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:218. &aa2(#008000){名無しモドキ} 2011/05/06(金) 00:55:42|&aa2(c){138様、よっかです。その支援SSに隠れますように・・。お恥ずかしいですが・・。 &br() &br()忘れられた戦場  −カンザスの戦い− &br()1958年5月11日 イギリス・ディリーグラフィック紙日曜日版掲載記事  &br() 第二次世界大戦の知られざる戦い  −その19−  リチャード・ベックフォード氏談(現ホーカー社勤務) &br() &br() わたしは、生まれはニューヨークなんです。と言うのは、父親がイェール大学に留学していたときに、母親と知り合っ &br()て結婚して、そのまま、ニューヨークで就職したんです。ところが、わたしが、小学校を卒業する時分にはすっかり、 &br()不仲になって、父親は一人でイギリスに帰りました。 &br() &br() 親父が、言葉も含めて頑なにイギリス流で、わたしを育てましたから、アメリカに居るときは、なんかずっと外国で暮 &br()らしているような感じは持っていましたね。友達とかも、イギリスの外交官やビジネスマンの子供ばかりでしたから。 &br()母親は別に悪い人じゃありませんでした。普通のアメリカの母親です。でも、イギリス風の親父からみると、親戚一同を &br()含めて粗野な感じで、本当は父親について行きたかったですがね。 &br() 1933年に、母親が、交通事故で亡くなりました。まあ、母親には悪いですが、その保険金で念願がかなって、渡英して &br()エジンバラ大学で学べるようになったんです。父親は再婚していました。でも、よく世話になりました。何回か父親の自宅 &br()も訪問しましたよ。まあ、あの頃が、一番生き生きしてた時分でしょうね。 &br() &br() ところが、1939年になって、突然、父親がアメリカに帰国しろ言い出すんです。面食らいましたよ。家内と結婚して、 &br()フォードのロンドン支店で、補修部品の管理の仕事を得て、これからという時でしたからね。訳を父親に聞くと、実は、 &br()母親にも内緒で、父親は、私に、イギリス国籍を密かに取ってくれてたんですな。びっくりしました、自分が二重国籍者 &br()だったんですからね。今じゃ、考えられませんが、当時は、のんびりしたところがあって見逃されたいなんですな。 &br() ところが、戦争が間近いため、イギリスで徴兵されると言うのですよ。正直、それでもいいと思いました。何しろ、心 &br()の故国はイギリスでしたから。父親は、よかれと思ってしたことがと悔やんでしました。で、結局、説得されて、様子を &br()見るために、家内とアメリカに渡ったんです。これで、またまた、親父は、息子をアメリカに行かした自分の決断を悔や &br()むことになるんですから皮肉なものですな。 &br() &br() 私がアメリカに渡って、仕事を見付けたのが、カンサス州のウィチタってとこなんです。カンサスはほぼアメリカの中 &br()央部に位置する内陸州で、さらに其の真ん中にあるのが、カンザス最大の都市ウィチタなんですね。ここは内陸だけど航 &br()空機産業が立地してたんですな。 &br() そこに、不況期に日本資本が買収していったセスナ社の廃工場があったんです。セスナ社は日本の会社だと思われてま &br()すが出自はアメリカですよ。で、他社に、B-17の委託生産をさせたくないボーイング社が、その廃工場を買収して、B-17 &br()の新しい生産工場に改装することになったんですな。で、わたしは、その工場の管理部門にもぐり込んだんです。工場操 &br()業前から準備スタッフとして働いて、工場完成後は経験のある部品補給部門に配属されました。 &br() 1941年末頃には、アメリカ陸軍がB-17を増加発注をしたのを受けて生産を開始しました.。元々は、B-17の後継機になる &br()重爆撃機を生産するための施設という噂がありましたがね。どうだったんでしょうかな。 &br() それで、1942年に入ると最初の機体がこの新工場から陸軍に納入され出しましたが、新工場での初期トラブルに解決の &br()目途が着いて、順調に機体がラインを流れだしたのが、この年の夏くらいでしたかね。ところが、8月に事態は急変したん &br()です。対日戦の始まりと、例の東海岸の津波ですよ。 &br() &br() 対日戦が始まったというラジオ放送を聞いた時は、複雑でしたね。何しろ、ロンドンが空襲されているときは、イギリス &br()人でもあるわたしは、安全なアメリカでのうのうとしているのに、外国人である日本人パイロットがイギリスで戦ってくれ &br()てたんですよ。そして、自分の仕事は、その日本人を殺すための機体を作る仕事なのですからね。 &br() 周りのアメリカ人も、政府が日本を挑発して戦争を始めたがっていることは分かっていましたし、イギリスでチャーチル &br()のドイツに対する抗戦を呼びかけた演説を聴いた時のような、熱狂的な感じはなかったですね。戦争が始まった。仕事が増 &br()えるだろう、ボーナスが出るだろう。イベントが予定通りに始まったという観衆の気分ですかね。 &br()} :219. &aa2(#008000){名無しモドキ} 2011/05/06(金) 01:05:34|&aa2(c){ 当時のアメリカ人ていうのは戦争というのは負けるかもしれないという感覚がなかったですね。わたしは、正直、こい &br()つら危ないかなと思いましたよ。世の中、絶対に勝つなんて大英帝国でもありえませんものね。案の定、数時間後に暗転 &br()直下でしょう。報道も混乱するし、シアトルの本社さえ事態が把握できてなかったですよね。最初の、数日は何が起こっ &br()ているのかわかりません。地震だとか、大嵐だとか。津波ってものが内陸部ではよく理解されていなかったんです。最初 &br()はツナミという日本の軍艦の来襲かと思ってた、おばあちゃんがいましたね。 &br() &br() 生産ラインは動かしていましたよ。でも、一週間もたたないうちに、部品が無くなって開店休業です。とにかく、東部 &br()とは連絡がつきませんから、部品も注文出来ない、津波の被害のない地域からも、待てど暮らせど、部品が到着しない。 &br()工員は工場の清掃ばかりですよ。工場長は一時帰休ということにしようと本社に連絡しましたが、本社は軍の指定工場か &br()ら労働者を離すわけにはいかないの一点張りでしたね。 &br() ただ、管理部門のわたしらは、大変でした。兎も角、心当たりのある所に連絡を取って部品を見付けようと、シアトル &br()の本社にいく、デトロイトやロサンゼルス当たりに出張する。大変な苦労です。わたしは、住友ハミルトン式恒速プロペ &br()ラをライセンス生産しているピッツバーグのスタンダード社に行って供給の依頼するのに往復二週間かかりましたね。 &br() 大概の部品は見付けてきても、目玉が飛び出る値段ですよ。それでも、ボーイングは大きな会社ですから、見付け次第 &br()部品は確保しましたよ。すぐに凄まじいインフレが始まりましたから、結局、損害が少なくてすみましたね。 &br() &br() 十月になって、本社から部品が定期的に送れてくるようになりました。機体の方は生産が開始されましたが、でも、エ &br()ンジンを生産しているライトの主力工場が東部にあったんで、すぐに、エンジン未装備の機体が、数十機並びましたよ。 &br()エンジン以外にも回転銃座とか、無線機とかも、なかなか入ってこなかったですね。おかげで、駐機場は常に満杯でした。 &br()部品が到着しても、一旦、生産ラインから外した機体ですから取り付け作業は非効率にならざる得ませんでしたね。 &br() &br() 次に問題になったのが工員の給料ですね。インフレで週給から日給に変えて実勢にあった額を出せと労働組合が要求 &br()したんですな。戦時中だからストライキは規制されていましたが、本社が軍に掛け合って、配給切符を、軍属並に優先 &br()的に回してもらえることになりました。また、衣服、食糧といった軍の官給品や、暖房用の石炭を給料のかわりに受け &br()取ることで納得してもらいましたよ。まあ、後で思えば、これがあの冬に向けた最良の選択でしたね。 &br() &br() 1942年は11月の初旬から、カナダ方面より、断続的に吹き始めた寒風が吹き出してね、12月になると、凄まじいのな &br()んの。わたしは、ウィチタでの二回目の冬でしたが、同じ土地とは思えませんでしたね。 &br() シカゴに何回か行ったんですが、五大湖南岸の地域は氷雪の世界でしたね。なにしろ、五大湖の全ての湖が年内に凍 &br()結して、エリー湖とオンタリオ湖の間にある、ナイアガラの滝も1911年以来に凍り着いたんですから。 &br() この自然の猛威の中で、ゲーリー、デトロイト、クリーブランド、アクロン、バッファーローといった五大湖沿岸の &br()工業都市は文字通り凍り付きましたよ。例年以上の寒波であっても、これらの工業都市は、活動を緩めるようなことは &br()ないんですがね。生産に支障がある以上に、交通網が寸断されましたからね。部品はまた入ってこなくなって、12月か &br()らしばしば、生産ラインが止まりました。いや、動いている時間の方がどんどん短くなりましたね。 &br() &br() でも、戦局もどんどん悪化してきて、アメリカ人の工員たちの目が変わり出しましたね。不思議なんですが、愛国的 &br()になっていくんですよ。祖国の危機は自分たちが救うんだって感じですかね。ラインが止まれば、誰かが言い出して、 &br()作業訓練や工作機械の整備なんかをするんですよ。 &br() あの悪条件で、主要な生産機械が大きな故障をしなかったのは奇跡とも必然とも言えましたね。で、12月はクリスマ &br()スだけ休んで不眠不休です。部品がないならと、地元の下請けを回って他の地域から購入していたものをなんとか作っ &br()てもらいましたね。ただ、精度とか、耐久性は疑問符だらけでしたから受領した部隊は整備で苦労したでしょうね。 &br() 当時の、扇動的な新聞報道もありましたが、生活必需品の現物支給で、他の住民より恵まれている自分たちが、頑張 &br()ってないと、住民感情からも拙いかなという気持ちもあったかもしれません。 &br()} :220. &aa2(#008000){名無しモドキ} 2011/05/06(金) 01:10:19|&aa2(c){ ただ、送電線が雪にやられるために、停電やらも起こるようになって、年末頃は、一日当たり3機、条件の良い日で4 &br()機が限界でしたね。もちろん、全く仕上がる機体のない日もありました。 &br() それから、B-17のために下請けが一杯一杯で、ステアマン社とか、ムーニー社、ビーチクラフト社がウィチタで地道に &br()生産していた練習機なんかは、ほとんど生産が止まってしまいましたね。これは、当時のパイロット養成の大きな足かせ &br()になったし、現在でも影響が残るアメリカ航空界に残した大きな負の財産でしょうな。 &br() &br() 別の試練もありました。12月になると、工場の前を流れるアーカンソー川に流氷が見られるようになったんですな。工 &br()場からロールアウトした機体は、筏に乗せて、下流の飛行場に運んでいましたから大問題発生ですよ。 &br() 結局、一旦、完成した機体を、大型トレーラーで運べる程度に分解して、飛行場の脇に作った仮設工場でもう一度組み &br()立て直すことにしたんです。えらい苦労をして生産機数は確保しても、肝心の納入機数にブレーキがかけられたようなも &br()のですかね。それでも、なんとか一日一機以上の納入だけはと頑張ってましたよ。 &br() &br() 仮設工場というのは、一週間ほどで組み立てた鉄材に、キャンバスを張ったサーカス小屋みたいなもんですから、暖房 &br()もなくてすきま風が、もう外にいるのと同じくらいの勢いで吹いてくるんですな。一週間ほど、この仮設工場に、軍への &br()受け渡し担当として出向いたんですが、極地探検家みたいにまん丸に着ぶくれても身体の芯まで凍りましたよ。 &br() 零下10度になる環境で、手袋もつけずに大勢の工員が作業していました。事故は多発するし、少しでも暖かくしようと &br()思って石炭ストーブを並べたら火事は出すわで、結局、五六機ばかりの機体をおシャカにしてしまいましたかね。工員は &br()一日交替でないと持たなかったですね。まあ、細心の注意を要する最終組み立ては無理な環境でしたよ。 &br() &br() 12月の後半になると、不調機や事故での損傷機が増えて、それらの、機体から部品取りが出来るようになってきまして &br()ね。皮肉なことに、少しばかり製造が楽になりましたよ。十機ばかり作って、そのうち、四機が不調で工場に戻して、新 &br()たな二機を作るための資材になるって割合だったと思いますよ。 &br() マスコミに「カンザスの戦い」って、取り上げられたのはこの頃ですね。「ハワイ防衛戦、準備完了へ」「極寒のカン &br()ザスは主戦場だ。」とか「カンザス魂で乗り切れ、ジャップに鉄槌を」「オズから出撃、虹の彼方へ!」なんて、見出し &br()を憶えていますよ。工員達の士気はあがりましたが、あれが、何かの支え棒をはずしましたね。この頃から、軍の要求で &br()戦訓から得られた改修という注文がどんどん来るようになって生産ラインの混乱で生産遅滞を起こしていたんです。 &br() &br() そんな中で、機首下部に銃塔を増設するという設計図が来ましてね。普通なら、その部分の銃塔は、軍なり本社が手配 &br()するんですが、こっちでやってくれと言うんです。結局、銃塔待ちの機体が50機ばかり並んだところで、軍から、訓練の &br()都合もあるから、取りあえず飛べる機体をよこせということになりましてね。 &br() 「じゃ、おれたちで何とかしてやるぜ。」ってね、工員が工場の上層部を突き上げたんですよ。既存の銃塔さえ、入荷 &br()がないんですよ。それで、空気抵抗ご免なさいで、工員が薄鋼板を溶接した自家製の角形銃塔を仕上げて、機数だけ合わ &br()せて納入たんですな。 &br() 極少数の正規銃塔の機体、工場手作りの、一応前方だけ撃てる銃座の機体、銃塔の穴を塞いで、そこにスリットを開け &br()て機銃を下面だけは撃てるようにした機体と様々な機体が出来ましたよ。「やれば、出来るじゃないか。」って妙な、上 &br()気した雰囲気が工場に漂っていてね、これが引き金でしたね。 &br() &br() 本社からは、受注した生産数を落として、他社に製造をさせるなって厳命もあって、結局、手作りゴメンならと、1月 &br()には、手当たりしだい何でもいいから使えってことになったんですな。例えば、照準機は、お馴染みのスペリー式の各種 &br()形式から手当たりしだいに取り付ける。まあ、最近まで、イギリス空軍も使っていたセイコー製のノルデン・ヤスダ式 &br()ジャイロ照準機なんかとくらべるとオモチャでしたけどね。 &br() 工場仕様の、電気配線や送油管、アスベストの不燃性マットを張ったブリキ板燃料タンクなんて、当たり前で、入荷が &br()ないと銃塔は自分で作る、操縦索の取り付け方も、その材料も、その日、その場にある部品で何とかしてましたよ。工員 &br()は指示されたことをする労働者から、自分で考える職人になっていましたね。ただし、一機一形式状態ですよね。整備す &br()る人間には、悪夢以外の何者でもないでしょうけど。 &br()} :221. &aa2(#008000){名無しモドキ} 2011/05/06(金) 01:14:25|&aa2(c){ 軍の担当も、目をつぶって司令部からのノルマをこなすために、大概の機体は受領していきました。