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ネタ[架空戦記版]15_ひゅうがさま_戦後夢幻会ネタ——閑話「その時歴史が動いた~日本放送機構のある番組から~」」(2014/11/07 (金) 12:55:59) の最新版変更点

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238 :ひゅうが:2014/10/31(金) 04:24:45 ※ この掌編はフィクションです。実在の人物・団体などとは一切関係ありません!   戦後夢幻会ネタ―――閑話「その時歴史が動いた~日本放送機構のある番組から~」 昭和20年4月14日午前9時、宮中を二人の男が歩いていました。 一人は、宮内省侍従 徳川義寛。のちの、宮内庁侍従長となる人物です。 そしてもう一人は、帝国海軍大佐 阿部俊雄。のちの、国防軍統合幕僚長です。 彼らは、明治宮殿(旧殿)の松の廊下を曲がると、彼らの上司が待つある場所へとたどりつきます。 そこには、二人の人物が彼らを待ち構えていました。 鈴木貫太郎内閣総理大臣。 そして――昭和天皇。 彼らは深々と一礼すると、持参した資料と用意された地図をもとに、現状について話し始めました。 ちょうどその時――広島県呉市江田島。 緊急に集合をかけられた呉市民は、集められた先の海岸線である光景を見て仰天しました。 普段は厳重に立ち入りが制限されていた軍港地帯のその先には、慣れ親しんだ「海軍さん」が集結しその中心には彼らがまったく見たこともない巨大な軍艦が浮かんでいたのです。 戦艦「大和」。 全長263メートル、満載排水量7万2000トン。 人類史上最大の水上戦闘艦です。 主砲の46センチ砲は1.3トンに達する巨大な砲弾を放ち、そしてその身にはこの巨砲に耐えられるだけの装甲をまとっています。 戦闘力はそれまでの戦艦5隻分に匹敵したともいわれ、実際に南太平洋で数々の武勲をあげていました。 その周囲には、国民が慣れ親しんだ「長門」「陸奥」。 航空母艦「瑞鶴」、そして大小の巡洋艦、無数の駆逐艦がこれを取り巻いていました。 と、ボー!という汽笛が鳴り響きました。 艦内からはまばゆい白い軍服に身を包んだ水兵や士官たちが甲板に上がり、そして、市民に向けて敬礼を送ります。 人々は、悟りました。 連合艦隊は、永遠の別れを告げているのだと。 戦艦大和が宜野湾沖へ突入するまで、あと33時間のことでした。 「皆様今晩は。松平でございます。本日の『その時歴史が動いた』は、日本史の大きな転換点となったあの大戦を振り返り、『提督たちの決断――太平洋戦争』を前後編としてお送りいたします。 ゲストとして、元総理であり沖縄沖海戦の参加者である、中曽根元総理においでいただきました。 よろしくお願いします。」 「お願いします。私はあとでわかるように実際の戦闘には参加できなかったのですが、あの作戦の一端を垣間見た一人として本日はお邪魔させてもらいました。」 「中曽根さんは、今回取り上げる人々についての手記をまとめて本も書いていらっしゃいますね。」 「はい。戦後もあの人とは長い付き合いになりましたから記憶をまとめていましたら、史家の人たちがそれを裏付ける資料を見つけてくれまして。 おかげで記憶だけで恥をかかずにすみましたし、予想以上に多くの人に読んでいただけることになりました。」 「さて、本日の主役は、一人の人物。 戦後国防軍の長老として長く冷戦期の軍事政策を支えた阿部俊雄。 近年発見された資料によって、これまで彼が果たしてきたといわれるよりも、はるかに大きな影響が日本の中枢において与えられていたことが明らかになりました。 この前編においては、彼と周囲の人々がどのようにかかわり、そしてどのような結末を迎えたのかを見ていきましょう。」 