152 :綾波物語:2012/10/13(土) 17:20:00
艦船スレを見て思いついた。長く続くし、下手くそだが、見てほしい
大阪のある造船所である駆逐艦が誕生しようとしていた。
彼女の名前は『綾波』
世界中の海軍が驚愕した吹雪型駆逐艦11番艦として生を受けた。
ここに、彼女の壮絶な生涯を書き綴ろう・・・・・・・・・
彼女は、昭和5年藤波造船所に置いて竣工した
基本排水量1680t、最大速度38ノット、12.7cm連装砲3基、61cm3連装3基でであった。
彼女は、他の姉妹と比べて特徴といえる物は無かった。
彼女が綾波として、知名を上げるきっかけとなったのが、第二次世界大戦であった。
祖国大日本帝国がドイツに宣戦布告し、イギリスの支援として、船団護衛の任務に就いて地中海を航行していた。
そして、あと少しでマルタに着くという、直前にドイツの偵察機が船団を発見してしまった。
船団虐殺の幕開けであった。
翌日から、イタリア本土からドイツ・イタリアの爆撃機が、容赦なく攻めてくる。
もちろん、護衛の艦隊も必死に援護するも、次々と輸送艦が沈められ、護衛艦隊旗艦の阿賀野も撃沈してしまった
一段落して、彼女は洋上に漂う、撃沈された輸送艦の乗務員を救助していた。
次々と救助していると、見張り員からの大声がとんできた
「雷跡発見!本艦に向かってきます」
ドイツのUボートからの攻撃だった。
もちろん、艦長は急速回頭を行い、次々とかわすも、最後の魚雷が艦首に命中した。
勿論艦首に、大穴が空くも迅速なダメコンと後進を命じたことにより沈没は免れた。
以後、後進で進むことになり、無事マルタにたどり着けた。
マルタに応急修理をした後に、日本本土へ帰還し、修理を行った。
153 :綾波物語:2012/10/13(土) 17:20:40
人員の入れ替えがあった後に、次の任務は、中国の杭州湾に上陸部隊の援護であった。
洋上においては、対潜警戒を行い、杭州湾に近づいた後には、扶桑・山城の護衛をすることになった。
戦艦の艦砲射撃は凄まじく、一つ一つ沈黙していく、彼女は周囲を回り続けていたが、不幸なことが起きた。
陸地から戦艦山城を狙った、一発の砲弾があったが、山城に届かず近弾となったが、たままた、そこには彼女がいた。
不運な弾は彼女の中央部に命中し、火災を発生させた。
これもまた、迅速のダメコンと魚雷投棄により、大事に至らずに済んだ。
彼女が被弾したことにより、正規の任務から外れ、フィリピンで哨戒を行う事になった。
しばらく哨戒を続けたある夜
フィリピンの近海で哨戒を行っていた時、数隻の魚雷艇と遭遇した。
もちろん、これを見逃す彼女ではなく、探照灯をつけて、砲撃をする。
次々と、沈められる魚雷艇だが、最大速度がついてからは、さすがに追いつくことも叶わず、戦闘中止とした。
と、その時、艦中央部に向かってくる雷跡
これには、咄嗟の指示も出せず、そのまま命中し、機関が半分死んでしまった。
この時の魚雷は、誰が発射したか分からず、第二次世界大戦のミステリーの一つとして数えられた。
幸いにも、機関が半分生きていたため、辛うじて台湾に帰還できた。
そこで、工作艦による修理を受けることができた。
修理が終わった後に、日本本土に帰還し、機関換装及び12.7cm主砲を高角砲に換装することになった。
154 :綾波物語:2012/10/13(土) 17:21:54
そして、最後の大海戦となった、ハワイ沖海戦に参加することになった。
午前中は他の遼艦と共に、猛烈な対空戦闘を行い、少なくとも1機撃墜することができた。
日没後には、太平洋戦争初で最後の戦艦同士の艦隊決戦に参加することになった。
戦艦同士が、撃ちあっていて、雷がいくつも発生しているようだった。
彼女も、水雷戦隊の一員として戦艦に雷撃し、接近してくる、巡洋艦・駆逐艦に対して猛射撃を行っていた。
こちらの、猛攻にたまらず、脱落していく駆逐艦が出てきたが、巡洋艦はしばらく耐えきることができた。
と、不意に衝撃が襲いかかって来た。
敵艦が放った、主砲弾が後部の2番3番主砲を潰した衝撃であった。
艦長は指示を出そうとしたその時、艦橋に敵弾が飛んできて、艦長以下艦橋要員を総員戦死させた。
それでも、前部の主砲は、未だに咆え続け、後部にいた、水雷長が艦長代理を務め、離脱をすることができた。
この時ばかりは、さすがに危なく、一時沈没危機になったが、辛うじてミッドウェーに帰還することができた。
彼女は、他艦よりも被害がひどいということで、工作艦による修理を後回しにされたが、修理中に終戦となった。
修理を中断し、日本本土に帰還した後には、繋留し続けた。
この時の上層部は、特型駆逐艦はさすがに古くなったので、解体・売却を考えていた。
彼女も、解体されるはずだった。
彼女を運命を変えたのは、元乗組員たちであった。乗組員の手記・同人などの活動を通じて、綾波の活躍を知り、彼女を記念艦としての保護運動が行われたのである。
この状況に、大蔵省の辻も認め、彼女を記念艦として、後世に語り継がれることになった。
彼女は、舞鶴に勇姿を保ち続けていた。
彼女は、世間からこう呼ばれていた。
『傷だらけの不沈艦』
と
ここまで、正直出来は良くないかもしれないが、楽しんでくれれば幸いです。
最終更新:2012年10月16日 22:30