.

──それは、紛れもなく現実だった。
現実に顕現した、地獄だった。


灰色の町並みがあった。
黒と呼ぶには余りにも整然、されど白と呼ぶには余りにも澱んでいる風景。
その最たる原因は、そこに立ち込める霧だった。
人類が産み出した知恵だとか、未来を切り開く為の道具だとか、そんなモノが副産物として吐き出していく人工の魔障。
発展していく世界の裏の、穢れた汚点を投げつけるゴミ捨て場に、今日も工場から漏れ出たスモッグが充満していく。
言わずもがな、それは生を蝕む毒。身体に入り込み、内側から肉体を腐らせる死神の吐息。
死へのカウントダウンを刻む針が、一層他より早い場所──それが、霧の都ロンドンの一角。ホワイトチャペルという町だった。

ある時、一人の少女が其処にいた。
何処から流れ着いたのか、少女が誰か。そんな事は知る由も無いし、知ったところで此処では何の意味もありはしないのだから。
ただ、少女は見るからに不健康といった風体で──そして、飢えていた。
単純な話だ。此処はまともではないとされるような食事にありつく事、それですら困難というような場所。生き残る為には、そもそも己自身をまともな範疇の埒外へと投げ捨てる必要がある。

そう、例えば。
彼女の前に、浮浪者の男が現れた。
片手を力なく垂らし、そしてもう一方の手には。腐りかけだが、それでもまだ食べられそうなパンが幾つか。
たちまち少女は飛び付いた。持っている金を全て出し、地を這うように土下座をした。
男は暫く黙ってそれを見て──少しして、下卑た笑みと共に口を開く。
告げられた言葉に、少女は暫し固まって。それでも、すぐにそれを受け入れた。
それから数刻。少女はその手に一つだけパンを持ち、とある建物から外に出た。
所持金も減ってはおらず、その身体も先と比べればむしろ綺麗になっているくらいだ。尤も、それはあくまで外見が、というだけ。中で何があったかなど、言わずと知れる。
ついさっきまでいた男のねぐらを一瞥し、少女はゆっくりと歩き始める。
「幸運にも」目減りすることが無かった金を握りしめて、彼女は『万が一』を避ける為に近くの医者へと駆け込むのだろう。

──そうしてまた、灯るかもしれなかった命の火が、消えた。

それは殺戮ではない。
生まれる前の命など殺すとも言えないし、そもそもそこには殺意どころか特異な感情を持ってすらいない。

それは、消費だ。

少女が握ったパンと同じだ。
その日を凌ぐ為に望まず生まれ、そして消失することで誰かの生きる糧となる。
遺すものどころか生まれすらしない、生きる前に殺されるという命とすら呼べないモノ。
それらが、存在することすら許されず、使い潰されて消えていく。

そんな事が、彼方此方で起こっていた。

これが、或いは何か、明確な悪が存在していれば良かったのかもしれない。
何かが消えることで解消される地獄なら、もっと早くに人々が立ち上がって、或いは外からその歪みを断ち切る人間がやってきて。
それで、この地獄は終わりを告げていたかもしれない。

けれど、これは違う。
これは、「ただそこにある」ものだった。
丁度、其処に立ち込める霧と同じ。消すことは愚か掴むことすら出来ずに、どうしようもなく存在する。
生の為に生を蔑ろにするという論理すら通用せず、ただ「生まれるはずだった、でも生まれなかったモノ」が使い潰されるという、馬鹿げた、しかしシステマチックなまでに効率化された都市機能。
──紛れもなく、そしてどうしようもなく。
これが、その時の現実だった。
一度階段を踏み外したばかりに踏み入れてしまったせいで。
希望など存在しない世界で、展開されるべくして展開されるそもそもが人工の地獄で、ヒトは何処までも堕ちていった。

例えば、報われぬ愛を誓い合った二人の片割れが、生を欲するばかりにもう片割れを殺してその肉を喰らう様。
例えば、食物を奪う為に散々に痛めつけられて、それでも当たり所が悪かったばっかりに死ぬ事も出来ず生き地獄を味わい続ける様。
例えば、嘗ては名もそれなりに知れていたであろう可憐な令嬢が、今は最早寒さすら凌げない程にボロボロになった元は豪奢なマントだったろう襤褸すら奪われる様。

例えば、そう。


ある娼婦が、栗色の髪を三つ編みに纏めた娼婦が。
当たり前の愛を受けていた筈の、そしていつの間にか地獄に堕ちていた女が。
自らと愛する男の遺伝子が伝った「それ」を、己諸共にただ川へと廃棄しようとする様──



