- 441. 名無しモドキ 2011/08/29(月) 22:50:49
- あの映画は・・? その2 対ソ連謀略組織オリガ版 −戦艦ポチョムキン−
申し訳ありません。「戦艦ポチョムキン」ないし、その中のオデッサの階段を知らないとよくわからない作品になって
しまいました。
戦艦ポチョムキンは映画史のエポックである。「オデッサの階段」シーンは全編を見たことのない人間でも知ってい
る者は多い。数々の映画にパロディーとしても登場する。ただソ連のプロパガンダ映画ということで、戦前はもちろん、
日本で公開されたのは1960年代になってからである。
ソ連の文化芸術面での弱体化を画策する対ソ連謀略組織「オリガ」の夢幻会メンバーは、1923年になって「戦艦ポチ
ョムキン(史実1925年)」が日本主導で制作できないか検討に入った。しかし、関東大震災がこの年の9月に起こるこ
とがわかっており一時は断念された。ところが、ソ連の諜報員から吉報?が届いた。戦艦ポチョムキンの監督を務めた
セルゲイ・エイゼンシュテインがソ連当局と悶着を起こしたのである。
1920年代前半は史実のソ連も苦しい時代である。日本をはじめとした列強のシベリア出兵こそ花火程度で終わったが、
その分、反革命派の白衛軍に援助が多くなされていた。白衛軍が史実で戦況不利に転じた理由に、武器弾薬の製造地域
を奪取できなかったこともあるため、このことは史実以上に白衛軍を善戦させた。また、極少人数だが史実では見られ
ない日本人顧問も白衛軍に加わっていた。アナスタシア王女を救助した日本人ということもあり、彼らの意見具申は全
てではないが、まま用いられた。その結果、史実では1920年に主な戦闘が終結したヨーロッパロシアでも1922年の末頃
になってようやく主要部が共産党政権の支配に入った。極東地域が安定するのは1925年を待たねばならなかった。この
時間差はより多くの有能な人間と資産をロシアから海外に移させることになった。
そして、エイゼンシュテインにもこの影響が大きく表れていた。史実では、赤軍兵士として従軍したが戦局の安定も
あり、早期にモスクワの高等演劇工房で学び頭角を現すのである。しかし、憂鬱世界では2年間、南部ロシア地域で優
勢な白衛軍相手に苦戦することになる。彼がそこで体験したものは、戦闘の他に占領者が変わるたびに民間人に加えら
れる赤軍、白衛軍の別なく行われる凄惨な報復行為である。
赤軍、白衛軍も捕虜を認めずに双方が裏切者として投降した者を、時には惨たらしい尋問と称するものを加えた後に
処刑する。やせ衰えた農民の一家から彼らの最後の食料を奪う。宿営を行うために乳飲み子を抱えた母親と歩くことす
らおぼつかない老婆を家から冬の荒野に追い出す。裕福な人間は反革命分子のレッテルを貼って財産を没収する。抵抗
する素振りがあれば一家全員を処刑した。これらの行為は革命の美名のもと正義として行われれた。
正義感から革命と新しい社会の創造を信じて赤軍に参加したエイゼンシュテインは本来感受性の強い人間である。史
実のように高等演劇工房に参加する頃には政治行為全体に懐疑的な人間になっていた。1924年に制作した映画「ストラ
イキ」の内容は史実のままであった。これは自殺に追い込まれた労働者の死を切っ掛けに開始された製鉄所のストライ
キに官憲が介入して流血(それも大量虐殺)で終わるという救いのない話だった。
ただ史実より更に余裕のない共産党政権は、この暗いエンドを容認できなかった。共産党の指導による労働者の勝利
と、共産主義社会での労働者の明るい生活を暗示するように締めくくる結末をエイゼンシュテインに要求したのだ。史
実以上に妥協をすることを拒むエイゼンシュテインは、この要求を撥ね付けたため彼は解任された。
この情報は夢幻会メンバーをして、「戦艦ポチョムキン」を本来の監督であるエイゼンシュテインによって映画が撮
れるかもしれないという途方もない考えを起こさせた。
