涼宮ハルヒの憂鬱 ~Forgotten time~

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席替えは月に一度といつの間にやら決まったようで、委員長朝倉涼子がハトサブレの缶に四つ折りにした紙片のクジを回して来たものを引くと俺は中庭に面した窓際後方二番目という中々のポジションを獲得した。その後ろ、ラストグリッドについたのが誰かと言うと、なんて事だろうね、涼宮ハルヒが虫歯をこらえるような顔で座っていた。
そして俺の前はというと、何と朝倉涼子をも凌ぐスーパーガールがいた。この嬉しさは後ろにいるハルヒの事を考えるのとは天と地ほどの差がある。
日乃 ゆう。
ふつうと言えば、ふつうの子と言える。だが、こいつには目を見張る物があった。
岡部担当教師が大学で解けなかったという超難問を軽く解いてしまい、その上、円周率の全ての桁を暗算で解読したという。
有り得ないのは頭脳にとどまらず、体育の授業中に男子生徒が飛ばしたサッカーボールをフライングオーバーベッドキックで跳ね返し、およそ600フィートの距離からシュートを決めたという。そしてそれを反射だと言い張った。
そして何よりも、ポニーテール!後ろから彼女の揺れるポニーテールを眺めてうとうとするのはどんな心地良いことか。
俺がそんな目の前のスーパーガールに目を細めて見入っていたが、突然ハルヒに話しかけられた。
「生徒が続けざまに失踪したりとか、密室になった教室で先生が殺されたりとかしないものかしらね」
「物騒な話だな」
「ミステリー研究会ってのがあったのよ」
「へぇ。どうだった?」
「笑わせるわ。今までに一回も事件らしい事件に出くわさなかったっていうんだもの。部員もただのミステリ小説オタクばっかで名探偵みたいな奴もいないし」
「そりゃそうだろう」
「超常現象研究会にはちょっと期待したんだけど」
「そうかい」
「ただのオカルトマニアの集まりでしかないのよ、どう思う?」
「どうも思わん」
「あー、つまんない!どうしてこの学校にはもっとマシな部活動がないの?」
「ないもんはしょうがないだろう」
「高校にはもっとラディカルなサークルがあると思ってたのに。まるで甲子園を目指す気まんまんで入学して野球部がなかったと知らされた野球バカみたいな気分だわ」
ハルヒは百度参りを決意した呪い女のようなワニ目で中空を眺め、北風のようなため息をついた。
気の毒だと思うところなのか、ここは?
だいたいにおいて、ハルヒがどんな部活動なら満足するのか、その定義が不明である。本人にも解ってないんじゃないのか?
漠然と「何か面白いことをしてて欲しい」と思っているだけで、その「面白いこと」が何なのか、殺人事件の解決なのか、宇宙人探しなのか、妖魔退散なのか、こいつの中でも定まっていない気がする。
「ないもんはしょうがないだろ」
俺は意見してやった。
「結局のところ、人間はそこにあるもので満足しなければならないのさ。言うなれば、それを出来ない人間が、発明やら発見やらをして文明を発達させてきたんだ。空を飛びたいと思ったから飛行機作ったし、楽に移動したいと考えたから車や列車を生み出したんだ。でもそれは一部の人間の才覚や発想によって初めて生じたものなんだ。天才が、それを可能にしたわけだ。凡人たる我々は、人生を凡庸に過ごすのが一番であってだな。身分不相応な冒険心なんか出さない方が―」
「うるさい」
ハルヒは俺が気分良く演説しているところを中断させて、あらぬ方向を向いた。実に機嫌が悪そうだ。まぁ、それもいつものことだ。
多分、この女は何だっていいんだろう。ツマラナイ現実から遊離した現実ならば。でもそんな現実はそうこの世にはない。つーか、ない。
物理法則万歳!おかげで俺たちは平穏無事に暮らしていられる。ハルヒには悪いがな。そう思った。
普通だろ?
「あ、もしかして、君がキョン君?」
ハルヒに向けていた顔を戻すか否かというタイミング。その声はかかった。
「お邪魔でなければ、良いかな…?」
ポニーテールの天才美少女が話しかけてきた。そうだ。もし何かを発展につなげる人物が身近にいるとすれば彼女の方だろう。ハルヒ、お前に才能がないなんて言いはしない。だが、身の丈に合わない野望は身を滅ぼすぞ。
「あぁ、構わないぞ」
「良かった。キョン君、面白い話してたね。」
ゆうは椅子ごとこちらを向いた。口元に手を置き、そう言った。
面白いとはまた。当然の原理を教えていただけなのだが。
「そうだね。だけど、時にはそれも良いんじゃない?たとえそれが、自分が身の丈に合わないと思っていても、もしかしたら合ってたりさ。君もあるんじゃないかな…?」
どうだろうかな。だが、それも一理あるかもな。


