348 :taka:2012/05/29(火) 09:34:04


深夜、悪夢に魘され男は飛び起きた。
寝室を飛び出し、大きな邸宅をパジャマのまま徘徊する。
目指すはキッチン。マスターキーで解錠し、厨房に忍び込む。
電気は点けない。これから行われるのは背徳的な行為だからだ。
万が一家族や側近に知られたら彼は自決するしかない。

冷蔵庫に隠して置いた茹で置きのパスタを取り出す。
使用人用の安いソーセージとパンチェッタを刻み、コルノデトーロとフィレンツェ玉ネギ、マッシュルームを刻む。
フライパンを火にかけ、バターをタップリ入れソーセージとパンチェッタを炒める。
香りが出たら刻み野菜を入れ火が通るまで炒める。彼は若干しんなりする位まで炒めるのが好みだ。
大まか火が通ったら軽く湯に潜らせ水気を切ったパスタを投入。良い具合にビロンビロンだ。
鍋を見ただけでアルデンテのタイミングを見極められるこの厨房の主がこのパスタを見たら、きっと鍋毎窓からパスタを投げ捨てるだろう。
パスタと具を良く絡ませ、塩胡椒で下味を付けた後……男の視線が日本から直輸入した瓶詰め調味料に移る。
広口瓶の蓋を開け、フライパンの上にかざし……僅かに躊躇する。
何時もこの時は動きが止まる。この液体でパスタを穢し、犯し尽くす事が極めて退廃的に思えるからだ。
だが、これをかけねばこの料理は完成しない。これをパスタに絡めねば、この料理は料理たり得ないのだ。

(シーザーはルビコン川を渡る時、この様な躊躇いを抱いたのだろうか?)

ドバドバとパスタに降り注がれる赤い悪魔。
ジュウジュウとフライパンが音を立てる。まるで悲鳴のようだ。
タップリとかけ、充分に絡めた後に大皿へ盛りつける。
同じく冷蔵庫に隠して置いたタバスコ瓶と粉チーズ。何れも厨房の主が見たら即廃棄されかねない魔の調味料。
自分でも何でこの2つをこのパスタを食べる時に使うのか解らない。
イタリア人らしく、唐辛子を漬け込んだオリーブオイルと削り立てのパルメジャーノを使えばいいのに。

もうもうと湯気をたてる大皿一杯のパスタに、親の仇みたくタバスコを散布。
仕上げとばかりに粉チーズをヴェスヴィオ火山の火山灰の如く降灰させフォークを握る。
厨房内に、ズルズルと下品極まる啜り音が響いた。

(くそ、憎い、こんな、パスタ料理と呼ぶのもおこがましい料理を俺に教えた日本人が憎い、それを発作的に食べたくなってしまう俺自身がとても憎い!!)



日本に来訪した際、彼は2回日本のパスタを食する機会を得た。
一度目は政府御用達のレストランでイタリア料理を振る舞われた時。
二度目は名古屋の某喫茶店でピンク色のスパゲティ(※1)を食した時。

彼がソレと出会ったのは一度目の時だった。
かの重鎮達が好んで利用するというレストランで供されたイタリア料理は、日本風に若干のアレンジはされていたが美味かった。
コースがほぼ終了し、食後のデザートとエスプレッソを楽しみつつ歓談していた時、彼の口から出さなければよかった単語が出てしまった。

「そう言えば、日本ではナポリタンなるパスタ料理があるそうだが。それはどの様な料理なのかな?」

彼は来日前に出された資料で名前だけ出て来た料理名を、偶然思い出したから口に出しただけに過ぎない。
だが、明らかに会食の場の空気が変わった。何か、張り詰めたような、そんな感じに。
メンバーの目が泳ぎ、嶋田の顔色が僅かに悪くなった。

349 :taka:2012/05/29(火) 09:34:48


少しだけ間が開いた後でアマトリチャーナ(トマトとベーコンのソースを使ったパスタ料理)の様なものですよ、と嶋田が答えた。
その言葉に躊躇いと誤魔化しを感じたが、彼は寧ろ興味を持ちこう無茶振りをしてしまった。

