目を覚ました時最初に確認したのは自分の容態ではなく、緋色の瞳持つ彼が隣に居るかどうかだった。
酷く寂れたアパートの一室に彼は寝かされていた。
鼻をつく劣化した木材の臭い。
肌に触れる湿った空気、見れば外には雨がしとしと降り頻っている。
何処だ此処は――抱く疑問の答えが自然と脳裏に溢れてくる奇怪に青年は眉根を寄せた。
万能の願望器を争奪する儀式、聖杯戦争。
それを行うためにのみ存在する異界、東京都。
頭に知識は詰まっている。
だが理解できている訳ではない。
混乱という名の雑音が脳細胞を侵食していく不快極まりない感覚に舌打ちをしながら青年は黒髪をぐしゃりと握り潰した。
脳内の知識がどう頭を捻っても"理解"に変わらないままならなさは彼にとって酷く不快だった。
何故なら彼は解き明かす者。
破格の頭脳を持ち、後の世では大英帝国にその人ありと比喩でなく世界中から敬愛されるに至る名探偵。
…シャーロック・ホームズ。
それが男の名前だった。
「何処の誰だから知らねぇが…何余計な事してくれてんだ、クソが!」
理知的で冷静な探偵。
そのパブリックイメージに背くかのような粗暴な言動で叫んだのは怒りだった。
しかし胸中を占めるのは怒りではなくむしろ焦り。
聖杯はシャーロックの頭脳を聖杯戦争という舞台に適合できるようアップグレードしてくれた。
だが彼が本当に知りたい事。
自分と共にテムズ川へ墜ちた宿敵。
シャーロックの心を高鳴らせ、脳に無二の刺激を与え。
生まれて初めて対等の頭脳で渡り合えた友人――ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ。
シャーロック・ホームズの最大の敵たる"教授"の安否。
それについての情報を、聖杯は一切彼に与えてはくれなかった。
「…随分と足元見てくれるじゃねぇか。アイツがどうなったのか知りたきゃ勝って聖杯に願ってみろってか?」
考えるまでもなくその道は論外だ。
それを選んでしまったら自分という人間を信じ支えてくれた全ての人を裏切る事になる。
そしてウィリアムの事も、裏切る事になる。
もしも己が此処で大勢の犠牲を許容できる人間だったなら、彼が自分の前に現れる事は無かっただろう。
そのきっかけを自ら破壊してしまっては元も子もない。
罷り間違ってその道を選び元の世界に帰ったとして。
アイツの安否を確かめるにしろ。
助かっていたアイツに会うにしろ。
…その時、どんな顔をして臨めばいいか分からないからだ。
「お断りだバカ野郎。てめぇの口車になんざ誰が乗るかよ」
シャーロックに誰かを殺すつもりはない。
既にその手はある悪党の血で汚れている。
殺めたのは心底どうしようもない、吐き気を催すような外道だったが。
それでも手を汚して気持ちいい等とはまるで思えなかった。
あれをまた味わうのは御免だ。
誰も殺さずにこの世界の謎を解き、生きて帰る。
シャーロックの指針は決定された。
しかしその決意に水を差すように。
いつから其処に立っていたのか。
部屋の片隅に影法師宛らの気配の薄さで立つ何者かが、難業に挑まんとする名探偵へ言葉を吐いた。
「本当にそれでいいのか?」
「…誰だお前」
「サーヴァント・アサシン。お前の召喚に応じて顕現した、しがない人間崩れだよ」
「サーヴァント…か。それにしては随分と……なんつーか、貧弱じゃねぇ?」
率直な感想だった。
シャーロックの目に映るサーヴァント…アサシンのステータス。
それはひどく貧弱で、身体能力の面に限って言えば普通の人間と大差ない。
その言葉を聞いたアサシンは苦笑をして肩を竦める。
錆びた歯車機械のようにぎこちない、人間らしくない笑い方をする奴だなと思った。
「俺は戦闘向きのサーヴァントじゃないからな。それどころか大の不得手だ。切った張ったの大立ち回りには期待しないで貰おうか」
「あぁ、成程な。宝具やスキルで抜きん出たもんを持ってるってとこだろ?」
「…あるにはある。だが普段使いはできないな。頭を使うのが多少得意ってくらいだ」
「マジか」
「マジだ」
大丈夫なのか? 俺の聖杯戦争。
さしものシャーロックも危機感を覚えたが。
それよりも彼の口にした言葉の方が気になった。