239 :ひゅうが:2014/10/31(金) 04:25:18 明治29年、阿部は愛媛県に生まれました。 兄は、のちの海軍中将阿部弘毅。太平洋戦争でも数々の武勲を上げた提督です。 幼いころから瀬戸内の海で遊んだ彼は、当然のように兄の後を追い海軍に入隊。 もっぱら魚雷を抱いた駆逐艦を率いて敵艦隊へと強襲をかける水雷戦隊畑を歩みました。 大正6年、海軍少尉に任官したばかりの彼に転機が訪れます。 第一次世界大戦。 中でも彼を驚愕させたのは、欧州において進む無制限潜水艦作戦でした。 ドイツのUボートは世界最強をうたわれた大英帝国海軍を嘲笑うかのように次々に商船を撃沈。 その威力には、海の王者とうたわれた戦艦ですら手も足も出ません。 「このままではいけない」 当時、日本帝国海軍は護衛駆逐艦部隊を遠く地中海に派遣していました。 阿部は、Uボートと死闘を繰り広げる彼らからの報告をむさぼるように読みふけったといいます。 やがて、潜水艦への攻撃手段が生まれるにつれ、多くの人々の衝撃は薄らいでいきました。 ですが。 「わが海軍は短期決戦で敵に勝利するという。護衛用の艦隊まで持つとなると国力がもたないというのはわかるが、もしも大戦のような長期戦になったら日本はもつのか?」 のちに彼が記した回想録に、そんな漠然とした不安が記されていました。 そして歴史は、彼が危惧したように進んでいきます。 昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発。 察知していたアメリカ側にとっても予想外の大損害を与え、帝国海軍は破竹の快進撃を続けていきます。 ですが、緒戦で艦隊を全滅させてもアメリカの戦意は衰えません。 阿部は、自ら駆逐艦隊を率いて初動の南方作戦に参加。バリ島沖海戦で大きな武勲をたてます。 その後、主力艦隊に随伴して数々の作戦に参加した彼は、小さな危惧が大きな恐怖に変わったのだといいます。 戦後に記された、彼の作戦考察です。 「どんどん作戦海域が広がっていく。わが海軍機動部隊は精強だ。世界最強といっていい。 だが無限ではない。我々はそれをミッドウェーで思い知らされた。」 ミッドウェー。 日本海軍の運命は、ここで一度暗転します。 帝都東京を空襲されるという屈辱から場当たり的に実施された作戦と、その代償はあまりにも大きなものだったのです。 「中曽根さんはミッドウェーのことを覚えておられますか?」 「いえ、最初はいつものように勝った勝ったの提灯行列です。 ですが、そのうちに主経科…要するに経理屋ですね。その私のところにも『どうやら負けたらしい』という話が聞こえてくる。 決定的だったのは、呉に戻ってきた水上艦隊の一部姿ですね。 みんな打ちひしがれていました。 いくら南方のトラック環礁に展開していたとしても交代で本土に艦隊は戻ってきます。 そのうちに、大敗北だというのがわかりました。」 「なるほど。中曽根さんはそれを阿部さんから聞いたわけですね?」 「阿部提督はミッドウェーから帰ってきて以来人が変わったように精力的に動いておられましたからね。 上官を丸め込むと休職扱いということにして、水雷学校や呉、そして東京を忙しく行きかいはじめました。 その過程でどうしても給料やら何やらといった問題が出てくる。」 「そこで中曽根さんにもつながりができたと?」 「つながりというほどのものではないですね。ですが、阿部提督は不思議とよくしてくれました。 のちに吉田首相や、下村さんなんかの若手官僚たちに引き合わせてくれたのもそんな頃でした。もっとも私は、よく顔を見せてはうまいものを食わせてくれる人と思っていましたが(笑)」 「なるほど(笑)」 「確か42年の8月だったと思います。足を延ばした広島で、提督はいいました。 『中曽根。この町が一面の焦土になると信じられるか?』 