984 :グアンタナモの人:2012/05/15(火) 17:15:19
『こちら、〝ブラックラグーン〟だ。バラライカ、聞こえるか?』
「良好よ、どう?」
小さな執務室の机に掛けた妙齢の美女が、日本製の携帯電話を耳に当てていた。
人種は白人。パリっとしたスーツに身を包んでおり、一見すればやり手のキャリアウーマンに見えなくもない。
傷一つ見当たらない端麗な顔立ちの中で異彩を放つ、猛禽類のような瞳を除けば、であるが。
『襲撃完了。ブツは俺の手にある、どうぞ』
「ご苦労様。スマートな仕事って好きよ、ダッチ」
そのキャリアウーマンの言葉に、電話向こうの人物が言い淀む。
「? どうかしたの?」
『……それなんだがな、バラライカ。生憎、今回はスマートじゃなくなっちまった』
――― BLACK LAGOON The Gloomy Edition #2 ―――
大小多数の島々を擁する英領西インド諸島。
その一つであるキューバ島の東端に、グアンタナモと呼ばれる港町は存在している。
かつてはアメリカ合衆国という国家の永久租借地であり、同国の海軍基地が置かれていた小さな町だ。
だが半世紀前、世界を巻き込んだ大戦と大津波によってアメリカ合衆国は消滅。グアンタナモは統治者の居ない土地となった。
同様に統治者が洗い流された旧アメリカ合衆国本土やカリブ海諸国が欧州列強の手で切り取られていく最中、同地もその例に漏れず、統治を巡って列強の激しい綱引きが繰り広げられた。
しかし結局、グアンタナモは空白地のまま残されることとなる。
空白には空白なりの使い道がある。綱引きの果てに欧州列強はそうした結論に至ったのだ。
そして今日、グアンタナモは国際都市として上海や天津に負けぬとも劣らない空前の発展を遂げている。
北米とカリブを征した列強諸国。その黒と灰色が吹き溜まることで。
さて、そんなグアンタナモの片隅に位置する寂れた桟橋。
旧米軍基地跡を中心に整備されたグアンタナモ新市街地から離れたその場所に、一隻の小型艇が船体を寄せようとしていた。
MTボートと呼ばれる英国製の旧式高速魚雷艇。名前は〝ブラックラグーン号〟と言った。
グアンタナモの町を拠点にしている、ラグーン商会を名乗る運送業者の社用艇である。
「ジャパニーズビジネスマンってのは、一分一秒を争うエコノミックビースト揃いだと吹かしてた大嘘吐きが〝イエローフラッグ〟に居たな。今からでもぶっ飛ばしてこよう。本物は優雅に船旅してやがりましたよ、ってな……ああ、くそ、ついてねぇ。何やってんだよ、あたし。ああ、くそっ」
「はは、死ぬまで何を済ませておこうかな。悩みどころだね」
「……」
艇に乗り込んでいるのは四人。
華南系英国人が一人。白系カリフォルニア人が一人。アフリカ系黒人が一人。そして、日本人が一人。
人種も国籍の様々な彼らが乗り合わせる艇内は、どういう訳か完全なるお通夜ムードで満たされていた。
985 :グアンタナモの人:2012/05/15(火) 17:16:01
「……ハァ」
気まずい。
憐れな人質から一転し、超弩級の腫れ物になってしまった岡島緑郎はそう思った。
あの不遜極まりなさは何処へやら、今は死んだ魚のような目でぶつぶつと呪詛を垂れ流している東洋人の若い女性――レヴィ。
明後日の方向に視線を彷徨わせながら、時折うわ言を呟いている眼鏡の白人男性――ベニー。
少し前に何処かに衛星電話を掛けたきり、押し黙って操船を続けている黒人の大男――ダッチ。
誘拐直後のやり取りの中で売り言葉に買い言葉とパスポートを見せつけたは良いのだが、直後から艇内はずっとこの調子である。
一体どうすればいいのか、岡島には判るはずもなかった。
ただ一つだけ判っていたとすれば、このムードが問題ということだけ。
されどその問題たるムードを解決しようにも、原因は〝日本人〟である岡島にあるのだからどうしようもない。
世界の海洋の半分以上を勢力下に治めている海洋国家連合の盟主。
世界で最も成功した帝国主義国家。
