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軍事参議官@元帥 - (2005/10/23 (日) 22:05:29) の1つ前との変更点

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<p align="left"><strong>前置き</strong></p> <p> 最近、いろいろな方から質問をされることが多いのですが、なかなか時間やスペースの都合もあって全て答えることができません。</p> <p> こんなことを言うのも、実は、私も自分で「歴史教科書」を執筆しようとしていました。</p> <p> これも何かの縁かと思いますので、この場をお借りして、こっそり「歴史」について簡単にまとめてみようかと思います。</p> <p> (いったいどの位、時間がかかるやら。長い目で見て下さいね。)</p> <br> <p><日本史と世界史という分け方></p> <p> まず、皆さんあまり知らないことですが、「日本史」と「世界史」というように、高校などの高等教育において自国の歴史と世界の歴史を分離しているのは日本だけです。</p> <p> どの先進国も、人類の誕生から始まって現在に至るまでの時間を、ひと繋がりの一貫した意味を持った存在として、自らの国家および国民の歴史を主体的に記述しています。</p> <p> つまり、その国の歴史=世界史という訳で、教科書も「歴史」一冊しかありません。</p> <br> <p> もし、日本が世界のなかで堂々と自己を主張し、真に世界史的意義のある役割を果たそうとするならば、このように自国の歴史と世界史を分離するといった、根拠のない領域区分をこそ、まず廃止するべきでしょう。</p> <p> ところが、昨今の教科書論議を見ても分かるとおり、事はそう簡単にはいきません。</p> <br> <p><戦後の教科書執筆者></p> <p> 戦後、日本の歴史記述を担ったのが、マルクス主義の唯物史観の影響を受けた「進歩的」歴史学者たちであったのは言うまでもありません。</p> <p> 彼らの基本的なスタンスをまとめると次の2点に要約されます。</p> <p> 国土および文化の徹底的破壊をもたらしたあの敗戦は、</p> <p> ① 革命を担い進歩させるべき「市民」の不在、「市民社会」の未成熟がもたらした結果である。</p> <p> ② 「アジア的な封建制度」が近代にまで残存し、「ファシズム」を許容した結果である。</p> <br> <p> このように考えると、民主主義によって勝利を収めた西洋諸国の歴史学では取り扱うことのできない、ある「歪み」をもった異質な要素を持つものとして、日本の歴史は位置づけられてしまうことになります。</p> <p> 日本が独自の歩みをしていたのは確かですが、そうすると、逆に、西洋世界の方は「標準的な」発展を遂げていたことになってしまい、両者を結びつけることが原理的に不可能になってしまうのです。</p> <p> 大学受験にまで及ぶ「日本史」選択か、それとも「世界史」選択かといった、まったくもって不可解な区分のこれが由来です。</p> <br> <p><明治人の時代意識></p> <p>また、問題はもうひとつありました。</p> <p> 日本の近代の端緒である明治を担った人々のなかにも、自分たちが「古代」国家の復興を成し遂げたのだ、という意識があったことです。</p> <p> ここでいう「古代」とは、自分たちのお手本となり、モデルとすべき時代という意味で、天皇を中心とし朝廷が政治を行っていた「奈良・平安」を指しています。</p> <p> つまり、武家が政治をおこなった「鎌倉」以降「江戸」に至るまでを、武士が権力を簒奪し、封建制度のもと野蛮な暴力によって支配が行われた暗黒の時代として、西洋の中世に比べるべきものとしてしまったのです。</p> <br> <p><時代区分のズレ></p> <p> すると、ここに日本と西洋における重大な時代区分のズレが生じます。</p> <p> それにはまず、西洋で何が「古代」や「中世」、また「近代」と考えられているかを知らないといけません。</p> <p> 西洋諸国においては「古代」が時代区分の原点になっています。</p> <p> それは、エジプトやメソポタミアで誕生した文明が、ギリシアを経てローマ帝国へと受け継がれ、地中海世界が統一された時代を指しています。</p> <p>日本の歴史教科書の最大の問題点がここです。</p> <p> つまり、「近代」という時代意識のなかには、「古代」帝国の復活の意識があり、西洋各国は、それぞれがローマ帝国およびその文明の継承者を自認している、ということなのです。</p> <p> もはやこれは、たんなる時代区分の問題ではなく、まさに「歴史」的意義の問題であり、日本側の視野の狭さが目立ちます。</p> <p>両者の時代意識を対比すると次のようになります。