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「同好会」の新設に伴う規定。
人数六人以上。顧問の教師、名称、責任者、活動内容を決定し、生徒会クラブ運営委員会で承諾されることが必要。活動内容は創造的かつ活力ある学校生活を送るに相応しいものに限られる。発足以降の活動・実績によって「研究会」への昇格が運営委員会において動議される。なお、同好会に留まる限り予算は配分されない。


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「古泉です。転校してきたばかりで教えていただく事ばかりとは思うんですが、なにとぞ御教示お願いします」
バカ丁寧な定型句を口にする古泉の手を握り返す。
「あぁ、俺は―」
「そいつはキョン」
ハルヒが勝手に俺を紹介し、次いで「あっちの可愛いのがみくるちゃんで、そっちの眼鏡っ娘が有希」
と二人を指さして、全てを終えた顔をした。
ごん。
鈍い音がした。慌てて立ち上がろうとした朝比奈さんがパイプ椅子に足を取られて前のめりに蹴つまずき、オセロ盤に額を打ち付けた音である。
「大丈夫ですか?」
声をかけた古泉に朝比奈さんは首振り人形のような反応を見せて、その転校生まぶしげな目で見上げた。む。なんか気に入らない目つきだぞ、それは。
「はい…」
蚊が喋ってるみたいな小さな声で応えつつ朝比奈さんは古泉を恥ずかしそうに見ている。
「残るはあと一人よ!あといるといったら天才美少女ね。古泉君、偵察がてら案内したげるから、付いてきなさい!」
まるで嵐が去った後のようにそこは静まりかえった。開けっ放されたドアがその事の早さをこんこんと物語っているようだ。
天才美少女…って、まさかな。


翌日の放課後、そのまさかを目の当たり、否。当事してしまうことになろうとは、思いも寄らなかった。


「ちょっと待ちなさい」
いきなり掛けられたいつもの命令するときの口調に俺は振り向いた。今度は何だろうか、コンピ研からまた何か強奪しに行くとでも言うのだろうか。
「あんたじゃないわよ。ゆうちゃん、あんたよ」
俺には一瞥もせずにそう言ったハルヒ。正直拍子抜けではあったが、その時から嫌な予感が沼気ガスのように立ちこめ始めた。
「ボク?どうしたの」
鞄を肩に掛け、すでに帰り支度を済ませていた日乃はまるで豆鉄砲を食らったハトのようなすっとんきょんな反応を見せた。
おいハルヒ、何をする気だ。
「うるさい。ゆうちゃん、付いてきなさい!」
ハルヒは俺に一喝入れると手のひらを返したように元の口調に戻った。こいつはまた誘拐する気でいるだろう!!日乃さんだけにはそれは許さん。
「ちょっと待て、何で日乃まで勧誘するんだ、ふつうの子だろうが」
俺はハルヒとゆうの間で立ち上がり、ハルヒの方を向いた。ちょうど、遮る形になる。ハルヒの眼光をもろに受ける。
「どーっこが普通の子なのよ。ちゃんと調べておいたわよ!円周率を暗算でといて、そんでもってN○SAのスーパコンピューターで10日は掛かる計算を一瞬で解いちゃうそうじゃない」
「どこのどいつが流した匿名情報だそりゃ。後者の話は訊いたことがない」
「キョン君、いいよ」
…何と。
恐る恐る後ろを振り向くと何とそこには今日の太陽のような笑顔を灯した日乃がいた。
「おいおい、こいつの仲間に加わったりなんかしたら、この間のバニーガールみたいな妙な格好をさせられるかもしれないんだぞ、それでも良いのか?」
「あんたに訊いてない!あたしはゆうちゃんに訊いてるの。イェス・オア・ノーよ」
イェス・オア・ノーて言ったておまえの場合無理やりねじ込むだろ。
確かに、団員に日乃が加わればそれはそれで部室に行くときの楽しみが出来るわけだが。それに、バニーガールの日乃も見てみたいとも思う。
「それじゃ、喜んでイェスだね。よろしく、涼宮さん」
喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。とうとう日乃までこのSOS団に加わってしまった。
「話が分かる子で良かったわ。よろしく、ゆうちゃん」