「─────あ、あ、ああああアアアアアアァァァァァ!!!!」


──堪らず、絶叫を上げて。
そうして、室田つばめは夢から覚めた。


 ◆

目の前に広がる自室の風景が、ここまで心を休めてくれる時が来るとは思いもよらなかった。
もちろん、厳密に言えば彼女の自意識としてはここは勝手知ったる我が家ではない。東京という土地に呼び寄せられた、今の彼女にとっての住まい。余分な物が無いことを「遊びが無い」とこっそり非難した自分を、この時ばかりは罵倒する。
寝汗のせいで寝巻きは身体にひっつき、掛け布団もやたらと蒸し暑いのを苦にして、つばめはゆっくりとベッドから立ち上がった。
隣に眠る夫を起こさないようにそっとベランダに出て、火照った身体と未だに脈打つ心臓を冷まそうとする。

「………なんだよ、あれ」

ぼそり、と思ったことを正直に口にした。
酷い夢だった。
嘗て燃え盛るハイウェイを見た時にはこの世の地獄かと思ったものだが、あんなものとは比べ物にならない真の地獄。
悪意すら存在しない故の残酷な世界を思い出し、どうしようもなく背筋が凍る。
夢、と断じることすら簡単ではない程に強烈なリアリティを以て再現された、この世で最も穢れていた場所の一つ。
なぜ自分がそれを垣間見たのか、と思い、そして少しの間を置いてはたと思い当たる。

「……アサシン」
「なあに、おかあさん」

その「心当たり」の名を呼ぶと同時に、ベランダに少女の姿が現れる。
どことも知れない虚空から霊体化を解いて現れたその様は、正しくアサシンのサーヴァントに相応しき出現。
白髪の小柄な少女の形をした可愛らしい姿の、しかしその名は聞くものを震え上がらせる恐怖の象徴。
──ジャック・ザ・リッパー
イギリスという国を恐怖させた、現代日本でも語られるような殺人鬼の名が目の前の少女の名だと知った時は、つばめも流石に衝撃を受けた。
というより、実のところを言えば、召喚してしばらくはまだ少し疑っていた。
なまじ、彼女が既にとある非常識に触れていたというのもあるだろう。姿を消すことやアクション映画じみた動きを軽々とこなすアサシンの姿も、「切り裂きジャック」の名前を結びつけるには足りなかった。
けれど。
今の夢、そしてこの少女が語った彼女自身についての説明を思い出す。
子供であり、かつ何処か精神を病んでいるような少女の言葉から受け取った「ジャック・ザ・リッパーの生まれ方」と、夢の中の地獄、そしてその中で響く声のない悲鳴。
リフレインするそれに突き動かされるかのように、つばめは口を開いて。

「……お前は」

言おうとして、口を噤む。
心の内に、未だに残る一つの凝りが、アサシンへと踏み込んだ発言をすることを阻害する。
その代わりに、と言葉を探し、そして導き出したのは一つの、そして彼女が現れてから数回目の提案。

「今日も行くからさ、ちょっと手伝ってくれ」
「うん、わかった」

頷くアサシンから、僅かに目を逸らすように、つばめは懐から端末を取り出す。
画面をタップし、途端に光が放たれて──そして、そこに室田つばめはいなかった。
代わりに立っているのは、箒を構えた可憐な少女。
魔女が被るような三角帽にこれまた魔女が持つような箒、そして背中のローブにでかでかと刺繍された「御意見無用」の文字。

「さあ、今日も行きますか!」

──魔法少女・トップスピードが、そこにいた。





──東京での人助けは、以前に比べて難易度がぐんと上がっていた。
その理由はといえば、やはり今のトップスピードの行動を見た人間に対しての処置をしてくれるファヴがいないから。
そして、神秘の秘匿という条件によって、明確に存在する事を仄めかす事が事実上不可能になったからだ。
ここに来る前は、ファヴというマスコットキャラクターのお陰で、情報の隠蔽が徹底されていた。
助けた人間はぼんやりとしか魔法少女の姿を覚えていないし、カメラなどでも確実にピントがズレるようになっていた。
それ故に、ある程度なら大っぴらに活動出来ていたのだが──今、この場にそのファヴはおらず。
それでも、「知られてもいい」ならばもう少し大胆な行動も取れたかもしれないが、そこでネックになるのは神秘の秘匿という条件。
これがトップスピードの魔法少女としての力にも適応されている以上、下手にバレるような事があれば瞬時に討伐令やら何やらと面倒な事が降って湧く。
よって、強いられるのは隠密行動。
露見する手がかりをギリギリまで減らし、その上で何かしらの行動を起こす、という事が必須だった。
しかし、そこまで制限があるならば、人助けなどほぼ不可能ではないか──と聞かれれば、実を言うとそうでもない。

