970 :グアンタナモの人:2012/05/14(月) 20:50:00
運が悪い、というレベルの話ではない。
殴られた鼻から伝い落ちる生暖かい血を拭いながら、岡島緑郎は己の不幸を呪った。
頭を抱えて、滅茶苦茶に喚き散らしたい気分である。
もっともそんな下手な真似をすれば、即座に頭の風通しが良くなることは確実であろう。
「OK、カリフォルニア人。もう一度訊くぞ?」
眼前に突きつけられた二挺の拳銃。
その銃口から発射される鉛弾によって、だ。
――― BLACK LAGOON The Gloomy Edition #1 ―――
岡島緑郎は旭日重工東京本社、資材部北米課に籍を置く会社員である。
そんな彼に急遽、出張の指示が舞い込んだのは数日前の話だ。
重要な物資の運搬に付き添って欲しい。口数少なく、上司の男はそう告げた。
無論、平社員である岡島に断れるはずもなく、翌日彼は晴れて機上の人となる。
三菱機と鎬を削り合うノースロップ=ダグラスのND-11LR型旅客機で一路、カリフォルニア共和国の旭日重工ロサンゼルス支社へ。
そこで休む暇もなく、先述の書類鞄を押し付けられ、矢継ぎ早に港で物資を積んだ貨物船へ乗せられる。
そして気がつけば、彼はパナマ運河を越えてカリブ海に至っていた。
遥かな昔は名立たる海賊が巣食っていた魔の海域。
だがかつて繰り広げられた大戦の後、欧州列強が一帯を抑えた今となっては海賊が横行できるはずもなく、綺麗で安全な海となっている。
――― そうであるはずだった。
ジャマイカ海峡に差し掛かった時の出来事である。
岡島の乗る貨物船に、猛然と突っ込んでくる小型艇の姿が見えたのは。
接近してきた小型艇は慣れた操船で貨物船の右舷に寄るや否や、鉤付きロープを撃ち掛けてきた。
そして手摺りに絡みついたロープを伝い、乗り込んできた二人の招かれざる船客――黒人の大男と、東洋人らしき女性――の手によって、岡島の生殺与奪権はあえなく奪取されたのだった。
「こいつがマイアミで取引先に渡せと命じられたデータディスク、で間違いないな?」
厳しい回転式拳銃を突きつけたガタイの良い黒人の大男が、小さなデータディスクを岡島に見せる。
それは彼がロサンゼルス支社で取引先に渡すように、と書類鞄と共に渡されたデータディスクであった。
どうやらあれが岡島を現状に追い込んだ疫病神であるらしい。
「……ああ、そうだよ。渡されたのはそれだけだ」
岡島が掠れ気味の声で答える。
喋りすぎれば用無しとばかりに殺されるかもしれず、かといって黙秘し続ければ役立たずだと殺されるかもしれない。
その結果、適度に黙り、適度に答える、という綱渡りじみた行動を彼は強いられていた。
考えれば考えるほど、会社員が強いられる行動ではないだろうと涙が出そうになる。
どちらかと言えば、間諜がする類の行動だろう。
しかし、生き残るためには死に物狂いで頭と口を使うしかなかったのだ。
971 :グアンタナモの人:2012/05/14(月) 20:51:04
「面倒くせえ。ダッチ、膝の辺り撃っちまっても良いだろ? そしたら小鳥みたいに喋りだすさ」
そうした岡島の付け焼刃な試みは看破こそされていなかったものの、別の意味で東洋人の若い女性に業を煮やさせているようだった。
見た目に似合わぬ末恐ろしい台詞が、彼女の口から発せられることがそれを物語っている。
彼女が岡島に向けている自動式拳銃の引き金は、今や相当軽くなっていることであろう。
「これだけ聞ければ十分だ、レヴィ。壊れたラジオみたいに騒がれるのも困るんだ」
しかし対する黒人の大男は、これまた血気盛んそうな見た目に反して彼女を諌める。
こればかりは不幸中の幸いだったと岡島は思う。もしも見た目通りであったなら、今頃彼はゲームオーバーを迎えていたに違いない。
