158 :①:2012/06/09(土) 12:59:21
日本軍専用列車がらみで小ネタを一つ
元ネタは史実の連合軍専用列車ですが、とある企業の誕生に絡めてみました
駄文ですが息抜き用ということで
「コックから見た日本軍専用列車の回想~食堂車の厨房より~」
1.
「そうですなあ、今でこそカルフォルニアで日本食はメジャーな存在ですが、その当時は私はおろか、誰も日本食なんて知らなくてね。進駐軍の鉄道局主計兵から日本料理のレシピ本を渡されたけど、読んでも作るのは不可能だった。何しろ調味料の類なんて一切なかったんですから」
当時の日本軍専用列車「富士」のコック長だったリチャード氏は回想した。
戦前、東部から兄と共にカリフォルニアのサンバーナーディノへ移住してきたリチャード氏は、兄と共にホットドック屋をやっていた。
そして戦争。
氏は選抜徴兵制により30を越えていたにもかかわらず海軍に入隊。戦争中は駆逐艦に乗り、水兵たちの食事を作っていた。
日本との間で起きた数少ない海戦に参加し、強力な日本海軍の攻撃の手を逃れて辛くも乗艦は生き残り、終戦を迎えた。
「終戦になってカリフォルニアに上陸したときはうれしかった。兄と幸運を喜んだが、東部の親戚は津波で全滅を知り悲しくもあった。そして何よりも店が物資不足で開店休業状態、とりあえず私と兄の家族を食わせなきゃならない。そんな時、海軍時代の知り合いから「日本がコックを探してる」って聞いたんです。それで私は兄に店を任せて応募したんです。それが日本軍専用列車「富士」の食堂車勤務でした」
「富士」は元カリフォルニア・ゼファー、南回りの「はと」に対し、北周りでソルトレイクシティまで運行されていた
「「はと」は茶色に塗られましたが、「富士」はカリフォルニア・ゼファーの頃と同じでね、ただ富士山型のテールマークが取り付けられただけでね。それがまた妙に似合って美しい列車でしたよ…何がともあれ私は採用されて、列車に乗り始めました。日本食のレシピを渡されても作れなくてね、乗り始めてしばらくは普通の食事を作っていました」
日本軍はしばらくリチャード氏が作る
アメリカの食事を黙って食べていた。
「むしろ好評だったですね。日本人もアメリカ式の食事は物珍しかったんでしょう。朝はアメリカンブレックファースト、昼はサンドイッチやスパゲティ、夜はハンバーグなど決まったメニューですが彼らは喜んで食べてました。ただ食べ残しは多かったですね。もちろん彼らは、出されたものはもったいないと言って意地でも食べてましたが、それでも残しました。量が多すぎたんですね。こんな小食な人たちに俺たちは負けたのかと同僚と話したのを憶えています」
リチャード氏は二勤二休、すなわちソルトレイクまで往復、二日休んで乗車というパターンを繰り返した。
「私は日本兵から食事の文句は聞いていません。ですが同僚の中には文句を言われたそうです。テキサス出身のコックがいたんですが、彼がオムレツを出したとき、日本兵から文句を言われたそうです。彼が出したのはその当時のオムレツのスタンダード、すなわちカリカリに焼いた卵にケチャップをかけたもの。それに文句をつけてきた日本兵は、彼からフライパンを取り上げて自分で作ったそうです。それは見事なフランス風の半熟卵のオムレツ。何でも海軍の主計兵だったそうで、同僚は負けたと思ったそうです」
しかし、そのうち食べ残しが増えてくる。やはり日本兵は日本兵。日本食が恋しいのだ。
「そのうち日本からどっさり調味料が補給艦で届きました。それからです、わたしたちの苦闘が始まったのは」
159 :①:2012/06/09(土) 13:00:04
2.