アメリカ軍は後戻 &br()りできないところまで来ていると確信しましたよ。 &br() B-17は基礎設計がいいのか、少々、製造仕様が違っても、遜色なく飛びましたね。飛べばいいんで、十機作れば、八機は &br()そのまま、陸軍の飛行場へ追いやるように運びました。生産機数は、どんどん改善されて、更に、みんなハイな気分になっ &br()ていましたね。それで、「カンザスの宴」なんていう言葉もありましたよ。 &br() 飛行場への輸送もこのころ、解決しました。何のことはありません。除雪車を総動員してともかく雪を排除する、そして &br()道路を通行止めにしてから、機体をトレイラーで引っ張って行くんです。頑丈な機体ですから、二三マイルくらいなら平気 &br()なんですな。 &br() 壮観な眺めでしたよ。500ヤード間隔で、しずしずと巨体が、何マイルも道路をパレードしていくんですからね。 &br()特に、夕日の黄金色と雪景色の白を背景に、シルエットで浮かび上がる機体は綺麗でしたよ。この風景を撮った有名な写真 &br()がありましてね。ほら、壁に掛かってる写真です。「カンザスの黄昏」っていう写真ですよ。(注:写真は記事内に掲載) &br() &br() 工場が浮かれた様になっている時に、感じたんですよ。「西へ動いてる。アメリカのエネルギー、精気が西へと」ってね。 &br()わたしだって管理部門の端くれですから、物資や、主要な工場がどんどん西へ移ってるってるのが、発送伝票からわかるん &br()ですよ。わたしが、その意味に感づいた時に来ましたね。あれが・・。 &br()「ウィチタ工場は閉鎖、生産用機器はシアトル本社工場へ移動」−突然の本社命令です。この知らせが、工員に伝えられた &br()のは、2月1日で、最初はみんな半信半疑でしたね。その日の、午後に本社工場から、大型トラックが到着して、ラインの &br()取っかかりにある生産機材から、運び出しを始めたんです。 &br() &br() ちょっと、トラブルじみたこともありましたが、工場長から「本社工場への転勤を希望する者は、現在と同待遇で雇用する。 &br()退職希望者は、家族分を含めて2ヶ月分の食糧と衣料およびガソリン切符を支給する。」と発表されると、いきり立っていた &br()工員達も腰砕けになってね。色々な事情から、ウィチタを離れがたいグループと、生活のために西海岸に行こうとするグルー &br()プに分かれて、気まずい雰囲気になりました。解体運搬作業がどんどん進んで、機械が無くなると、残留組から解雇されまし &br()たね。 &br() それを見て、残留組から、転勤に翻意する工員も出てきて、比較的順調に、最後の、B-17が組み上がりましたよ。正規仕様 &br()の見事な仕上がりの機体でした。何かセレモニーでもするかと思いました。でも、ごく当たり前に、最後のB-17は、すっかり &br()機材がなくなって伽藍堂のようになった工場の出口からラインを離れて、久々の陽光が照る中に進んでいきました。B-17が光 &br()の中に溶けていくようで、何が荘厳な感じがしましたね。 &br() &br() 誰かが、機首に「ウィチタ号カンザスの風」って書き込んでましてね。それを見て、みんなが涙を流していました。 &br() 今でも、これだけは言えます。あの当時のウィチタの工員達は、不撓不屈の世界有数の工員だったことは確かです。 &br() &br() わたしは、妻に心内を打ち明けると、自動車でシアトルに向かいました。治安が悪化している情報がありましたから、 &br()本社工場への機械輸送コンボについて行きましたよ。アメリカという国を見ておきたかったんですな。どこも雪と氷に &br()覆われていましたが、広大な平原、営々と開拓された耕地、高峻な峰の続くロッキー。美しい国でしたね。 &br() &br() わたしは、シアトルに着くと、その足で本社に出かけて、辞職願いを出しました。そして、カナダとの国境に向かい &br()ました。 &br() 国境の、アメリカ側では、わたしはアメリカのパスポートを出しました。最後にアメリカ人として出国するのが、私 &br()を育ててくれた国に対する礼儀だと思いましたからね。すると、審査官が、私たちに、冷たく言うんですな。奥さんは、 &br()イギリスのパスポートだから問題ないが、カナダは、アメリカ人の場合は入国ビザを要求しているから、アメリカから &br()逃げ出そうとする、ご主人はダメだよてっね。 &br() わたしは、聞き流して、カナダの審査官から入国許可を貰いましたよ。もちろん、親父が用意していてくれたイギリ &br()スのパスポートでね。その時の、アメリカ人の審査官の顔は忘れられませんよ。 &br() &br() で、バンクーバーのアメリカ領事館で、アメリカ国籍離脱の手続きしました。まったく、危機一髪でしたよ。各州の &br()州境はわたしが通過した直後に次々閉鎖や通過制限されるし、国境も数日後には事実上閉鎖されましたからね。 &br() −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−お わ り−−−−−−−−−−−−−−−− &br()}