その理由は、アサシンの手助けにあった。
人が来ればそれを知らせ、間に合いそうにないとなれば対象を気絶させる──最初は解体しようとしていたが慌ててトップスピードが止めた──などと、その高い敏捷を活かしてフォローに入ってくれている。
また、サーヴァントだけあって見た目にそぐわぬ力も持ち、魔法少女であるトップスピードと合わされば大抵の物は動かす事が出来た。
人を助けている彼女の顔は、最初こそ不思議そうな表情を浮かべていたが、今は楽しそうなあどけない表情を浮かべながら手伝ってくれている。
──時たま、その表情が強張るのを除けば。
そうしてその日も何件かの人助けを終え、いい加減に外に出ている人の数も減ってきていることを確認すると、彼女はゆっくりと裏路地に降り立つ。

「ありがとな、アサシン」
「うん」

自分と同じく箒に跨がっていたアサシンが降りたと同時に、その頭を撫でてやる。
ごわごわの髪を撫でられて、擽ったさそうに小さく身を捩る少女の姿を見て、トップスピードの表情も和らぐ。
そうして、時間も時間だからと、再び箒に跨がってさっさと退散しようとする。

「…ねえ、おかあさん」

だが。
何処か逃げるようなトップスピードのその行為よりも、アサシンの言葉の方が早かった。

「おかあさんは、いつまでこうしてるの?」

放たれるのは、端的な問い。
いつまでこの人助けを続けるのか。
いつまで──現実から目を逸らし続けるのか。

「…いつまで、って、」

言葉に詰まる。
それは、少なからず彼女に自覚があるから。
本来やるべきではないことをしているという、その自覚が。
──それでも、トップスピードは答えられない。
それを告げてしまえば、もう嫌が応にも逃げられなくなるから。
だから、その言葉に続く先は提示されぬまま、静寂が路地を包んでいた。

「おかあさん」

それに対し、アサシンは尚も問いかける。
──ジャック・ザ・リッパーにとって、この人助けは、決して嫌なものではなかった。
それが彼女の過去に存在せず、それ故に「この」ジャックが生まれたという事実を併せて考えれば、それは想像に難くない。
何せ、自分達のような不幸が生まれることが減るのだから。
助けを差し伸べられ、それで救われた人間が一人でも多かったなら、きっと世界を呪う子供も減っていただろう。
そう考えると、彼女は決してこの人助け自体には決して反対ではなかったのだ。

けれど。
そこには、前提がある。
「もう少しで己らも救われる」という、そんな前提が。

聖杯を手にして、もう一度真の意味で産まれ直す。
それが成就するならば、確かにそう、これから生まれるかもしれない自分達は人助けによって生まれることはなくなる。
だが、そもそもマスターが聖杯を手にしないなら。この人助けはただの偽善に成り下がり、行為の意味は前提から瓦解する。
彼女もまた、生きているものを救う、というだけで。
歴史の廃棄物たる、産まれてすらいない自分達を助けてくれるということは、ないのか。
それは怒りではなく、恐れ。
また、自分は胎内に帰る事が出来ずに死んでいくのか。
そんな恐れを、ジャックは抱いていた。

それでも。
召喚に応じ、そしてこれまでの日々で、アサシンも己のマスターが抱えているものには気付いていた。
そして、それがあるのならば、彼女は絶対にわたしたちを助けてくれると信じていた。

けれど。
それは、間違いだったのか。
アサシンが垣間見た室田つばめは、偽りだったのか。
今はただ、それをアサシンは聞きたかった。







「おかあさんも、わたしたちをすてるの?」





「──────────」


何も、言い返せなかった。
ただ虚ろな瞳で此方を見つめる己のサーヴァントに、トップスピードはただの一言も返すことが出来なかった。

──室田つばめ、或いは魔法少女『トップスピード』。
彼女は、厳密には一度死んでいる。
相棒と共に町を壊す悪党と対峙し、そしてそれを勝利という形で終えた後、突如胸の中央で冷たい感覚がした。
何かの刃が己の胸を貫いたのだ、と気付いて、次に、ああ、助からないな、と悟った。
人間、どうしようもないと理解した瞬間には、案外死ぬまでは早いらしい。
最期の最期に思い浮かべたのは、家で帰りを待つ主人の顔だった。
そうして、そのまま、室田つばめは死ぬはずだった。
だが。
その最期の視界の中に、白いトランプがうっすらと映ったかと思うと──気付けば、自分はこの東京にいた。
自分は死んでいなければおかしい、という実感は、瞬間的に記憶を取り戻すには十分なトリガー。
それから、聖杯戦争、そしてサーヴァントの事実を知り。
知ってなお、彼女の心中を過っていたのは喜びだった。

──良かった。
──まだ、自分は死んでいない。
──なら、自分は。

『この子を、産める』

その事実は、死と同時に全てを諦めていた彼女にとっては何処までも朗報だった。
──その時は。

間違いに気付いたのは、この地でも魔法少女としての人助けをしようと自然に身体が動きかけた時。
ジャックがその時、彼女へとかけた言葉。

─────ころしにいくの?