「改めて紹介するわ。新団員の、ゆうちゃんよ」
「日乃ゆう。ゆうでいいよ。よろしくね」
「あっちにいる本を読んでる眼鏡っ娘が有希で、向こうでお茶汲んでるのがみくるちゃん。んでそこのが古泉君と、知ってるだろうけどこいつがキョン」
何度か訊いたフレーズのメンバー紹介。となるとこのSOS団もメンバーが揃うわけだ。これで、ハルヒの身の丈に合わない野望が達成されてしまった訳だ。
例によって団員達が挨拶を済ませていっている。
「そういうわけで六人揃ったことだし、これで学校としても文句ないわよねえ」
ハルヒが何か言っている。
「いえー、SOS団、いよいよベールを脱ぐときが来たわよ。みんな、一丸となってがんばっていきまっしょー!」
何がベールだ。
ふと気付くと長門はまた定位置に戻ってハードカバーの続きに挑戦している。勝手にメンバーに入れられちまってるけど、いいのか、お前。


ハルヒは設立手続きしに行くといって部室を飛び出し、ゆうは対照的に退部手続きにいくと言っていたが、妙に楽しそうだった。朝比奈さんと古泉が用事があると帰ってしまったので、部室には俺と長門有希だけが残された。


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「うわ、何ですかこれ?」
もみ合っている俺たちに声をかけたのは、入り口付近で鞄を片手に立ち尽くしている古泉一樹だった。
朝比奈さんの開いた胸元に手を突っ込もうとしているハルヒと、その手を握ってとめようとしている俺と、ぶるぶる震えているメイド服の朝比奈さんと、裸眼で平然と読書中の長門を興味深そうに眺めて、
「何の催しですか?」
「古泉くん、いいところに来たね。みんなでみくるちゃんにイタズラしましょう」
何てこと言い出すんだ。
古泉は口元だけでフッと笑った。同意するようならこいつも敵に回さなければならん。「遠慮しておきましょう。後が怖そうだ」
鞄をテーブルに置いて壁に立てかけてあったパイプ椅子を組み立てる。
「見学だけでもいいですか?」
足を組んで座りながら面白そうな顔で俺を見やがる。
「お気になさらず、どうぞ続きを」
違うって、俺は襲う方じゃなくて助けに入ってる方だっつーの。
「うわ、何ですかこれ?」
そんな所に古泉と同じセリフを口にしながらゆうが入ってきた。
「日乃、お前も何か言ってやってくれないか?」
「キョン、余計なことを言わない!みんなみくるちゃんにイタズラしたいのは同じはずよ」
いや、おれは否定しないが全員そうとは言えないだろ。
「ははは…。涼宮さん、それ以上は止めた方が良いよ…。」
気を遣ってか入り口のドアを素早く閉じたゆうは引きつった表情でそういった。