</p> <br> <p> <strong>西欧諸国 </strong>                                    <strong>日本</strong></p> <p><strong>古代</strong>=文明の時代</p> <p> (都市国家としてのローマの建国から西ローマ帝国の滅亡まで)</p> <p>紀元前753年~紀元後476年 [約1000年]</p> <br> <p> <strong>中世</strong>=暗黒の時代                               <strong>古代</strong>=朝廷政治の時代</p> <p> (西ローマ帝国の滅亡から東ローマ帝国の滅亡まで)           (聖徳太子の治世から鎌倉幕府建国まで)</p> <p> 紀元後476年~紀元後1453年 [約1000年]                 紀元後593年~紀元後1192年</p> <br> <p> <strong>近代</strong>=復活の時代                               <strong>中世</strong>=武家政権の時代</p> <p> (東ローマ帝国の滅亡から現在まで)                     (鎌倉時代から江戸時代まで)</p> <p> 紀元後1453年~現在      [約1000年?]                紀元後1192年~紀元後1868年</p> <br> <p>                                             <strong>近代</strong>=古代王朝復活の時代</p> <p>                                             (明治維新以後)</p> <p>                                             紀元後1868年~現在</p> <br> <p> 一見して明らかななように、日本の古代は西洋諸国から見れば後期中世に過ぎず、世界帝国の背景となるエジプト・オリエントのような遠大なバックボーンがありません。</p> <p> 西ローマ帝国はカトリックやプロテスタントを産み出し新大陸へと拡大し、東ローマ帝国はギリシア正教文化とともに旧ソヴィエト支配圏へと拡大したことが分かります。</p> <p> 西洋諸国がなぜ中東地域にこだわるのか、これを見ても一目瞭然です。</p> <p> 中東地域を支配することこそが、自己がローマの築いた世界帝国の後継者である証しなのです。</p> <p> たしかに東西ローマ帝国は滅んだのですが、その文化は形を変えて受け継がれており、その盟主が現在ではアメリカとロシアなわけです。</p> <br> <p><日本とその世界戦略></p> <p> では、日本はこうした東西の狭間にあって、世界戦略として、どのような道を歩めば良いのでしょうか?</p> <p> アメリカの属州となるべきなのでしょうか、それとも中華文化圏の一部に留まるべきなのでしょうか?</p> <p> 大国に対して、自己主張するにはこの島国は小さくまとまっていれば、独立が確保されるのでしょうか?</p> <br> <p><ケース・スタディ></p> <p> このような問いに対して、絶好の比較の機会を与えてくれる国家があります。</p> <p> 同じく中世後期から文化の展開を開始し、王制の統治のもと民主主義の文化を育み、強力な海軍力の世界帝国を築き上げた、日本と同じ島国。</p> <p>そう、イギリスです。</p> <p> イギリスの歴史の展開を見ることで、われわれは重要なヒントを得ることができます。</p> <p> ところが、このイギリスほど実は理解の困難な国はないのです。</p> <p>そこも日本と似ています。</p> <p> というのも、それが典型的な混血の文化だからなのです。</p> <p> 世界のなかの西洋、西洋のなかの西欧、そして西欧のなかのイギリスに視点をあてて、皆さんと歴史を旅してみたいと思います。</p> <br> <p><strong>第一章 イギリス世界帝国の黎明</strong></p> <p>イギリスとは何でしょうか?</p> <p> このように一件無駄な問いを提起するのにも、意味があります。</p> <p> われわれはこの小さな島国について何を知っているでしょうか?</p> <p>実は、イギリスは正式名称ではありません。</p> <p>正式名称は<em>The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland </em>「グレートブリテンおよび北アイルランド煉獄王国」といいます。</p> 普通われわれがイギリス<br> <br> <p><br> <br></p> <p>(つづく)</p> <br> <br>
