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我はここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん───
我が生涯を清く過ごし、我が任務を忠実に尽くさんことを。
我は全ての毒あるもの、害あるものを断ち、
悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし
──────『ナイチンゲール誓詞』より
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
───地獄を見た。
それは過去。セピア色の記憶。
灰色の雲に覆われた、それは誰かにとっての愛の終わりの風景。
多くの人が、倒れていた。
崩れた瓦礫の山、燃え盛る炎、そこかしこに広がる夥しい数の赤色。
肉と内臓の区別もつかない男。止まらない血に包帯を汚す女。
役目を終えて空っぽになったアンプルと同列に打ち捨てられた、誕生を祝福されるはずだった小さな肉塊。
此処は病院だ。
上層階段公園に付属する大きな病院。やがて都市の全ての人を救うと喝采された夢の跡。
風光明媚な緑の庭園を望む、癒しの園であった場所。
今は地獄。悲鳴と絶望の呻き。諦める声さえあちこちで響いて。
皮が焼き付く。内臓は融解を始める。
肺は呼吸の度に針が刺さり、髪は根本からこそげ落ちる。
目からは血の涙が止まらない。
鼻から出るのは血? 何か腐った臭いのものが混じっている。
鼓膜は否応にも振動し続ける。ああ、指が腐り落ちた。
足からは骨が見えている。
痛みに溢れていた。慟哭に溢れていた。そして何より、死に溢れていた。
たくさんの白衣がそこにはあって。けれど、何もかもが間に合わない。
差し伸べた手から零れ落ちていく、暖かな命。
小さな命。生まれなかった、子供たちの。41の命。
泣き叫ぶ者がそこにはあって。悲痛に顔を歪める者がそこにはあって。
けれど、ああ。どうしようもなく、そこには死しか在りはしない。
もう、誰も救われない。
そう思わざるを得なかった。
なのに。
「死なせない」
……声が。
手を差し伸べる、あなたの声が。
「きみは絶対に」
こんなにも多くの誰もが諦める中で。
こんなにも多くの絶望が充ちる中で。
その人だけが。
「僕が助ける」
───聞こえていた。
───聞こえていたから。
───わたしは、あなたを───
◆
「───ぃて───……」
欠けた夢を見ていた。
断片的にしか思い出せない。覚えているのは、そこにあった感情だけだ。
十年前の記憶。それは、己の中から完全に失われて。
「おき───さい───聞いて───」
汚泥の中を這い出る感覚。どうしようもないもどかしさが手足に纏わりつく。
それは夢から浮上する意識。僅かに差し込む光が、閉じられた瞼の上から視界を白く染め上げて。
「───いい加減に、起きなさい!」
「……っ」
張り上げられた声───身近ではまず聞かないだろう類の溌剌とした声質───が耳に刺さり、夢うつつの意識が一気に覚醒した。
眠っていた体───久しく睡眠の必要を忘れていた───を起こして、周囲を見渡す。
勝手知ったる第7層28区のアパルトメントではない、馴染みの薄い様式の一室。
綺麗に塗装された真っ白な部屋。冬の朝に特有の冷えた空気。
カーテンの隙間から漏れる一条の光が目に眩しい。明けたばかりの空は、朝の冷気と共に新鮮に輝いていた。
そして目の前に、腕を組んで立つ少女。
青の印象が強い少女だった。
年の頃は15ほどだろう。腰まで伸ばした髪は青空の色をして、澄んだ瞳は凪の海の色をしていた。およそ真っ当な人間では生まれ持たないであろう色、しかし人工色に特有の違和感は、何故か彼女にはなかった。純度の高い硝子の器に麗水を満たしたかのように、超自然的であるはずの色合いは、少女の麗姿と調和を果たして霊妙なる姿を映えさせているのだった。
腕を組んでこちらを見る視線からは気の強さが伺えて……いや、多分違う。これは彼女が持つ、優しさと見栄と面倒見の良さの表れだった。キーアがあと5年ほど歳を経れば、彼女のようになるだろうか。ぴんと背筋を伸ばした姿は、文字通りに背伸びした気配があった。
見た目の神秘性とは裏腹に、内面はどこまでも普通の少女なのだ。それを、ここ数日を共に過ごしたギーは知っている。
