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46 :名無しさん:2015/07/29(水) 00:12:53 そういえば春の目覚め作戦……と思い 大勢に影響の無い範囲で4レスかけて捏造してみる ※戦後夢幻会支援ネタSS ・ 春の目覚め作戦  春の目覚め作戦(独:Operation Fruhlingserwachen)は、  第二次世界大戦末期の1945年1月1日から3月6日にかけて  ハンガリー戦線において行われたドイツ軍による大規模な撤退作戦。  総統命令第53号の下、実施されたニコラウス作戦やラインの守り作戦と並ぶ三大作戦の一つ。  ブダペスト大撤退とも呼ばれる。 ・ 作戦の背景  1944年末に発令されたドイツ国家及び国民の存続に向けた指令、所謂総統命令第53号の下、  東部戦線においてはニコラウス作戦(クールラント脱出)を、  そして西部戦線においてラインの守り作戦(アルデンヌ攻勢)を相次いで開始したドイツ軍であったが、  この春の目覚め作戦に関しては本来、構想段階ではコンラート作戦と呼ばれており、  これらとは別途に、若干の期間を置いて行われるはずのものであった。  1944年11月末当時、東欧最大規模を誇る大都市ブダペストは、  ソ連及びルーマニアの連合軍によるブダペスト攻勢のよって、半包囲下に置かれていた。  しかし当初、ソ連側が企図していたブダペストを完全包囲する目論見は、  アドルフ=ヒトラーの一声によって急遽、ブダペスト=ウィーン間の連絡線に展開させられていた  ヘルマン=ゲーリング降下装甲軍団によって数度阻まれ、  さらに増援として現れたドイツ軍やハンガリー軍部隊の徹底的な固守や  ソ連軍とルーマニア軍との連携不足が重なった結果、半包囲という中途半端な結果に行き着いていた。  しかし、この状況を良しとしなかったソ連軍は改めてこの連絡線を確実に切断すべく、  攻勢に参加していた各部隊の動きを一時的に止め、部隊を再編成すると共に物資を集積。  12月29日前後を目処に攻勢を再開する計画を立てた。  だが、この一時的な攻勢の停止は、ドイツ側に転機を促した。  アドルフ=ヒトラーは、このソ連軍の一時的な停止を攻勢限界に達したためによるものと認識。  この好機を利用し、半包囲状態のブダペストを放棄し、戦線全体を再編成することを決めた。  これにより、ドイツ側も戦力の再編成を行い、そしてソ連軍よりも規模が少なかったことから  彼らよりも早くその再編成をほぼ終えることに成功。  そして先述した二作戦との兼ね合いから、1月半ばに脱出作戦を行うことを決定する。  これは異なる方面で複数の大作戦を同時展開することは、  当時追い込まれたドイツの体力的に難しいという判断によるものだった。  だがしかし、そこに凶報が齎された。  間隙を縫い、強行偵察を敢行した空軍機がソ連軍の物資集積を確認。  それは近いうちに、ソ連軍による再攻勢が行われることを意味していた。 47 :名無しさん:2015/07/29(水) 00:13:27 ・ 作戦の前倒し  齎された情報に対し、アドルフ=ヒトラーは作戦開始の前倒しを決断を下した。  この決断にドイツ国防軍上層部は当初、準備が完全に整わない状態での前倒しに反対の意を示したが  「この攻撃には、非常に明確な目的、すなわちブダペストに残る友軍と   市民の救出という目的が存在する。ここに伴う威信の問題は存在しない。   今この瞬間に行かねば、彼らは露と消える。だからこそ今行くことが重要なのだ」  という言葉に圧され、前倒しを承認したとされる。  結論から言えば、このヒトラーの考えは正しかった。  事実、ソ連軍は当初予定していた12月29日の攻勢再開こそ  ニコラウス作戦やそれに付随した陽動作戦への対応を理由に遅らせていたが、  それでも年明け間もなく攻勢を再開するつもりであったとされていたためだ。  