:218. &aa2(#008000){名無しモドキ} 2011/05/06(金) 00:55:42|&aa2(c){138様、よっかです。その支援SSに隠れますように・・。お恥ずかしいですが・・。 &br() &br()忘れられた戦場  −カンザスの戦い− &br()1958年5月11日 イギリス・ディリーグラフィック紙日曜日版掲載記事  &br() 第二次世界大戦の知られざる戦い  −その19−  リチャード・ベックフォード氏談(現ホーカー社勤務) &br() &br() わたしは、生まれはニューヨークなんです。と言うのは、父親がイェール大学に留学していたときに、母親と知り合っ &br()て結婚して、そのまま、ニューヨークで就職したんです。ところが、わたしが、小学校を卒業する時分にはすっかり、 &br()不仲になって、父親は一人でイギリスに帰りました。 &br() &br() 親父が、言葉も含めて頑なにイギリス流で、わたしを育てましたから、アメリカに居るときは、なんかずっと外国で暮 &br()らしているような感じは持っていましたね。友達とかも、イギリスの外交官やビジネスマンの子供ばかりでしたから。 &br()母親は別に悪い人じゃありませんでした。普通のアメリカの母親です。でも、イギリス風の親父からみると、親戚一同を &br()含めて粗野な感じで、本当は父親について行きたかったですがね。 &br() 1933年に、母親が、交通事故で亡くなりました。まあ、母親には悪いですが、その保険金で念願がかなって、渡英して &br()エジンバラ大学で学べるようになったんです。父親は再婚していました。でも、よく世話になりました。何回か父親の自宅 &br()も訪問しましたよ。まあ、あの頃が、一番生き生きしてた時分でしょうね。 &br() &br() ところが、1939年になって、突然、父親がアメリカに帰国しろ言い出すんです。面食らいましたよ。家内と結婚して、 &br()フォードのロンドン支店で、補修部品の管理の仕事を得て、これからという時でしたからね。訳を父親に聞くと、実は、 &br()母親にも内緒で、父親は、私に、イギリス国籍を密かに取ってくれてたんですな。びっくりしました、自分が二重国籍者 &br()だったんですからね。今じゃ、考えられませんが、当時は、のんびりしたところがあって見逃されたいなんですな。 &br() ところが、戦争が間近いため、イギリスで徴兵されると言うのですよ。正直、それでもいいと思いました。何しろ、心 &br()の故国はイギリスでしたから。父親は、よかれと思ってしたことがと悔やんでしました。で、結局、説得されて、様子を &br()見るために、家内とアメリカに渡ったんです。これで、またまた、親父は、息子をアメリカに行かした自分の決断を悔や &br()むことになるんですから皮肉なものですな。 &br() &br() 私がアメリカに渡って、仕事を見付けたのが、カンサス州のウィチタってとこなんです。カンサスはほぼアメリカの中 &br()央部に位置する内陸州で、さらに其の真ん中にあるのが、カンザス最大の都市ウィチタなんですね。ここは内陸だけど航 &br()空機産業が立地してたんですな。 &br() そこに、不況期に日本資本が買収していったセスナ社の廃工場があったんです。セスナ社は日本の会社だと思われてま &br()すが出自はアメリカですよ。で、他社に、B-17の委託生産をさせたくないボーイング社が、その廃工場を買収して、B-17 &br()の新しい生産工場に改装することになったんですな。で、わたしは、その工場の管理部門にもぐり込んだんです。工場操 &br()業前から準備スタッフとして働いて、工場完成後は経験のある部品補給部門に配属されました。 &br() 1941年末頃には、アメリカ陸軍がB-17を増加発注をしたのを受けて生産を開始しました.。元々は、B-17の後継機になる &br()重爆撃機を生産するための施設という噂がありましたがね。どうだったんでしょうかな。 &br() それで、1942年に入ると最初の機体がこの新工場から陸軍に納入され出しましたが、新工場での初期トラブルに解決の &br()目途が着いて、順調に機体がラインを流れだしたのが、この年の夏くらいでしたかね。ところが、8月に事態は急変したん &br()です。対日戦の始まりと、例の東海岸の津波ですよ。 &br() &br() 対日戦が始まったというラジオ放送を聞いた時は、複雑でしたね。何しろ、ロンドンが空襲されているときは、イギリス &br()人でもあるわたしは、安全なアメリカでのうのうとしているのに、外国人である日本人パイロットがイギリスで戦ってくれ &br()てたんですよ。そして、自分の仕事は、その日本人を殺すための機体を作る仕事なのですからね。 &br() 周りのアメリカ人も、政府が日本を挑発して戦争を始めたがっていることは分かっていましたし、イギリスでチャーチル &br()のドイツに対する抗戦を呼びかけた演説を聴いた時のような、熱狂的な感じはなかったですね。戦争が始まった。仕事が増 &br()えるだろう、ボーナスが出るだろう。イベントが予定通りに始まったという観衆の気分ですかね。 &br()} :219. &aa2(#008000){名無しモドキ} 2011/05/06(金) 01:05:34|&aa2(c){ 当時のアメリカ人ていうのは戦争というのは負けるかもしれないという感覚がなかったですね。わたしは、正直、こい &br()つら危ないかなと思いましたよ。世の中、絶対に勝つなんて大英帝国でもありえませんものね。案の定、数時間後に暗転 &br()直下でしょう。報道も混乱するし、シアトルの本社さえ事態が把握できてなかったですよね。最初の、数日は何が起こっ &br()ているのかわかりません。地震だとか、大嵐だとか。津波ってものが内陸部ではよく理解されていなかったんです。最初 &br()はツナミという日本の軍艦の来襲かと思ってた、おばあちゃんがいましたね。 &br() &br() 生産ラインは動かしていましたよ。でも、一週間もたたないうちに、部品が無くなって開店休業です。とにかく、東部 &br()とは連絡がつきませんから、部品も注文出来ない、津波の被害のない地域からも、待てど暮らせど、部品が到着しない。 &br()工員は工場の清掃ばかりですよ。工場長は一時帰休ということにしようと本社に連絡しましたが、本社は軍の指定工場か &br()ら労働者を離すわけにはいかないの一点張りでしたね。 &br() ただ、管理部門のわたしらは、大変でした。兎も角、心当たりのある所に連絡を取って部品を見付けようと、シアトル &br()の本社にいく、デトロイトやロサンゼルス当たりに出張する。大変な苦労です。わたしは、住友ハミルトン式恒速プロペ &br()ラをライセンス生産しているピッツバーグのスタンダード社に行って供給の依頼するのに往復二週間かかりましたね。 &br() 大概の部品は見付けてきても、目玉が飛び出る値段ですよ。それでも、ボーイングは大きな会社ですから、見付け次第 &br()部品は確保しましたよ。すぐに凄まじいインフレが始まりましたから、結局、損害が少なくてすみましたね。 &br() &br() 十月になって、本社から部品が定期的に送れてくるようになりました。機体の方は生産が開始されましたが、でも、エ &br()ンジンを生産しているライトの主力工場が東部にあったんで、すぐに、エンジン未装備の機体が、数十機並びましたよ。 &br()エンジン以外にも回転銃座とか、無線機とかも、なかなか入ってこなかったですね。おかげで、駐機場は常に満杯でした。 &br()部品が到着しても、一旦、生産ラインから外した機体ですから取り付け作業は非効率にならざる得ませんでしたね。 &br() &br() 次に問題になったのが工員の給料ですね。インフレで週給から日給に変えて実勢にあった額を出せと労働組合が要求 &br()したんですな。戦時中だからストライキは規制されていましたが、本社が軍に掛け合って、配給切符を、軍属並に優先 &br()的に回してもらえることになりました。また、衣服、食糧といった軍の官給品や、暖房用の石炭を給料のかわりに受け &br()取ることで納得してもらいましたよ。まあ、後で思えば、これがあの冬に向けた最良の選択でしたね。 &br() &br() 1942年は11月の初旬から、カナダ方面より、断続的に吹き始めた寒風が吹き出してね、12月になると、凄まじいのな &br()んの。わたしは、ウィチタでの二回目の冬でしたが、同じ土地とは思えませんでしたね。 &br() シカゴに何回か行ったんですが、五大湖南岸の地域は氷雪の世界でしたね。なにしろ、五大湖の全ての湖が年内に凍 &br()結して、エリー湖とオンタリオ湖の間にある、ナイアガラの滝も1911年以来に凍り着いたんですから。 &br() この自然の猛威の中で、ゲーリー、デトロイト、クリーブランド、アクロン、バッファーローといった五大湖沿岸の &br()工業都市は文字通り凍り付きましたよ。例年以上の寒波であっても、これらの工業都市は、活動を緩めるようなことは &br()ないんですがね。生産に支障がある以上に、交通網が寸断されましたからね。部品はまた入ってこなくなって、12月か &br()らしばしば、生産ラインが止まりました。いや、動いている時間の方がどんどん短くなりましたね。 &br() &br() でも、戦局もどんどん悪化してきて、アメリカ人の工員たちの目が変わり出しましたね。不思議なんですが、愛国的 &br()になっていくんですよ。祖国の危機は自分たちが救うんだって感じですかね。ラインが止まれば、誰かが言い出して、 &br()作業訓練や工作機械の整備なんかをするんですよ。 &br() あの悪条件で、主要な生産機械が大きな故障をしなかったのは奇跡とも必然とも言えましたね。で、12月はクリスマ &br()スだけ休んで不眠不休です。部品がないならと、地元の下請けを回って他の地域から購入していたものをなんとか作っ &br()てもらいましたね。ただ、精度とか、耐久性は疑問符だらけでしたから受領した部隊は整備で苦労したでしょうね。 &br() 当時の、扇動的な新聞報道もありましたが、生活必需品の現物支給で、他の住民より恵まれている自分たちが、頑張 &br()ってないと、住民感情からも拙いかなという気持ちもあったかもしれません。 &br()} :220. &aa2(#008000){名無しモドキ} 2011/05/06(金) 01:10:19|&aa2(c){ ただ、送電線が雪にやられるために、停電やらも起こるようになって、年末頃は、一日当たり3機、条件の良い日で4 &br()機が限界でしたね。