その言葉に、まず内容が飲み込めず少し固まって。
次に、その内容を理解して笑顔で間違いを正そうとして。
そこで漸く、自分が何に巻き込まれたのか、改め理解した。

これは、戦争なのだ。
自分がいたあの魔法少女同士の椅子取りゲームと、決して同じ物ではないのだ。
向こうは、死人が出なかった場合──本来は出ないはずのものだが、いつのまにか最初からそうだったようにすら感じられた──は、マジカルキャンディーの量で脱落者が決まった。
だから、マジカルキャンディーを集める人助けは、「生き残る為に必要なこと」だった。……そうやって、自分を納得させた。
だから、徹頭徹尾彼女は人助けに専念した。
けれど、今回のこれにそんな逃げ道は存在しない。
もし自分が最後まで戦闘から逃げようとしたとしても、自分を除いた最後の二組が同士討ちするというほぼ有り得ない状況にならない限りは戦いは避けることは出来ない。
いつかどこか。どれだけ逃避を続けたとしても、戦わなければならない時は絶対にやってくる。
……少なくとも。
そんな前提条件のある、この場所での人助けは。本当に、どこまでも気休めでしかない行為だというのは、確かだった。

──それでも、道が無いわけでは無かったのかもしれない。
聖杯に頼らずにこの世界から抜け出す道を探るという手段も、もしかしたらあったかもしれない。
けれど、その選択肢は既に縛られている。
その理由は、他でもなくアサシンだった。

彼女もまた、願いの為に聖杯を求めている。
その願いとは、胎内回帰。
ついぞ産まれることが出来なかった彼女、或いは彼女たちにとって、願うことはたった一つ。
「この世に生を受ける」という、ただそれだけ。
怨霊の願いでしかない、たったそれだけの願いは。
けれど、彼女にとっては、その願いは。
──「本来産まれるべきだった命を」「己の命と諸共に永遠に失わせてしまった」彼女にとっては。
その願いは胸に突き刺さるものだった。

わかっている。
わかっているのだ。
聖杯戦争に乗りたいと思っているという、そんな自分の気持ちは。
けれど、それを妨げるのは、輝かしい「魔法少女」としての自分。
あの時、相棒と共に胸を張って空を駆けた記憶。
希望を信じた魔法少女としての自分が、どうしてもそこで二の足を踏ませる──

「─────俺は、俺は─────!!!」

けれど。
答えを返す前に、それはやってきた。

最初に訪れたのは、衝撃だった。
ごう、と響き渡った激震に、辛うじて魔法少女の身体能力で踏み止まる。
次いで第二撃。今度はより直接的な、暴力の具現が振るう一振りの槌。
飛び去る事で助かったのは、魔法少女であったからだろう──常人では、そのまま潰されていたに違いない。

『──サーヴァント』

念話を通じて、アサシンの声が伝わってくる。
敵サーヴァントが現れると同時に、アサシンたる彼女は気配遮断と霊体化を発動していた。
敵のクラスが何であれ、アサシンというクラスそのものが敵に対し真っ向から立ち向かっていくクラスではない。
そういう点では、それは非常に正しい選択だっただろう。
現れた英霊を、トップスピードは改めて確認する。
握るは鉄槌。鋼鉄の鎧に身を包み、そしてその顔には正気とは思えぬ形相が張り付いている。
その表情、まさに狂気。見るものの精神すら蝕みそうなそんな風貌をしているとすれば、それは──

「──バー、サー、カー……!!」

物陰から、その声と同時に人影が現れる。
年若い、高校生くらいの少女。整っていれば美しいだろう黒髪や、元は可憐と呼ばれるに相応しかったのであろう風貌ではあるが、しかし窶れている今となっては見る影もない。
重い魔力消費のせいなのだろう、息も絶え絶えといったような少女だが──それでも、此方を睨む眼に宿る殺意はぎらついた光を放ち続けている。

「……行きな、さい……!貴方の全力で、あのマスターを殺しなさい……!!」

絞り出すようなその叫びに、しかしバーサーカーは咆哮を以て応と答える。
狂戦士が飛び出さんとするのを見て、トップスピードも咄嗟に箒に跨がり地を蹴る。
途端に、箒が超加速せんと唸りを上げる。
如何にサーヴァントであろうと、敏捷のランクが高くない限りはラピッドスワローには追い付けまい。
──逃げられる。
なんとかそう算段を立て、いざ飛び立たんとして。