なんとかソ連から取り寄せた「ストライキ」を「オリガ」のロシア人メンバーに見せて、この映画を撮った才能ある
ロシア人を日本に招聘するために協力を要請した。
「いい映画かどうかはわかりませんが、かなり心に残る映画ですな。なんとか手配しますが本人が出国を希望しないの
なら難しいですよ。山口さん。」渋るロシア人リーダーが不承不承了解した。
- 442. 名無しモドキ 2011/08/29(月) 22:56:55
- 史実では八甲田山雪中行軍遭難の要因の一人と目される山口?は、軍人ではなく文部官僚になった。そして憂鬱世界
では映画進出を企てる各企業、篤志家の基金を元に設けられた文部省の後援を受ける映像文化振興財団理事長に就任す
る。逆行者である彼の前身は映画評論家に憧れる下請け制作会社の社員だった。未来知識を利用して有能な人材に援助
を与えるのが文化振興財団の役割である。裏の仕事は対ソ謀略組織「オリガ」の日本側代表者である。
「何も有能な人材とは日本人に限らないだろう。日本文化向上のために有能な外国人を、日本へスカウトするのも財団
の仕事だ。」この山口の信念の最大のヒットはサラ=ベルナール来日である。山口本人が口説き落として史実より早く
組織された日活が招聘に成功した。不出生の大女優の来日に何人もの夢幻会舞台関係者が「あのサラ=ベルナールと同
時代を生き、同じ空気を吸えたのだ。」と号泣したという。
1908年にサラ=ベルナールは半年日本に滞在して、歴史映画である「壇ノ浦、平家の女達」で主演として安徳天皇の
祖母二位の尼を演じて日本人以上にその悲哀を表現した。また助演となった「大黒屋光太夫」ではエカテリーナ女帝を
演じてその圧倒的な迫力は、ロシア女帝を女神のように表現して日本人である大黒屋光太夫がそれににひれ伏すがごと
き国辱映画だと一部の国粋勢力が批判したほどである。山口とサラ=ベルナールによる最大の功績は日本映画人、演劇人
に世界を目標とすることを意識させたことであろう。
さて、山口は裏から手を回しておいて、表からエイゼンシュテインの引き抜きにかかった。もともと樺太全土が日本領
であるため史実の尼港事件もなく、シベリアからも早期に撤退していたため、アナスタシア王女以下の旧ロシア支配層が
亡命しているとはいえ、ソ連との国交樹立は史実よりやや早めになった。承認の取引材料は亡命ロシア人の送還と資産返
還要求に関するソ連側の自粛であった。交渉自体はイギリスのソ連承認に合わせて1924年には国交樹立予告という形にま
で進んでいた。山口はこれを利用して「日ソ文化交流」事業を立ち上げてソ連から若手の映画人を招聘することを国交交
渉団を通じてソ連に告知した。
山口の計画通りにエイゼンシュテインは来日要請に乗ってきた。本人の決断を後押しした手段はこうである。ソ連政府
の中には案外貴族出身者が多い。近代国家をたち行かせるには、それなりのテクノクラートにビューロクラートが必要で
あり多少のことには目をつむってその教育を受けた人材を使わないわけにはいかなかった。共産党政権が声高に叫んでも、
全ての貴族が国民の困窮をよそに暖衣飽食、無為徒食な生活を送っていたわけではない。下級中級貴族はそれなりの有能
な人材を提供していた。共産党政権は自分たちの命じる政策を実務的に遂行することを彼らに期待していた。
一方、ロシアに残った貴族は現場の若手官僚や学生が主体でありロシア民衆の悲惨な生活を改善しようと志を持った者
で、共産政権に多少なりとも夢想的な期待を持っていた。彼らは自分たちの望む方向へ共産党政権が社会を改善して行く
ことを望んでいた。
すなわち、どちらの側も相手を利用することを考えていた。当然、軋轢が生じる。ただ最期には権力をもった方が相手
を押さえ込んでしまう。押さえ込まれた方はやる気が失せて不満を口にするようになる。後は悪循環である。ただでさえ