私は『あまり…』と返しました。 『ミッドウェーで空母機動部隊は消滅したからな。これからは本土が焼かれるのを覚悟せにゃならん。場合によっては――』 それからあとはずっと黙り込んでおられましたね。」 「ありがとうございました。 では、次は阿部大佐がどのように動いていったのかをご覧いただきたいと思います。」 240 :ひゅうが:2014/10/31(金) 04:26:08 昭和17年6月。 阿部の目の前では信じられない光景が広がっていました。 三空母炎上。 一瞬のすきをついて来襲したアメリカ海軍攻撃隊は、ちょうど発艦作業中であった南雲機動部隊の空母群に襲い掛かり、これに爆弾を投下。 本来はアメリカ空母に叩きつけられるはずだった爆弾や燃料が次々に誘爆。 宝石よりも貴重な搭乗員たちとともに、世界最強を誇った空母機動部隊は消滅していったのです。 「帝都だけではない。日本全土が炎に包まれる――」 そのとき、阿部はそうした悪夢を眼前にしたといいます。 慢心と油断が生んだ一瞬の隙、それは、国力に劣り、艦艇や航空機を補充する能力においてアメリカの10分の1ともいわれた日本にとり致命傷を生んでしまうことを、この時彼はいやというほど思い知らされたのです。 「このままじゃ終わらせない。いや、終わることができんぞ。」 当時の乗艦の艦長は阿部がそう呟いたと日記に記しています。 帰国した阿部は、古巣であった海軍水雷学校を訪ねました。 そしてこう言い放ちます。 「帝国を破滅から救うために、力を貸してほしい。」 彼が言い出したのは、対潜戦術や電探技術の向上策でした。 これまであまり重視されていなかった内容に、研究者や技術者たちは顔を見合わせました。 ですが、阿部は切り札を持っていました。 「予算と、命令書ならここにある。」 そこには、連合艦隊参謀長 宇垣纏の名前がありました。 実は、彼は帰国の途上でわざわざ南雲機動部隊の一員として短期間で提言書をまとめ上げ、強引に宇垣参謀長のもとを訪ねていたのです。 山本連合艦隊司令長官と静かに会食する南雲長官とは別に、別室において阿部は源田実大佐をはじめとする人々と喧々諤々の議論を戦わせたといいます。 「電探開発については至当と認める。だが対潜戦術を強化しようとすると、今後の航空戦力整備のための資源が失われるのではないか?」 第1航空艦隊の作戦を担った源田作戦参謀に対し、阿部はこう答えます。 「その航空戦力を整備する力すら失うかもしれません。」 粘り強く説得を続ける阿部の姿に、宇垣参謀長も頷きます。 ちょうど、日本側の潜水艦が米機動部隊の航空母艦「ヨークタウン」を撃沈したというニュースが入ってきたこともあり、なし崩し的に話は進んでいきます。 「当時の阿部中佐は鬼気迫るものがあった。そして驚くべきことにその論理に破綻がない。 おそらく長年温めていた内容なのだろう。 『ヤギ・アンテナ』という高性能アンテナをこともあろうにわが軍がまるで知らないという話などを仕入れているくらいだ。」 宇垣は、その日記「戦藻録」にそう記しています。 そしてこの会見が歴史をひとつ動かしました。 通常は海軍省などを通じた多くの手続きが必要となるレーダーやソナー、そして対潜兵器類の開発は、連合艦隊のお墨付きを得て見切り発車のように始動することになったのでした。 阿部は精力的に動きます。 この当時、軍需省に隠然たる影響力を発揮していた名物官僚 下村治日本発送電総裁に働きかけ、戦時輸送能力と船団護衛の強化を名目に開発技術者をもぎ取ります。 海軍省に乗り込んだ阿部は、その弁舌で並み居る将官たちを説き伏せ、政治方面からの要望という形を突きつける形でなし崩し的に開発許可をもぎとっていきました。 ですが、それは彼が海軍が忌み嫌う手法を行使したことを意味しています。 戦前の陸軍の常とう手段、独断専行、そして政治方面からの圧力。 