(──おかあさんも、わたしたちを──)

止まる。
疾風の如く飛び去ろうとした箒が、加速することなく唸りだけを漏らす。
先の言葉が、逃げようとした己の足を縫い止める。
刹那の迷いが、彼女の行動を遅らせて。
そして、その一瞬の迷いは、サーヴァントを相手取る上ではあまりに致命的。
風圧すら置き去りにした殺意が、すぐそこに迫るのが感じられて。
はたと振り向けば──すぐそこに、バーサーカーの鈍器が見えた。
人間の血を喰らうが如く浴びてきたのであろう鉄槌が、今まさにその犠牲者の一人として己を数えようと迫り。
そうして、思わずトップスピードは目を瞑った。



──ああ、また、死ぬのか。
自分は何も出来ず、此処で。

…そうだ。
そもそも、自分が生きられるような道理ではなかったのだ。

「──『遊びを理由にするなんて、馬鹿のする事だ』、か」

愛する男が言っていた事を、漸く理解する。
馬鹿は死ななければ治らない、なんて言うけれど──ほぼ一度死んだと言っても差し支えない己が今になって理解出来たということは、案外その諺も間違っていなかったのかもしれない。

己の生を実感する為に、遊んで生きてきた。
遊ぶということは生き甲斐だと、そう言って日々を過ごしてきた。
それ自体を間違っていたことだとは、彼女は思わない。
きっと、もっと平凡な毎日を送れるような。そんな運命であったなら、やはりずっと自分は同じことを言い続けていただろう。
子供と共に遊んで、旦那に呆れられたり、なんてそんな何気ない日常を、きっと送っていただろう。

けれど──今。
今、自分がそうやって生きて、その結果として、一つの命を殺すなら。
自分の為の遊びというそれだけの為に、生まれるべき生命を見捨てるというのなら。
結局のところ、それはあの『システム』と自分が何ら変わらない事を意味する。

──いや、そもそも。
そもそも、此処に、遊びは無い。
此処は地獄。戦争という名の地獄。
生きる為に生を踏み躙り。
願う為に願いを轢き潰し。
幸福の為に不幸を散蒔く。
故に、『魔法少女トップスピード』は此処では生きられない。
生き甲斐を失くした少女の末路は、夢など有り得ぬ汚泥の底の其処。




─────けれど。



『おかあさん』



─────ああ、けれど。



『また、わたしをころすの』



─────それでも、もう、そんなことはしたくない。



『わたしを、うんでくれないの』



─────お前を道連れにするなんて、そんなことはもうしないから。



「─────安心しろ」



『魔法少女トップスピード』ではない。
ただ一人、『これから産まれてくる命の親』として、ならば。



「─────俺は、絶対にお前を産んでやる」

彼女は、地獄を超えられる。




「─────アアアアアサシイイイイイイインンンン!!!!!!」

絶叫と同時に、彼女は天空へと翔んでいた。
バーサーカーのマスターが驚きながら何かを叫ぼうとしていたが、風に阻まれてただの一言も聞こえることはなく。
そして、トップスピードの加速が追い付く前に迫っており、依然彼女を叩き潰そうとした鈍器は、二筋の銀光に刻まれる。
最高クラスの敏捷を活かして一瞬にしてトップスピードの元へ馳せ参じたアサシンが受け流すと同時に、彼女たちは空へと舞い上がっていた。
天に飛び去った箒は、そのまま百八十度ターンする。
当然だ。逃げる為ではない。
もう、逃げるわけにはいかないのだから。

「アサシン」
「なあに、おかあさん」

けれど、その前に。
彼女はひとつ、聞いておきたいことがあった。
確かめておきたいことが、あった。

「──俺は、『少女(こども)』じゃない、立派な『親(おかあさん)』になれると思うか?」

問いかける。
己は、母に足るものか、と。
ここまで逃げてきた少女が、今更母親となっていいものか、と。

「おかあさんは、わたしたちのおかあさんだよ」

答えは、単純だった。
母となってくれるのならば、それだけでジャック・ザ・リッパーには十分であり。
ならばこそ、母親に合格も失敗もなく。ただの現実として、それは認めるに値した。

トップスピードは振り返る。
そう告げたアサシンの顔を、改めてしっかりと見る。
──其処に、何ら変化はない。
けれど。
『親』は、其処に面影を見た。
未だ見ぬ『我が子』の面影を、確かに。

