血の匂いがした。
 既に骸と化した敵の傍らに座り込んで。
 安座の姿勢のまま血溜まりに手だけを浸す。
 港の向こうに広がる水平線を眺める眼差しに色はなく。
 吐き出す吐息は底知れない空ろさを孕んで空気に溶けていった。
 白地の特攻服に染み込んだ返り血を煩わしく思いつつ。
 自分でも不思議に思う程目前の骸に対する感傷はなく。
 冬に溶ける白い呼気を見送って少年は呟いた。

「令呪持ちは骨が折れるな」

 顔面の潰れた骸を傍目にそう呟く彼の右手にも刻印がある。
 三画揃った刻印は絡み合う胎児を思わす紋様を象っており。
 それを空いた左手で撫ぜる少年の仕草には何処か感傷の色があった。
 戻れない何かを想うようなそんな独特の色が、覗いていた。

「素手じゃ流石に手に余る。何分も掛かっちまった」

 喧嘩にこんなに掛けたことはない。
 無敵と呼ばれ畏れられた少年は紛うことなく素面だった。
 魔術も加護も何も受けていない。
 彼自身が拒んでいたからだ。
 そんな素面の人間に真っ向勝負で殴殺された魔術師は何を思うのか。
 彼の骸から抜け出た魂は今自己の尊厳と目前の現実のギャップに苦悶の声をあげているのかもしれない。
 しかしそれは下手人である彼にとっては至極どうでもいいことでしかなかった。
 人は死ねば終わり。
 死体のその後を思うことに意味はないと。
 少年は身を以ってそれを知っていたから。
 抱き留めた家族の亡骸が冷たくなっていく感触と。
 どれだけ言葉を掛けても変わらない沈黙を覚えているから。
 そしてそれ以前に彼の中で渦を巻く暗黒は、隣の相棒が教えてくれた人の道を失った彼にはもはや止めようもない。

 雪が落ちてきた。
 はらりはらりと夜空を裂いてこぼれる涙雪。
 あの日もこんな天気だったのを覚えている。
 最後までついぞ手は取り合えなかった血の繋がらない肉親の命の灯火が消える瞬間を。
 空の彼方に天竺はあったのか。
 確かめる術は当然のようになく。
 少年は一人全ての死を抱え渦巻かせながら、空を見上げて彼方の従者へ。
 あるいは女王へと念話のパスを繋いだ。

“素直になるよ。此処からはオマエも力を貸せ”

 これは戦争だ。
 聖杯戦争。
 ガキの喧嘩ではもはやない。
 賭けるのは矜持(プライド)でなく互いの命。
 そして互いの抱く願い事、その全て。
 最後に残る一人まで。
 ヴァルハラに。
 天竺に。
 根源という名の梵天に。
 辿り着くまであらゆる全てを薪にして。
 ただ永久に殺し合う。

“良いのですね。それで”
“ああ”

 それしかないんだろ?
 呟く声に肯定は返らず。
 返答を待つこともなく少年は続けた。

“それが一番手っ取り早いんならそうするべきだ”

 兵隊が要るなと思った。
 一人でやれることはたかが知れている。
 喧嘩も悪事(わるさ)もやっぱり大勢がいい。
 大勢が、都合いい。

“戦争のことはオマエに任せる。
 オレはオマエに従う。
 だからオマエはオレを勝たせろ”

 この世界に奴らは居るのかどうか。
 狂気、兄弟、暴力、最強、悪名、伝説、金脈。
 望みは薄いだろう。となれば一からの集め直しになる。
 だが、まぁ。何でもいい。
 最後に勝てるなら何でもいい。
 最後に立っていた奴だけが勝者だ。

 ――オレが後ろにいるかぎり、誰も負けねぇんだよ

 あの頃は良かったな。
 少年は思い馳せるように死体の隣で彼方を見つめた。
 ガキとして意地と意地だけをぶつけ合って生きていられた。
 誰かのために本気になれて、そのために皆が命を張れた時代。
 懐かしいと素直にそう思う。
 だが戻りたいとは思わない。
 何故ならもう戻れない。
 あの頃の自分はもうこの世界の何処にも居なくて。
 此処に居るのは只の伽藍洞。
 からっぽのガキが一人居るだけ。

“――行くぞバーサーカー。戦争だ。この東京をオマエの新しい郷(くに)にしろ”

 聖杯を手に入れよう。
 全ての願いをそれで叶えればいい。
 失ったものも新たに得なければならないものも。
 聖杯ならば全てが埋め合わせてくれるのだろう。
 ならそれでいい。分かりやすくていい。
 全員殺して、全部手に入れればいいんだから。

“良いのですね。それで”
“ああ”

 バーサーカーは。
 かつて一つの郷(くに)を作った女はもう一度、一言一句同じ問いを投げかけた。
 それに対する答えは決まっている。
 だから少年は即答した。
 此方も先刻と一言一句同じ回答だった。
 バーサーカーはそれ以上は問わなかった。

 ――何度だって、助けに行くよ…。君の為…なら…何度でも……。

 声がする。
 誰の声だ。
 蝿声のように鬱陶しい。
 黙れ。これ以上喋るな。
 此処は。もう。
 オマエの居る場所じゃないだろう。

 ――オレが…絶対…助けるから…
 ――何度でも…過去に戻って…何度でも…

 オマエの役目はもう終わった。
 此処は過去でも未来でもない。
 オマエの出る幕はないんだよ。
 なぁ。

 ――オマエを絶ッ対ェ助けてやる!!!

 …アイツのその言葉に。
 オレはなんて言ったんだったか。
 分からないまま少年は自分の手を見下ろした。
 どんな不良でも暴漢でも容赦なく殴り倒したその拳は小さく震えていた。
 その震えの意味すら。
 今の少年には分からないのだった。


【  聖杯  存在証明完了    】
【  聖杯戦争  前奏(プレリュード)  】

【残り XX組】

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最終更新:2022年06月27日 21:56