海軍軍令部は、武勲に輝く水雷戦隊指揮官ではなく、この上ない厄介者と認識したのです。 当然、彼に用意されていた栄達はあり得ません。 しかし阿部はそれでも精力的にうごきました。 編成上は水雷戦隊指揮官のままでしたが、実際は彼が指揮した艦たちは瀬戸内海において演習と機材テストに明け暮れ、阿部自身は潜水艦隊の人々や技術者たちと折衝を重ねる。 その勉強ぶりは驚くべきもので、ソナーの取り付け位置から、レーダーの基本構成にいたるまで疑問に感じた部分にはとことん突っ込む。 そんな彼のもとに集められた有能な技術者たちはヒントを見つけ出し、そして当時の技術で可能な最善の機材や戦術を練り上げていきます。 その情報には、遠く大西洋で続く英独の対潜戦も含まれていたといいます。 241 :ひゅうが:2014/10/31(金) 04:26:44 そんな彼らを白眼視していた人々が目をむく事態が起こります。 砲塔運搬艦「樫野」撃沈。 日本近海で、それも十分な護衛をつけていたはずの貴重な輸送艦、そしてあの大和型戦艦の主砲塔を輸送できる唯一の艦が失われたのです。 既に大和型3番艦の航空母艦への計画変更が決定していたとはいえ、いまだに戦艦としての建造をあきらめていなかった人々にとってそれはとどめの一撃でした。 南方のソロモン諸島周辺において繰り広げられる激戦から生還した将兵も、阿部の動きを支持します。 今や、阿部が作り上げた流れは海軍全体の流れとして定着しようとしていました。 それを面白く思わない軍令部や海軍省の官僚たちは、阿部を南方の最前線送りにします。 しかしその頃には阿部が集めた人々は護衛艦の建造から輸送船団の編成、そして海上護衛総隊司令部の設置に至るまで数々の変化を与えていました。 この時までに、のちの連合艦隊司令長官としてマリアナ沖海戦を戦う古賀峯一大将や、ソロモン海の英雄として軍令部入りした栗田健男中将とも阿部はつなぎを作り、そして海上護衛総隊を実質的に率いることになる大井篤大佐らの士官たちも消極的あるいは積極的に彼に賛同していたといいます。 「こうしてみると、ものすごい行動量ですね。そして多くの味方を手に入れている。」 「阿部提督には独特の凄味と魅力がありましたからね。ミッドウェーを生き延びた中では彼が随一でしょう。 ほら、君子豹変すというではありませんか。豹変することができた点が提督の強さであると私は思っています。 目の前で世界最強の空母機動部隊が一瞬の隙をついて消滅する様子を見るというのはそれだけの衝撃を持っていたのだと私は思っています。」 「やはり、恐ろしかった?」 「それは恐ろしいでしょう。ですがそれを一過性のものとして衝撃から身を守るのがふつうであるのに対し、阿部提督はそれをしなかった。 それが恐怖というなら恐怖でしょう。」 「なるほど、勇気であると中曽根さんはおっしゃるわけですね?」 「その通りです。阿部提督は恐怖には立ち向かうことができた。多くの現実逃避する人々と違って。そうした少しの違いは案外大きく歴史に作用するものです。」 「さて、本日の前編において、阿部大佐の動きはひとつの実を結んでいきます。」 242 :ひゅうが:2014/10/31(金) 04:27:39 1942年後半、ソロモン海において橋頭保を確保した日本海軍は、三次にわたるソロモン海戦に積極的に主力艦隊を投入しました。 失敗に終わったミッドウェー島攻略によるハワイ直接攻略とは異なり、有力な連合国の一角であったオーストラリアとアメリカの間の交通を遮断し連合国からの脱落を企図する米豪遮断作戦の一環ですが、それ以上に連合艦隊司令部にとっては主力艦隊をここで可能な限りすり減らさせておくことが目標でした。 加えて、陸軍や海兵隊の戦力を消耗させることで厭戦感情を喚起することも考えていたといわれていますが、それは副次的な目標であったといいます。 