本来ならば市井を生きるべき少女が、サーヴァントという超常の英霊たるものだということも、また。
「……おはよう。君は朝が早いんだね」
「早くなんてないわよ。ほら、とっくに朝の8時。診療時間までもう時間ないんだから」
そうやって時計を指差され、なるほどと納得する。
こうも長時間爆睡してしまうとは、我ながら随分と気が緩んでいたらしい。
自らに対する苦笑と共に、すまないと少女に声をかければ、彼女は何とも言い難い顔をして。
「……謝ることなんて、ない。本当ならもっと寝させてあげたいところなんだけどね。
平和な時間なんてもうあと少しもないんだし。
でもきみ、寝てる時息は全然しないし胸も動かないし、一瞬死んでるんじゃないかって思ったんだから」
ああ、と納得する。それは確かに、自分の身体的性質上仕方ないことだろう。
自分は───今はギーと名乗っているこの男は、どうにもそうした生命活動の一切が薄まっている。
食欲も睡眠欲もなく疲れも感じない。代謝も極限まで落ちている。寝てると本当に死んでるようだと、顔なじみの黒猫にもよく言われたものだ。
だから昨夜も、連日の徹夜を心配して小言を言ってくれた、この会ったばかりの少女に対して、そうした諸々も含めて心配いらないと言ったのだが。
『ああ、僕は食べるのも眠るのもあまり必要ないんだ。欲求が消え去っているからね。疲れも全く感じ取れない』
───1ペケ。
『代謝も極限まで落ちているから、燃費自体は結構良いんだ。垢もあまり出ないし、それなりに役立つ』
───2ペケ。
『休憩……2日前にソファで少し仮眠を取ったし、平気だよ。食事も栄養剤のアンプルがまだ残っているし、今すぐ倒れるってことはないはずだ』
『よし今すぐ寝なさい、すぐ寝なさい。そして健康という言葉のありがたみを知りなさいバーカバーカ』
3アウトバッターチェンジ、ということでギーはあり合わせの食べ物を口に突っ込まれた後、半ば強引にベッドにシュートされて今に至る。
それが確か、昨日の午後8時頃。そこから約12時間も眠りこけていたことになる。
こんなにぐっすりと眠ったのは、それこそ10年ぶりか。
もう長い付き合いになる黒猫や、キーアがやってきた最近は、少しだけ生活が改善されたけれど。
「さ、起きたら着替えて顔洗って、そしたらダイニングに来てちょうだい。
簡単だけど朝ご飯もできてるし、今度こそ残さずしっかり食べてもらうからね」
それじゃまたね、と一言残して少女は部屋から退室する。後には、ベッドに腰かけた男がひとり。
「平和な時間は少ししかない……」
少女の言葉を、小さく繰り返す。
「聖杯戦争、か」
呟かれる声は、誰にも届かず宙に溶け消えるのみであった。
◆
ギーが呼ばれたこの都市は、平和だった。
戦争などという言葉が冠された殺し合いが発生しようとしているにも関わらず、これまでギーが過ごしてきた日々は平穏そのものだと言っていい。
平穏。
その一語があまりにも遠い言葉になってから、もうどれだけになるだろう。
積層型巨大構造都市インガノック。
彼の地が異形都市と呼ばれるようになってから、十年の時が過ぎた。
かつて完全環境型都市(アーコロジー)を目指し、王侯連合から喝采を浴びた華の都は、今や死と退廃が跋扈するこの世の地獄となり果てた。
地獄、とは言っても、そこは人で溢れていた。かつて人と呼ばれた者たちだ。
無数に行き交う人ならざる姿をした人。それが十年前であるなら異様な光景。けれど、それが今の正常な都市の姿。
人倫はなく、笑顔は消え失せ、命は1シリング以下の価値しか持たない雑多なガラクタとなった。
聖杯戦争などなくても。
あの都市は、今日も多くの人の命が失われている。
対して、この異邦の都市はまさしく平穏そのものと言って良いだろう。
東京。西享の極東に位置する国の首都、巨大経済流通都市。仮にインガノックがアーコロジーとして完成していれば見られたであろう景色。
その一角に居を構える町医者が、この都市においてギーに与えられた役割(ロール)だった。
東京の街は、今日も多くの人が行き交う。
けれどそこに、死はなく。
常人離れした膂力を持つ熊鬼がその腕を振るい家屋が破壊されることもなく。
怪しげな違法ドラッグが公然と売買されることも、口減らしに捨てられる死にかけの弱者も、犬のように打ち据えられて殺される労働者階級の幼子も、此処にはない。
遍く弱者は死ぬべきという、死の都市法さえここにはなく。