リチャード氏たち食堂車コックたちの日本食のレシピと調味料の格闘が始まった。
酢やソースはアメリカにもあった。それらを用いる料理は応用が利いてさほど難しくはなかった。
しかし醤油、白醤油、みりん、味噌など、日本食独特で多種多様な調味料を用いるのは初めてだった。
調理方法も焼く・蒸す・炒める、揚げる、時には複合して用いなくてはならない。
「最初は本と調味料の格闘、そして日本兵の好みとの格闘です。先ほどのオムレツの話でもわかるように、彼らは繊細な味の違いがわかりこだわります。軍用列車でしたのでそこまでの繊細さは必要ではありませんでしたが、それでもこちらは料理人ですからね。それに新しい料理を学ぶのにいい機会でした。特に繊細な味付けをする日本料理はフランス料理並みに人を、料理人を選ぶのです」
リチャード氏は中でも熱心なコックだったといえるだろう。リチャード氏の作る日本食は日本兵に受けていた。
「それでもニ・三の失敗がありました。ある日、中隊ごと列車に乗ってきましたが、朝出した味噌汁がほとんど手付かずでした。聞くと彼らは京都出身で、彼らが飲む味噌汁は白、私はその日八丁味噌で味噌汁を作ってたんです。またあるときは朝に納豆がないと騒ぐ中隊がいました。彼らは水戸出身。それで翌朝、私は気を利かせたつもりで、納豆を卵焼きに入れて焼き上げて出しました。結果、朝日の指す食堂車の中で卵焼きが乱舞し、私も卵焼きをぶつけられました、「こんなもん食えるか!」と。前夜ソルトレイクで乗り込んだ中隊は、大阪出身だったんです。日本は狭いが料理にうるさい民族だと。それで戦争に勝ったんだなとつくづく思いましたよ。こんな料理にうるさい軍の補給は、かなり面倒で繊細だったと思いますよ」
二・三の例外はあったが日本兵のマナーは洗練されていた。文句を言ってくる兵はほとんどおらず、リチャード氏が食べても顔をしかめるようなメニューを出す同僚のコックにも「おいしかった」と感謝する兵ばかりだった。
「むしろマナーが悪かったのは彼らの同盟国、特に朝鮮人と中国人でしたね。味に不満があると文句を言うのはもちろん、積んでいない彼らの漬物<キムチ>や<ザーサイ>がないのかと怒りだす。挙句の果てには「我々は戦勝国だ!」と。言ってやりましたよ、<この列車は日本軍専用列車だ。文句があるならこの列車の責任者呼ぼうか?>と。たいていは彼らはすごすご引き下がりました。
時には責任者を呼び出したこともあります。その時は彼らが言ってくれました。<アメリカは裏切り者でもないし、虎の威を狩る狐でも、卑怯者でもない。正々堂々と戦って負けた。故に日本人はアメリカ人に敬意を払っている、そのアメリカ人を貶めるような真似は絶対に許さない>胸がスカッとしましたね、やはり日本はサムライの国だと」
こうしてリチャード氏は列車乗務を続けた。しかし狭い食堂車で日本料理を調理するのは限界があった。工程が簡単なものもあったがやはり複雑なものが多い。
「列車本数も多くなり、狭い調理室で日本食を作り続けるのは限界がありました。それに調理人の腕に左右される要素が大きい。それで兄に相談したら、セントラルキッチン方式を提案したら?と」
リチャード氏は兄を伴って日本軍の鉄道局に赴いた。
「兄は日本軍の鉄道局にセントラルキッチン方式だけでなく、ハービー社のような統一されたサービスのマニュアル化を提案したんです。日本のほうもそれは考えていたようで、兄を責任者に任命して仕事を任せたんです」
リチャード氏がセントラルキッチンの日本料理の味付け責任者に、兄もサービスのマニュアル化を責任者として日本軍専用列車食堂車の改善に取り組んだ。日本軍専用列車の食堂車はサービスと味の統一化が図られ、より効率的に運行されていった。
160 :①:2012/06/09(土) 13:01:41
3.