そのために日本軍は、ソロモン諸島からはるかニューカレドニアを目指して進撃する目標をたてます。 ただし、初期の目的はすぐに潰えます。 この頃に、聴音技術の向上もあって静粛性に極めて深刻な問題ありと判定された日本側潜水艦の改修が進んでいなかったこともありますが、日本側の目的を知った連合軍が強硬な抵抗を繰り広げたためです。 ですが、その代償は大きなものでした。 夜間戦闘能力の向上に戦前から取り組んできた日本海軍水雷戦隊と主力艦隊はここで大きな力を発揮。 アメリカ海軍が戦前に作り上げた巡洋艦隊をはじめとする補助艦艇群を消滅させたともいわれる奮戦を繰り広げたのです。 その中には、改修をすませた第11駆逐隊を率いる阿部大佐の姿もありました。 1942年8月、第2次ソロモン海戦において彼らはさっそく威力を発揮します。 配備されたばかりのレーダーにより防空戦闘の目を構成した第11駆逐隊は、ミッドウェーのかたき討ちに燃える南雲機動部隊を的確に援護。 アメリカ機動部隊をに痛烈な反撃を加え、一時的にこの海域で行動する航空母艦をゼロにまで落とし込みました。 連合艦隊司令部においてその勲功は高く評価され、本土に残った人々の活動に大きな弾みをつけました。 ところが、一気にオーストラリア方面への侵攻を主張する参謀たちに山本長官はこう言い放ちます。 「戦線を、マリアナまで下げる」 のちに、Z作戦構想と呼ばれたアメリカ艦隊誘引撃滅構想です。 参謀たちは反対します。 今が行動の時だ。今を逃してオーストラリアを戦争から脱落させ、戦争を終わらせる機会はないと。 そんな彼らに、山本は黙って、その場に呼ばれていた阿部を呼びます。 阿部は、本土から持参した補給曲線と呼ばれる資料を彼らに提示しました。 この時点で日本側の補給能力は限界に達しており、これ以上の進撃を行えば、いくら量産した護衛部隊や輸送船団をもってしても艦隊の行動は不可能となる。 そして、勝利を得たニューカレドニアやその先で、艦隊は補給を絶たれて立ち枯れしてしまう。 阿部の資料はそう物語っていました。 もしも攻勢を行うとすれば、行えるだけの輸送船団と護衛部隊がそろうのは、早くて44年半ば。 その頃にはアメリカ艦隊は正規航空母艦20隻以上というとてつもない戦力を整えてやってきます。 「わが海軍は、アメリカ海軍が放ったわずか30隻の潜水艦によってこの苦境に立たされたのです。」 阿部の言葉に誰もが俯きます。 短期決戦で勝利を得ても後が続かない。まさしく、阿部が危惧していた通りの事態でした。 そんな彼らに、宇垣参謀長が静かに語りかけました。 「帰ろう。そして勝とう。また来られるように。」 無表情で、黄金仮面とも呼ばれていた宇垣のこの言葉に、連合艦隊司令部の意見はまとまりました。 ですが、本土の軍令部は作戦続行を求めて矢の催促。 連合艦隊は、さらなる一撃をアメリカ艦隊に加え、その間に戦線を思い切って縮小するとして作戦を認めるかわりに自分たちの意見を飲ませました。 このとき、第1次ソロモン海戦において英雄となっていた栗田健男中将が軍令部次長に就任しており、なし崩し的にではありましたがこの方針は承認されます。 このことは、当時の日本の戦争指導部がまるで何の展望も抱かずにむやみに戦線を拡大させていたというおそろしい事実を阿部に教えてくれました。 そして、1943年初頭、第3次ソロモン海戦が勃発。 主力艦隊を丸々つぎ込んだ大海戦は、完成したばかりの大和型戦艦姉妹の活躍もあり、日本側の大勝利に終わりました。 しかし、彼らにはその報復ともいえる凶報が待っていました。 山本連合艦隊司令長官機撃墜。 既に疑われていた暗号解読の結果、待ち伏せを受けた山本五十六連合艦隊司令長官の乗る飛行機はブーゲンビル島上空で撃墜され、連合艦隊は得難いリーダーを失うこととなったのです。 