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休みの日に朝九時集合だと、ふざけんな。
とか思いながらも自転車をこぎこぎ駅前に向かっている自分が我ながら情けない。
北口駅はこの市内の中心部に位置する私鉄のターミナルジャンクションということもあって、休みになると駅前はヒマな若者たちでごった返す。そのほとんどは市内からもっとも大きな都市部に出て行くお出かけ組、駅周辺には大きなデパート以外遊ぶ所なんかない。それでもどこから湧いたのかと思うほどの人混みには、いつものこの大量の人間一人一人にそれぞれ人生ってのがあるんだよなあと考えさせられる。
シャッターの閉まった銀行の前に不法駐輪(すまん)して北側の改札出口に俺が到着したのが九時五分前。すでに全員が雁首を揃えていた。
「遅い。罰金」
顔をあわせるやハルヒは言った。
「九時には間に合ってるだろ」
「たとえ遅れなくとも一番最後に来た奴は罰金なの。それがあたしたちのルールよ」
「初耳だが」
「今決めたからね」
裾がやたら長いロゴTシャツとニー丈デニムスカートのハルヒは晴れやかな表情で、
「だから全員にお茶おごること」
カジュアルな格好で両手を腰に当てているハルヒは、教室で仏頂面しているときの百倍は取っつきやすい雰囲気だった。うやむやのうちに俺はうなずかされてしまい、とりあえず今日の行動予定を決めましょうというハルヒの言葉に従って喫茶店へと向かった。
白いノースリーブワンピースに水色のカーディガンを羽織った朝比奈さんはバレッタで後ろの髪をまとめていて、歩くたびに髪がぴょこぴょこゆれるのがとてつもなく可愛い。いいとこの小さいお嬢さんが背伸びして大人っぽい格好をしているような微笑ましさである。手に提げたポーチもオシャレっぽい。
日乃ゆうは、意外にもオシャレで、タータンチェックのネクタイをしめたカッターシャツのうえに、胸の部分の開いた黒いベストでまとめていた。七部あたりのデニムパンツに、涼しげなサンダルタイプのハイヒールは、性格の中にある大人っぽさと爽快さを表しているようにも見える。ちなみにポニーテールはそのまま、頭にはふっくらとした帽子が載っていた。
古泉はピンクのワイシャツにブラウンのジャケットスーツ、えんじ色のネクタイまでしめているというカッチリしたスタイルで俺の横に並んでいる。うっとうしいことだが様になっている。俺より背が高いし。
一同の最後尾には見慣れたセーラー服を着た長門有希が無音でついてくる。なんかもう完全にSOS団の一員になっているが、本当は文芸部員のはずじゃなかったのか。あの日、閑散としきったマンションの一室で理解不能な話を聞かされた手前、その無表情ぶりがなおのこと気にかかる。しかしなんで休みの日まで制服着てるんだ。


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結局のところ、成果もへったくれもあるはずがなく、いたずらに時間と金を無駄にしただけでこの日の野外活動は終わった。
「疲れました。涼宮さん、ものすごい早足でどんどん歩いていくんだもの。ついていくのがやっと」
別れ際になって朝比奈さんが言って息をついた。それから背伸びをして俺の耳元に唇を近づけ、「今日は話を聞いてくれてありがとう」
すぐ後ろに下がって照れて笑う。
じゃ、と会釈して朝比奈さんは立ち去った。古泉が俺の肩を叩き、
「なかなか楽しかったですよ。いや、期待にたがわず面白い人ですね、涼宮さんは。あなたと一緒に行動出来なかったのは心残りですが、またいずれ」
いやになるほどの爽やかな笑みを残して古泉は退去、長門はとうの昔に姿を消していた。
残るはハルヒとゆうになったが、ゆうは少し遠目、ハルヒの向こう側で何かを待つようにそこにいた。
手前にいたハルヒは俺を睨みつけ、
「あんた今日、いったい何をしてたの?」
「さぁ、いったい何をしてたのしてたんだろうな」
「そんな事じゃダメじゃない!」
本気で怒っているようだった。
「そう言うお前はどうなんだよ。何か面白いもんでも発見出来たのか?」
うぐ、と詰まってハルヒは下唇をかんだ。放っとくとそのまま唇を噛みやぶらんばかりである。
「ま、一日やそこらで発見出来るほど、相手も無防備じゃないだろ」
フォローを入れる俺をジロリという感じで見て、つんとハルヒは横を向いた。
「明後日、学校で反省会しなきゃね」
踵を返しそれっきりあっと言う間に人混みに紛れていく。
俺も帰らせてもらおうかと思い、歩き出すか否かのところ、
「キョンさん、ちょっといい?」
「あぁ、どうした」
「少し歩かない?時間があれば…だけど。」
手を後ろで組み、上目遣いでゆうは言った。これとなく可愛く思える。
「あぁ。全然構わないが、どうしたんだ?急に」
「ううん、ただ、キョンさんと歩きたいだけ。行こ?」
あどけなくそう言うとゆうは俺の手をとって歩き出した。その手は、ハルヒの手のように強引なものでもなく、かと言って遠慮した感じの中途半端な握り方でもなかった。
ただ、いきなりと言うこともあり、俺が動揺してしまった。