史上最小にして最強の帝国。
それが大日本帝国という国家に世界が抱く印象であり、日本人に付き纏う印象だ。
かの国に睨まれたら当然の如く、ただでは済まない。歴史がそれを証明している。
ではそんな国の国民に手を出してしまったなら、果たしてどうなるのか。
恐らく、いや、ほぼ間違いなく。艇内を満たすお通夜ムードの理由はその部分に集約されるだろう。
だからこそ、レヴィには一際元気がない。
実は彼女、仕事の合間にちょっとした小遣い稼ぎをするつもりで岡島を掠っていたのだ。
しかし、そんな軽い思惑で連れ出した彼の正体は、開けて吃驚パンドラの箱。
よりにもよって、あの大帝国がレヴィ達ラグーン商会一同を都市区画ごと吹き飛ばしてでも奪い返しに来るであろう〝臣民〟であった。
後悔は先立たずとは言うが、これは最悪も最悪。最早、絶望という表現すら生温いだろう。
レヴィが本職の呪術師すら裸足で逃げ出しそうな勢いで、この世の全てを呪わんばかりの呪詛を吐き出すのも仕方がなかった。
今の彼女に普段の勝気さは微塵も感じられない。それどころか、半ば病気じみた落ち込み具合である。
彼女の行動に巻き込まれた形のダッチやベニーにすら、文句を口にするのを躊躇わせるほどだ。
もしかすると、何か触れてはいけないトラウマに自らの手で触れてしまったのかもしれない。
そしてレヴィの斜め向かいに座る岡島は、そんな彼女の様子が心底恐ろしかった。
例えるなら、刻一刻と起爆の時が迫る時限爆弾を見ているかのような気分である。
彼女が向こう見ずで後先をあまり考えない性分であると、彼はこの短い時間でほぼ把握している。
つまり彼女が臨界に達してしまえば、岡島緑郎という人間はその場で速成穴あきチーズとなり、そのままカリブ海に棲まう鮫の餌になってしまう可能性があった。
日本人と判ってなお、そんな凶行に及ぶ人間は居るはずがない。
彼としてはそう思いたかったのだが、どう頑張ってもそう思える雰囲気ではなかった。
986 :グアンタナモの人:2012/05/15(火) 17:16:36
「着いたぞ、とりあえず降りよう」
岡島の命が掛かった静かなチキンレースが限界を迎える寸前、黙していたダッチが唐突に口を開いた。
気がつけば、発動機の音が止んでいる。どうやら桟橋に停泊したようだ。
「なあ、ダッチ。このまま世界の果てまで逃げた方が建設的じゃないか? 英国領やドイツ領に逃げ込むって手もある」
「ベニー、いくら尻に帆掛けたって超音速で飛んでくる〝リッコウ〟からは逃げられんさ。連中の義理堅さと執念深さは知ってるだろう? 諦めてバラライカからの吉報を待とう」
「……次の電話が切り捨て御免の訃報じゃないといいけどね」
そう言いながら、ダッチとベニーが艇を降りる。表情が消え失せた呪術師ことレヴィもその後にふらふらと続いていく。
「おい、ジャパニーズ。アンタも降りてくれ」
ダッチが艇の隅で所在無げにしていた岡島に声をかけた。
「なに、命は保障するさ。ちょっとしたバカンスだと思えばいい」
「……選択肢はない、か。判ったよ」
「それはこっちが言いたい台詞だな」
重苦しい空気から解放されたことに内心安堵しながら、岡島が腰を上げる。
こんな港に一人置かれていてもロクなことにならないだろうことは、火を見るよりも明らかだった。
何故なら甲板から窺える港街は、大日本帝国という傘の下で平和ボケした彼にすら〝危険〟が嗅ぎ取れたのだ。
艇の中から甲板へ。それから古びた桟橋へ。
ふと見上げると、ほとんど朽ちた英語の地名看板が海風で揺れていた。
無意識のうちに、岡島は看板に書かれた地名を読み上げる。
そして偶然にも、彼の言葉とダッチの言葉は重なった。
「「――ようこそ、掃き溜め(グアンタナモ)へ」」
欧州列強が己の絵の具を縦横無尽に塗りたくった中で、唯一白いキャンバス地を残した掃き溜めの町。
それがグアンタナモの存在価値であり、それがグアンタナモという町だった。
(続)
最終更新:2012年05月19日 19:28