「こうしてわたしたち兄弟は日本軍の元で働いて金も溜り、世の中も落ち着いてきたので、そろそろ休業していた店を再開しようという話になってきました。でも目玉となる料理をなんにするかで悩みました。私が学んだ日本料理を目玉にするのは時期尚早と兄と一致していたので深かったです」
ヒントが与えられたのはやはり日本軍専用列車だった。
「セントラルキッチンの責任者だった私は、時たま食堂車勤務もしました。キッチンで作った料理の味が食堂車で調理するときに味が落ちないか時々チェックしていたのです。その日もそういう勤務でした」
その日、日本の経団連がカリフォルニア産業視察で乗り組んでいた。
「その日はハロウィンで、私は料理を作らずコックの服からピエロに着替えて、乗客サービスに徹してました。兄のマニュアルを自分で体験してたわけです。日本料理は別のコックが作って出してました。
乗客サービスも終わってさて一休み、という時に食堂から注文が舞い込みました。<ハンバーガーを作ってくれ>と。私はセントラルキッチンで日本食ばかり作ってたので、久しぶりに作ってみるかと、同僚に代わってハンバーガーを二つ作りました。
一つはスタンダードなハンバーガー、もう一つは私がアレンジしたハンバーガー。鰤の照り焼きのソースが少し残っていたので、ソース代わりにそれを使ったんです。それに天ぷら粉も残っていたので鳥のささ身を天ぷらに、ポテトと一緒に揚げて出しました。
大好評で追加の注文が舞い込んで来ました。その時閃いたんです。新しい店のメニューはこれだと」
ソルトレイクから戻るやいなや、リチャード氏は兄にハンバーガーを出してみた。
「兄もこれだ、といってくれました。新しい目玉を見つけたわたしたちは、程なく日本軍の元を離れ、サンバーナーディノで店を開店しました。メニューは私、列車内で発明した照り焼きは当初のメニューから外しました、日本人受けはしてもアメリカ人はまだなれていないでしょうから。そのかわりボリュームたっぷりのアメリカ人受けするメニューを考えました。サービスと店のイメージは兄、日本軍との仕事である程度は形が出来ていましたから、それを洗練させればいいわけでした」
兄弟の店は繁盛した。弟が開発したメニューと、兄が日本軍の元で開発したスピーディーなサービスは、アメリカ人にも受けた。
「そして開店して一年ほど経って彼がやってきました。店をフランチャイズ方式にして拡充しないか?と言ってきたんです。私たち兄弟は店の拡充には消極的でしたが、熱心な彼の薦めに根負けしました。店の名前にわたしたちの兄弟の名前を使うのと、調理部門とわたしたち兄弟の出している店には干渉しない契約で。もっとも最終的に私たちが決断したのはそれに一年ほど前私にハンバーガーを注文をしたのは彼だと知って、日本流の「恩返し」の機会だと思いましたしね。もっともピエロ姿の私をイメージキャラにする、と彼が言い出したときは<それだけはやめてくれ>といいましたが、無駄でした。兄は引退しましたが、まあおかげでこうして私が趣味の日本料理店を出せたのも、わたしたちを金持ちにしてくれた彼のおかげですがね」
そう言ってリチャード氏は割烹着姿で笑った。
マクドナルドではなく日本料理店にもかかわらず、テリヤキマックバーガーとチキンマックナゲットのメニューがピエロ姿のリチャード氏が掲げている。
リチャード氏流の「恩返し」なのかもしれない。
日本軍専用列車の中で誕生したマクドナルドハンバーガー。
それを注文したのは当時東大を卒業して経団連の通訳をしていた藤田田。
カリフォルニアとソルトレイクシティーには共にマクドナルドがある。そして世界に…
この奇跡を生み出した列車は1950年、「富士」から元のカリフォルニア・ゼファーに戻った。
しかし行き先はシカゴではなく、ソルトレイクシティーのままである。
最終更新:2012年06月09日 21:17