日も沈み、辺りは夜の賑わいに繁華街も騒がしくなる頃だった。通り過ぎる人もほとんどが大人になり、いつの間にか俺たちは浮き気味になっていた。
「話したい事がある…っていうことか?」
隣を歩くゆうがいやに静かなのを見かねて俺は言った。今までの経験からいって、SOSのメンバーと二人っきりになると必ずそう言われることから俺はその言葉を選んだ。
「えっ…。」
「違うなら良いが、いやに静かなもんだから、切り出せないんじゃないかってな」
まるい目をしてこちらを見たゆうにそう言う。
「…うん。でも、今はいいんだ。本当にキョンさんと一緒にいたいだけだから。あぁ、ごめんね、変なこと言って。でも、今度ちゃんとお話するから…いい?」
「それはかまわないが、今からどうするんだ」
「たまには外食とか、しない?」
先ほどの神妙な雰囲気はどこへやら。ひょっとしたら気を遣わせてしまったかもしれないな。
「そういうことなら、構わないが、行く当てでもあるのか?」


フレンチレストランだった。
全く洒落た格好をしてこなかった俺は周りの客人から少し好奇の目を向けられることになろう。
メニューを広げて見ると、どれも3000円は軽く超える値段の料理ばかりであった。こいつめここぞと金をむしる気か…?
「今日は、色々お疲れ様。お詫びじゃないけど、ボクがおごるよ。好きなの選んで?」
なんと、これらをおごるのか。それはまた随分な出費になるぞ。
「大丈夫なのか?こんな高級料理。」
「いや、むしろ、こんなものじゃ悪いかななんて思ってるんだけど…もしかして苦手?こういうの」
はっとしたようにゆうはいい、立ち上がろうとした。確かに初めてではあるが苦手というわけでもない。
「いや。むしろ良い経験だ。お言葉に甘えるとしよう」
これ以上気を遣わせるのも気が引けたので、そう言っておいた。
だが、さすがに出てきた料理の両脇に種類の違うナイフやらフォークを置かれたときには、ゆうに目配せせざるを得なかった。


右手にナイフ、左手にフォークを持ち、俺は料理と対峙した。
だがその手にはゆうの手が上から重ねられており、後ろから操作される形となっていた。いや、この場合、指導を受けている状態なのだが。
「こうやって置かれた物は全部外から順に使ってくんだ。こうやってね、フォークで押さえて、ナイフで一口大に切るんだ。そうすれば食べやすいでしょう?」
優しい声音でゆうは教えてくれていたが、俺の意識は、耳元にあるゆうの唇と背中にある柔らかい感触に向いていた。男だから仕方ないと言わせてくれ。ゆう、すまん。
「すまん。やはり俺はこういうのに疎いようだ。」
本能が全開で発動しているおかげで全く覚えられない俺は、テーブルマナーを覚えることを断念した。これからどう食すかは考えものだが。
「しょうがなぁ。」
おもむろにゆうは俺の背中から離れると、隣の席に戻り、俺の目の前に置かれたフレンチにナイフを入れ始めた。
背中に残る柔らかい感触に名残惜しさを覚えながらもゆうがフレンチコースのトップバッターにナイフを入れていく様を眺めていた。
「はい、あーん。」
「んな!?」
切り終えたかと思ったその時、ゆうはなんとそれを俺に食べさせようと差し出してきた!いや、実に嬉しい事なのだが、人目はばからずこんなことをしていいのだろうか、いやむしろ良い。
「あ…、もしかして、こういうのダメだったりしちゃう?」
「いや、とんでもない。急で驚いただけだ。」
「じゃあ、改めて、あーん。」
あーん。っと待つ、が。よくあるパターン、くれると見せかけて自分で食べてしまうパターンが多いが、引っかかってしまっただろうか。
しかしこのあと口の中に広がる香りと、確かな感触があったので、とりあえずは安心した。むしろ少しでも素直なゆうを疑ってしまった自分が情けなく思えた。
少し照れた表情で微笑んでいるゆうは今日の朝比奈さんがめではなくなるほど愛らしかった。


