28 :①:2012/06/09(土) 03:07:35

まず、野球ネタの大本を作ってくれたテツさんに謝辞を
そして志半ばで逝ってしまった選手たちに



提督たちの憂鬱支援SS  ~ムーンライト・グラハム~

1.
その日、閑院宮篤仁は神宮球場のボックス席に座っていた。
陸軍中将としていろいろ忙しかったが、戦争も終わり、本来の職務である「日本職業野球連盟」の長として日々野球観戦を楽しんでいる。

日本のプロ野球もアメリカから生き残った大リーグ選手や黒人リーグの選手も加わり
レベルアップした。
特に顕著なのは球場の改良で、アメリカ大リーグの観客を楽しませる工夫が輸入され、観客席は大幅に改良されている。グランドももちろん改良された。
大きさがともかく前の世の大リーグ球場並みになっていた。
何しろアメリカ選手が加入した当初はホームランが出すぎだった。
特に両翼89mの後楽園はひどいもので振ればホームランとなっていた。
それでフェンスの高さを前の世の横浜球場並みに増しても無駄で、ついには外野スタンドを削ってフィールドを広くするように連盟から勧告したほどだった。
改良が必要なかったのはタイガースの甲子園と金鯱軍の鳴海、阪急の西宮、そして今年新たに加入した国鉄スポンサーの「東京スワローズ」の本拠地、神宮球場だけだった。

アメリカ選手の加入による改良はそれだけではなかった。日本の球場の内野にも綺麗に芝が張られるようになったのである。

それまでは内野は土か放置されたような剥げた芝だった日本の球場も、頑固に「土の球場」を守る甲子園を除いて、綺麗に芝が張られるようになった。

今いる六大学の殿堂、神宮も内野に芝を張ることに難色を示したが、「土のグラウンドに執着していた六大学が、プロのアメリカ人野球選手の技術を見て、技術の向上に貪欲となり、「内野にも芝を!」と言い出して実現したのだ。


秋の日のシーズンオフに近いこの日、近くの後楽園では巨人対南海戦戦が行われていた。その試合は「優勝」を決める重要な最終決戦。

沢村と別所の投げあい、
川上と「黒いベーブ・ルース」ジョッシュ・ギブソンの打ち合い

が見所で、観客も大入りだったが、閑院宮篤仁はここ神宮球場で東京スワローズ対広島カープの試合を見に来ていた。

口の悪いマスコミが名づけたのは

「裏の首位決戦」
「究極のドベ争い」
「清貧さを競うカード」

無理もない、両チームの勝率は3割に届かないものであったからである。

なにしろ両チームとも金がない貧乏球団で、スワローズは東京市民の、カープは広島市民の浄財で成り立っているビンボー球団で、有力なアメリカ人選手を雇えなかったのである。
国鉄がスポンサーのはずのスワローズも国鉄は本業への投資に忙しく、市民球団のスワローズに面目を保つほどの渋ちんな金しか出していない。

広島にいたっては有力なスポンサーもなく、ただ選手たちの「広島県人の郷土愛」だけで成り立っているような意地の球団である。

事実観客席は熱狂的なファンがいるだけで閑古鳥がなくどころか、いなくなるような気配である。

それでも一塁側はフライパンと東京音頭と傘が、三塁側はトランペットが鳴っている。

そんな試合を閑院宮篤仁は見に来ていた。

29 :①:2012/06/09(土) 03:08:32

2.

周りは「連盟の長だからこそ弱小球団を気にかけておられるのだろう」と思っていた。

閑院宮篤仁の心の中にはそれもあるが、個人的に気になる選手が広島に一人いたのだ。

辻源兵衛 投手兼外野手

昨年、大阪タイガースに在籍していたが、広島にカープが出来ると移籍してきた選手である。彼の出身は和歌山。名門海草中学出身で広島とは縁もゆかりもない人物であった。
その彼が広島に移り、今年は投手で活躍している。
数少ない広島の勝利数のうち、少なからず彼が稼いでいた。

打棒もそこそこで岩本章や白石勝巳と並んでクリーンアップの一翼を担っている。

なぜこんないい選手をタイガースは出したのか?

閑院宮篤仁は疑問に思い、タイガースの関係者に聞いてみた

「いや、ウチも出したくはなかったのですが、本人がどうしてもと」
「恋人が広島県人だったのか?」
「いや恋人はいないようですから…」

それでは金かと思ったが、広島が彼に出している年棒はタイガースよりも遥かに安かった。

ますますわからなくなった閑院宮篤仁は、広島が巨人と後楽園で戦ったとき、初めて見に行った。そして彼が広島に移ったワケを瞬時に理解した。

相手は沢村だった。

その沢村と同じ背番号をつけて彼は投げ合っていた。

沢村の脚上げピッチングフォームに対し、彼は跳ね上がるようなピッチングフォームで、彼は沢村と同じような速球で打者と真っ向勝負をしていた。

 そしてピンチになると彼の速球は早くなっていった。

閑院宮篤仁は思った。

(彼もここに来たのだな…)

閑院宮篤仁は試合が終わると彼に会わずに球場を去った。

帰りの車の中で閑院宮篤仁は脳裏に前の世のある投手の姿を思い浮かべていた。


津田恒美、悪性の脳腫瘍で逝ってしまった広島カープの悲劇のストッパー。


彼は再び球場で投げている。


そして今、閑院宮篤仁の目の前でもう一人の彼がまた球場で打っているのだ。

辻源兵衛、史実で一年だけ阪神に所属し、召集されて戦死した。


彼らは二人で一人の体に宿り、無念の思いを晴らしに「球場」で投げて打って走っていた。

(まるでコーンフィールドのムーンライト・グラハムのように…)

憂鬱世界の職業野球公式記録には彼の記録は続いている。

辻 源兵衛:投手兼野手 阪神軍 20歳で戦死 実働1年 .241 0勝0敗 3.60
津田 恒美:投手 広島カープ 脳腫瘍で32歳で他界 実働10年 49勝41敗90S 3.31は

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最終更新:2012年06月10日 16:24