125 :SARU ◆CXfJNqat7g:2012/10/12(金) 12:21:29
タバスコ

タバスコとはメキシコ南部の行政単位に付けられた州名であるが、一般的には唐辛子を原材料に用いた卓上調味料の一ブランド名にして代名詞として認知されている。
それは“この”世界でも同様であった----大西洋大津波が旧合衆國沿岸に押し寄せるまでは。
1870年の創業以来、七十年の長きに渡りあの特徴的なガラスの小瓶に赤い粘性のある液体を詰め続けていた工場は所在地であるエイヴァリー島の地上から洗い流され、
その後の欧州列強の進駐でもルイジアナ州という政治的にかなり微妙な位置関係から復興どころか存在すら忘却されてかけていた。

タバスコが“かつての”世界と違う意味を持ち始めたのは日米戦末期に駐墨米軍が雪崩を打って撤退を始めた頃だったとされている。メキシコ南部のタバスコ州で反米勢力が
用いた火炎瓶が(芬蘇戦争時の“モロトフのカクテル”を真似て)“ガーナーのタバスコ”と呼ばれていたからだ。この時は再蒸留してアルコール度数を上げたテキーラが主材料で、
対象も戦車ではなく人員物資の移動に用いられるトラックや野戦車(ジープ)等の非装甲車両が対象だったが、メキシコ帰りの南部出身者が民兵として欧州進駐軍を襲撃する頃には
中身もガソリン等を用い装甲車両すら攻撃する様になっていた。
一般的な“タバスコ”はバーボンの瓶に津波被害で放置された油井から調達したナフサを詰め、戦車のエンジングリルに粘性のある火災を発生・無力化させる物である。
後に民兵の誤飲を防ぐ為に透明な瓶に赤く着色された内容物という視覚的にもタバスコを連想させる体裁となり、独軍のミシシッピ河遡行に始まりカンサス・ネブラスカ・ダコタ進駐と
ワイオミング分割、レッドリヴァー紛争の講和成立で中西部が安定するまで使われ続ける事となった。

ちなみに本来のタバスコは日本資本がタバスコ州に建設した工場で日本向けに細々と作られ続け、その後の(元々の権利者であるマキルヘニー社消滅に伴う)商標裁判を経て正式に復活した。
70年代には“サンパウロの奇跡”で知られる加洲共和國の元拳闘世界王者キャシアス・クレイが共同経営者として設立したサン・アントニオ・トレーディングが環太平洋諸国に於ける独占販売権を獲得し、
日本でもあの“キャシアス・ボンバイエ”というテーマ曲と共に全国に広まった。


加洲ならサン・アンドレアスだろ、とかボンバイエの語源(ムンバ・イェ)はコンゴだろ、とか作中のツッコミ処には目を瞑って下さると助かります

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最終更新:2012年11月19日 20:55