「是非ともそれを食べてみたいのだが」

嶋田は僅かに顔を引きつらせた後、控えていたシェフに何かしら日本語で指示を出した。
暫しの後、シェフがナポリタンを持ってやって来た。

出された料理は確かにアマトリチャーナとそっくりだった。
シェフ特製のトマトピューレに刻んだパンチェッタと野菜を炒めたものを加えたものをソースに絡めた料理らしい。
食後の事も加味して小盛りで出されたパスタを、彼は頷きながら食べた。うん、確かに美味い。

「なるほど、確かにアマトリチャーナにそっくりだ」

頷く彼を、ホッとした顔でみやる嶋田。
だが、それがいたく気に入らない行為と見た者が居たのだ。
フォークを忌々しげに投げ出して音を立てた夢幻会の重鎮の1人がこう言い放ったのだ。

「こんなのはナポリタンじゃない。お上品ぶり、他者の、イタリア人の目を気にしているだけの惰弱な料理だ」

そして、重鎮はこういった。

「少しだけ待ってください。俺が本物のナポリタンをご馳走しますよ」

自ら重鎮が厨房に入り、作り出したモノ。
それは先程出されたナポリタンとは似ても似つかぬものだった。

不精が祟った中年イタリア人の腹部の如く弛んだパスタ。
パスタにベットリと張り付き、まとわりついているギトギトしたケチャップ。
明らかに安物の切り刻んだハムとソーセージ。
タマネギとピーマンとマッシュルームは申し訳程度の量だ。
そして山盛りの粉チーズと何故かタバスコが添えられている。

「これが本物のナポリタンです」

ドヤ顔で重鎮は胸を張った。それは己の矜恃を通した、漢の顔だった。
後ろで嶋田がストレスにやられたのか(^q^)な顔をしていたが気にはされなかった。

そのナポリタンは噴飯ものの存在だった。
アルデンテ、テーブルに供される時に漸くパスタ全体が茹で上がる食感を愛するイタリア人からすればなんだこのゴムの如き食感は。
ギトギトベトベトな下品極まる味付けは舌の味蕾を破壊し、悪意すら感じる缶入り粉チーズは存在そのものが有り得ない。
(その前に供された料理でパルメジャーノを提供直前に削った料理が出て来たので故意に出したのが更に気に入らない)
しかし面を持って否定する訳にもいかず、我慢して完食したがスイッチが入ったメンバーの暴挙は留まらない。
マンマが作る唐辛子を浸けたオリーブオイルとは比較にならない、タバスコ等というアメリカ人が考案した魔性のエキスをドバドバとかけるメンバーが居たり。
料理を作った重鎮に到っては、「デーブさん風に追いチーズしてみますね(^q^)」等と言いながらスパゲティが真っ白になるぐらい粉チーズをかけていた。


全くを持って酷い料理だった。
酷い、もう食べる事のない、そんな料理だった。料理の筈だったのに。
男は、あのピンク色の山脈を超えようとし、滑落して失敗する悪夢を見る度にナポリタンを食べたくなってしまったのだ。
その渇望は一流のシェフが作るアマトリチャーナでは、到底御する事の出来ない悪魔の衝動だった。

(すまないマンマ、俺、日本のパスタに汚されてしまったよ……)

ナポリタンを完食した男は厨房の床に蹲り、啜り泣いた。
口の中はケチャップのにちゃつく様な味と、タバスコの舌を刺すような不愉快極まる刺激で占有されていた。

結局、男は生涯ナポリタンから逃れる事が出来なかった。
それを余人に知られず終わった事は、彼のイタリア人としての名誉の観点からして幸いだったのかも知れない。





(※1)果物が大好物で毎食デザートに食べていた彼は甘口苺スパゲティに興味津々。
 しかし、かの山の峻険さは果物大好きな彼ですらその登頂を阻んだという。

352 :taka:2012/05/29(火) 10:28:26

言い忘れましたが、→294の後日談です。

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最終更新:2012年05月29日 21:16