有耶無耶にしてはいけない重大な何かが、先の問いに含まれていたような。
そんな気がしてならなかったから。
「まぁハズレを引いたのはお互い様だな。アンタも知ってるだろうが、俺に聖杯を手に入れるつもりはない」
「それならそれで問題ない。元々誰かを蹴落としてどうこうってのは性に合わなくてな」
「で、基本誰かを殺すとかそういう事をする気もねぇ。
帰りたいって連中を適当に集めて帰るか…それが無理ならこの聖杯戦争って儀式自体の解体だな。
俺の方針はこんな所だ――で、此処まで分かった上で訊いたんだよな。先刻の質問はよ」
「狂気の沙汰だ」
アサシンは酷く見窄らしい男だった。
顔の作り自体は端正だが、体の其処かしこに広がった火傷の痕がそれを台無しにしている。
片目は失明している事が一目で分かる白濁した状態。
体内も既に余す所なくボロボロなのだろう。
耐え難い激痛を堪えながら骨身に鞭打ち錆びた体を動かしている事がシャーロックにはすぐ分かった。
そんな彼の冷たく静かな瞳がシャーロックのそれを見据える。
その上で言う。
その道は正道に非ず、狂人のみが往く事を許された道であると。
「チェックメイトを突き付けるだけなら容易いだろうさ。
だが自分の勝ち以外のものを勘定に入れて計算すると難易度は次元違いに跳ね上がる。
その結果がこの有様だ。俺もかつてはお前と同じ道を選び、望み…そんで歩み切った。一応はな」
「…こりゃ驚いたな。アンタ"先輩"なのか」
「そんな大層な物じゃないさ。俺はただ歩み切っただけだ。成し遂げたわけじゃない」
男の目が虚空を見つめる。
何か、もう戻らない遠く離れた何かを見ているような。
そんな哀愁を彼の隻眼は孕んでいた。
「俺は負けた。勝ちはしたが成し遂げられはしなかった。
俺のせいで何十人、何百人、下手すりゃもっとか。とにかく山程死んだよ。
そいつらが吐いてくれる優しい嘘を信じて、信じたフリをして…見てみぬフリをした。
言い訳と自己弁護を重ねながら歩むだけ歩んで、ゴールするだけゴールして……不遜にも勝ちを僭称したクズ野郎さ」
彼が何をして英霊の座に登り詰めた人物なのかをシャーロックは知らない。
だがその目に宿る悔恨と口から紡ぎ出す自罰の念に嘘偽りは一切感じられなかった。
コイツは真実だけを語っている。
正しく彼は先人なのだとシャーロックは理解した。
これから己が歩もうとしている道。
誰かを殺すでのはなく、誰も彼もを利用しながらも殺す事なく戦いの平定だけを見据える道。
それを何処とも知れない世界あるいは時空で歩み切った先人。
「マスター。お前には大切な人が居るか? 生涯を誓い合っても構わない相手は居るか」
「あぁ居るぜ。そいつの全てを共に背負って進む事を決めた所で呼ばれたんだよ、俺は」
「――俺はそれすら守れなかった」
そう言ってアサシンは口を噤み目を伏せる。
彼の言葉は確かな重みと鋭さでシャーロックの心に突き刺さった。
脳裏に浮かぶ"彼"の末路。
血の海に沈む面影はシャーロックの背を粟立たせるには十分すぎた。
「ずっと一緒に居てやりたかったし、居てほしいと思ってた。
そんな人の死に目にすら俺は遭えなかったんだ。
誰かがやらなきゃいけない事ではあった。俺がやらなきゃ戦争が終わる日は遥かに遠ざかっていただろうという自覚もある。
それでも後悔は消えないよ。俺が大それた事を考えずに、アイツと毎日を細々と生きる幸福(みち)を選んでいたなら…。
他の何が救えなくても……アイツを失う事だけは無かったんじゃないかって。そう思わずには居られない」
「…嫁か?」
「あぁ。マジで世界一可愛い、代えの利かない自慢の嫁だった」
でも死んだ。
そう言ってアサシンは苦笑する。
それから改めてシャーロックの目を見た。
目を逸らせない。
逸らせる筈もない。
「悪い事は言わない。聖杯を狙え、シャーロック・ホームズ」
末路の彼の言葉は冷たかった。
それは茨道でも何でもない。
この世界を生きて出るには。
生きてあの大英帝国に帰るには、それが間違いなく一番の近道だ。
守る事は難しいが殺す事は簡単だ。
誰かを蹴落とす為に取れる手段は"守る"それに比べて格段に多いのだから。