夜ごと都市の至る場所を巡回したギーが救えた命は一つとてなかったが。
代わりに、ギーの手をすり抜けていった命もまた、一つとてなかった。
あまりにも違う、まるで失われた御伽噺であるかのような、この都市。
最早元の世界とは何一つとて関わることのない、彼岸の出来事。
だがギーにとって、それは酷く尊いものに思えて仕方なかった。
戦を知らず、炎を知らず、死を知らず。
穏やかに訪れる日々を当たり前のものとして過ごす世界。
そんな世界が、きっと何処かにはあった。
人間は、あんな末路を辿るべく生まれたものではない。
彼らは、あの地獄で無意味に死ぬしかなかったわけじゃない。
「なら、それだけで十分だ」
本当に意味のないことだけど。
自分にとってこの世界は、間違いなく平和だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
───地獄を見た。
それは過去。モノクロに覆われた記憶。
永き放浪の果てに辿り着いた、それは誰かにとっての愛の終わりの風景。
そこには、何もなかった。
灰の大地と鉛の空。茫漠たる荒野には足跡の一つもなく、流離う砂礫の一粒が動くことさえない。此処では既に、風さえもが死に絶えているらしい。
人はなく、木々もなく、流れる水の一滴もなく。
在るのはただ、蠢く〈獣〉たちの姿だけ。
地獄とは神の不在であるならば。
此処はまさしく地獄そのものであった。
灰色の世界で、唯一動く影がある。
緋色に染まった髪をした少女だった。
灰の砂原と蠢く〈獣〉たちの中にあって、人らしき原型をとどめているのは彼女を除いて他にいない。
その手には輝ける聖剣を携え。
その目にはおよそ感情と呼べるものがなかった。
それはまさしく、夢の中を泳ぐかのような心地であった。
少女は駆ける。どうしようもないもどかしさを手足に纏わりつかせながら、際限なく引き伸ばされる時間。加速する意識。
少女が聖剣を振るう度に、二つのものが消えた。
一つは〈獣〉。燃え盛る魔力の奔流に呑まれ、耐え切れずに蒸発する。
一つは───
少女の中に残された「■■■」が、ぱきん、ぱきんと小さな幻聴を響かせながら、少しずつ削り取られていった。
失いたくない記憶が、あるはずだった───もうそれは思い出せない。
諦めたくない未来が、あるはずだった───もうそれは訪れることがない。
もう何もかもなくしてしまった。
手放してしまった。
後悔さえ、そこにはなかった。そんなものを判断できるだけの記憶や思考は、残されていなかった。
ただ。
ただ、一つだけ覚えていることは。
『この人には、笑っていてほしいな』
いつも通りに意地悪な笑顔を浮かべていてほしい。
けれど、同時に、泣いてもほしい。
貴方には、この空っぽになってしまった自分のことを、泣いてしまうほど想っていてほしかった。あなたに要らぬ重責を押し付けて振り回した、とても許されないことをした酷い女だと、ずっと忘れないでいてほしい。そして、あなたはきっと許してくれるだろうと確信してこんなひどいことを思うわたしを、それでも許してほしい。
ごめんなさい。
こんなわたしに出会ってくれて、ありがとう。
───さようなら。
───わたしの、大切な……
◆
「単なる風邪ですね。お薬を出しておきます」
小さな診療所には、人の声が溢れていた。
その後、軽くシャワーを浴びて少女の用意してくれた食事───トーストにベーコンエッグという内容だった───を何とか完食してみせて少女から笑顔を引き出してみせたギーは、そのまま住居兼診療所である小さな問診室で本日の患者を診察していた。
ギーの営んでいることになっているこの診療所は、医師が一人に受付が一人という、町医者にしても小規模すぎないか、という有様ではあったが、どうも近所では評判の医院として知られているようだった。体調を崩した子供と付き添いの親、近所住まいのご老人、定期的に通院している腕にギプスを巻いた男性や、果ては身重の女性など、ギーのもとにはひっきりなしに診察希望の人間が訪れるのだった。
ギーがその身に修めた異形の技術、現象数式を使う機会はなかった。代わりに、もう二度と役には立たないと思っていた人間相手の医術が、ここでは万金に値する技術だった。人生どうなるか分かったものではないと、折り返しに手が届き始めたばかりの年齢であるギーは思ったものだった。