歯に衣を着せないエイゼンシュテインはあることないことを密告されて仕事を干されていた。
このエイゼンシュテインに近づいた「オリガ」のロシア人メンバーがソ連に貢献できる映画を外国で製作したらどうだ
という暗示を与えたのだ。もちろん密告をしていたのは「オリガ」のメンバーである。疑わしいも、疑わしくなるかもや
多分疑わしくない位の者を含めて一網打尽にするGPUがスターリンの指導により大車輪で活動し始めるまでは日本の策謀も
手伝って史実よりソ連の脇が甘かったことで「オリガ」は比較的自由に活動をしていた。
絶対的権力を持った組織は腐敗する。数年を経ずに賄賂はソ連社会でも幅をきかすようになった。恐怖から何事も自主
的に出来なくなった1930年代とは異なり、1920年代のソ連では政府部署が独自の判断を行うことが通用した。「オリガ」が
裏で適切な人物らに賄賂を送ったことでエイゼンシュテインの出国は認められた。
日本に到着したエイゼンシュテインは、新興のマキノ映画が中心となり文化振興財団が後援する「ヘダ」制作員会が
準備した脚本を見せられた。「ヘダ」は日露和親条約締結の背景を描いている。ロシア代表のプチャーチンと幕府重臣
の交渉を本題にしてた。
- 443. 名無しモドキ 2011/08/29(月) 23:06:54
- この交渉の最中に折からの安政地震の津波でロシア船が全損、しかし津波に流された日本人らをロシア人達が救助した
事から、ロシア人に好意を持った日本人大工らが新造船の建造(ヘダ号−戸田号)に進んで協力したという日露交流を交
えての物語であった。エイゼンシュテインへの条件は歴史的事実を変更しなければどのように脚本に手を入れてもらって
もよいというものであった。まあ話の性格上悪意を持って映画を撮らない限りは日露友好の物語にしかならない。
エイゼンシュテインはやはり並の監督ではなかった。実質上のプロデゥーサー牧野省三以下の日本人スタッフが試写会
で泣いたという伝説が残っている。「ヘダ」は商業的な成功以上に文部省推薦映画として全国の小学校や移動映画などで
上映され多くの日本人が観覧した映画になった。また、ソ連でも封建的政府が互いに醜い交渉をする裏で人民同士が交流
したというように多少編集し直されて上映されエイゼンシュテインの評価も多少持ち直した。
「エイゼンシュテインさん。貴方の日本滞在許可は、まだ、三ヶ月残っています。どうです、もう一本撮りませんか。」
映画「ヘダ」の商業上映が始まった直後、本命の話が山口?からロシア語で切り出された。
「山口さん、構想も何もない状態から三ヶ月では無理でしょう。」エイゼンシュテインは目を大きく開けて言った。
「謙遜しておられるようだが、構想はおありでしょう。実は表向きは英国資本の上海映画という会社がありましてね。
ここが今度プロデゥーサーであった牧野省三君が出資金の半分以上を負担しているのですよ。」実はエイゼンシュテイン
に日本人スタッフが何回かかまをかけて1905年に実際に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を題材にした物語を撮りたいと聞
き出していた。
「どういうことでしょうか。」それでも怪訝にエイゼンシュテインは聞く。
「上海映画は大連にも支社があります。そして大連にはかなりの数のロシア系住民もおります。エキストラにも事欠きま
せん。それに大連は港町ですからな例えばお国のオデッサなんかと似てますかな。」
「お話はありがたいですがソ連政府は日本以外の地にいくことを許可しないでしょう。」
「大連は日本の租借地です。」山口は子供のように無邪気な口調で言った。
「しかし、三ヶ月ですよ。」少し考えてエイゼンシュテインは言った。
「まあ、任せてください。ややこしい交渉はこちらでします。作り始めればなんとでもいい訳しましょう。」
「俳優はどうします。イギリス人や日本人がロシア人役をするのですか」エイゼンシュテインは次第に真剣