<p align="left"><strong>前置き</strong></p> <p> 最近、さまざまな方から質問をされることが多くなりました。</p> <p> できるだけ詳しくお答えしたいのですが、なかなか時間やスペースの都合もあって自分の思うようにお答えすることができません。</p> <p> 実は、私も自分で「歴史教科書」を執筆しようとしていた経緯があり、少しばかり考えてきたことがあるのです。</p> <p> これも何かの縁かと思いますので、この場をお借りして、こっそり「歴史」について簡単にまとめてみようかと思います。</p> <p> (いったいどの位、時間がかかるやら。長い目で見て下さいね。)</p> <br> <p><日本史と世界史という分け方></p> <p> まず、皆さんあまり知らないことですが、「日本史」と「世界史」というように、高校などの高等教育において自国の歴史と世界の歴史を分離しているのは日本だけです。</p> <p> どの先進国も、小学校から高校に至るまで、教科書のなかでは人類の誕生から始まって現在に至るまでの時間を、ひと繋がりの一貫した意味を持った存在として、現在に至る自らの国家および国民の歴史を主体的かつ中心的に記述しています。</p> <p> つまり、その国の歴史が同時にまた世界史でもある訳で、当然ながら、教科書も「歴史」一冊しかありません。</p> <br> <p> もし、日本が世界のなかで堂々と自己を主張し、真に世界史的意義のある役割を果たそうとするならば、このように自国の歴史と世界史を分離するといった、根拠のない領域区分をこそ、まず廃止するべきでしょう。</p> <p> ところが、昨今の教科書論議を見ても分かるとおり、事はそう簡単にはいきません。</p> <br> <p><戦後の教科書執筆者></p> <p> 戦後、日本の歴史記述を担ったのが、マルクス主義的な唯物史観の影響を受けた「進歩的」歴史学者たちであったことは言うまでもありません。</p> <p> 彼らの基本的なスタンスをまとめると次の2点に要約されます。</p> <p> 国土および文化の徹底的破壊をもたらしたあの敗戦は、</p> <p> ① 革命を担い進歩させるべき「市民」の不在、「市民社会」の未成熟がもたらしたものであり、</p> <p> ② その結果、「アジア的な封建制度」が近代にまで残存し、「ファシズム」を許容してしまった。</p> <br> <p> したがって、教科書では近代市民社会を創設するための法制度や議会が、いかにして封建的な領主によって抑圧されたかに強調が置かれ、差別・抑圧された側に視点があることになります。</p> <p> このように考えると、民主主義によって勝利を収めた西洋諸国の歴史学では取り扱うことのできない、ある「歪み」をもった異質な要素を持つものとして、日本の歴史は位置づけられてしまうことになります。</p> <p> 日本が独自の歩みをしていたのは確かですが、そうすると、逆に、西洋世界の方は「標準的な」発展を遂げていたことになってしまい、両者を結びつけることが原理的に不可能になってしまうのです。</p> <p> 大学受験にまで及ぶ「日本史」選択か、それとも「世界史」選択かといった、まったくもって不可解な区分のこれが由来です。</p> <br> <p><明治人の時代意識></p> <p>また、問題はもうひとつありました。</p> <p> 日本の近代の端緒である明治を担った人々のなかにも、自分たちが「古代」国家の復興を成し遂げたのだ、という意識があったことです。</p> <p> ここでいう「古代」とは、自分たちのお手本となり、モデルとすべき時代という意味で、天皇を中心とし朝廷が政治を行っていた「奈良・平安」時代を指しています。</p> <p> つまり、武家が政治をおこなった「鎌倉」以降「江戸」時代に至るまでを、武士が権力を簒奪し、封建制度のもと野蛮な暴力によって支配が行われた暗黒の時代として、西洋の中世に比べるべきものとしてしまったのです。</p> <br> <p><時代区分のズレ></p> <p> すると、ここに日本と西洋における重大な時代区分のズレが生じます。</p> <p> その前にまず、西洋で何が「古代」や「中世」、また「近代」と考えられているかを知っておきましょう。</p> <p> 西洋諸国においては「古代」が時代区分の原点になっています。</p> <p> エジプトやメソポタミアで誕生した文明が、ギリシアを経てローマ帝国へと受け継がれ、その覇権のもと地中海世界が統一された時代、これをヨーロッパ人は自己のアイデンティティーの基盤として位置づけたのです。</p> <p>日本の歴史教科書の最大の問題点がここです。</p> <p> つまり、「近代」という時代意識のなかには、「古代」帝国の復活の意識があり、西洋各国は、それぞれがローマ帝国およびその文明の継承者を自認している、ということなのです。</p> <p> もはやこれは、たんなる時代区分の問題ではなく、まさに「歴史」的意義の問題であり、日本側の視野の狭さが目立ちます。</p> <p>両者の時代意識を対比すると次のようになります。