「──そうか」

覚悟は決まった。
眼下を見下ろせば、既に裏路地の中に影など見えなくなっていた。
その理由は、ほんの僅かな時間で立ち込めた濃霧のせいだ。
『暗黒霧都』(ザ・ミスト)。二つあるアサシンの宝具、その片割れ。中にいるだけでも魔力の硫酸が猛毒となって牙を剥き、生半可な人間程度なら十分に殺し得る。
だが、相手もサーヴァントとそのマスター。この程度で倒れてくれるとは思わない。

「──行くぜ、アサシン」
「──うん、かいたいするよ」

だから
言葉を交わし、それと同時に再びラピッドスワローが加速する。
進む先は尚も霧が立ち込める裏路地。バーサーカーとそのマスターがいるその場所へ、二人はまっすぐに突っ込んでいく。




─────此よりは地獄─────


運が良かった、と、トップスピードは思う。
もしもこの時、不確定要素が多かったとするなら、彼女はそれを躊躇ったかもしれない。
躊躇って、その結果、自分が選択するのは遅くなり。
結局、選ぶ暇も無く脱落していたかもしれない。


─────私達は、炎、雨、力─────


けれど、今は違う。
今は「夜」で。
今はアサシンの宝具によって「霧」が出ていて。
──そして、バーサーカーのマスターは「女」だった。
ならば。
ならば、確実に殺せる。


─────殺戮を、此処に─────


──覚悟を決めろ。
──これは、お前が選んだ道だ。
──後悔する前に、と、お前がお前で選んだ修羅の道だ。
わかってる、と心の声に応える。
もう、この先後戻りは出来ない。
大人になった女が少女に逆戻りできないように、もうこの先彼女が『魔法少女』を名乗ることも。
あの時心を許し合ったあいつと肩を並べることも、最早ない。

「─────それでも、俺は─────」



──もう、夢みない。




霧の中を、箒が一瞬にして駆け抜ける。
その内の一瞬、サーヴァントが対応する前にマスターと肉薄した刹那。
それで、全ては事足りる。
アサシンの宝具、二つの宝具のうちのもう一つ。
『切り裂きジャック』は──現れる。

「─────解体聖母(マリア・ザ・リッパー)!!!」

──ナイフが振られる前から、「それ」は始まった。
黒色の怨念が、バーサーカーのマスターへと纏わりつく。
それを振り払おうとするよりも先に、その障気が彼女の臓腑を撫ぜて。
次の瞬間、彼女は『解体』された。
反応する暇なぞ一切与えず。
声を上げることすら許さずに。
ただ─────殺人鬼への恐怖だけを残して、命の灯火が掻き消される。
臓物が溢れ出し、肉が切り分けられ、骨が揃えられ、鮮血が舞い散り。
徹底的に解体された、ただの肉塊だけがそこに残る。
何故──霧が出る晩、女の前に『切り裂きジャック』が現れたから。
どうやって──そこで、漸くナイフが降り下ろされる。
因果の逆転。
ジャック・ザ・リッパーに牙を剥かれた誰もが死に絶えた逸話、その再現はこうして行われ。
完全なる解体(さつじん)が、此処に成る。

魔力源を失ったバーサーカーはしばらく暴れようとしていたが、魔力の消費が追い付かず、数分もすれば消滅した。
安全が確保された、と認識した後、トップスピードは改めて路地に降り立った。
既に霧は晴れ、そこにある惨劇の様はありありと見ることが出来た。
撒き散らされた臓物。
両側の壁にまで飛び散った血痕。
美しいほどに切り揃えられた人体。
それも、己がアサシンに命じてやらせたことだ。
それらをしっかりとその目に納め──彼女は、改めて理解する。

──ああ。
──これからは、俺が地獄を作るのか。

ホワイトチャペルを思い出す。
人の悪意ですらないものによって作られた、紛れもない地獄。
それに対して、眼前の光景はどうか。
人が一人、願いを踏みにじられて死んだ。──自分が、殺した。
少なくとも、これは悪と呼べる所業なのだろうという自覚はある。
己の為に人の命を食い物にする行為を、悪役と呼ばずに何という。
物語の中ならば、それこそ魔法少女のようなヒーローにいつか退治されて然るべき、そんな悪。
だからこそ、人間の悪性によって作られるこの地獄は、同一ではない。
けれど、それでもここは地獄に相違ない。
地獄の釜の入り口を、自分は今踏み越えたのだ。
──それでいい、と思う。
先に言った通り、この地獄にて『魔法少女(トップスピード)』は生きられない。
そして、生き延びることなく死に堕ちた少女は、それでも地獄から掬い上げたいものがある。
本来此処に来るべきではなかった一つの命を、この地獄からあるべき世界に戻す。
それが、今の彼女が見据える現実。
胸の中には、ただ─────あの時響いた声とそれに裏付けられた決意が、煌々と燃え盛っていた。