もちろん、全く仕上がる機体のない日もありました。 &br() それから、B-17のために下請けが一杯一杯で、ステアマン社とか、ムーニー社、ビーチクラフト社がウィチタで地道に &br()生産していた練習機なんかは、ほとんど生産が止まってしまいましたね。これは、当時のパイロット養成の大きな足かせ &br()になったし、現在でも影響が残るアメリカ航空界に残した大きな負の財産でしょうな。 &br() &br() 別の試練もありました。12月になると、工場の前を流れるアーカンソー川に流氷が見られるようになったんですな。工 &br()場からロールアウトした機体は、筏に乗せて、下流の飛行場に運んでいましたから大問題発生ですよ。 &br() 結局、一旦、完成した機体を、大型トレーラーで運べる程度に分解して、飛行場の脇に作った仮設工場でもう一度組み &br()立て直すことにしたんです。えらい苦労をして生産機数は確保しても、肝心の納入機数にブレーキがかけられたようなも &br()のですかね。それでも、なんとか一日一機以上の納入だけはと頑張ってましたよ。 &br() &br() 仮設工場というのは、一週間ほどで組み立てた鉄材に、キャンバスを張ったサーカス小屋みたいなもんですから、暖房 &br()もなくてすきま風が、もう外にいるのと同じくらいの勢いで吹いてくるんですな。一週間ほど、この仮設工場に、軍への &br()受け渡し担当として出向いたんですが、極地探検家みたいにまん丸に着ぶくれても身体の芯まで凍りましたよ。 &br() 零下10度になる環境で、手袋もつけずに大勢の工員が作業していました。事故は多発するし、少しでも暖かくしようと &br()思って石炭ストーブを並べたら火事は出すわで、結局、五六機ばかりの機体をおシャカにしてしまいましたかね。工員は &br()一日交替でないと持たなかったですね。まあ、細心の注意を要する最終組み立ては無理な環境でしたよ。 &br() &br() 12月の後半になると、不調機や事故での損傷機が増えて、それらの、機体から部品取りが出来るようになってきまして &br()ね。皮肉なことに、少しばかり製造が楽になりましたよ。十機ばかり作って、そのうち、四機が不調で工場に戻して、新 &br()たな二機を作るための資材になるって割合だったと思いますよ。 &br() マスコミに「カンザスの戦い」って、取り上げられたのはこの頃ですね。「ハワイ防衛戦、準備完了へ」「極寒のカン &br()ザスは主戦場だ。」とか「カンザス魂で乗り切れ、ジャップに鉄槌を」「オズから出撃、虹の彼方へ!」なんて、見出し &br()を憶えていますよ。工員達の士気はあがりましたが、あれが、何かの支え棒をはずしましたね。この頃から、軍の要求で &br()戦訓から得られた改修という注文がどんどん来るようになって生産ラインの混乱で生産遅滞を起こしていたんです。 &br() &br() そんな中で、機首下部に銃塔を増設するという設計図が来ましてね。普通なら、その部分の銃塔は、軍なり本社が手配 &br()するんですが、こっちでやってくれと言うんです。結局、銃塔待ちの機体が50機ばかり並んだところで、軍から、訓練の &br()都合もあるから、取りあえず飛べる機体をよこせということになりましてね。 &br() 「じゃ、おれたちで何とかしてやるぜ。」ってね、工員が工場の上層部を突き上げたんですよ。既存の銃塔さえ、入荷 &br()がないんですよ。それで、空気抵抗ご免なさいで、工員が薄鋼板を溶接した自家製の角形銃塔を仕上げて、機数だけ合わ &br()せて納入たんですな。 &br() 極少数の正規銃塔の機体、工場手作りの、一応前方だけ撃てる銃座の機体、銃塔の穴を塞いで、そこにスリットを開け &br()て機銃を下面だけは撃てるようにした機体と様々な機体が出来ましたよ。「やれば、出来るじゃないか。」って妙な、上 &br()気した雰囲気が工場に漂っていてね、これが引き金でしたね。 &br() &br() 本社からは、受注した生産数を落として、他社に製造をさせるなって厳命もあって、結局、手作りゴメンならと、1月 &br()には、手当たりしだい何でもいいから使えってことになったんですな。例えば、照準機は、お馴染みのスペリー式の各種 &br()形式から手当たりしだいに取り付ける。まあ、最近まで、イギリス空軍も使っていたセイコー製のノルデン・ヤスダ式 &br()ジャイロ照準機なんかとくらべるとオモチャでしたけどね。 &br() 工場仕様の、電気配線や送油管、アスベストの不燃性マットを張ったブリキ板燃料タンクなんて、当たり前で、入荷が &br()ないと銃塔は自分で作る、操縦索の取り付け方も、その材料も、その日、その場にある部品で何とかしてましたよ。工員 &br()は指示されたことをする労働者から、自分で考える職人になっていましたね。ただし、一機一形式状態ですよね。整備す &br()る人間には、悪夢以外の何者でもないでしょうけど。 &br()} :221. &aa2(#008000){名無しモドキ} 2011/05/06(金) 01:14:25|&aa2(c){ 軍の担当も、目をつぶって司令部からのノルマをこなすために、大概の機体は受領していきました。