832 :ヒナヒナ:2012/10/01(月) 00:37:52
○やおよろず


日本は八百万の神々が住まう場所である。日本人は基本的に宗教的には非常に寛容である。自身に変容を迫る一部攻撃的な教義を持つ宗教宗派には嫌悪感を示す。しかし、隣人の信仰の対象がキリストだろうと、アッラーだろうと、祖霊だろうと、ニーソックスだろうと自分に変化がなければ基本的には気にならないのだ。

さて、そんな日本人の影響下にある地域の宗教はどうなったかというと。教会などはそのままに新たに神社ができることとなった。日本人は何かに祈らずにはいられない。これは宗教への依存を示すものではなく、なんとなく生活の節目に何かに祈らないと座りが悪く、習俗としてとりあえず手を合わせる対象を探していたのだ。さすがにキリスト教が一神教であることは知っていたので教会で拝む強者はほとんどいなかったが、代わりに目立つ自然物が信仰の対象となり、大樹に注連縄を巻いたり大きな自然石を神に見立てたりと祈っている間に、そこにいつの間にか小さな社を建てられ、いつの間にか本土の神社から分霊され神社として立ち上がるということがままあった。こうして日本人のいるところには大なり小なり神社ができるようになった。

顕著な例はハワイで、原住民の信仰が自然信仰または祖霊信仰であり、日本の八百万の神という考え方と親和性があったため、互いに相手の神様を敬う形で収まっていった。もちろんハワイのキリスト教勢力も根強かったが、後ろ盾たるアメリカ人等欧米人が勢力を減じたため、強い改宗勧誘などはできなくなり人数的には多いが勢いは失っていた。はたしてハワイには教会とヘイアウ(ハワイの祈祷所)と神社や一つの土地にあるという妙な習俗となっていった。呼び方も一般的な神殿をあらわすshrineではなくjinjaが使われるようになった。

何が言いたいかというと、後に出来るハワイ・オアフ島のコミケ会場の敷地内に軍神兼、文学の神として嶋田神社(分社)ができるのはもはや当然の成り行きなのだった。


(了)


○あとがき
ヒャッハー。今日は大雨警報が出たから休日出勤だぜー。そんなテンションで書いた話です。使い古された感のあるネタだけど最後を書きたかったんだ!
ニーソックス神はねーよ、とセルフ突っ込みをいれたあと、秋葉原や池袋あたりなら新たに祭られていても可笑しくないと思ってしまった。もうこの民族やだ……

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最終更新:2012年10月16日 23:15