「…なあ、アサ──」

なんとなくサーヴァントを呼ぼうとして、ふと思う。
『アサシン』や『ジャック』は、決して彼女の名ではない。
彼女には、未だに──明確な、「彼女」を指す名前はない。
ならば、いっそのこと自分が彼女に命名するのもありか。
そんな思考が、ふと過る。

「いつか、さ」

けれど、結局それはしない。
それはきっと、彼女が名付けられるべき人間の元で産まれたときにされるべきことだ。
それを自分がしてしまうのは、きっと少し違う。

「俺が『お前』を生んだら、その時はちゃんと名前をつけてやるから」

それは、「母親」の顔だった。
子を見守る母親のように、優しい目付きをしていた。
まるで、本物の子を見ているかのように──或いは、彼女を通してそれ見ているかのように。

「だから、今は──アサシン。よろしく頼む」

それを聞いて、アサシンは。
一瞬驚いたような顔をした後、その顔を満面の笑みに染めた。

「うん!」

その顔は、ちょうど。
親に褒められた、得意げな子供のようで。




【クラス】
アサシン

【真名】
ジャック・ザ・リッパー@Fate/Apocrypha

【属性】
混沌・悪

【パラメーター】
筋力:C 耐久:C 敏捷:A 魔力:C 幸運:E 宝具:C

【クラススキル】
気配遮断:A+
サーヴァントとしての気配を断つ、隠密行動に適したスキル。完全に気配を断てば発見することは不可能に近い。
攻撃態勢に移ると気配遮断のランクが大きく落ちてしまうが、この欠点は“霧夜の殺人”スキルによって補われ、完璧な奇襲が可能となる。

【保有スキル】
霧夜の殺人:A
夜のみ無条件で先手を取れる。暗殺者ではなく殺人鬼という特性上、加害者の彼女は被害者の相手に対して常に先手を取れる。

精神汚染:C
精神が錯乱しているため、他の精神干渉系魔術をシャットアウトできる。ただし、同ランクの精神汚染がされていない人物とは意思疎通ができない。
このスキルを所有している人物は、目の前で残虐な行為が行われていても平然としている、もしくは猟奇殺人などの残虐行為を率先して行う。
彼女の場合、マスターが悪の属性を持っていたり、彼女に対して残虐な行為を行うと段階を追って上昇する。魔術の遮断確率は上がるが、ただでさえ破綻している彼女の精神は取り返しの付かないところまで退廃していく。

情報抹消:B
対戦が終了した瞬間に目撃者と対戦相手の記憶から、能力、真名、外見特徴などの情報が消失する。例え戦闘が白昼堂々でも効果は変わらない。これに対抗するには、現場に残った証拠から論理と分析により正体を導きださねばならない。

外科手術:E
血まみれのメスを使用して、マスター及び自己の治療が可能。見た目は保証されないが、とりあえずなんとかなる。
120年前の技術でも、魔力の上乗せで少しはマシ。

【宝具】
『暗黒霧都』(ザ・ミスト)
ランク:C 種別:結界宝具 レンジ:1~10 最大捕捉:50人
産業革命の後の1850年代、ロンドンを襲った膨大な煤煙によって引き起こされた硫酸の霧による大災害を由来とする現象の宝具化。
霧の結界を張る結界宝具。硫酸の霧を半径数メートルに拡散させる。骨董品のようなランタンから発生させるのだが、発生させたスモッグ自体も宝具である。このスモッグには指向性があり、霧の中にいる誰に効果を与え、誰に効果を与えないかは使用者が選択できる。
強酸性のスモッグであり、呼吸するだけで肺を焼き、目を開くだけで眼球を爛れさせる。一般人は時間経過でダメージを負い、数分以内に死亡する。魔術師たちも対抗手段を取らない限り、魔術を行使することも難しい。サーヴァントならばダメージを受けないが、敏捷がワンランク低下する。最大で街一つ包み込めるほどの規模となり、霧によって方向感覚が失われる上に強力な幻惑効果があるため、脱出にはBランク以上の直感、あるいは何らかの魔術行使が必要になる。