ちなみに受付担当はギーが召喚したサーヴァントであるところの、あの青色の少女である。聖杯戦争に際してロールが用意されるのはマスターだけであるらしく、彼女にはロールどころか戸籍すら存在しなかったのを、ギーがバイトとして雇っている、らしい。
らしいというのは、ギーが記憶を取り戻した時には、既に「そういうこと」になっていたからだった。記憶のなかったころの自分がやらかしたのか、あるいは聖杯が余計な気を利かせたのかは分からないが、ともかくそういうこととして以後の毎日を続けている。
そしてご近所の皆さんの反応と言えば、当初は「お医者さん先生が女の子拾ってきた」だったのが、数日もしないうちに「あの子が先生の面倒見てる」という評判に変化していた。
……いや、まあ、うん。実際生活面において間違ってはいないのが、なんとも言えないのだが。
さて、年若い男がいきなり見も知らぬ(そして対外的には非常に目立つ外見をした)幼い少女を一つ屋根の下、ともなれば普通は通報案件であろうが、なんかそこについても特に大きな話にはならなかった。
「いやあ……ほかの人ならともかく、あの先生なら、ねえ?」とはご近所さんの言。ギーの人徳というよりは、マジで情欲とかない人間と思われているのだろう。
「お大事にねー」
「ありがとー! クトリおねーちゃん!」
と、最後の診察を終えた小さな男の子が、少女と手を振り合ってるのを観ながら、ギーは述懐する。
この都市は平和だ。
それはここに訪れる患者たちを診ても感じることだ。
死に瀕したものが誰もいない。
誰もが日々を安らかに過ごしている。
心のおおらかさについても、そうした環境によるものが大きいのだろう。荒んだ衛生環境、酷い栄養状態、常に暴力に怯えなければならない社会情勢は、人間の肉体より早く精神を蝕む。病や怪我に倒れるより先に、人々は心を病むのだ。
そうした実例を、ギーは嫌になるほど目にしてきた。
あの都市で、真に正気であった人間などいるはずもない。
他ならぬ、このギー自身を含めて。
「……良い人たちよね」
ぼそり、と呟かれた少女の声。
ギーは短く、それに首肯する。
「そうだね。誰もが笑顔を浮かべている。豊かな証拠だ」
「うん、それもそうなんだけど……なんていうか、聖杯戦争なんて嘘みたい。サーヴァントのわたしが言うのもなんだけどね」
それは、あるいは危機感の欠如と謗るべきものだったのかもしれず。
しかし、そこに込められた意味は、この日常が続いてほしいという確かな祈りであった。
「それでも現実は変わらない。この街は聖杯戦争の舞台で、わたしたちが巻き込まれたのは凄惨な殺し合い。わかってはいるはずなんだけどね」
英霊などというものを無差別に呼び出しての殺し合い。
更には、求めてもいない人間までをも閉じ込めて、生き残りたくば殺せと強要される。
集まるのは、当然まともな人間ばかりではない。
願いに狂った者、血に愉悦する獣性を抱く者、何も知らぬまま死地に足を踏み入れた者。
そんなものの果てがどうなるかなど、火を見るよりも明らかだろう。
「こんな穏やかな毎日が過ぎるだけなら、それに越したことはないのだけど」
「……セイバー。君には叶えたい願いが」
「まあ、あるわよ。思い残しはなかったはずなんだけど、でも、どうしてもね」
セイバーと呼ばれた少女は、たはは、と力なく笑う。
自分で自分に呆れている、そんな意味合いの笑いだった。
「わたしね、幸せになりたかったの」
ぽつりと、そんなことを言った。
どこか遠くを見ている。そんな目をしていた。
「元々わたしって、そんな長生きできるわけじゃなかったのよね。わたしのいた世界にはどうしようもない敵がいて、わたしみたいなのが自爆してようやく撃退できる。そういう決まりだった。今度でかい奴が来るぞ、なら次はわたしの出番だ、って……嫌だなんて言えるわけもなくて、じゃあせめて心残りは失くしておこうって思ったわけ」
世界を滅ぼした〈十七種の獣〉。浮遊大陸という新天地に移ったことでその脅威から逃れたはずの多種族は、しかし空を浮遊する〈六番目の獣〉に怯える五百年を送ってきた。
通常の攻撃では打破できない脅威たる〈獣〉を、唯一倒せるのが聖剣(カリヨン)であり、それを扱えるのが黄金妖精(レプラカーン)だった。つまりはそういうことで、少女が死ぬことにそれ以上の意味はいらなかった。
「そんな時にひっどいのがやってきてね。嵐のようにやってきて、何もかもぶち壊して、わたしなんかに生きてても良いなんて臭いこと言って。
