福東の死を見知らぬパルチザンから聞かされる
1951.10.25 休戦会談の場所が開城から板門店へ移される
1951.11.2 全羅北道に非常戒厳令が発せられ、直ちに全羅南道にも発せられる
1951.11 セムコル宅、里帰り
1951.11下旬 全羅北道司令部、智異山を離れる。孫承昊、朴蘭姫ら、同行
1951.11末 李海龍、道党から「智異山の兵力を迅速に移動せよ」との指示を受けるも蟾津江方面が国防軍に閉鎖されていたため果たせず
1951.11.25 南原に白善燁野戦軍司令部設置
1951.11.27 30日間の暫定的軍事境界線の画定に合意
1951.11末 東部戦線の首都師団と第八師団が智異山一帯に移動
1951.11末 西南地区戦闘司令部の警察兵力と軍も智異山へ
1951.11末 首都師団は本部を順天、前方指揮所を求礼に、第八師団は本部を全州、前方指揮所を南原に設置
1951.12.1 大邱と釜山を除く全国に非常戒厳令
1951.12.2 西南地区共匪討伐第一次作戦開始
1951.12中旬 同作戦終了
1951.12.19 全羅南道党、白雲山地区から白鴉地区にかけて攻撃され、この攻撃で姜大珍戦死
1952.1 朴蘭姫、敗走中に戦死
孫承昊、朴斗炳は生きのびる
1952.1 道党政治部長の呉源植、隊員25人とともに投降
1952.1.11 全羅北道にて国防軍攻撃再開(第二次攻勢)
1952.1.12 李海龍、智異山を捨て南原郡党のアジトへ
1952.1.15 李海龍、ペムサ谷へ
1952.1.16 大韓民国国会にて捕虜釈放決議案可決
1952.1末 第二次攻勢終了
1952.2 第四次攻勢開始
1952.2.15 李海龍、ポアラ部隊の存在を知る
1952.2中旬 河大治の部隊の柳第二大隊長戦死により、千チョンバグ、後任となり、中隊長には外西宅就任
1952.2下旬 千チョンバグ、金恵子、戦死
1952.2末 河大治、安昌民、李知淑、外西宅ら、千チョンバグと金恵子の墓を建てる 第四次攻勢終了
1952.3.12 西南地区共匪討伐作戦終了
1952.3中旬 全羅南道党、河大治と李泰植を闘争英雄に選出
1952.3 趙源済、自身の中隊に禁煙令
1952.4 金範佑、大韓反共青年団に加入
1952.4.30 智異山のピッチョム谷で第五地区党結成のための組織委員会開催。出席者は李鉉相、方俊杓、金三弘、朴永撥、金善佑、趙秉夏、朴賛奉、オブザーバーとして金範俊。李海龍、朴永撥と金範俊の護衛で随行
道党解体に李鉉相は賛成、方俊杓と朴永撥は反対を唱える
李海龍、金範俊に党の決定に異議を唱える
1952.5.7 巨済島の捕虜収容所でトッド司令官拉致事件
1952.5.12 トッド司令の後任、コルソン准将、捕虜収容所内での暴行と殺傷を認めた覚書を発表した責任を問われ、解任。後任はボートナー准将
1952.5 金東赫戦死
1952.5 趙源済、第一大隊の指導員兼連隊副政治委員になる
1952.5 趙源済、牛を潰した件で譴責の判決
1952.5 安昌民と李知淑、党の方針変更により結婚
翌日 安昌民と李知淑、偽装帰順のために下山
1952.6 李根述、亀山宅を訪ね、徐仁出の息子、相浩と河大治の息子たち、吉男と鍾男を夜学に招く
1952.6.8 板門店で休戦会談の仮調印
1952.6.18頃 パルチザンたち、休戦を知る
1952.6下旬 廉相鎮、道党司令部の隊員たちに現実闘争から歴史闘争への転換を告げる
1952.7 安昌民と李知淑、逮捕
申氏、息子助命のために親戚を訪ねるも悉く断られる
カシル宅ら、申氏に助力を申し出る
1952.7 趙源済、偽の情報のために逮捕
趙源済、古なじみの朴刑事と再会
趙源済、父の助けで偽装帰順
1952.8.5 大統領と副大統領選挙実施
その10日前 呉判ドル、戦死
1952.9 廉相鎮、河大治に安昌民と李知淑が終身刑になったことを報せる
1952.9 孫承昊、偽装帰順のために下山する途中で撃たれる
1952.10 姜東基、トレドンの坂の上の哨所を襲撃するも待ち伏せに遭い、戦死
姜京愛、戦死
1952冬 金範俊、凍傷を悪化させて歩けなくなり、李海龍に背負われて越冬 警察による攻勢開始
1953.2.15 緊急通貨措置令発表。通貨をファンに切り替える
1953.3 李泰植戦死
1953.4 休戦反対決起大会が全国的に繰り広げられる
1953.6 休戦反対決起大会が北進統一決起大会に名称変更
1953.6 南仁泰、権炳済と討伐隊長2名、宝城郡の残留パルチザンについて緊急会議開催
1953.6.18 金範佑、馬山の捕虜収容所から釈放される
1953.6.20 金範佑、筏橋へ帰郷
1953.7.27 板門店で休戦協定調印
1953.8.7 朝鮮民主主義人民共和国、米国のスパイとして朴憲永、李承燁、李康国、林和、薜貞植、朴勝源、裴哲、白亨福、趙鏞福、孟宗鍋を死刑、尹淳達、李源済は懲役刑に処す
この件で李海龍、金範俊に党の人民への責任と諭される
1953.9.18 李鉉相、ピッチョム谷のアジトを発つ
1953.9.20頃 李海龍、李鉉相戦死のビラを受け取る
1953.9末 李海龍、金範俊戦死
廉相鎮戦死
その2日後 筏橋駅前広場に廉相鎮の生首がさらされる
虎山宅、竹山宅、首を取り返そうとして警察の妨害で果たせず、廉相九がこれに加担して取り返す
その2日後 廉相鎮の葬儀が行われる。徐民永と金範佑も出席
その数日後 河大治と5人の部下、廉相鎮の墓参り
最終更新:2020年01月21日 14:18