『ダッチ。……ヘイ、ダッチ。そろそろ片付かないかい?』
その時、大男の腰に吊ってあった携帯無線機が鳴った。
応じるように、大男がその無線機を耳元に持っていく。
そして交わされるのは流暢なクイーンズ・イングリッシュ。つまるところの英国英語だ。
旧米国英語に比べて上品な響きであると認識していた岡島だったが、生憎なことに今この場で実際に交わされている会話に上品さは欠片も見当たらない。
岡島緑郎という人間の生殺与奪権を握る、物騒な死神達の会話であるからだ。
だが同時に、漏れ聞こえる会話から岡島にとっての光明も射し込む。
船の異変に気がついた英海軍の哨戒艦が、こちらに向かってきているらしいのだ。
さあ疫病神(データディスク)を持って速やかに立ち去れ、それと頼むから自棄には走らないでくれ。
確実に出世街道からは外れるだろうから、どうかそれで許して欲しい。
岡島は仏から八百万の神にまで、手当たり次第に祈りを捧げた。
「聞け、ジェントルメン! 俺達は退散する! あんたらは自由になる! ただし俺達を追いかけてきた場合はどうなるか保証しないぞ!」
節操のない彼の願いが通じたのか、大男は拳銃を掲げ、甲板上に並べられていた貨物船の乗組員達に声高にそう告げた。
無事とは言い難いが、命は助かるらしい。岡島は小さく安堵の溜め息を吐く。
「おい、何を安心してやがんだよ?」
刹那、岡島の頬に冷たい金属が押し付けられる。イタリア製とおぼしき自動式拳銃の銃口だ。
おそるおそる目を横に動かすと、銃口並に冷ややかな視線をこちらに向ける東洋人の若い女性。
「お前は一緒に来るんだよ、馬鹿野郎」
「じょ、冗談だろ?」
「黙れ。そして歩きな」
あれよあれよという間に貨物船の広い甲板から、小型艇の狭い甲板に移動を強いられる岡島。
すると小型艇は発動機の回転を高め、貨物船からするすると離れ始めた。
972 :グアンタナモの人:2012/05/14(月) 20:55:35
「冗談だろおおおおおおおおおお!?」
みるみる遠ざかっていく貨物船の姿に、土壇場で頑張りを根こそぎ引っくり返された岡島が悲鳴の如き絶叫を上げる。
壊れたラジオよろしく叫ぶ彼を横目見て、先ほどの女性が面倒くさそうに口を開く。
「五月蝿いぞ、カリフォルニア人。口の中に銃口押し込んで塞いでやろうか?」
「なんなんだよ! さっきからカリフォルニア人カリフォルニア人って、俺は生粋の日本人だ!」
「あん? あの日本人のケツ舐めてるからって、日本人を気取るなよ。大方、世に蔓延るザパニーズって奴だろ?」
岡島の抗議を、東洋人の女性は鼻で哂う。
「違う! なら、このパスポートを見てみろ!」
その鼻っ面に精一杯の意地を込め、岡島は大日本帝国の文字が標されたパスポートを突き出した。
偽者の戯言に付き合っていると言わんばかりの調子で、女性はパスポートを受け取る。
彼女はおざなりにパスポートを開き、載っている文面を確認。
添付されている岡島の顔写真と、岡島本人の顔を見比べ――自らの表情を凍りつかせた。
「正真正銘、大日本帝国正規のパスポートだよ。こん畜生」
ヤケクソ気味の言葉に女性は静かにパスポートを閉じ、表紙の大日本帝国の文字を改めて確認。
続いて、もう一度パスポート開き、載っている顔写真と岡島を見比べる。
勿論、何度見返しても変わりはなかった。
「……へーい、ダッチ」
何処か諦観したような顔つきで、女性は無線インカムのスイッチを入れる。
『どうした、レヴィ?』
「……大ポカやらかした。あたしら纏めて〝ヤマト〟に吹き飛ばされるかもしれない」
『はぁ?』
東洋人の女性は己の浅慮を深く、深く、とてつもなく深く恨んだ。
(続)
最終更新:2012年05月19日 19:28