でも、そういうこと全部「本当」にしちゃった。ほんとに酷い奴」
「……君は、その人のことが」
「好きだったわ。うん、今でもわたしは、ヴィレムのことが好き」
夢見るように、少女は呟く。
ギーはただ、黙って彼女の言葉を聞いていた。
「幸せになるってどういうことか、考えたことがあるの」
それは哲学的なようでいて、実際はとても個人的な、ありふれた疑問。
「その時に言われたんだけどね。幸せに気付くことはできても、なることはできないんだって。ほとんどの人は漠然と幸せを求めていて、けど自分が置かれた状況がどんなものかすら分かっていない。幸せって言葉が何を意味しているのかさえ、何も知らない」
少女は───クトリ・ノタ・セニオリスは、生まれと育ちを鑑みれば悲劇としか言いようのない存在だった。
生まれることなく死んだ幼子の死霊より生じ、命と引き換えの武勲を強制され、生きているだけで前世の侵食により自我を侵され……
ならばこそ、彼女は悲劇の果てに繋がる旅路を守護する極位古聖剣セニオリスに選ばれた。
そして。
「そして、気づいたんだ。わたし、とっくの昔に幸せになってたんだって」
思い返すのは、いきなり現れて全部滅茶苦茶にしていったはた迷惑な男と送った、ありふれた日々の情景。
それは本当に何でもないことだったけど。でも、それがわたしにとっての幸福だった。
本当なら手に入らないはずだったものを、たくさん分けてもらった。
だから、きっと、わたしの願いと呼べるものは全部叶ってしまったのだ。
「それでも一つだけ願いが叶うなら……またヴィレムに会えるんなら、『ありがとう』って言いたいな」
きっと彼は思い詰めて、全部自分のせいだ、なんて思っているのだろう。
泣かないで、とは言わない。彼には自分のことを、泣いてしまうほど想っていてほしいから。
忘れて、とも言わない。彼と築いた思い出は、わたしにとっても大切な宝物なのだから。
だから、言うとすれば一つだけ。
ありがとう、と。あなたと出会えたことは、わたしにとって一番の幸せだったんだよ、と。それだけを伝えたかった。
「けど、そのためには聖杯戦争、勝たないといけないのよね」
はぁ、とため息をひとつ。全くもって悪趣味な話だった。
正直、クトリの聖杯戦争へのモチベーションは皆無に等しかった。愛の言葉を伝えるために人倫を侵せとか、本当に何言ってんだこいつと本気で思っていた。
願いが叶うと言っても、限度があると思うのだ。罪もない人たちを殺してまわって、そんなことしてヴィレムや妖精倉庫のみんなに顔向けできるわけないだろう。
「マスターをそんなことに付き合わせるわけにもいかないし……」
「……そこは、素直に感謝したいかな。僕としても人殺しは論外だし、この街を戦場にすることも気が向かない」
夜毎巡回し、助けを求める誰かを探した。
十年間ずっと続けてきたそれを、しかしこの都市は不要とばかりに拒絶した。
きっとこの都市には、ギーの手を求める誰かなどいないのだろう。
ならばこそ、平和な日常を送れるこの街を壊すなど、認められるはずもないことで。
「そう、それよ」
と、クトリはギーを指差している。
「この際わたしの願いなんてどうでもいいけど、問題はきみなのよね」
「……それは、どういう」
「きみ、全部自分のせいだって思ってるでしょ」
その問いに、ギーは何も返せなかった。
何をバカな、と言うことは簡単だっただろう。けれど、やはり、何も言えない。
全て自分の責任である。
その強迫観念こそが、十年もの間ギーを突き動かしてきた罪悪感そのものであるからだ。
「毎回毎回深夜徘徊するのも、正義感と行動力がすごいなーとか最初は思ってたけどさ。
違ったのね。きみは聖杯戦争なんてものに巻き込まれるよりずっと前から、死者に憑かれ、呪いを刻まれてる」
心臓を掴まれる音がした。
それは、ギーにとって決して忘れてはならない言葉だった。
過去の記憶。切れ切れではっきりと思い出せない。
今はもう細やかな破片になってしまった記憶たち。赤と黒を基調とした、無数の。
記憶。
悲鳴と絶望の呻き。
記憶。
この手で助けられると驕っていた。
差し伸べれば、必ず救えるものと。
記憶。
次々と手をすり抜けていく命。
記憶。
都市が崩れた、あの時。
「きみみたいな人を知ってる。
形のないものに急き立てられて、誰かを救うことでしか、自分を傷つけることでしか自分を許せない。
そういう人を、わたしは知っている」