この作戦の前倒しにより、オーストリア方面に大量の空軍機が掻き集められた。  元々、作戦の開始に備えて航空機用の弾薬の集積は進んでおり、部隊だけが無い状態であった。  しかし、修正発動されたラインの守り作戦が予定よりも好調に進んでいたことから、  ヒトラーは空軍部隊の転進を決断。作戦地域の防空に必要となる最低限の部隊を残し、  ドイツ空軍に残されていた余力ほぼ全てをオーストリアへと集中させた。  これと平行して、大方の再編成を終えていたフレッター=ピコ軍集団が  巧みな欺瞞と偽装の上、ブダペスト=ウィーン間の連絡線近くに布陣した。  この軍集団はドイツ第六軍とハンガリー第二軍、  そしてドイツ側に残されていた貴重な予備兵力であった空軍野戦集成軍(*1)から構成されていた。  特に第六軍は今や、ドイツ側にとって貴重な実働装甲兵力となった第四SS装甲軍団及び第三装甲軍団。  また空軍野戦集成軍には、先の戦いでソ連軍による連絡線の遮断を防ぎ、  その功績から再編に際して惜しげもなく最新装甲兵器が供給されて再編成を完了したばかりの  ヘルマン=ゲーリング降下装甲軍団が含まれていた。  これらが糾合したフレッター=ピコ軍集団は、ハンガリー戦線における有力な装甲軍集団と化していた。  またブダペストから友軍と“市民”を撤退させる、という命令骨子の下、  ハンガリー第二軍の戦意もにわかに高揚した状態であったとされる。  そして来る1月1日未明。  オーストリア方面から大量の航空機が離陸し、ハンガリー上空へと相次いで侵入した。  目標は事前の偵察にて判明していたソ連側の航空基地と物資集積場であった。 48 :名無しさん:2015/07/29(水) 00:14:17 ・ 経過  このドイツ空軍の急襲に対し、ソ連軍は有効な反撃を行うことができなかった。  本来、防空のために同方面へ展開していたソ連軍の戦闘機部隊は、  補充のために後方へ一時戻ったところを東部戦線でドイツ軍が発動した  ニコラウス作戦への対応を目的に急遽転出を強いられていた。  また同時期、西部戦線でもドイツ軍による大規模な攻勢が起こったという情報が  齎されていたことからハンガリー方面でも同時に逆襲を行う余力は無いだろうという見通しにより、  攻勢再開に備えた対地攻撃機部隊の進出が優先され、  転出した戦闘機部隊の穴を埋める新たな戦闘機部隊の補充が後回しにされていたためだ。  ハンガリー上空に侵入したドイツ空軍の攻撃部隊は、この間隙を見事に突いた形となった。  ドイツ空軍の攻撃部隊は戦闘機によるわずかな迎撃を掻い潜り、  急襲の影響で散発的な対空砲火を嘲笑うかのように次々と航空基地や物資集積場を焼き払った。  また、手隙となった一部の部隊は余勢を駆って  前線のソ連軍部隊を手当たり次第に攻撃し、ソ連軍全体に大きな混乱を齎した。  そしてこの混乱の隙を突いて、第六軍とハンガリー第二軍が連絡線から半包囲網を押し返すように  ソ連軍前線部隊に対する攻撃を開始。  ソ連軍は直ちに反撃を行い、一時は攻撃を押し留められるかに見えたが  物資集積場を襲撃されていたことで各所で弾薬や燃料の不足が巻き起こり、  また動きの良い部隊ほどドイツ空軍による集中攻撃に晒されたことで反撃は急速に鈍化していった。  さらに脆弱であったルーマニア軍部隊を空軍野戦集成軍所属の  ヘルマン=ゲーリング降下装甲軍団が突破、壊走させたことを皮切りに  同軍団とハンガリー軍が取り残されたソ連軍三個師団を逆包囲して殲滅する場面すら見られ、  ドイツ軍往時の電撃戦を思い出させるような様相を呈した。  加えて包囲から逃れるべく、ソ連軍は幾つかの重装備を投棄しており、  鹵獲されたこれら重装備を以降の防衛戦でドイツ軍やハンガリー軍が有効利用したという資料が残っている。  