489 :ひゅうが:2012/04/13(金) 17:07:51
――西暦1947(昭和22)年、太平洋のハワイ島沖において3つの海洋国家が握手した。
斜陽の老帝国から一気に新世代の国家連合の筆頭としての地位を確立しつつあるしたたかな大英帝国。
大津波と地震の脅威を受けつつも復興を果たし、世界最大の工業力を回復させつつある
アメリカ連邦。
そして極東から世界へ飛翔しはじめた
アジアの雄、日本帝国。
三つの国家と、それを中心とした環太平洋諸国の集合体は「太平洋同盟」としてのちに知られることになる。
その軍事部門「太平洋条約機構」には、欧州本土を喪失した自由ドイツ軍や自由オランダ軍、そしてそれらの中ではもっとも古株である「ロシア全軍連合」もオブザーバーとして名を連ねており、今や侵略者となりイタリアと北アフリカを蹂躙しつつある「欧州枢軸」を主敵としてこの同盟が締結されたことを如実に示していた・・・。
――すべてのはじまりは、1923年9月に太平洋で生じた地質学的な変化だった。
日本列島の中部、関東地方で発生した大規模地震に呼応して出現した巨大な島「瑞穂島」。
古生代から中生代にかけて形成された豊富な資源を有するこの島を手にした日本帝国は、いくつかの幸運が重なった結果として帝都復興計画と瑞穂島開拓計画による莫大な投資に対し莫大なリターンを得つつあった。
また、アメリカ合衆国も、のちに「西海岸群発震災」と呼称される諸地震が発生した時期は未曾有の好景気の真っただ中であったためにともすればバブル化し実体のない経済成長を続けていたものが復興需要で急速に実態を伴いはじめ、経済の軟着陸に成功していた。
この二カ国は、満州の共同経営で蜜月機関を過ごしており、上記の震災や火山噴火の結果としてソ連と中華民国というふたつの革命国家が倒れるとすぐさま事態の収拾について協議を持った。
この際、無主の地となりつつあるこれらへ進出すべきだとの意見も強かったが、結局彼らは経済的な輸出産業以外は無視を決め込むことで意見の一致をみる。
1926年3月、ロシア第2革命で崩壊しつつあるボルシェビキ政府の指示で中華民国の実力者蒋介石がウラジオストクに拉致され結局遺体として発見された「中山艦事件」とその後の国民党政権の混乱、そしてソ連領ウクライナで生じていた致命的な飢餓(すでに800万人が餓死していた)のレポート「怒りの葡萄」は、反共という点で一致していた日本政府とアメリカのフーヴァー政権を強く結びつけたのだ。
要するに、「赤い連中に下手に手を出すべきではない。フランス革命への干渉を行って結局彼らを団結させてしまったハプスブルグの愚を繰り返すべきではないのだ。」「いずれ彼らは自ら新たな政権を模索するだろう」という話だ。
不安定なマンチュリアなら百歩譲ってもまだマシだが、チャイナやシベリアへ手を突っ込むことなど冗談ではない。
それに、日本人がせっせと開発しつつあった瑞穂島の豊富な資源に多少なりともコミットメントできるうえ西海岸復興計画や防災計画でも両者は協力しつつある。
その成果として1930年のアラスカ大地震では日米の双方の旗が軽度の武装をともなってアンカレジで見られたのだ。
協力は可能であろう。
こうして太平洋上の蜜月はしばらく続いたが、政権がフランクリン・D・ローズヴェルトへ交代した直後の1934年12月にニューヨーク株式市場において主として個人投資家市場が暴落。
以後5年の間に3度の暴落を経験したアメリカ合衆国の経済は瀕死の状態となっていった。
この影響は大きく、大英帝国はブロック経済へ移行。
ドイツ国内では経済復興と時の蔵相ヒトラーの活躍に伴い影響は僅少に抑えられつつあったものの左右両派による対立は続き政治混乱が長引いていた。
フランスもまた同様で、こちらの方が混乱はさらに大きかった。アメリカが流す資金がドイツ国内で賠償金とラベルを張り替えられフランスに流れ込むという構造で回っていた経済は、この甘い蜜を舐めなれて甘やかされすぎていたのである。
経済混乱に見舞われたフランスと、東欧の雄ポーランドにおいては国家主義が勃興。
1937年のルーマニアでの鉄衛団政権誕生と前後して対独軍事評議会によるポーランド軍事政権誕生、フランス国民委員会による議会制圧と解散という事態に発展していく。
これら「欧州枢軸諸国」は、混乱の結果無主の地と化しつつあるソ連領内への「侵攻」を計画しはじめ、敗戦国の分際で経済大国と化していたドイツの分割を画策しはじめた。