それは、誰のことを言っているのか。
言葉なき言葉は、何よりも雄弁に語っていた。
「わたしは、そりゃきみがどういう人生送ってきたかなんて知らないし、本当は偉そうなこと言える立場じゃないんだけどね。
それでも、きみにはもう一度聞いてほしい」
とん、と胸に拳をあてて、少女は───クトリ・ノタ・セニオリスは、誇るように宣言する。
「わたしは、彼に『ありがとう』って言いたい。
始まりが何であったとしても。最初は同情と投影だったとしても。わたしの気持ちに嘘はない。
自分を許せないあなたは、それでも尊いあなたなんだって、そう言いたい」
『───どうして』
……声が聞こえる。
それは、十年前に聞いたはずの。もう忘れてしまった、思い出せない声。
その声が、罪深い僕を責めるはずの声が。
本当は、別のものだったとしたら。
それは───
「なんて。ホントにわけわかんないこと言っちゃったね。
ごめん、忘れて。別にあなたのこと責めたかったとかそういうわけじゃ」
「分かっている」
彼女は決して、この愚かな男のことを憎んで言ったわけじゃない。
むしろ逆だ。ギーとよく似た男に感謝を伝えようとする彼女は。
すなわち、ギーの抱える過去もまた、同じものではないかと言ってくれている。
「僕はどこか間違えている。それはきっと杞憂なんかじゃない。
そのせいで大切なものを取りこぼして、大事だったはずの人の言葉さえ取り違えているかもしれない。
それでも、僕は」
自分を顧みず他者を助ける。
人助けそのものを報酬とする、その矛盾と末路。
偽善に歪んだ精神。
それら全てを承知の上で、それでも。
「それでも僕は、この手を伸ばそう。助けを求める全ての命に、差し伸べよう」
そのようにして助けるのだと、かつて見殺しにした少女に誓いたかった。
「……きみ、ホントにバカだね」
「よく言われる。狂人だとも」
「それは言ってるほうがバカなのよ」
流石に言いすぎだわ、とクトリは憮然とした表情をして。
それが少しだけおかしかったものだから。
「一つだけ、約束してちょうだい」
「……うん、聞こう」
「絶対に死なないで」
あまりにもシンプルな言葉だった。
だからこそ、込められた思いの多寡が知れた。
「必ず、生きることを諦めないで。
どれだけ絶望的だとしても、どれだけの苦痛があろうとも。死ぬことだけは肯定しないで。
そして、自分から死にに行くような愚かさを、決して認めないで」
死を想うな。
生きろ。
それはありふれた、しかしこの身にはとても重い願い。
死に囚われ、死に近づいたギーにとって、それは鉄の鎖のように絡みつく言葉だったけれど。
「……ああ、分かっている」
それでも受け入れよう。
クトリの言葉を、想いを、裏切らないと誓おう。
そしてそれこそが、かつてキーアと呼ばれた少女が真に望んでいたことであると、ついぞ知らぬままに。
「僕は生きよう。生きて、この都市を出よう。
それまで、どうかよろしく頼む」
「ええ、我が身尽きても……とは、ちょっと怖くて確約できないけど。
精一杯頑張るわ。これでも聖剣使いなんだから」
差し伸べた手を取り、約束する。
過去の霧は晴れず、真実は忘却され、黄金螺旋の果ては未だ見えず。
けれど。誓われた想いだけは、やはり決して嘘ではなかったのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ばたばたと、やかましく髪が揺れる。
起こすまでもなく、全身の魔力(ヴェネノム)は、これ以上なく充溢していた。
ぱきん、ぱきんという幻聴と共に、心の欠片が崩れていく。
またひとつ。またひとつ。
駆けるたびに。
振るうたびに。
色々なものが頭から抜けていく。楽しかったことも、苦しかったことも、自分の心が白紙に戻っていくのが分かる。
けれど。
それでも、わたしは。
いつまでも、一緒にいるよと誓った。
誓えたことが、幸せだった。
この人のことが、好きだなと思った。
思えたことが、幸せだった。
幸せにしてやると、言ってもらえた。
言ってもらえたことが、幸せだった。
こんなにもたくさんの幸せを、
あの人にわけてもらった。
だから、きっと───
「今のわたしは、誰が何と言おうと」
「世界で一番、幸せな女の子だ」
【クラス】
セイバー
【真名】
クトリ・ノタ・セニオリス@終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?