ですが、その間隙を連合艦隊司令部は意外な形で乗り切ることになります。 宇垣参謀長が陣頭指揮をとり、勝利に沸くアメリカ海軍の目をかすめるように根拠地を引き払い、戦線の大幅縮小に成功したのです。 243 :ひゅうが:2014/10/31(金) 04:29:13 以後、1943年は時折夜間強襲や残置偵察部隊への強行補給任務につく水雷戦隊と、動く余裕のないアメリカ海軍との間の小競り合いで終始しました。 新たに着任した古賀峯一大将も、山本前長官の作戦方針を踏襲。 ようやく効果を上げ始めた輸送船団の強化と対潜護衛部隊の増大は、連合艦隊に潤沢な補給を約束。 この間に、日本海軍はミッドウェーや南太平洋で消耗した航空戦力の錬成にいそしみます。 一方のアメリカ海軍は自ら動くことができませんでした。 当時、連合国は独ソ戦の天王山となるスターリングラード攻防戦に忙殺され、大西洋方面の輸送船団編成にかかりきりとなっていたためです。 太平洋戦争の勃発以来積み重ねられていた損害、特に艦船の被害は甚大で、おいそれと攻勢を起こすわけにはいかなかったのです。 「1943年は欧州と違って太平洋は静かだったのですね。」 「そうですね。ただし小競り合いや、遭遇戦じみたものはよく発生しました。 勇名なのが、43年8月に阿部提督率いる強行偵察部隊と、のちのケネディ大統領が乗った魚雷艇が遭遇し正面衝突した一件でしょうね。」 「駆逐艦天霧の一件でしたね。あのとき阿部さんは救命胴衣を投げ込んだとか。」 「そう聞いています。さすがに夜の闇に隠れての強行偵察と襲撃ですから救助に立ち止まるわけにはいきません。味方でないと知れた時点で救命胴衣や食料を落とし、無礼を謝したということだそうですよ。」 「それが戦後の縁につながるわけですから不思議ですね。」 「ええ。本当に。」 「話を戻しますと、43年には大規模な海戦がもう一回発生していますね。」 「トラック沖海戦ですね。あれは、ミッドウェーの勝利を第2次ソロモン海戦で失ったアメリカ海軍が、政治的勝利を目指して日本の真珠湾と呼ばれたトラック諸島を攻撃した戦いでした。」 「この当時、スターリングラード攻防戦は今やたけなわ。片や、アメリカ陸軍は北アフリカ上陸作戦を成功させたのはいいものの、ドイツ軍の巧みな守備によって損害が続出。 同盟国であったイギリス軍にも皮肉を言われるという始末だったとか。」 「はい。ルーズヴェルト大統領が何よりも勝利を欲し、彼の大好きな海軍に無理強いをした、といわれていますね。 今では全部がキング長官のせいにされていますが。」 「この海戦では、日本側が引き払いはじめていたトラック環礁に向けて米機動部隊が進撃。 しかし、ちょうどマーシャル諸島やギルバート諸島から撤収していた日本側の航空部隊に捕捉されて手痛い損害を受けていますね。」 「高速機動部隊による一撃離脱を目指したために戦艦をつれていかなかったこと、そしてソロモン海での消耗からおもに空母の護衛部隊が立ち直り切っていなかった中で強行された作戦ですからね。 ハルゼー提督やスプルーアンス提督も実施には反対していたというふうに聞いています。」 「さて、前編となります今回、いよいよ今日のその時がやってきます。」 1944年に入ると、日米の戦力差は互角以上のものとなっていました。 アメリカ海軍は航空母艦15隻を筆頭にした高速機動部隊を編制。そのほとんどを戦争勃発後に作り上げた艦で固めました。 一方の日本側は、どれだけ力を振り絞っても第一線の航空母艦はわずか14隻。 戦艦や水上艦隊はほとんどが戦前以来のものです。 ですが、そんな彼らには切り札がありました。 手塩にかけて育て上げた航空機とそのパイロットたちです。 ことに、強引に南方からの撤退に成功したことは、貴重なパイロットたちを教官として若手パイロットを大量育成する時間の余裕を得たということでもありました。 