慣れない高級料理ではあったが、ゆうと一緒だったおかげか、さほど疲れを感じることもなく、今日一日のおごりも、どーっでも良いような気分になれた。ゆうは断言通り、総額30000円以上になった出費を現金で払ってみせた。実はお嬢様だったりするのかとも思ってみたり、わざわざこの日のために貯めていてくれたりしないかという自惚れたことも考えてみたりもしたが実際はどうか定かではない。あまりに高額だったので、俺も払おうかと言ったが、連れまわした挙げ句それは申し訳ないと言って結局おごってもらうことになってしまった。
俺は今日で、彼女の素直さと優しさを知る事が出来た。その魅力とは何か朝比奈さんとはまた違うものだったが、これでまた部室に行くときが楽しみになるというものだ。


時刻もそろそろ九時も回り、家路につこうと待ち合わせたときの銀行に自転車を取りに来たが、自転車がなかった。かわりに「不倫駐輪の自転車は撤去しました」と書かれたプレートが近くの電柱にかかっていた。



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週明け、そろそろ梅雨を感じさせる湿気を感じながら登校すると着いた頃には今までにも増して汗みずくになった。誰かこの坂道にエスカレーターを付けるという公約を掲げて選挙に出る奴はいないものか。将来選挙権を得たときにそいつに投票してやってもいい。
教室に着くと、前の席に座るゆうが園に佇む一輪の百合のように可憐な笑顔を俺に向けた。この笑顔を見られただけでも来た甲斐があったとするか。
「おはよ。蒸し暑いね」
席に着いた俺にゆうは下敷きを扇いでくれながらそう言った。何とありがたいことか。ハルヒもこのくらい気が利けば少しは言うことを聴く気にならんこともないと言うのに。
「あぁ、気を遣わなくて良いぞ」
「あぅ、そう?来たばっかだから暑いでしょう?」
「それだったら今教室に入ってきた生徒諸君も暑いと思うぞ」
「ううん、折角席近いんだから。…それに…」
ゆうは急に声のトーンを落とした。
「…君にだけにしてあげたいんだよ…」
下敷きを扇ぐ手を止め風が囁くような声でそう言った。否、そう聞こえただけかもしれないが、その切なげな表情は何とも言えず心を打ってきた。
そんな風に朝の会話をしていると、珍しく始業の鐘ギリギリにハルヒが入ってきた。
どすりと鞄を机に投げ出し、
「あたしも扇いでよ」
「あぁ…、うん。」
ゆうは弱く答えると、席から立ち上がり、下敷きを手にハルヒの席の脇へ移動した。はたはたと忙しく扇ぐそのゆうのこめかみには汗が一筋にじんでいた。お前も暑いだろうに、奇特なことだが、ハルヒ、お前はそんな気もないのか。
ハルヒは二日前に駅前で別れたときとまったく変化のない仏頂面で唇を突き出していた。最近マシな顔になったと思っていたのに、また元に戻っちまった。
「あのさ、涼宮。お前『しあわせの青い鳥』って話知ってるか?」
「それが何?」
「いや、まあ何でもないんだけどな」
「じゃあ訊いてくんな」
ハルヒは斜め上を睨み、だんまりを決め込んだようだ。いつものハルヒに戻ったと言えばそうなのだが、そうされるととてつもなくとっつきにくい。
「ゆう、そろそろ席に戻ったらどうだ。授業、始まるぞ」
「あ、うん」
俺はゆうに席に戻るように促して前を向き、岡部教師がやって来てホームルームが始まった。


この日の不機嫌オーラを八方に放射するハルヒのダウナーな気配がずっと俺の背中にプレッシャーを与えていて、いや、今日ほどチャイムが福音に聞こえた日はなかった。山火事をいち早く察知した野ネズミのように、俺は部室棟へと退避する。この時ゆうは掃除当番だったので、とりあえず先に行くとだけ挨拶しておいた。
最終更新:2011年01月04日 23:01