</p> <br> <p> <strong>西欧諸国 </strong>                                    <strong>日本</strong></p> <p><strong>古代</strong>=文明の時代</p> <p> (都市国家としてのローマの建国から西ローマ帝国の滅亡まで)</p> <p>紀元前753年~紀元後476年 [約1000年]</p> <br> <p> <strong>中世</strong>=暗黒の時代                               <strong>古代</strong>=朝廷政治の時代</p> <p> (西ローマ帝国の滅亡から東ローマ帝国の滅亡まで)           (聖徳太子の治世から鎌倉幕府建国まで)</p> <p> 紀元後476年~紀元後1453年 [約1000年]                 紀元後593年~紀元後1192年</p> <br> <p> <strong>近代</strong>=復活の時代                               <strong>中世</strong>=武家政権の時代</p> <p> (東ローマ帝国の滅亡から現在まで)                     (鎌倉時代から江戸時代まで)</p> <p> 紀元後1453年~現在      [約1000年?]                紀元後1192年~紀元後1868年</p> <br> <p>                                             <strong>近代</strong>=古代王朝復活の時代</p> <p>                                             (明治維新以後)</p> <p>                                             紀元後1868年~現在</p> <br> <p> 一見して明らかななように、日本の古代は西洋諸国から見れば後期中世に過ぎず、世界帝国の背景となるエジプト・オリエントのような遠大なバックボーンがありません。</p> <p> また、時代区分も、1000年を単位として区切られており、キリスト教的な三位一体の考えのもと、ヘーゲル哲学をも含む形で正-反-合の弁証法的な展開をするように整序されています。</p> <p> 空間的な視点を取れば、西ローマ帝国はカトリックやプロテスタントを産み出し新大陸へと拡大し、東ローマ帝国はギリシア正教文化とともに旧ソヴィエト支配圏へと拡大したことが分かります。</p> <p> 西洋諸国がなぜ中東地域にこだわるのか、これを見ても一目瞭然です。</p> <p> 中東地域を支配することこそが、自己がローマの築いた世界帝国の後継者である証しなのです。</p> <p> たしかに東西ローマ帝国は滅んだのですが、その文化は形を変えて受け継がれており、その盟主が現在ではアメリカとロシアという訳です。</p> <br> <p><日本とその世界戦略></p> <p> では、このようにイデオロギー的に強固な背景をもつ西洋諸国に対して、またこうした東洋と西洋の狭間にあって、世界戦略として、日本はどのような道を取るべきなのでしょうか?</p> <p> アメリカの文化的属州となるべきなのでしょうか、それとも中華文化圏の一部に組み込まれるべきなのでしょうか?</p> <p> 大国に対して、この島国の自己主張とは、また独立とは何なのでしょうか?</p> <br> <p><ケース・スタディ></p> <p> このような問いに対して、絶好の比較の機会を与えてくれる国家があります。</p> <p> 同じく中世後期から文化の展開を開始し、王制の統治のもと民主主義の文化を育み、強力な海軍力のもと世界帝国を築き上げた、日本と同じ島国。そう、イギリスです。</p> <p> イギリスの歴史の展開を見ることで、われわれは重要なヒントを得ることができます。</p> <p> ところが、このイギリスほど実は理解の困難な国はないのです。そこも日本と似ています。</p> <p> というのも、それが典型的な混血の文化だからなのです。</p> <p> まずは、世界のなかの西洋、西洋のなかの西欧、そして西欧のなかのイギリスに視点をあてて、皆さんと歴史を眺めてみたいと思います。</p> <br> <p><strong>第一章 イギリスと世界帝国への条件</strong></p> <p>イギリスとは何でしょうか?</p> <p> このように一件無駄な問いを提起するのにも、意味があります。</p> <p> われわれはこの小さな島国について何を知っているでしょうか?</p> <p> 皆さんも御存知の通り、イギリスは正式名称ではありません。</p> <p>正式名称は<em>The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland </em>「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」といいます。</p> <p> つまり、普通われわれがイギリスと言う場合、そこには次の4つの地域が含まれます。</p> <p>①イングランド</p> <p>②ウェールズ</p> <p>③スコットランド</p> <p>④北アイルランド<br> <br></p> <p><br> <br></p> <p>(つづく)</p> <br> <br>

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