そうして数を揃えた作戦用航空機の数はおよそ1300機。 その大半を、ここをとられれば日本本土を爆撃可能なマリアナ諸島周辺に配置して、再建なったばかりのアメリカ機動部隊を撃滅する。 それが、今は亡き山本長官やその後を継いだ古賀長官率いる連合艦隊司令部が練り上げた作戦構想でした。 244 :ひゅうが:2014/10/31(金) 04:29:45 対するのは、ミッドウェーで日本海軍に苦杯をなめさせたレイモンド・スプルーアンス提督。智将の誉れも高い名将です。 ですが、そんな彼や、たった30隻の潜水艦で日本海軍の攻勢を頓挫させた太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督を罠にはめるため、日本海軍は数々の手を打っていました。 口の軽い参謀が漏らす内容、艦隊の欺瞞行動、そして極めつけは偽の作戦計画書の漏えい。 解読を警戒して行われた暗号の全面改訂前に、ふと漏らされる作戦計画の一端。 陸軍特殊部隊の協力を得て行われた謀略作戦は、暗号解読による成果に頼り切っていたアメリカ海軍にとり食いつくに足る内容でした。 そして、この偽の情報に基づいて、アメリカ海軍は太平洋戦争の勝敗を決定するであろう日本本土戦略爆撃基地の設営のためにマリアナ諸島を攻略しようと動き出したのです。 アメリカ海軍は、罠にはまりました。 1944年6月19日。 陽動攻撃を経てマリアナ諸島へ来襲したアメリカ機動部隊は、予想以上の日本側の抵抗に攻めあぐねます。 日本側が用意したのは、のちの本土・沖縄防空戦で威力を発揮する新鋭戦闘機「紫電」やドイツとの技術協力によって実用化にこぎつけた高性能対空レーダー群。 かつてバトルオブブリテンで威力を発揮した防空システムは、今度はアメリカ海軍相手に牙をむいたのです。 そして、日本側の作戦計画書といわれる情報に基づいたあさっての方向へ警戒を強めていたアメリカ艦隊はついに日本側の手にとらえられます。 「敵機多数接近!間に合わない!」 同時に多数方向から飛来した陸上機部隊によって混乱し、飽和状態になったアメリカ機動部隊の隙を突き、小沢治三郎長官率いる機動部隊は虎の子の大攻撃部隊合計400あまりを叩きつけたのです。 展開は、ミッドウェー沖海戦をまるで逆にしたようなものでした。 航空母艦12隻撃沈破。 しかも、帰途には、阿部の手によって格段に静かになった日本側潜水艦隊が待ち構えていました。 日本側の、大勝利でした。 ですが、用意されたうちの800機あまりはこの世から永遠に失われてしまいます。 1年間をかけて作り上げた日本側にとり、それはあまりに大きすぎる痛手でした。 しかし――日本政府はまったく何もしようとはしませんでした。 ただ、マリアナ諸島が陥落寸前となったことによる責任をもって右往左往し、これまでの強引な戦争指導の結果反感を買っていた東条首相が政権の座から引きずり降ろされただけです。 このとき、日本本土へ帰還し、対潜や海上護衛に尽力していた阿部は当時の日本の指導者層に大きな失望を味わったといいます。 すでに、海上護衛部隊の強化に加え、阿部は、潜水艦隊の強化にも道筋をつけていました。 その代償として、対ソ連情報を扱う第8課長という閑職へと左遷されていた彼は、この大勝利を東条おろしにしか使おうとしない人々に何かが切れる音が聞こえたといいます。 「なんとかしなければ。」 阿部のもとには、これまで彼と共に海軍の強化に関わっていた多くの人々、そしてそれに関係した多くの若手官僚や政治家が集まっていました。 彼らは決意します。 「この戦争を終わらせる。」 ――次回の「その時歴史が動いた」は、後篇となります。

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