ここの趣旨とは違うと思いますが、今から60年前に起こった、実話に基づく、ちょっとした感動ネタを一つ。
なお、史実そのままではなく、少し変えてあるので注意してください。そのまま鵜呑みにしないでくださいね。
昭和27年7月、史実の世界で起こった小さな奇跡が、こちらの世界でも再現されていた。
その前年3月、千葉市・東京帝国大学検見川厚生農場の地下から発掘された、古代の蓮の実が、現代にその命をよみがえらせたのである。
植物学者で、蓮の世界的権威だった大賀一郎博士は、以前から、蓮の実が植物の種子の中でもとりわけ長く、その生命を保つことを知っていた。
満州で発掘された、最低でも三百年以上前と推定される蓮の実や、千葉で発掘された、千二百年前と推定される土器の中から発見された蓮の実を発芽させた経験を持つ博士は、いつか、より古い時代の蓮の実を入手し、古代の蓮を現代によみがえらせたいと考えていたのである。
昭和25年8月、井の頭自然公園の武蔵野博物館にて、千葉市の検見川にて発掘されたという二千~三千年前の蓮の花托(種が埋まっている部分)を見つけた博士は、いてもたってもいられなくなった。
花托の中に種は無かったが、同じ場所を掘ればきっと種が出て来るはず。学者として当然の推測に基づき、博士は学界のつてを頼って、検見川農場と帝大側に話をつけた。学者仲間に話をして、賛同も得た。
しかし、実際に掘るとなると、かなりの費用が必要になる。手元にある資金ではとても足りない。困り果てた一同は、この話を地元の新聞社に持ち込んだ。幸いなことに主筆が賛同してくれ、この話が数日後の新聞に載った。
新聞の力は大きい。千葉市および県が、費用の一部を負担してくれることになり、民間からの寄付も期待以上に集まった。中には匿名で、ポンと十万もの大金を出してくれた人もいた(実はこれこそ、この小さな奇跡を思い出した、無幻会からの寄付だったのだが)。
ところが発掘作業は、予想外に難航した。当初は十日程度あればと思われていたのが、一月近く掘っても、一粒の種も見つからない。資金も底をつき始め、「場所の選定を誤ったのかもしれない」と、一同があきらめ始めた矢先のことである。
土砂をふるいにかけていた女子中学生の一人が、何か固い物を見つけた。1.5cmほどの黒い粒。石でないことは、ちゃんと見れば判る。
その粒を見せられた博士は、震えが止まらなかった。そう、それはまぎれもなく、古代の蓮の種だったのである。
これに力を得て、さらに一週間ほど、発掘作業が続けられた。最終的にたった4粒しか見つからなかったが、なんとか最低限の研究材料は得られた。
4月末、責任者たる大賀博士の手で、発芽実験が始められる。残念なことに1粒は発芽せず、1粒は発芽後間も無く枯れてしまったが、残る2粒は生育した。
特に、最初に発掘された1粒は生育が順調で、千葉県農業試験場において、9月末にはすでに8枚の葉を出している。
二千年以上前、縄文時代から弥生時代と思われる船だまりの跡から発掘された蓮の実は、確かに生きていたのだった。
(後に、育成に失敗した2粒が放射性炭素測定法により年代を測定され、2720年±150年前、という結果を得ている。)
成長の遅れた1株はそのまま千葉県農業試験場に留め置かれ、順調だった1株は、翌27年4月、大賀博士立ち会いのもと蓮根が掘り上げられた。
掘り出された蓮根は2つに分けられ、1つは千葉公園に植えられ、もう1つは発掘地である検見川農場に送られた。が、「農場の家畜に食べられる危険は犯せない」との理由で、農場内には植えられず、協力者であり地元の旧家である伊原家に託される。
伊原家での古代蓮は、かつて醤油の醸造に使った鉄釜に植え付けられ、当主である茂氏の手で、慎重な管理がなされた。
大賀博士や伊原茂氏を初めとする、一同の苦労の甲斐はあった。通常、蓮は発芽から開花まで足かけ3年必要なのであるが、1年早く、その年の7月初め、最初の蕾が確認されたのである。
昭和27年7月21日、午前5時。二千数百年の眠りから醒めた蓮は、報道陣を含め多くの人々が見守る中、ゆっくりとその花を開いていった。
大賀ハスの名を有名にしたのは、「二千数百年前の古代ハス」という事実もさることながら、その美しさによるところも、大きいのは間違いない。
関係者一同も、「二千数百年前の古代蓮発芽」というニュースに接した人々も、その花がどんなものなのかは、大いに関心が有ったはずだ。
この蓮を知る人々すべてが、「美しい花を咲かせて欲しい」と願っていたことは疑いない。しかしどんな花が咲くのかは、咲いてみるまで判るわけもなく、誰もが、失望する覚悟はしていたはずである。
ところが、実際に古代蓮が咲かせた花は、人々の最も楽観的な期待すら超える、素晴らしいものであった。
通常、蓮の花は、最初の一日はわずかにしか花びらを開かない。翌22日に全貌を現した花は、「二千数百年前の蓮」ということを抜きにしても人々を感動させるほど、美しいものであった。
子供の顔ほどもある大輪で、普通の蓮より細い花びらを持つ、淡紅色(ピンク色)の一重咲きの花。
人の手が加わらない、純然たる野生種としては、山百合や笹百合にも匹敵する、最高レベルの美しさと言って良いであろう。
この奇跡の花は、当時まだ貴重だったカラーフィルムを惜しげもなく使って撮影され、数え切れないほどの新聞や雑誌の誌面を飾った。
なお、千葉公園に植えられた株と、千葉県農業試験場に残された株も、翌28年には、同じく淡紅色の美しい花を咲かせている。
そしてこの、「古代蓮開花」に対する世間の反響は、当の大賀博士自身が驚くほど、大きなものとなった。
「間違いなくキリスト生誕以前に、もしかしたら神武天皇即位以前に咲いていた一輪の蓮が、一粒の種と二千数百年の時を経て、この世にその美しい姿をよみがえらせた。」
このニュースは当然のごとく世界に発信され、これまた当然のごとく、熱狂的に迎えられた。植物学や園芸に関心の有る者はもちろん、そういったものに興味の無い、一般の人々の関心をも誘ったのである。
ごくごく自然なこととして、日本国内だけでなく世界のあちこちから、古代蓮を分けて欲しいという求めが相次いだ。
元々独占する考えなど無かった大賀博士は、快くそれに応じた。英国やカリフォルニア共和国にも送った。日本と対立関係にあった、ドイツにも送った。
意外なことに、最も反響の大きかったのは、当時日本に良い感情など持つはずのない、ドイツにおいてだった。
ハンブルク市で開かれた国際園芸博覧会に、「二千数百年前の古代蓮」として出品され、その美しさが大きな評判となって、大会の"名誉賞"を受けたのである。日本における開花から2年後、1954年のことであった。
やがて、大賀博士がよみがえらせた古代蓮は、「検見川の大賀ハス」として、日本を代表する観賞用花蓮となり、平和の象徴として、日本のみならず世界中に広まっていった。
当然のように、大賀ハスを原種とする園芸品種もいくつか作られ、今も世界のあちこちで、その美しい花を咲かせている。
古代の日本列島、その片隅で泥に埋もれた2つの蓮の実は、二千数百年の時を経て、物理的な意味でも比喩的な意味においても、偉大で素晴らしい大輪の花となったのであった。
2012年(平成24年)7月18日 史実での大賀ハスの開花から、60年が過ぎた日に。
最終更新:2012年07月18日 23:08