【ステータス】
筋力C 耐久E 敏捷A 魔力A+ 幸運D 宝具A++
【属性】
中立・善
【クラススキル】
対魔力:A
魔力への耐性。ランク以下を無効化し、それ以上のものはランク分軽減する。事実上、現代の魔術師ではセイバーに傷をつけることはできない。
騎乗:D
騎乗の才覚。はっきり言って悲しいほど才能を感じない。最低限のクラス保証みたいなランク。
【保有スキル】
黄金妖精:A
レプラカーン。人造妖精であり、「人の器具を扱う者」としての性質を持つため、人族専用の聖剣を使用することを可能としている。
厳密には妖精ではなく、死霊の一種。魂が現実と肉体に固着するより以前に死した幼子の霊魂を、外法によって繋ぎ止めた存在。
その由来ゆえに世界のどこにも居場所を持ち得ず、概念的に「未来」を有さない。通常の生命とは異なり属性が限りなく「死」に近い。
そもそも生きてはいないため生体に作用する概念的干渉を一律で無効化するが、代わりに死霊特効と何故か神性特効がモロに突き刺さる。撒き塩とかされたら思い切り涙目になる。
魔力放出:B
武器・自身の肉体に魔力を帯びさせジェット噴射のように瞬間的に放出することで能力を向上させる。
種族的特性として魔力の翅を形成し、ある程度の飛行を可能とする。
巨獣狩り:A+
地上世界を席巻した〈十七種の獣〉への対抗として生み出されたセイバーは、巨大な敵性生物との戦闘経験に長けている。
対獣・対巨大に補正を与える他、クラス・ビーストへの特効性能を発揮する。
星神の夢/少女の加護:E
黄金妖精(レプラカーン)の真実。仮初めの命として鋳造されたすべてのモノたちが抱く、希望と結論。
砕かれた星神は世界を夢見、生持たずして死に近づく矮小な魂たちは無垢なるままに世界を俯瞰する。
クトリ・ノタ・セニオリスには彼女たち矛盾した知性体が生まれた理由と、それら短命のものたちが目指すべき真理が、"愛"という形で宿っている。
(星神という星の生命を創造した超越者の魂によって発生し、人の愛を知った彼女は、『造られた短命の生命』ゆえの達観、客観性の極致に僅かながら手をかけている)。
「くとり」「がんばれ」
【宝具】
『告死聖剣・煌翼天墜(セニオリス)』
ランク:A++ 種別:対人・対獣宝具 レンジ:1~50 最大捕捉:500
力無き小さき種族である人類が鍛え上げた、星を殺すための人造秘蹟。特にセニオリスは極位古聖剣の1振りとされ、聖剣(カリヨン)というカテゴリにおいては最上位に位置する最強の幻想(ラストファンタズム)。
その正体は41の雑多なタリスマンを呪力線で束ねた複層構造の剣であり、偶発的に誕生したこの宝具は当時栄華を極めた人類文明でさえ完全な解析・再現ができなかったとされている。
常態においてはランク相応の神秘を携えた超抜級の概念武装であり、魔力そのものを切り裂く性質の他、使用者に魔力ブーストや身体能力強化の加護を与えるに留まる。
真名解放に伴って剣を構成するタリスマンが展開し、魔力を光に変換し集束・加速させることで極光の斬撃となる。なおその威力は自身の宝具ランクを下限として、接触対象が持つ魔力量に比例して青天井に上昇する。
身も蓋もない言い方をしてしまえば「相手よりちょっとだけ強くなる剣」であり、多数を殲滅するのではなく超級の個体を相手取る時に真価を発揮する。
……より厳密に言うならば、上記能力も副産物に過ぎず、この剣の真の力は「死を与える」こと。相手が不死であれ不滅であれ、あらゆるものに死の呪詛を刻み問答無用で死者へ変じさせる事象改竄能力。