『解体聖母』(マリア・ザ・リッパー)
ランク:D~B 種別:対人宝具 レンジ:1~10 最大捕捉:1人
霧の夜に娼婦を惨殺した、正体不明の殺人鬼「ジャック・ザ・リッパー」の逸話を由来とする宝具。
通常はランクDの4本のナイフだが、条件を揃える事で当時ロンドンの貧民街に8万人いたという娼婦達が生活のために切り捨てた子供たちの怨念が上乗せされ、凶悪な効果を発揮する。
条件とは『対象が女性(雌)である』『霧が出ている』『夜である』の三つ。このうち『霧』は自身の宝具『暗黒霧都』で代用する事が可能なため、聖杯戦争における戦いでは1つ目の条件以外は容易に満たすことができる。
これを全て揃った状態で使用すると対象の霊核・心臓を始めとした、生命維持に必要な器官を蘇生すらできない程に破壊した状態で問答無用で体外に弾き出し、血液を喪失させ、結果的に解体された死体にする。“殺人”が最初に到着し、次に“死亡”が続き、最後に“理屈”が大きく遅れて訪れる。
条件が揃っていない場合は単純なダメージを与えるのみだが、条件が一つ揃うごとに威力が跳ね上がっていく。またアサシンを構成する怨霊が等しく持つ胎内回帰願望により、相手が宝具で正体を隠しても性別を看破することが可能で、より正確に使用する事ができる。
この宝具はナイフによる攻撃ではなく、一種の呪いであるため、遠距離でも使用可能。この宝具を防ぐには物理的な防御力ではなく、呪いへの耐性が必要となる。

【weapon】
ナイフ。六本のナイフを腰に装備するほか、太股のポーチに投擲用の黒い医療用ナイフ(スカルペス)などを収納している。

【サーヴァントとしての願い】
おかあさんのおなかのなかに、かえる。

【人物背景】
ジャック・ザ・リッパー。世界中にその名を知られるシリアルキラー。日本ではそのまま「切り裂きジャック」と呼称されることが多い。
五人の女性を殺害しスコットランドヤードの必死の捜査にもかかわらず捕まることもなく姿を消した。
ジャック・ザ・リッパーは金目当てでも体目当てでもなく、「ただ人間の肉体を破壊したかっただけ」としか思えない殺し方をしていた。
アサシンとして召喚された彼女は数万以上の見捨てられた子供たち・ホワイトチャペルで堕胎され生まれることすら拒まれた胎児達の怨念が集合して生まれた怨霊。
この怨霊が母を求め起こした連続殺人事件の犯人として冠された名前が“ジャック・ザ・リッパー”である。
後に犯行が魔性の者によるものと気づいた魔術師によって消滅させられたが、その後も残り続けた噂や伝承により反英雄と化した。
しかし「ジャック・ザ・リッパー」という概念はあらゆる噂と伝聞と推測がない交ぜとなった今、全てが真実で全てが嘘であるために「誰でもあって、誰でもない。誰でもなくて、誰でもある」無限に等しい可能性を組み込まれた存在となっている。
そのため、もはや「彼女たち」が「ジャック・ザ・リッパー」の伝説に取り込まれたのか、伝説を取り込んでしまったのかすら定かではなくジャック・ザ・リッパーの可能性の一つと化している。
また群体で一個体の「ジャック・ザ・リッパー」を形成しているため、一人一人には名前もなく、世界に個体としての存在が認められていない。
「暗殺者」として顕現したジャックは姿も精神も幼い子供のものとなっている。自身をそう名乗っているが、本当に「真犯人」なのかは本人自身にも分からない。





【マスター】
室田つばめ(トップスピード)@魔法少女育成計画

【マスターとしての願い】
我が子に、幸せを。

【weapon】
『ラピッドスワロー』
彼女の魔法『猛スピードで空を飛ぶ魔法の箒を使うよ』によって生み出された魔法の箒。
箒と呼ばれてこそいるが、彼女が全力を出した場合は風防やハンドル、ブースターが現れ、バイクのような形へと変化する。
その性能は非常に高く、最高速度ならばサーヴァントとて容易に追いつくことは出来ない。

【能力・技能】
『魔法少女』
『魔法の国』から与えられた力によって、魔法少女に変身する。
人間とは比べ物にならない身体能力や非常に可憐な容姿を持つ他、その魔法少女一人につき一つ固有の魔法を持つ。彼女にとってのそれは、後述する『猛スピードで空を飛ぶ魔法の箒を使うよ』である。
正確には「身体が魔法少女という生物に変化する」と言った方が正しく、妊娠している彼女も魔法少女に変身している間はどう体を動かそうと影響が無い。

『猛スピードで空を飛ぶ魔法の箒を使うよ』
彼女の固有魔法。文字通りの魔法。
Weapon欄にある箒、『ラピッドスワロー』を作り出し、それに乗って空を駆る。

【人物背景】
彼女はもう、夢と希望を守る『魔法少女』ではなく。
子供を幸せにする、たったひとりの、ありふれた『母親』に過ぎない。

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最終更新:2022年08月07日 23:47