シャーロックが一言それを望めば、アサシンはあらゆる手に訴えて彼の敵を排除するだろう。
戦いを扇動して強い者同士を潰し合わせ終始漁夫の利を得る事だけに腐心し。
この儀式に列席した全員を手駒にしながら冷淡に勝利への道を舗装していくに違いない。
「もう分かっただろ? それは人類種(イマニティ)の歩める道じゃないんだよ。
魔法も使えない。鉄を引き裂く爪や牙もない。そんな弱者が大それた事を望むな。
無理を押して進んだとしても――その先にお前の幸せがあるとは限らない」
シャーロックもそれは理解していた。
純粋な頭脳の粋ならばいざ知らず。
こと戦争を生き抜く事にかけて、自分はきっとこの男に敵わない。
その自覚があったから――その上でシャーロックは言った。
「嫌だね。俺を誰だと思ってやがる」
本棚に収められた一冊を手に取りアサシンへと投げ渡す。
それは他でもない、世界一の名探偵と謳われる男を描き上げた一作だった。
「この時代ではよ、俺はどうやら他に並ぶ者のねぇ名探偵らしいぜ。
俺はアンタとは違う。根本的におつむの出来が違うんだよ、思い上がってんじゃねぇぞロートルが。
だがあぁもしも? そんな俺でもどうにもならねぇ状況が来たってんならその時は――」
シャーロックが笑う。
挑発するような笑みだった。
思えば久しくこういう顔はしていなかったなと思う。
チャチなトリックを解き明かして犯人を看破した時はいつもこんな顔をしていた筈なのに。
我ながら遠くへ来たもんだとそう思わずにはいられない。
そんな望郷めいた述懐を抱えながら、彼は続けた。
「その時はアンタの出番だ、アサシン」
「…俺のようにはならないと。そう信じているんだな」
「当たり前だろ。話を聞いた限りでの推理だけどよ…アンタ、嫁さんが死んでからは本質的に独りだったんじゃねぇのか?
そんな状態で戦争とやらを終わらせた手腕が凄ぇが、アンタは根本的な所で見落としてんだよ。
独りより二人の方が強ぇんだ――ガキでも分かる足し算だぜ」
シャーロックは何も独りで頑張るつもりはない。
頼れる者があるなら迷わず頼るし力も借りる。
ましてやこの世界では、かつて自他共に認める無理難題を歩み抜いた男が味方に付いてくれているのだ。
この状況で孤軍奮闘など馬鹿のする事だろうとシャーロックは思う。
だから躊躇なく、彼は地獄めいた難易度の道のりに同伴者を求めた。
「チェックメイトは要らねぇ。ステイルメイトが必要だ」
「…後戻りはできないぞ。泣きたくなった頃にはもう後ろを振り向く事すらできやしない。
心血、心魂、その全て。引き分け(ステイルメイト)に捧げる覚悟はあるか?」
「舐めてんじゃねぇぞ」
鼻で笑う、シャーロック。
「余計な事心配してないで、アンタは負け惜しみの一つ二つ考えとけよ。
アンタはこれから完膚無きまでに追い抜かれんだ。この俺にな」
「…はッ。はは、はははは。馬鹿だな――お前」
アサシンも彼の物言いには笑うしかなかった。
神をも恐れぬ大言壮語、それが何故こうも心地良く聞こえるのか。
思い出すからだろう。過去の自分を。
それでいて確かに違うからだろう――過去の自分と。
「あぁ馬鹿だよ。お行儀の悪さには定評があってな」
「生きながら地獄に落ちた先人を前にしてよく吠えられるもんだ。流石、大物だな。シャーロック・ホームズ」
「力を貸せ」
そう言ってシャーロックは右手を差し出す。
握手を求めながら、彼はいつも通り不敵に笑ってみせた。
「――アンタの見られなかった"めでたしめでたし"を見せてやるよ。それが報酬だ。最高の景色をくれてやるから、アンタの全部を俺に寄越せ」
…かつて。
とある世界で、とある戦争があった。
あらゆる種族が殺し合う弱肉強食の究極系。
混沌を地で行く時代を終わらせたのは一人の人類種(イマニティ)だった。
何の力もない人間が。
人としての幸せも、愛した女も。
全てを失いながら歩み切って成し遂げた。
戦いを終わらせた。
本人にとってそれがどれほど出来の悪い結末だったとしても。
それでも彼の偉業が空前絶後のものである事に変わりはなく――従ってその"幽霊"の存在は英霊の座に記録されるに至った。
「…前言撤回は許さねえぞ。傷口に塩塗り込んででも立ち上がらせるが、いいんだな?」