になる。
「イヴァン・モジュキーヌらのロシア人俳優も押さえています。」山口は予定通りといわんばかりに返事する。
「イヴァン・モジュキーヌ?」言ってからエイゼンシュテインは心当たりに気づいた。
「亡命した名優のイワン・モジューヒンのフランス名です。フランス人で押し通しますから。」また山口が笑う。
「条件はありますか。」エイゼンシュテインはすぐさま聞いた。
「何もありません。といいたいが共産ソ連および帝政ロシアのどちらのプロパガンダ映画ではない貴方の映画を
製作すること。資金は8万円まで。貴方は興行収入の10%を得る。ただし興行収入が8万円以下ではただ働きして
もらいますよ。ああ、それに戦艦石見の使用です。石見の使用料は別途であなたは気にしなくていい。」
「イワミ?というと、まさか。」ほとんど知られていないがエイゼンシュテインは戦艦スキーである。
「そうです日本海海戦で降伏した旧ロシア帝国戦艦オリョールのことです。現在は解体が予定され舞鶴で係留され
ています。動けませんが主要武装はロシア海軍当時のままだそうですよ。一時は英仏に匹敵したロシア海軍の戦艦
で残っているのは世界中でオリョールだけですから映画がヒットすれば保存という話もでるかもしれませんな。」
「オリョール。」エイゼンシュテインが少し微笑み部屋の電球が反射したのか目が光ったように見えた。
流石に三ヶ月は無理だったが事前の根回しのおかげで、映画は編集も含めて五ヶ月で完成にこぎつけた。題名は
史実そのままに「戦艦ポチョムキン」と名付けられた。モンタージュ技法の完成(ヘダでエイゼンシュテインは
効果的なモンタージュの技法を習得した)させた映画であり有名な「オデッサの階段」シーンもある。
- 444. 名無しモドキ 2011/08/29(月) 23:12:02
- ただ、その内容は異なる。黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで全滅したバルチック艦隊に続いて極東へ回航されるという
不安な噂の中、腐肉を食べさされそうになった水兵達が抗命する。その水兵の一人、温厚で水兵達のリーダーと目され
ていたヴァクレンチュークが見せしめで銃殺されたことから反乱が起こり艦長以下の士官を海に叩き込む・・ここまで
は史実映画と同じだが、この後、少しずつ話が異なってくる。以下は憂鬱世界「戦艦ポチョムキン」の粗筋である。
日頃水兵達に同情的な態度を取ったり公正な態度で接していたバラノフスキー中尉以下3名の将校は監禁するだけで
いいと大勢の水兵が主張する。ところが、ヴァクレンチュークにかわりリーダーに選ばれたボルシェビキのマチュシェ
ーンコが「革命には犠牲がつきものだ。」と言ってバラノフスキー中尉を拳銃で撃ち殺してしまう。
多少、落ち着きを取り戻した水兵達は自分らの行為におののくが、マチュシェーンコ以下ボルシェビキシンパの水兵
達が革命の成功を鼓舞して、水と食料の補給を行うためポチョムキンをオデッサに入港させる。史実ではオデッサでゼネ
ストが実施されておりポチョムキンの水兵が威嚇のために警察に発砲する程度で、鎮圧部隊が接近したためそのまま出港
している。しかし、憂鬱世界では明石工作の結果、ゼネストは過激なより大規模なものになって市民に合流した水兵と警
察の間で衝突が起こり数名の死者と多数の負傷者を出す事件になった。
憂鬱世界映画では、ポチョムキンの入港を歓迎した市民達が港の見えるオデッサの階段を埋めて赤旗などを振っている。
マチュシェーンコ指揮の武装水兵らが合流して市民に食料提供を訴える。そこへ、鎮圧のためにコサック兵の部隊が階段
の上からあらわれる。階段の下ではマチュシェーンコは水兵らに応戦態勢を取るように命じる。
コサックの指揮官は空に向けての威嚇発砲を命じる。階段にいた市民らはパニックになり階段の下に一斉に走り降りる。