アメリカ軍は後戻 &br()りできないところまで来ていると確信しましたよ。 &br() B-17は基礎設計がいいのか、少々、製造仕様が違っても、遜色なく飛びましたね。飛べばいいんで、十機作れば、八機は &br()そのまま、陸軍の飛行場へ追いやるように運びました。生産機数は、どんどん改善されて、更に、みんなハイな気分になっ &br()ていましたね。それで、「カンザスの宴」なんていう言葉もありましたよ。 &br() 飛行場への輸送もこのころ、解決しました。何のことはありません。除雪車を総動員してともかく雪を排除する、そして &br()道路を通行止めにしてから、機体をトレイラーで引っ張って行くんです。頑丈な機体ですから、二三マイルくらいなら平気 &br()なんですな。 &br() 壮観な眺めでしたよ。500ヤード間隔で、しずしずと巨体が、何マイルも道路をパレードしていくんですからね。 &br()特に、夕日の黄金色と雪景色の白を背景に、シルエットで浮かび上がる機体は綺麗でしたよ。この風景を撮った有名な写真 &br()がありましてね。ほら、壁に掛かってる写真です。「カンザスの黄昏」っていう写真ですよ。(注:写真は記事内に掲載) &br() &br() 工場が浮かれた様になっている時に、感じたんですよ。「西へ動いてる。アメリカのエネルギー、精気が西へと」ってね。 &br()わたしだって管理部門の端くれですから、物資や、主要な工場がどんどん西へ移ってるってるのが、発送伝票からわかるん &br()ですよ。わたしが、その意味に感づいた時に来ましたね。あれが・・。 &br()「ウィチタ工場は閉鎖、生産用機器はシアトル本社工場へ移動」−突然の本社命令です。この知らせが、工員に伝えられた &br()のは、2月1日で、最初はみんな半信半疑でしたね。その日の、午後に本社工場から、大型トラックが到着して、ラインの &br()取っかかりにある生産機材から、運び出しを始めたんです。 &br() &br() ちょっと、トラブルじみたこともありましたが、工場長から「本社工場への転勤を希望する者は、現在と同待遇で雇用する。 &br()退職希望者は、家族分を含めて2ヶ月分の食糧と衣料およびガソリン切符を支給する。」と発表されると、いきり立っていた &br()工員達も腰砕けになってね。色々な事情から、ウィチタを離れがたいグループと、生活のために西海岸に行こうとするグルー &br()プに分かれて、気まずい雰囲気になりました。解体運搬作業がどんどん進んで、機械が無くなると、残留組から解雇されまし &br()たね。 &br() それを見て、残留組から、転勤に翻意する工員も出てきて、比較的順調に、最後の、B-17が組み上がりましたよ。正規仕様 &br()の見事な仕上がりの機体でした。何かセレモニーでもするかと思いました。でも、ごく当たり前に、最後のB-17は、すっかり &br()機材がなくなって伽藍堂のようになった工場の出口からラインを離れて、久々の陽光が照る中に進んでいきました。B-17が光 &br()の中に溶けていくようで、何が荘厳な感じがしましたね。 &br() &br() 誰かが、機首に「ウィチタ号カンザスの風」って書き込んでましてね。それを見て、みんなが涙を流していました。 &br() 今でも、これだけは言えます。あの当時のウィチタの工員達は、不撓不屈の世界有数の工員だったことは確かです。 &br() &br() わたしは、妻に心内を打ち明けると、自動車でシアトルに向かいました。治安が悪化している情報がありましたから、 &br()本社工場への機械輸送コンボについて行きましたよ。アメリカという国を見ておきたかったんですな。どこも雪と氷に &br()覆われていましたが、広大な平原、営々と開拓された耕地、高峻な峰の続くロッキー。美しい国でしたね。 &br() &br() わたしは、シアトルに着くと、その足で本社に出かけて、辞職願いを出しました。そして、カナダとの国境に向かい &br()ました。 &br() 国境の、アメリカ側では、わたしはアメリカのパスポートを出しました。最後にアメリカ人として出国するのが、私 &br()を育ててくれた国に対する礼儀だと思いましたからね。すると、審査官が、私たちに、冷たく言うんですな。奥さんは、 &br()イギリスのパスポートだから問題ないが、カナダは、アメリカ人の場合は入国ビザを要求しているから、アメリカから &br()逃げ出そうとする、ご主人はダメだよてっね。 &br() わたしは、聞き流して、カナダの審査官から入国許可を貰いましたよ。もちろん、親父が用意していてくれたイギリ &br()スのパスポートでね。その時の、アメリカ人の審査官の顔は忘れられませんよ。 &br() &br() で、バンクーバーのアメリカ領事館で、アメリカ国籍離脱の手続きしました。まったく、危機一髪でしたよ。各州の &br()州境はわたしが通過した直後に次々閉鎖や通過制限されるし、国境も数日後には事実上閉鎖されましたからね。 &br() −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−お わ り−−−−−−−−−−−−−−−− &br()}

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