「こっちの台詞だクソジジイ。ケツに火点けてでもこき使ってやるよ、覚悟しとけ」
此度の聖杯戦争ではアサシンのクラスを与えられ現界している彼。
脆く弱く無力な…しかし他の誰も持ち得ない究極の可能性を秘める男。
リク・ドーラは斯くしてシャーロック・ホームズと契りを結んだ。
サーヴァントとマスターという領域をすら超えた、"共犯者"にすら近しい一蓮托生。
勝利ではなく引き分けを求めて艱難辛苦の渦へ身を投じる二人の「人間」。
その旅路が幕を開けた瞬間であった。
【クラス】
アサシン
【真名】
リク・ドーラ@ノーゲーム・ノーライフ
【ステータス】
筋力E 耐久E+ 敏捷E 魔力E 幸運B 宝具EX
【属性】
中立・善
【クラススキル】
気配遮断:EX
正面戦闘においては全くと言っていい程役に立たない。
戦争や抗争の大局の中における自らの気配を極限まで薄める。
彼の手の者がどれほど暗躍を繰り返し戦果を挙げても、それがリク・ドーラの指揮に依るものだとは露見しない。
【保有スキル】
戦闘続行:A+
往生際が悪い。
霊核が破壊された後でも最大5ターンは行動を可能とする。
彼の場合正確には「行動続行」と呼ぶのが正しい。
目的達成の為に全てを捧げた彼の生き様そのもの。
無力の殻:A+
アサシンはサーヴァントとしては全く無力な存在である。
宝具を使用するか自ら正体を看破されるような行動を取らない限り、サーヴァントとして感知されない。
彼は聖杯戦争に列席するにはあまりに非力な人類種(イマニティ)である。
一意専心:A
一つの物事に没頭し、超人的な集中力を見せる。
アサシンの場合、自分の最終的な目標を達成することにのみ注がれる。
分割思考(偽):E
偽りの自己を形成し、自分自身の心を欺く。
個人の努力と自己防衛の範疇であり決して特別な能力ではない。
しかしアサシンの歩みを常に支え続けた思考法であるからか、このスキルは彼に同ランクまでの精神攻撃に対する耐性を与えている。
【宝具】
『再演・星殺し/地獄の先に花よ咲け(ディスボード・ニューオーダー)』
ランク:EX 種別:対界宝具 レンジ:- 最大捕捉:-
かつて男は遠くない死を待つばかりの無力な塵屑だった。
しかし男は運命の出会いを経て自分が真に成し遂げたい未来を見つけた。
無数の傷を浴びながらも歩み続け、一つの世界の理(
ルール)を新生させるまでに至った男が不完全なれども辿り着いた勝利の具現。
アサシンが生前辿り着いた勝利確定(ステイルメイト)の状況と同等の勝利条件が満たされた瞬間にのみ発動可能の"目的達成宝具"。
アサシンの霊基そのものを燃料にして宝具を発動させ、彼の目指す目標――終着点――を彼の霊基分のリソースで可能な範疇で実現に導く。
宝具の発動はその性質上アサシンの消滅とイコールで結ばれる。
その上発動に至るための条件も難易度は非常に高く、とてもではないがアサシン単体で満たせるそれではない。
…だがそれでも。
一度発動を可能としたならば、聖杯の権能にも届く奇跡を引き起こすことができる規格外の宝具である。
【人物背景】
戦乱の時代。
故郷と両親を失い若くして集落の長を務めていた青年。
より多くの命を生かすために少数を切り捨てる日常に摩耗していたが、彼はそんな中で己だけの運命に出会う。
数多の出会いとかけがえのない離別と、そして目を瞑るしかなかったあまりに多くの犠牲を経て…
アサシンは、リク・ドーラは――世界を救った。
【願い】
叶うならばもう一度シュヴィに会いたい。
…だがマスターの想いを蔑ろにしてまでそれを叶えたいとは思わない。
【マスター】
シャーロック・ホームズ@憂国のモリアーティ
【願い】
聖杯戦争という事件の解決。
チェックメイトに用はない。
【能力】
類稀なる推理力と洞察力。
社会の全てを敵に回す覚悟を秘めた大悪の貴公子に鍵と見据えられた男。
名探偵、シャーロック・ホームズ。
【人物背景】
自称、世界でただ一人の「諮問探偵(コンサルティングディテクティブ)」。
【方針】
聖杯戦争の解決と元の世界への帰還。
…あんな幕切れで終われると思ってんじゃねぇぞ、リアム!
最終更新:2022年08月06日 00:02