この攻撃によって、半包囲網を押し返したドイツ軍は戦線を整える傍ら、  ブダペスト市内に残っていた第9SS山岳軍団の撤退を開始した。  また撤退の際、あらかじめ市内西部への限定疎開の名目で集められていたブダペスト市民も伴われており、  徴用された民間車両に加え、馬車や荷車まで動員した根こそぎ撤退となった。  二ヶ月という作戦期間中、根こそぎ撤退によって五〇万人近い民間人が  ハンガリー西部やオーストリアへと避難していった。  この一連の大撤退を、ソ連軍は前半を弾薬と燃料の不足によって見送らざるを得ず、  後半は地形に沿って効果的に再配置された第9SS山岳軍団や頑強に抵抗するハンガリー第二軍。  さらには春先、にわかに生じた泥濘によって阻害され、大撤退を成功させてしまうこととなった。  そして3月6日、ドイツ軍とハンガリー軍はブダペスト周辺からの撤退を完了。  ハンガリー西部における防衛線の再構築をもって、作戦終了を宣言した。 49 :名無しさん:2015/07/29(水) 00:15:20 ・ その後  春の目覚め作戦の成功は、連合軍に大きな衝撃を齎し、  特にソヴィエト連邦の指導者であったヨシフ=スターリンを激昂させ、  彼にドイツ本土侵攻、そしてヒトラーの身柄確保を目的としたベルリン突入を固執させる一因となった。  この固執によって、ハンガリー方面のソ連軍は戦力の補充がほとんど行われず、  それどころか逆に戦力を引き抜かれ、ブダペスト攻勢以前の規模を取り戻すことは無かった。  引き抜かれずに留め置かれた部隊によって散発的な攻撃こそ行われたものの、  いずれも腰を据えたドイツ軍に影響を及ぼせず、終戦までそれ以上の変化を齎すことができなかった。  しかし一方のドイツ側も逆攻勢を行うような余力は無く、防衛線の維持に終始。  その結果、ハンガリー戦線はドイツ軍の無条件降伏まで存続し、  彼らはオーストリアやハンガリー西部へと進出してきたアメリカ軍に投降した。 ・ ブダペストの惨劇  ブダペスト大撤退開始時点で、ブダペストとその周辺には八〇万人もの民間人が存在していたとされる。  そしてこのうち、三〇万人の民間人が避難を拒否するなどして、ブダペスト市内へと残った。  彼らに配慮する形で2月末にはドイツ側はブダペストの無防備都市宣言を行い、  これはソ連側にも繰り返し通達された。しかしながら、この通達をソ連側は欺瞞と判断。  ブダペストに進駐したソ連軍は市内掃討と称し、ブダペストとその周辺でドイツ軍の捜索を行った。  この過程で残った三〇万人の民間人は、ソ連軍による苛烈な暴力に晒されたとされる。  ケーニヒスベルクやベルリンにおいては、民間人の撤退が成功。  またウィーンなどは終戦まで固守されたことから、ブダペストで起こった一連の出来事は  大きく取り沙汰され、ブダペストの惨劇として世界に知られることとなった。  なお、惨劇の情報を知ったハンガリー軍は以降、ソ連側からの降伏勧告を  断固として拒否する決意を固め、終戦まで戦意を維持したまま、ハンガリー西部の維持に貢献した  また戦後、社会主義国家となったハンガリーにおいては  冷戦期間を通して多数の反体制、反共抵抗勢力が活動することになるが  彼らは抵抗に際して「我々は抵抗せねばならない。ブダペストを思い出せ」と口を揃えていたとされる。  *1 : 空軍野戦師団のうち、戦闘に耐えうる部隊を集成したもの。     国防陸軍のそれと比較して装備は貧弱であり、訓練不足も目立っていたとされるが     ヘルマン=ゲーリング降下装甲軍団を中心に、春の目覚め作戦と以降の防衛戦で活躍した。     一方、戦闘に耐えないと判断され、集成軍に配置されなかった空軍野戦師団の多くは     ドイツ本土での防衛に配置されたものの、ほとんど戦うことなく西部の連合軍に降伏している。

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