適合条件は「帰る場所を持たず、帰りたい場所に帰ることを諦め、自分自身の未来をすべて投げ出し終える」こと。
悲劇を抱えた者でなく、悲劇を超えた者でなく。
希望を持たぬ者でなく、希望を捨てた者でなく。
心より渇望する未来を持ちながら、その未来が決して手に入らないのだと受け入れた者だけが、この聖剣を手にすることが叶う。
その性質上、セイバーの消滅時、周辺に彼女以上に適合条件を満たした個人がいた場合、この宝具だけは消滅することなく当該人物の手に渡る。
『全て遠き妖精郷よ、敬虔なる殉死者を迎えよ(ゲートオブアヴァロン)』
ランク:E~A++ 種別:対軍宝具 レンジ:1~99 最大捕捉:800
セイバー自身の肉体を宝具とした二重の壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)。一点集中ではなく広域に作用するため対軍宝具にカテゴライズされるが、純粋なエネルギー総量は対国宝具に匹敵する。
真名解放と同時、セイバーの背から肥大化した光の妖精翅が広がり、それを中心に爆発的な魔力の奔流が発生する。
生前においてセイバーが扱った魔力(ヴェネノム)とは型月魔術観における魔力とは存在を異としたものであり、その本質は「生命力の反転である、概念的に死に限りなく近いもの」である。
サーヴァントとして現界するにあたりセイバーが通常行使する魔力は他のサーヴァントと全く同じものに規格統一されているが、この宝具に関してのみ話は別。発生する爆発は生命力や純エネルギーといった「正の属性」を直接反転させ、対消滅させる。事実上、対魔力などといった加護・耐性・障壁等で軽減・無効化することはできない。
この宝具の発動と同時に、セイバーの霊基は致命崩壊をきたし、消滅する。つまりこの宝具を使えば必ず死ぬ。例外はない。
【weapon】
極位古聖剣セニオリス:ちょーつよい
銀のブローチ:継がれるなにか
黒い大きな帽子:秘めたる(ぜんぜん秘められてない)想いのきっかけにして象徴。普段は非装備。
【人物背景】
滅びゆく世界に残された最後の希望。生まれることなく死した幼子の亡霊。殺されるためだけに生み出された仮初の命。
あるいは、世界で一番幸せな女の子。
【サーヴァントとしての願い】
もう一度だけ、ヴィレムに会いたい。
【マスター】
ギー@赫炎のインガノック
【マスターとしての願い】
誰の命も取りこぼしたくない。
【能力・技能】
現象数式:
変異した大脳に埋め込んだ数式により、現実を改変する技術。特にインガノック産の現象数式は魔術ではなく科学の分野であるが、その原型は時計人間と呼ばれる外神の権能であるとされる。
ギーのそれは解析と物質置換に特化されており、人体へ使用すれば置換による治療が可能。
赫炎のインガノック作中ではあまり言及こそないものの、現象数式とは元来非常に高度かつ強力な術式である。ギーのそれも仮に攻性に特化させた場合、ポルシオンなしでも「現象の支配者」「〈結社〉最強の魔人」と称されるほどになり果てる才覚を有している。
奇械ポルシオン:
ギーの背後にたたずむ鋼の影。都市に残された最後の御伽噺。
可能性そのものであるため、あらゆる物質を、幻想を、世界を圧倒し得る。
【人物背景】
異形都市インガノックで生き足掻く人々に手を差し伸べ続けた巡回医師。
彼は決して聖者ではなく、狂人でもなく、自分の目の前で死に行く少女を見ていられなかっただけのありふれた人間でしかない。
10章終了後より参戦。
【方針】
聖杯戦争を調査し、戦いを終わらせる。
最終更新:2022年07月10日 00:08