恐怖にかられたマチュシェーンコは水兵に射撃を命じた。階段の下の方の市民帯はその発砲でその場に伏せる。ただ、後
ろから大勢の市民が押し寄せるため大勢の人間が将棋倒しになる。踏みつけられる子供や老人などの悲鳴があがるが、双方
の発砲が続くため大混乱はますます助長され阿鼻叫喚地獄が現出する。
水兵に負傷者が出始めたマチュシェーンコ達は市民を楯にあるいは市民に紛れて逃走する。階段には血を流した大勢の
市民が圧死したり流れ弾で死体になり、あるいは倒れて呻いていた。瀕死の我が子を抱き上げて兵士に助けを乞う母親な
どを無視して兵士らは逃げる水兵達に発砲を行い血の流れる階段を降りてくる。(階段を転がり落ちる乳母車の有名シー
ンは、乳母車が死体の山に突っ込み横転し赤ん坊が死体の中で泣いているという形で撮られた)
命からがら艦に戻ったマチュシェーンコは市民を救助することを提案する若いグルシチェンコという水兵を無視して出
港を命じた。グルシチェンコは、流血はたくさんだと言って動き出した艦から飛び降りて泳いでオデッサに戻ろうとする。
マチュシェーンコは配下に命じてグルシチェンコを射殺する。港外に出るとすでに鎮圧部隊が到着していた。やけくそで
英雄気分が高揚したマチュシェーンコはポチョムキンを圧倒的優勢な艦隊に向けて進ませる。全ての砲はポチョムキンに
向けられて不気味な静寂が訪れる。鎮圧部隊では士官が発砲を命じるが従う水兵はいない。
しかし、マチュシェーンコが水兵らに説いたように一斉蜂起も起こらない。鎮圧部隊の水兵は動かないだけである。ポ
チョムキンは鎮圧部隊の間を進む。鎮圧部隊の旗艦が指呼の間に迫ると司令官が「今、下艦した者は恩赦を与えるぞ。」
と何度も大声で叫ぶ。動揺した一群の水兵らは、泳げる者はそのまま、泳げない者は救命具をつけ海に飛び込む。マチュ
シェーンコは党と人民に対する反逆だとして脱落者に対する発砲を命じる。古参下士官のダンチェンコは発砲は鎮圧部隊
の発砲を誘発するとしてマチュシェーンコにとびかかった。マチュシェーンコの配下達が、お前らも結局は権力と暴力で
俺たちを押さえ込もうとするのかと言うダンチェンコを袋だたきにする。
- 445. 名無しモドキ 2011/08/29(月) 23:13:35
- 結局、発砲は行われずに鎮圧部隊から離れていくポチョムキンでは今後の方針を巡って論議が生じていた。そこへよろよろと
ダンチェンコがあらわれて、命を全うしたければ亡命しかないと説得する。指揮権を巡る幾ばくかの争いの後、結局はダンチェ
ンコの言うようにルーマニアへ進路を向ける。この後、投降した水兵らは約束を反故にされたこと(銃殺隊が出てくるシーンが
あり運命を暗示)、ダンチェンコなど何人かはさらにイギリスなどに移り住んだこと、マチュシェーンコと配下は革命後、ソ連
に英雄として凱旋帰国したことを伝えて映画は終わる。
史実では名のみ有名で、日本では上映機会のなかった「戦艦ポチョムキン」は憂鬱日本では日英ソ合作、他国ではイギリス映
画として上映された。話が暗いこともあり商業的には大きな成功ではなかったが、映画史に残る映画になった。最も史実と異な
るのは、最初の数週間ほど上映されただけで反ソ映画だというレッテルを貼られてなんとソ連で上映禁止になったことだろう。
これは当初評価を巡って混乱していたソ連当局に対ソ謀略組織「オリガ」の意を受けた人物らが強固に反ソ映画だと主張したた
めである。すぐさまエイゼンシュテインに即時帰国命令が出るが、ソ連への思い入れが薄く流石に命の惜しいエイゼンシュテイ
ンは山口のシナリオの通りに亡命した。
この後、エイゼンシュテインは日本やイギリスで史劇映画を制作するようになるが、それはまた別の話である。その1は
>>64
−
>>66
の「慕情」
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最終更新:2012年01月04日 11:36