490 :ひゅうが:2012/04/13(金) 17:08:24
そして、アメリカでローズヴェルト政権がその社会主義的政策により一定の秩序を回復し、代償として狙撃され政権の座から引退した1942年、世界は大きく動く。
ポーランド共和国による旧ソ連領侵攻作戦「カジミェシ」がそれである。
1925年のスターリン爆死とモスクワ騒乱によって共産党が倒れてから17年。
最低限の安定を保っていた国際連盟自治都市リガを例外として、混沌の中にあったロシアの中心地モスクワをめがけてルノー戦車の大群がポテーズ爆撃機の支援のもと前進していったのだ。
世界はこれを非難するも、日和見的なオーストリア共和国やドイツを過剰に恐れるチェコスロバキアの消極的反対、そしてルーマニアの熱烈な支持のもとこの軍事行動は見過ごされた。
このとき、日米は共同経営領満州の北部にあった旧ソ連最大の軍閥「シベリア軍団」との大規模紛争に突入しており、即応が遅れたのだ。
唯一大英帝国はフランスに対し仲介を要請するも、英国人の言うことをきくような彼らではなかった。
1943年を待たずにモスクワは陥落。ポーランドはロシア帝国の再建はせず、「リトアニア・ポーランド・ルーシ連合」の成立を宣言し実質的な植民地化を開始する。
一方のフランスは、パーレヴィ朝ペルシャ帝国と手を組みバクー一帯の利権を確保。ルーマニア経由で送り込まれた「駐露フランス軍団」によってドン河を境にした南の資源地帯を確保したのであった。
東方の安定を確保したポーランドとフランスは、残留ロシア軍とのゲリラ戦に対し徹底した報復を行いつつも主力を西欧へと向けた。
誰もが理解しつつあった。次はドイツだと。
1945年初頭、ドイツ国はアドルフ・ヒトラー率いる「ドイツ自由民主党」(NADSPと諸右派政党、中道政党が合同し成立)が政権を獲得。挙国一致体制の構築を開始していた。
これに対し仏波両国は厳重に抗議。英国の仲介によってのちに「ウィーンの妥協」と呼ばれる決断が下された。
いわく――ドイツはヴェルサイユ条約における軍備制限を一定の割合で解除し、そのかわりポーランド・フランスと不可侵条約を結ぶ。
ポーランドはドイツのダンツィヒ回廊における自由通行権を保障するかわりダンツィヒをドイツ領であると認める。
これらの代償として、ドイツはポーランド・フランスのロシアでの拡張領土を承認するというものだった。
しかし、そんな約束を守る気は誰もがなかった。
同年10月、ポーランド国防軍ロシア進駐軍とフィンランド国防軍の間でイングリア地方の帰属と旧ソ連領に関する認識の違いから軍事衝突が発生。いわゆる「冬戦争」が勃発する。
日本遣欧軍による助力戦闘の結果、国連自由都市サンクトペテルブルグを挟んだところまで戦線が前進されて停戦が宣言された。
ポーランドとフランスは理解した。ドイツを潰すには、日本やそれ以外の介入を待たずに電撃的に行うしかない、と。
491 :ひゅうが:2012/04/13(金) 17:08:54
1946年1月8日、ポーランド・フランスは突如ドイツの賠償金滞納と越境攻撃を理由としてドイツに侵攻。
数で勝る仏波枢軸軍と参戦してきたルーマニア軍は中立国チェコスロバキアを蹂躙しつつ南部と北部を分断。
ドイツ本国をまたたく間に占領していった。
ドイツ軍主力はキール軍港から決死の大脱出を敢行。装甲艦「グロス・ドイッチェラント」をはじめとする海軍艦艇の半壊と引き換えに英国への脱出に成功した。
仏波両軍はこれをもって状況を終了するつもりであったらしく、アイルランド政府を通じて米国と英国に停戦講和の仲介を依頼してきた。
だが、自分たちが苦労してまとめ上げた妥協案を完全に無視された英国や、ドイツ国内におけるフランス・ポーランド軍、ことにルーマニア軍によるユダヤ人大虐殺に眉をひそめていた米国は聞く耳を持たなかった。
かくて――第2次世界大戦の幕は上がる。
国力で勝る太平洋同盟諸国に対し、仏波両軍は切り札を手に入れていた。
ドイツ国内、カイザーウィルヘルム研究所において開発が最終段階に達しつつあった「原子核分裂反応兵器」である。
さらに、両国は諜報活動の結果として禁断の可能性を知っていた。
カナリア諸島ケンブレビエバ火山。
この小さな島に対し、日本人が「津波研究のため」並々ならぬ興味を持っているという事実を――
最終更新:2012年04月26日 17:28